★ 私儀、甚だ多用にて ★
第三十七章
★ 1 ★
二日目の長崎屋の会見が終わった後、国倫は『すこーとねいる』全十四巻を購入することができた。足りなかった分を、道有が早速立て替えてくれたのだ。
一冊が分厚くずしりと重かったよんすとんやどどねうすに比べ、すこーとねいるはすっきりした厚さの分冊だ。眺めるにも調べ物をするにも、これぐらいが扱いやすいだろう。だが十四冊あれば、軽いというわけにはいかない。
人を使って届けさせましょうかと言われたが、持ち帰ってすぐに見たいので、自力で運んだ。もっとも、道有と藍水の息子・元長と三人で分けて持ったので、そうつらくは無かったが。元長もこの本を見に平賀宅へ来ると言う。これ幸いと、「ほい、これはおんしの分」と5冊持たせた。元長は今は西湖と名乗り、本草学者として父の片腕となり活躍していた。
玄白からは朝一番に礼を言われた。真っ先に挨拶しようと玄関先でうろうろしていた様子だった。
国倫は、最初、何のことかわからなくて、玄白の説明を長く聞かなくてはならなかった。自分が買う本・すこーとねいるのことで頭がいっぱいで、前日に玄白が本を借りられるように根回ししたことなど忘れていた。
玄白は既に挿絵を写したそうだ。深夜まで作業したのか、腫れぼったい瞼がさらに腫れ、ちいさな目が瞼に埋もれるようだった。
それでも高揚感で瞳が輝いている。
「何度も繰り返し捲ってみました。阿蘭陀語は全く読めませんが、図が本物のように精巧で、すばらしいですね。
遅くまでかかって、一枚ほど写してみたのですが・・・どうも私は絵が下手で」
懐中から、たたんだ紙を取り出した。
『ぶっ』・・・ここで笑ったら、玄白を傷つける。国倫はこらえた、が、横にいた純亭やら道有やらが皆吹き出したので、その努力は無駄だった。
女性の胸への外科手術の図と思われるが・・・。
「蛸?」
裸体の腕がにょろりと長く伸び、それに負けじと乳房までがくねって伸びている。止血をするのに、胸は、腕や足のようには紐で縛れない。絵に描かれたこの器具は、胸を大きな輪で押さえつけて止血する為の物のようだ。が、その器具も魚捕りの網のようだった。
そして極めつけは、女性とわかるようにという考慮なのか、患者は女髷を結っている、が、蛸壺を被っているようにしか見えない。
「ねえ、下手でしょう?
私は手も遅いし、写すのにも時間がかかり、困っています」
皆が笑っても、むくれる様子もなく、悪びれずに下手さを認める。
「透かして描き取れば少しはマシかもしれませんが。借り物の本に、墨が滲みてはいけませんし。
写したい絵はたくさん有るのですが、数枚に限定して作業することにします。
こちらとの行き来の時間が惜しいので、今日から数日は日本橋の自宅へ戻ることにしました」
困っていると言いながら嬉しそうで、ヘイステルの外科書に関わっているのが楽しくて仕方ないという様子だった。
国倫も、どどねうすの草木譜を初めて見た時の感動と興奮を覚えている。あの感動のせいで、今、江戸のここにいると言ってもいい。変わらない。それは鳩渓も李山も同じだと思う。
何となく気まずかった玄白との仲だが、昔の身近な感覚が戻って来た感じだった。少し嬉しくて、心躍る気持ちがした。
会見では、国倫は製鉄について幾つか質問した。日本の鉄精製は、砂鉄を「たたら」と呼ばれる方法で溶かし、それを加工する。が、西洋は塊状の鉄鉱石を使用するという。塊を溶かすのは砂金より高熱が必要と思うのだが、どんな炉を使っているのだろう。
参府の阿蘭陀人達は教養のある商人と医師だが、製鉄については専門外だった。幸左衛門は「一般常識程度の知識しか無いそうですが」と彼らの前置きを訳しつつも、炉の燃料は燃える石を蒸し焼きにしたものを使うことや、蒸し焼きにすると、ただ石を燃やした時より高温が出ることを告げた。風を吹き入れる為の動力もふいごでなく、水車を使うとのことだった。
「燃える石の蒸し焼きじゃと?」
「西洋には燃える石が有ると言っています。・・・石炭のことと思いますが」
終わりの一言は幸左衛門の私見だった。日本でも、九州の柳川藩では炭鉱を所有している。だが他藩のことであり、石炭については詳しく知る者は少ない。だいたい、塊状の鉄鉱石も石炭も、秩父の鉄山では現実的な話ではなかった。
今日は帰宅すると数人が座敷で集っていた。
「あ、おかえりなさい!その包みですか、阿蘭陀の図譜は」
「早く見せてください〜」
いつもの文士達だけでなく、絵師の宋紫石や安藤峻、岡本利兵衛のところの彫師までがいた。昨日の今日で、よくもこう早く広まるものだと呆れた。
絵師や絵に関わる者には、阿蘭陀の図譜はたまらなく魅力的なのだろう。年配の宋までが、子供のようにそわそろとしていた。
「皆、わしの話を聞きに来たのとちゃうんか。すこーとねいるを見に集まったんかい」
口を尖らしつつも、戦利品を自慢できるのでまんざらでもなく、国倫は包みを開いた。急いで道有達にも荷を解かせた。
「ねえねえ、買ったって本は今日持って帰ったの?」
忙しい筈の春信までが、窓から顔を覗かせた。自宅で国倫が帰るのを見かけたが、仕事を抜けて表から出るわけにいかず、厠へ行くフリをして廊下から裏庭つたいに到着したとのことだ。
「おんしなあ。そげなことできるのは、童子(わらし)か猫ぐらいじゃぞ?」
髪には草が絡んでいる。子供並に小さい春信だからできた技だ。
「うふふ。この方法で、時々仕事を抜けて遊びに出られるかしらん」
遊ぶどころか殆ど外にも出ていないのだろう。顔色が悪く、肌の色が濁っていた。眼窩は前より窪んだので痩せた筈だが、頬や額がふっくら見える。浮腫んでいると思われた。
「そうじゃぞ。少しおてんとさんを浴びた方がええぞ?
