★ 私儀、甚だ多用にて ★
第三十六章
★ 1 ★
「おっはよ〜ございまーす!」
不動新道の平賀邸に純亭の声が響く。仕事に出かける白壁町の職人達とは、羽織袴姿で逆行して歩いて来た。純亭は、引き戸を開ける。部屋の酒臭さと男臭さにうっと顔をしかめるが、めげずに息を大きく吸い込んで声を出した。
座敷では三人ほどが雑魚寝していた。主人の姿は無い。床には徳利と湯飲みが転がり、遅くまで飲んでいたのが容易に知れる。一人が顔を上げ、二階を指さしてまたぱたりと横になった。
「えーっ。源内さん、まだ寝てるんですかぁ?」
「そげなこと、有るか」との声と同時に、梯子から白足袋が見えた。
「童子(わらし)は朝から元気じゃのう」と、梯子を伝う。こちらも紋付き羽織袴の正装である。
「だーかーら、私は所帯持ちのオトナです!いつまでも子供扱いなんだから」
純亭は腰に手を当てて怒った仕種をしてみせた。
純亭は妙に朝の似合う男だ。国倫は苦笑した。
「大人は自分を大人とは言わんがのう」
「・・・源内さんは、酒くさく無いですね」
「ゆうべは、あいつらとは水で付き合ったけん。朝から長崎屋じゃっちゅうのに、深酒していられるか」
三月。阿蘭陀人が江戸にやって来た。商館長は今年もヤン・クランスだと聞く。そして、随行した大通詞が友人の吉雄幸左衛門だというのが嬉しかった。
「さ、急ごう。玄白さんも誘って行くじゃろう?」
「いえ、玄白さんは別に行くそうです。ここ数日は牛込に居るので」
それを聞いた雑魚寝の一人が、背を向けたまま、「先生を避けてるんですよ〜」と片手を振った。
「あほ言うちょる!なわけ有るか!」
国倫はムキになって言い返す。軽口を返すにしては態度が強く、純亭は思わず瞳をしばたかせた。
「だってほら〜、杉田さん、『友達なんかじゃない、ただの知人です』って私に言いましたからねえ。あの人は真面目な人なのでしょ。先生が助平な本ばかり書いているから、呆れちまってるんですよ」
「黙りまいでっ!」
座敷で寝ていた他の二人も目を醒ましており、クスクスと偲び笑いがした。
最初に冗談のつもりで林助がその話をした時、源内の否定する時の憤慨があまりに大きく、つまりショックの受け方が酷かったわけで、酒の席の文士達はかえってそれを面白がった。暫くはそれをネタに楽しんでいた。
「玄白さんに『友達じゃない』って言われたんですか?」
相変わらず率直な純亭は、身も蓋もない尋ね方をする。座敷の奴らはますます声高に笑う。まだ酔いも残っているのだろう。国倫はむっとして返事もしない。
純亭も思わず吹き出した。理由は文士らとは少し違う。いじけやすい玄白が、『有名人の源内さんです。私など、とても友達とは言えません』と変に謙遜した様子が目に見えるようだった。
ふくれっ面で「行くけん」と国倫は表へ出て、「あ、待ってくださいよ〜」と純亭も後を追った。
二人は純亭のことをよく子供扱いするけれど、自分たちの方が余程子供っぽいと思う純亭だった。
★ 2 ★
阿蘭陀人との会見は午後からだが、学者達は通詞に色々と尋ねたくて、朝早くから長崎屋へ出かける。
大座敷には既に何人もの学者が詰めかけ、玄白ももう居た。阿蘭陀医学の器具を使って幸左衛門に治療について何か尋ねていた。幸左衛門は、吉雄耕牛という阿蘭陀流医師としても著名である。横では少し年配の医師が玄白と一緒に熱心に幸左衛門の話を聞いていた。
「げっ。中津藩の前野殿だ。私、あの人は苦手なんですよね」
純亭が舌を出す。国倫だって苦手だった。前野良沢は有名な堅物である。学問を究める為には道楽は必要無しと考える学者で、勝手に一人で究めればいいものを、他人にまでそれを強要して来る。で、至るところで平賀源内の批判をしているらしい。だいたい、あの人を得意な者なんているのか。
ところが、玄白とは談笑しながら、幸左衛門の説明を聞いてたりする。
「・・・。」
国倫は当然面白くない。
「牛込の玄白さんの方がずっと遠いのに、早かったですね」
「わしらと行くともたもたして遅くなるで。一緒せんかったのじゃろ」
「もーう、また、そんなこと言う」
幸左衛門が国倫に気付き、「あ、平賀どの!」と声を上げた。幸左衛門の随行は四年ぶりだった。
