★ 私儀、甚だ多用にて ★

第三十五章

★ 1 ★

 玄白は、また同じ辻で振り返り、今来た道を引き返す。大きな書店ならば、必ず源内の戯作が置いてあると聞いた。本屋が近づくと歩みを次第に緩める。緩めながら、背伸びして店内を覗く。中では、数人の客が本を物色したり店員と雑談したり。結局店内には入らず、そのまま真っ直ぐと行き過ぎる。
 再び悟道軒名義で出版された本がある。『痿陰隠逸伝』は、去年の『長枕褥合戦』に似た、卑猥な言葉が飛び出す、だが艶本ではない面白い戯作だという評判だった。玄白は、前作も読んでいない。題名を聞いて、手に取ることはとてもできなかった。
 気を取り直してもう一度、来た道を戻る。
 板元の岡本利兵衛の店が玄白のところからも近いのだが、源内の家にも近く、本人と出くわしてしまう可能性がある。玄白は父の見舞いのついでと称して、牛込の書店までわざわざ足を伸ばしたのだ。
 源内の、評判の戯作だ。目を通さねばなるまい。いや、源内の仕事なら全部知りたいのが本音だった。本は決して艶本ではないという。だが玄白の潔癖さが、また書店近くなると躊躇させる。本の題名を思うと顔から火が出そうだ。
「杉田さん・・・ですよね!」
「ひえっ」
 思わぬところで声をかけられ、緊張していたせいもあり、玄白は飛び上がった。
「林助です、以前平賀さんのところに居候していた。今は藍水先生に厄介になっています」
 玄白も何度か接したことがある男だった。文士友達の中でも、士分であるせいかきちんとした印象で、しかも学者であるので玄白も抵抗なく話せた人物だ。
「ご本を買いにいらしたのですか?」
「いえ、父を見舞った帰りです」
 小浜藩の下屋敷は牛込に有り、玄白も町医師として独立するまではここで暮らした。言い訳としては(自分に対しての)十分である。
「私は、先生に、本の売れ行きを見て来いと言われちまいまして。本屋を覗いて回ってるんでさあ。私だって戯作者だ、少しは本屋には顔を知られている。店に入って冷やかしで評判を伺ってくるなんざ、気が引けますよ」
 林助はそれでも少しも困った様子は無く、おおらかに笑ってみせた。源内に用事を言いつけられたのが嬉しそうだった。
 よんすとんを買って生活の道具が全く無かった時も、友人達が色々と持ち寄り、何とか乗り切ったと聞いた。源内が皆に愛されている証拠だ。凄い学者だからでなく、著名な戯作者だからでなく、皆が彼を好いている。だって、彼がいると、色々と面白い事がいっぱいある。彼といると楽しいのだ。
「杉田さん、すみませんが、一緒に店に入って、先生の本を買ってくれないですかね?先生の本を買いたい客を私が店まで案内したってことにして。それなら、本の評判も聞きやすいんでね。先生のお友達のよしみで、お願いしますよ。
あ、もちろん金は私が払いますよ」
「いえいえ。国倫さんの本です、私が買いましょう」
「国倫?ああ、先生の本名ですね」
「・・・友達というほどではないです。私はただの知人です」
 玄白は、何言も前の林助の言葉に引っ掛かり、否定した。一介の町医師の自分が、江戸のスター・平賀源内の友人と称するのは図々しい気がしたのだ。
 林助は不思議な顔をしたものの、それについて特に言及することはせず、玄白を導いて書店へと入った。
 こうして玄白は無事に悟道軒の戯作を二冊とも買い求める事ができた。