「久しぶりですね。お会いしたかったです。さすがに少し老けましたねえ、また白髪が増えましたか」
「なんの。おんしこそ、前より太っちょるぞ」
若い頃の友達は、今会っても気安い口調になる。
玄白はこちらを見て軽く頭を下げたに留まり、話しかけて来るそぶりはなかった。良沢の方は、勉強の腰を折られ、冷淡な視線で国倫を一瞥した。
「吉雄どの、すまぬが続きを」
「あ、失礼しました」
良沢に促され、幸左衛門は「では、あとで」と国倫へ笑いかけ、話へと戻った。良沢は勿体をつけた咳払いを一つして、国倫から視線を外した。
「まったく。外科医は、阿蘭陀流なのか性病専門医なのかわからん有様です。訪ねる患者の七割は瘡取り。悪所で遊ぶ輩が多いせいです。玄白どのもそう思いましょう?」
「え、あ、まあ」
玄白もかねがねそうは思ってはいる。しかし、良沢のこの言い方は、まるで源内のせいで外科医に性病患者が押し寄せているかのようだ。かと言って、医師として大先輩の良沢に、反論できる玄白ではないのだが。
国倫は苦笑して取り合わず、「おお、田村先生がおいでだ」と別の輪へと純亭の袖を引いた。藍水が幕臣となってからは、会う機会も減っていた。甫三が長子の小吉改め甫周を連れて現れ、千賀親子も訪れ、賑やかになった。甫周は十九歳になっていた。父譲りの聡明で整った面立ちの青年だった。
座敷の隅には、カピタン達が貿易用に持参した珍しい物品が置かれる。遠眼鏡、顕微鏡、磁石、時計など。そして書籍もあった。
学者達には本が売れるのがわかって、毎年十数冊をも用意して来るようになった。早いもの勝ちであるが、高価なこともあり、取り合い争うようなことは無い。
今回国倫の目を引いたのは、『すこーとねいる』という全十四巻にもなる図譜だった。今までは、本草や魚、虫、動物という図譜を揃え、一揃いした感があった。すこーとねいるは、天体、土・化石、西洋の建築物や食器や道具にまで及ぶ、百科事典だった。よんすとんほどではないだろうが、これも高いんだろう。
国倫は深いため息をついた。借金も返し終え、僅かだが蓄えもでき、やっと蔭子と遊べる余裕ができたかと思っていたが。
「平賀さんは、その本をお買いになるご予定ですか?」
甫周が尋ねた。柔らかく滑らかな声は父親にそっくりだ。
「そうじゃのう。また茅町へ行けんようになるがの」
国倫があまりにがっかりした様子で言うので、その場にいた数人が笑った。
「そちら、静かに願えんか。私達は吉雄先生から、医学のご教授を受けているところだ」
良沢に注意され、輪はさっと散った。
以前は、学者達の高揚感で和気藹々と楽しい場だったが、最近は緊張を強いられる事が多くなった。カピタンも通詞も来るのは一年に一度のことなので、わからない事をできるだけ尋ねたいと皆が貪欲になる。その気持ちが出過ぎて、我れ先にとなり、殺気だった雰囲気さえ出来ていた。
やれやれと思いつつ、他の蘭書をぱらぱらとめくってみる。博物関係の本は、どれも国倫が既に持つ書より劣る気がした。他に積まれたのは、天文学の本だった。ここを訪れる学者は医者(本草学者含)と天文学者が多いのだ。
「・・・おっ?」
国倫は手を止めた。もう一冊、気になる本を見つけた。と言っても自分の為の博物書ではない。腑分け図の載った・・・これは医学書だろうか。カピタンが医学書を持ち込んだのは、国倫が知る限り初めてだった。博物学の図譜と同じ手法、銅版画で描かれた阿蘭陀の手術用具や患者の体は、目の前に有るように現実味を帯びている。
他の医者がこれに気付かぬよう、すこーとねいる全十四冊の間に、そっと差し込む。
『純亭!純亭!』
小声で純亭を呼び寄せる。
純亭もこの本を見て「わあ」と歓声を挙げそうになり、国倫の掌で口を覆われた。
『皆がこの本に気付かんうちに、幸左衛門どのに値段を聞いてきんしゃい』
医学の質問が終わり、幸左衛門が解放されるのを待って、純亭が彼の袖をそっと引いて呼んだ。良沢は今度は他の通詞に阿蘭陀語の質問を浴びせかけるのに夢中で、こちらには気付かない。純亭は、玄白も指で呼んだ。
「なんですか?平賀どの、今年は『スハウトネイル・デ・ル・ナトュール(自然の景観)』をお求めですか?