 自宅に戻り、早速本を開く。噂通りの卑猥な用語の連発に、びっくりしたり眉をしかめたりしながらも、ついクスクスと笑い声が洩れた。純亭が『爽快感がある』と言った意味も頷けた。気持ちよいほどの風刺は、嫌味が無く、あっけらかんと軽やかであった。
 先程は無意識に『国倫の本』と言った。戯作者として売れっ子になってからは疎遠になり、確かめた事はなかったが、最初の戯作『根南志具佐』と『風流志道軒伝』を読んだ時、きっと書いているのは国倫だろうと思った。破天荒で明るくて楽しいあの感じは、国倫と居る時と似ていたからだ。だいたい生真面目な鳩渓があれを書くわけがなく、雑踏の人々への愛ある描写は冷淡な李山のものではないだろう。
「・・・。」
 あんなに親しかったのに、国倫達は随分遠い所へ行ってしまった。今や平賀源内は江戸の有名人、人気者だ。
 桂川邸へ一緒に通った頃が懐かしい。学問の話に興じて、帰り道でもまだ興奮して話し足りなかった。

 玄白が悲観主義者と化しているのは、父の容体のせいもあった。寝込んでいるのは、病気ではなく老いのせいだった。切迫してはいないが、痰が絡むなどでいつ危篤になってもおかしくない。
 甲斐性がなくてまだ嫁も貰えず、孫の顔も見せていなかった。産まれたことで母を死なせた自分ができる、父への詫びは、孫を抱かせてやることぐらいだろうに。

 父はもう藩の御用はできず、玄白が父の代りに中屋敷へ出向いていた。
 自分の医院も締めがちになり、町の人々を丁寧に診たいという玄白の想いはこのところ実現できていない。
 医師になりたての頃は、父の引退後は藩医を継ぐものの、それまでは父の助手として学べばいいと考えていた。独立して医院を開き、町の人々と自分が接しながら治療をするなど、想像もしなかった。そんなことができる自分だとも思わなかった。
 江戸に出て来たばかりの源内が、藍水に知識の共有化を説き、薬品会の開催を提案した。あちこち奔走する源内の下駄はみごとにすり減っていた。あんな日焼けした学者、他に会ったことはなかった。
 彼を見ていて、自分もむずむずする何かを感じ、開業しようと決めた。内気と思っていた自分の、意外な実行力にも驚いた。全て、彼から始まったことだ。
 彼は池に石を投げる。その波が周りの学者達にも伝わり、水面の葉を揺すり藻を動かし魚を目覚めさせた。臆病で水に入れず縁に佇む玄白にさえ伝わり、心が震え、動かずにいられなかった。
 なのに、こんなに疎遠になって・・・と、再び玄白の想いはそこへ戻る。堂々巡りだ。
 元が色白だったのだろう、源内は今は流行りの着物を着こなすすらりとした優男だった。文才に恵まれた源内が、戯作に走るのもよいだろう。あれだけのものが書ければ、書く甲斐もあるというものだ。文士や絵師や役者らと遊ぶのも、気楽で楽しいことだろう。幕府が鉱物に力を入れると聞けば、金を掘ると言い出す。多才の現れだ。だが、玄白の胸に今も居るのは、本草学への情熱で頬を紅潮させ、走り回って下駄を減らすあの男だった。
 今の玄白には、当時を懐かしむことしかできなかった。