あれ??? 違う背表紙が・・・。
あーーー!これ、私の本です!」
結局、この医学書は阿蘭陀人の売り物ではなく、幸左衛門の私物であると知れた。堺樽(難波の堺の酒樽)二十挺と交換したのだそうだ。通詞の個人的な貿易(売り買い)は禁止だが、贈り物をしあうことは許されていた。もちろん、何を贈り何を貰ったかはしっかりと記録される。
幸左衛門が参考書として持参したものが、紛れてしまったらしい。
「でも、全集の中に混じるのはいくら何でも変です。平賀どのが隠したでしょう?」
「すまんすまん、他の者が見たらすぐに買うと言うじゃろうと思うて」
まったくもう〜と、幸左衛門は眉を下げて笑った後、真顔になった。
「でも、確かにそうですね。来年からは、医学書も持って来ることをカピタンに薦めておきます。こちらでいつも阿蘭陀医学への質問が多いのに、医学書を欲しがる医師が多いだろうってことに気付きませんでした。私自身も、カピタンに取り寄せて貰ったくせにね。
ただし、高いですよ。銘酒の樽二十挺は、私が阿蘭陀医師の手伝いをするので必要ということで、だいぶおまけしてもらったのです」
その話を聞いて、玄白はため息をつく。
「今から金子(きんす)を貯めても、私などでは到底買えない値段なのでしょうね」
純亭が、「布団でも質に入れない限りね」と続けて、国倫に「おんしなあ!」とどつかれた。
★ 3 ★
午後からの阿蘭陀人との会見も熱気のうちに幕を閉じ、玄白が座敷を出ようとした時、幸左衛門から「これをお貸ししようと思います」と風呂敷包みを差し出された。
「平賀どのに、私がここにいる間、熱心な医師に目を通して貰ってはどうだろうと言われまして。確かにそのとおりです。
しかし余程信頼できるお人柄のかたにしか、お貸しするわけにはいきませんしね。
皆さんが『私も私も』と借りに来るといけません、これはご内密に。もしお気持ちがあれば、図譜だけでも摸写なさり、お医者仲間でご覧になるとよいかもしれませんね」
「こ、この包みは、さきほどの?」
あの、銘酒二十挺の医学書だと言うのか。
「参府が終わる迄に返してくだされば大丈夫です」
「しかし、吉雄先生は、江戸での医師の質問責めに応える為にご持参したのでは?必要でしょう?」
「まあ、そうなのですが。結局は、阿蘭陀医師に質問してしまった方が早いのです。通詞は、会話は得意ですが読むのはそうでもありません。
それに、その。実は、平賀どのが夜の来客も手配してくれるそうで。会見の後に、この本で勉強している暇は無さそうです」
「・・・。」
国倫に、感謝する気持ちと、呆れて腹の立つ気持ちと。玄白は幸左衛門に何と言っていいやらわからず、言葉を飲み込んだ。
参府に付いて来た日本人も長崎屋の別棟に宿泊していて、自由に外へは出られない。岡場所へは遊びに出られないのだが、遊女を呼ぶにしても、誰かに手引きしてもらわねばならない。国倫はその事情を熟知して、気を効かせた。
たぶん国倫は、幸左衛門が玄白に本を託すだろうというのも、計算していたのだ。機転と呼べばいいのか悪知恵というべきか。だがやはり、感謝すべきだろう。
玄白は、幸左衛門にも何度も礼を述べて包みを借り受けた。
玄白が、牛込の小浜藩邸で風呂敷の布を解き、胸をときめかせていた頃。
こちらも長崎屋帰りの道有が、主人の代りにがらりと平賀宅の戸を開けた。珍しく座敷には誰もいない。
「おや。平賀先生。今夜は残念ながら閑古鳥ですよ」
長崎屋初日の様子を仲間に聞かせようと張り切って帰って来た国倫は、「なんじゃ、なんじゃ」とふてくされて座った。
「先生が連日早朝から長崎屋通いだから、皆さん遠慮したのでしょ。
酒は冷やでいいですか」