★ 2 ★

 中津川の夏は短い。
 閉山を決めても、雑多な作業は山積みで、それは源内自身が直接指示しないと坑夫らには判断しかねる事柄が多かった。
 鉱山内の崩れ防止の板は外して転売することにしたが、どこから外せば一番危険が無いか、その板をどう運ぶか(今までの砂金を運ぶ手順では運べない)、どこへ積み、どう保存するか。
 坑夫らの宿も、最後には解体する。その順序や方法も源内の指示が必要だった。今年の夏だけでは全部の作業は終わりそうになく、正式な閉山の届けは冬を跨いで来年になりそうだった。
 国倫は幸島家の家で過ごしながら、深夜に及ぶまで執筆の仕事をした。山奥の地は、夏でも夜は肌寒く、羽織が離せない。蝋燭の灯が顔を照らすのが暖かく感じる程だ。
 蚊帳には破れた箇所でもあるのか時々蚊が舞い込み、筆を置いてパチンと追わねばならなかった。江戸の蚊より図体が大きいが、動きは機敏ではない。
『痿陰隠逸伝』の売れ行きは上々で、『根南志具佐』の続編を依頼されていた。広告文の仕事もあった。友人らの著書の序も書かねばならない。そして今回新しい試みとして、浄瑠璃の脚本を書くことになった。
 白壁町でわいわいやる中で、戯作は買い取りなので売れてもトクにならないと愚痴を言ったら、文吾に「そやったら、浄瑠璃本を書きまへんか?」と勧められた。浄瑠璃本だけは、最初の原稿料とは別に、売れた分の還元がある。源内の脚本ならば、文吾の外記座で上演すると言う。
 浄瑠璃には小難しい約束事がある。浄瑠璃好きの国倫はそのことは当然知っていて、それが面倒だと躊躇した。
「源内先生なら、二、三冊見本をお読みになれば、すぐに道理を理解なさいますやろ。お貸ししときますわ。それに、あまりに複雑なところは、うちが書きますよって」
 切羽詰まって確かに金が必要だった。僅かな蓄えも金山で無くなり、そんな中でよんすとんを買った。文字通りのすかんぴんだった。
 金山で儲かれば、『物類品隲』を更に十倍も壮大にした図譜を刊行するつもりだった。『物類品隲』は薬品事典の意味合いが大きかったが、予定している本は地上に棲息する生き物を網羅した図譜だ。正確な絵もふんだんに入れよう。
 金山は当たれば大きい。豪商相手の石の鑑定や薬問屋への助言などでは、この図譜を出版する費用をひねり出せるわけがない。だいたい、絵師への報酬さえ払えない。
どどねうすの草木譜を初めとして、多くの阿蘭陀図譜を無理して買ってきたのは、ただ眺めてその美しさにため息をつく為ではなかった。
 金を儲けて贅沢しようなど、ただ一度とて考えた事はなかった。だが、そう簡単に図譜の費用は作れそうにはない。まずはコツコツと執筆を続け、友人達への細かい借財や生活費の為に稼がねばならなかった。
 それに、図譜を作るのにも、もう少し時を待つ必要があるだろう。先輩学者の後藤梨春の本は、ABCを書き入れただけで発禁になった。田沼様がそろそろ老中になりそうだと聞く。西洋の学問への規制が緩くなることが期待できた。

「平賀先生、お茶が入りました」と、下女が障子を開け、小リスのようにするりと蚊帳をくぐった。
「おお、気が効くのう」と、浄瑠璃の粗筋を書きとめながら国倫が振り向く。幸島家では、源内在宅の時に、下女と下男を一人ずつ差し向けてくれた。源内が衆道なのはこんな田舎でも有名なようで、下男は中年の無骨な男だった。若い下男も数名いるようだが、主人のお達しなのか、源内が居る時は母屋に引っ込んで絶対に源内の前には顔を見せない。その代わり、下女はおさとというまだ十五、六の若い娘だった。
 国倫は迷っていた。主要登場人物の船宿の娘を、生娘にするか、艶っぽい女にするか。
「おんし、幾つだ?」
「はっ?と、と、歳ですかぁ?」
「目や耳の数を聞いてどうする。それともおんしは耳が三つあるんかい」と笑う国倫に釣られ、おさともえへへと笑ってみせる。
「十五です」
「物語の参考にするけん、真面目に答えとっての」
「はいっ!」おさとは茶の入った盆を水平に保ち、正座の背を正す。
「おんし、好きな男はいるか?その男を庇って命を捨てられるかいね?」
「あやー、そんなこっぱずかしいこと。おら、男の人と口きくのも恥ずかしいだがや」
「わしと話とるやないか」
「先生は衆道だがや。それにおっさんだ」
「"おっさん"じゃとぉ。失礼な奴じゃ。まあいい。おんしは生娘かの?」
「きゃー、そげんこと!」と娘は盆を放り投げて騒いだ。「先生は助平だわぁ!」
 がちゃんと湯飲みが床に落ちて、茶が畳に染みる。
「あややや、先生があんなこと聞くから!今、片付けますぅ、すんません」
 国倫は少女の慌てぶりを微笑ましく笑いつつ、自分の年齢ならこれぐらいの娘がいてもおかしくないことを実感した。
 浄瑠璃の筋の中、船宿の娘の恋敵は元おいらんの女だ。両方が艶っぽくてもつまらないだろう。娘は惚れた男には積極的だが、それは生娘の無邪気さ一途さとして描いた方が際立つかもしれない。

 忙しい中も、国倫はおさとに字を教えてやったり、江戸で流行りの髪型や着物の話を聞かせてやったりした。下男の方は庄二郎といい、力仕事以外に、江戸とこちらへの橋渡しで走り回ってくれた。彼は字が読めたので、手持ちの洒落本をやったりすると、喜んでくれた。中島家にいた時より、ここはだいぶ居心地がよかった。
 物語の展開を考えるのに夢中で、国倫が文机の前でぶつぶつと独り言を言っていたことがある。やはり茶を持って来たおさとが、「あの娘は殺さねばならんのう」という国倫の声を聞いて、再び「きゃーっ!」と悲鳴を挙げて盆をひっくり返した。釈明しながら腹をかかえて笑う国倫に、おさとはぷうっとふくれ面になった。
 おさとの悲鳴を聞きつけ、幸島家の家人も他の下女下男も源内の離れへと駆け込んで来た。全員が瞬時に揃った。皆がおさとを案じ、可愛がっている証だろう。
 国倫の説明を聞いて全員が笑い転げ、ますますおさとの頬はふくれた。雑巾で茶を拭き取りながら、しまいには「そなに笑わんでも」と泣きべそになった。
 お内儀が「よしよし。怖かったのね?」と、笑顔で彼女を胸に抱いて慰めた。まるで実の娘のように。幸島家は暖かい家だった。国倫も、この家に好意を感じていた。

 岩盤崩れ防止の板も、転売の目処がついた。尽力してくれたのは、地元の材木商人・岩田三郎兵衛だった。御普請請負の仕事も始めた源内と、最近懇意になった。中津川の豪商で、学問を好み、薬品会の平賀鳩渓を尊敬してくれていたそうだ。
 中津川は金こそ巧く出なかったが、鉄は必ず眠っている。岩肌には、鉄が含まれると思われる色合いが見えた。鉄の有る土は、空気に長く触れていると赤紫になる。岩肌をまだらに染める紫に、鉄の可能性を感じていた。
 岩田は鉄山開発に非常に乗り気で、出資を厭わないと言ってくれた。ただ、今は国倫も金山の閉山事業で手いっぱいだった。これが落ち着いたら、鉄を掘ろうと約束を交わした。
 