道有も徳利と湯飲みを床に置いて座った。国倫は正装の着物を衣桁にかけると、楽な襦袢姿になる。明日もこの窮屈な正装を着ることだし、汚すわけにはいかないのだ。道有も羽織袴を脱いで着流しになった。二人とも、緊張と興奮の後で、心がまだ波打っている。学者らの質問に拙さがあっても、阿蘭陀人の答えは納得のいく物が多かった。国倫は鉄・亜鉛などの鉱物関係での有益な雑学を拾った。道有は内科医であるが、阿蘭陀医師の外科技術には今年も驚かされた。
「今日は、甫周が立派になっておったんで、驚いたわ。おんしは付き合いがあるんじゃよな?」
「お互いの親が官医ですしね。ただ、千賀家とあちらでは格が違いますが。
私が肩に触れたら、嫌そうな顔をしましたよ。私のは囚人を診る手ですから、汚れていると思われたのでしょうかね」
「そりゃ、おんしが助平で有名じゃから。気安く触られて、危険を感じただけじゃろ」
「ひどいなあ、先生は。そっちの方が傷つきますよぅ」
道有は微笑んだ。国倫の返事には優しさがあった。
「先生は暖かいかたですよね・・・」
国倫は苦笑する。「なんや、もう酔ったんか?」
毎日、たくさんの囚人の命が、この手からこぼれ落ちて行く。特に夏と冬は、死なずにお白州へ出られる者の方が少ない。
人の肌の温かさを常に感じていたかった。生きている実感が欲しかった。周りが自分をどう呼んで笑っても。この気持ちをわかってくれる人が、全くいないわけではない。この、源内のように。
「どれだけの助平か、試してみます?丁度今夜は誰もいませんし」
「・・・。まだ六つじゃよ?近所は皆夕飯を食うておる。こんな時刻に、よくそんな」
「では、しませんか」
「・・・する」
道有はその返事に破顔し、自ら帯を解こうと腕を背に回す。その手を国倫が止めて抱き寄せた。
「そういう楽しみは、相手の為に取っておくもんじゃ」
ゆっくりと国倫は抱いた腕に力を込めた。
道有に惚れているかと言ったら“否”だった。道有は戯れに『試してみますか』という言葉で誘ったが、肌を重ねるのは初めてではない。李山と道有は何度か楽しんでいた。
蔭間茶屋にて二組で宴をするうちに縺れ、李山が道有の馴染みの蔭子を抱くことも、その反対も有った。そして李山が道有を抱くことも。道有が茶屋に誘う目的はそれかもしれぬ思う。道有は李山に惚れているかもしれない。だが、普段はそんなそぶりは決して見せない。
道有は美男ではないが、細い目と肉厚な唇に色気のある青年だ。色白で華奢なもののきちんと青年の筋肉があり、贅肉の無い首や背の線は綺麗だった。
『代わるか?』と李山に尋ねる。李山は鼻で笑う、『いや。どうぞ、』と。
李山は体だけを欲する。この青年が『自分の男』だという想いは無い。道有には気の毒だが、特別な感情は抱いていないようだった。
「ああ。四つ(十時)前に帰らないと」
夜が更けてから、道有は国倫の腕(かいな)を抜けて身繕いを始めた。道有は今は父親から独立し、伝馬町前に屋敷を構えていた。四つには辻の木戸が閉まる。身分を明かして開けて貰うのは面倒なのだ。
「明日は、わしと一緒にここから本石町へ向かいんしゃい」
「そうも行きません」
朝から並んで出かければ、いかにも閨を共にしたようだ。誰とでも寝るという自分の評判は、道有は承知している。その『誰とでも』に源内を巻き込みたくなかった。
「ところで。失礼ですが、あの図譜集の為に、幾らかご用立ていたしましょうか」
「・・・。いつもすまんな。半分ほど足りぬ。頼む」
「了解しました」と、道有は袴の紐を結び終えた。
「では明日、長崎屋で、また」
提灯を下げた道有の肩は柔らかいなで肩だった。彼が戸を締めると、家の中は寒いほど静かになった。客の多い家だ。こんな静寂には慣れていない。時々、風が戸を鳴らして、その音さえ嬉しく思った。
『わしは・・・寂しいのか?』
眠って起きれば、長崎屋へ行くことができる。国倫は夜具を被ってきつく目を閉じた。
第37章へつづく
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