 秋になり、国倫は山を降りた。春にまた訪れる時は、鉄山に乗り出せるだろう。

★ 3 ★

 冬から春の間は神田でいつも通り過ごす。薬草と奇石の見立て、広告文や店の宣伝の案。客が来れば酒を付き合い、面白い話の一つ二つを披露し楽しませ。狭い座敷には、去年よりさらに多くが集うようになった。いつも誰かが来て、雑談やら仕事やら学問やらの話をしていた。
 品川の先に新田神社というのがある。新田義興を祀った神社で、御塚には御遺体も眠る。ここの絵馬やお守りの細工物を作る男が平秩の友人で、時々平賀宅へも遊びに来た。
 その地に生える竹は、空気の乾燥具合なのか土のせいか、竹細工で籠や行李を編むには向かないのだそうだ。しならずにすぐにぱりりと割れる。楊枝くらいにしか使い道がなく、そう楊枝ばかり作っても売れるものでもない。何かいい案は無いかと相談を受けた。
 国倫はその話を聞いてにやりと笑った。男に酒を注ぎつつ、「おんし、神主に話をつけられんかの?浄瑠璃で神社の宣伝をしてやるっちゅうて」と神罰が当たりそうなことを言う。
「竹は、飾りもんの矢を作ってみ。わしの浄瑠璃が当たれば、よう売れるけん」
 国倫の頭の中で、主役の『さる美男の落ち武者』は、具体的に『新田義興の弟・義宗』として名前を持った。名はそのまま使えぬから義峯としよう。船宿は義興が亡くなった矢口辺りと場所も特定できる。義峯の危機を救うのが、後醍醐天皇が義興に与えた矢で、仇役に神罰が下るってことでどうだ。
 新田神社の御塚の竹で作った矢を売れば、これは売れる。
「近くの茶屋でいい加減な飾り矢を『義興の矢』として土産に売っているようです。これを、うちの神社の境内で正式に売ればいいということですよね」
「正式さを強調して、新田家の黒一文字の短冊を付けんしゃい。神社内の竹を使った矢じゃし、それも宣伝に使うとええけん。御塚の竹は、雷が鳴ると義興様の霊験でピリリと割れる不思議な竹だとでも言うとええぞ」
 横で聞いていた文吾が、国倫の袖を引っ張った。
「平賀さま〜。それこそバチが当たらんかね?」
「なんの。こんで新田神社へ参拝する者が増えるけん。義興様に感謝されこそすれ、バチなんぞ当たるものか」
「そんなものかいな。演者のうちにバチが当たるのは嫌やよ?」
 国倫は文吾の心配を大声で笑い飛ばした。バチとか呪いとか祟りとか。国倫はそんなものは全て説明できる事柄だと信じていた。単なる偶然や、人の心が見せる世迷いだ。幽霊も目の錯覚だ。火の玉だって、墓場に眠る骨に含まれる物質によるものだ。古い墓石に付着する小さな生物で発光性のものもいる。
 国倫の心配事はただ一つ。浄瑠璃が当たるかどうかだ。
 何せ今までは、江戸で上演される芝居は、全て上方で人気だった作品ばかり。知名度も高く、評判もよかったもので、江戸の客達も題名をよく知っている。新作が江戸で初演なんてのは初めてのことだ。
 江戸発信であることを意識した国倫は、今まで上方言葉で演じられて来た浄瑠璃を、全文江戸言葉で書くことにした。舞台は当然江戸にするつもりだったが、矢口渡という具体的な地名が出る事で、一層江戸の人達に親しみやすくなるだろう。
「では、本を早く書いておくれやす。稽古も難儀そうな芝居やさかい」
「やれやれ。そうじゃな」と、国倫が盃を裏にして置いたところへ、「ごめんなさいよ」と中津川の庄二郎が顔を出した。

「おう、久しぶりじゃのう。江戸へは買い出しか?」
 一度盃を置いた国倫だが、「まあ上がれ、まあ飲め」と自ら再び徳利を握った。
「庄二郎さんだ」「やあ、遠くから」と、客たちも少しずつ動いて庄二郎の座る隙間を空けた。平秩や文吾らこの席の常連は、中津川から何度も江戸の平賀宅へ訪れた彼と面識があった。
「幸島家の皆は達者かの?」
「はあ。皆、元気にしております。実は、この冬におさとが嫁ぎました」
「おお、そうか。あの子供みたいなおなごが。めでたいことじゃのう。知っとったら、流行りの髪飾りでも贈ったものを」
 整えぬ眉とこめかみが産毛で繋がったような娘だったが。太い眉を下げて笑う垢抜けないところが、幼くて愛らしかった。だが年が明けて今はもう十六だ、確かに嫁に行く歳だ。
「真面目で働き者じゃったのう。良いところへ嫁いだかの?」
「はあ、まあ。おかみさんの実家の縁者で、そこそこの商家だそうです。本人は、ずっと幸島家で働きたいと言ってなかなか承知しませんでしたが、今年になってやっと嫁ぎました」
 口減らしで奉公に出た娘には良すぎるような縁談だろうが、あの家の居心地の良さを思うとおさとの気持ちもわかる気がした。
「夏に行っても、もうおさとはおんのか。少し寂しいの」
「旦那様もおかみさんも、娘みたいに可愛がっていましたから、暫くはしょんぼりなさっていました。でもまあ、嫁がせるなら早い方がいいので。本人が傷つく前に」
 意味深な口ぶりで、庄二郎が言葉を停めた。
「・・・?」
「あいつは、先生に惚れてましたです」
「ええーーーっ!」とその席に居た友人達がのけぞって驚いた。当の国倫は「ははは、またあほな」と冗談として受け取り、笑って盃を飲み干す。
 庄二郎も苦笑して『そう思うでしょうね』とでも言うように、国倫に酒を継ぎ足した。
「先生が衆道なのも承知で。でもまあおさとには、衆道ってものがピンと来なかったようですが。だいたい、嫁に行って何するか知らなかったおぼこですから。おかみさんにワの字を見せられて教えられて、またきゃあきゃあと悲鳴を挙げてました」
 ワの字とは笑い絵、つまり枕絵のことだ。嫁入り前の娘の性教育にも使ったりする。
 国倫は、おさとの騒ぎっぷりが容易に想像できて、ぷっと吹き出した。
「わしのこと、“オッサン”言うとったぞ?」
「あの家で、おさとが先生に惚れている事に気が付かないのは、おさと本人と先生ぐらいでしたよ。こっちは見ていて冷や冷やしてました。
 おさとは幼くて、自分の気持ちに気付かないのもわかりますが・・・。先生の鈍感さには頭がくらくらしました。大人なら察してやってもよさそうな」
「・・・。おなごをそげん目で見たことないけん」
 鈍感と言われ、国倫は憮然として言い返した。正直言って、おさとの顔で思い出せるのは眉毛ぐらいで、どんな容姿だったかもろくに覚えていない。おさとの色気のなさが心地よかったのであり、そんな色恋の事情を聞かされるとうんざりした。
「そやなあ。きっと他の女中さんがたも、物陰から先生を覗き見して憧れとったんとちゃいますか?江戸から来た偉い学者さんや。すらりとして見栄えもええ。かっこええわあと、ちらちら見とったと思いますよ」
「おなごにそげん目で見られとったかと思うと、鳥肌が立つけん」
 国倫は不機嫌そうに言うと、立ち上がった。
「真面目に浄瑠璃の続きを書くか。庄二郎はゆっくり飲んでいとって」
「いえ、わしも早く村に帰りませんと。すみません、不愉快なお話を聞かせてしまって」
 国倫は応えず、手燭に火を燈して二階への梯子を昇った。背後では、平秩や南畝が庄二郎を庇う言葉が聞こえていた。
『先生は、ご自分に腹をおたてになっているので、庄二郎さんにではないですよ』
『たぶん、おさとさんの気持ちに気付かなかったご自分の抜け方を、恥じているだけですから』
 どうも文士の友人はいけない。人の心をたやすく看破する。
 国倫は苦笑して、文机の横の燭台に手燭から火を移した。
 本当は、気付かなくてよかったのかもしれないとも思う。気付いたとして、何かしてやれたわけでもない。それに、おさとの好意を知って『女』だと認識すれば、嫌悪感が勝っただろう。冷たく当たったに違いない。

 江戸ではもう梅が咲くが、山深い里はまだ雪の中だ。
 梅が散る頃には長崎屋に阿蘭陀人も来る。
 それを終えたら、また山に籠もることになるだろうか。今度の下女も、色気のない女であるといいのだが。




第36章へつづく

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