働きすぎると、体を壊すけん」
「違いますよ、源内さん。うちの先生のは酒の飲み過ぎです」
「あー!峻ちゃん!アンタったら、いつの間にここに!
任せた着物の柄描きはどぉしたのっ!」
「本を見せてもらったら、すぐに帰りますよ〜。
だけど、先生だって、仕事を怠けて来てるんですからね」
師匠にここまで言い返す生意気な弟子も珍しい。
二人が漫才している間に、元長と宋は、本を開いてとっくに摸写を始めていた。元長は風車の絵を、宋は帆船を写している。
達者な二人は、紙で透かさずとも描くことができたが。
玄白の悩みを思い出した国倫は、戯れに訊ねてみた。絵師なら何か方法を知るであろう。
「師匠の絵を透かして、木炭でなぞって学びましたよ」と安藤が告げる。
木炭は普通は下絵のアタリ付けに使う。絵の具などと共に、道具屋で買えるものだ。ただ、大雑把に輪郭を取るのに向く画材で、螺子が幾つ、刻んだ歯が幾つという、医学器具の記録には難しいかもしれない。
巧く描いたとしても、長期保存が難しい。あくまでも下絵用だ。
筆でなぞる時は、炭が墨をはじくので、裏から描く。記録としての絵ならば、左右が反転するとまずいだろう。
「箸や竹串でなぞるってのはどうかい?」
きめだしの手法でエンボスに目覚めた春信が言う。
「そうじゃな。竹串か。いいかもしれん。
善は急げじゃ、早速教えてやらんと。ちいと行って来るけん」
国倫は、羽織も引っかけずに飛び出した。
★ 2 ★
開業してから二度の火事で、玄白は二度移動した。国倫が、今の玄白宅を訪れるのは初めてだ。だが、場所は知っていたし、何度か医院の前を通ったこともある。
狭い間口に、数日休診しますという断わりの札が下がっていた。長崎屋に通う間は当然開けることはできぬだろうが、以前から父の為に休みがちだという話は聞いた。
国倫が訪れると玄白は驚いた様子で、だが喜んで迎えてくれた。
着替える暇も惜しんで摸写に取り組んでいたらしく、玄白は紋付き袴のままだった。文机の周りには、失敗した絵が数枚散らかっていた。書き損じを放っておくなど、玄白には珍しいことだ。
「竹串でなぞる、ですか。さすが鈴木春信さんですね。うん、それなら巧く写せますね。
あ、でも・・・。うちに竹串なんて有りません」
店も閉まってしまった時刻だった。
「箸を買うてきた。小刀を貸しんしゃい、わしが削っちゃるぞ。来る途中に串を買おうかとも思うたが、箸の方が握りやすいじゃろう」
不器用な玄白が削るより、国倫の方が手早く綺麗にできる。
「うわあ、何から何まで。ありがとうございます」
満面の笑顔の玄白は、目が三日月のようになった。三日月が空に二つ並んだらこんなかもと国倫は思って、笑いそうになった。
細工物をするので李山が呼ばれるかと思ったが、国倫は小刀を借りると、楽しそうに箸の先を尖らし始めた。失敗の絵の上へ、ささがきが積み上がる。
『ふうん』と李山は、寝そべって肘をついて見ている。鳩渓も、玄白と仲の良い自分が呼ばれないので不思議だった。
自分の戯作の内容を恥じたことはない国倫だが、潔癖な玄白に軽蔑されそうな戯作であることは認めていた。『友達ではありません』には、こたえた。確かに、戯作者になってから、玄白は自分を避けている気がしていた。文士らと集う中へは、決して入って来ようとしなかった。
こうして、以前のように。親しく玄白と居られることが嬉しかった。
一本目は手早く削り終え、玄白はそれを使って挿絵をなぞり始めた。白い紙に、燭台の明かりが溝の影を映し出す。国倫は、続けて二本三本と箸を削り続けた。消耗品なので、何本も必要だ。国倫は六膳も箸を買ってきた。
「ああ、だいぶ描きやすいです。ありがとうございます」
暫く黙々と削っていた国倫だが、全部削り終えると、玄白の背後に立ってヘイステルを覗き込んだ。阿蘭陀の本は数種類所有しているし、長崎では幸左衛門の屋敷でも色々と見させてもらった。だが、医学書を見たのはこのヘイステルが初めてだった。挿絵は器具やその使い方だけでなく、怪我の状態や症状も生々しく描かれている。切開した傷の中身やら、腕や足の筋肉、筋、血管まで。まるで鏡に映したようだった。
玄白が、今まで紙を抑えていた左手を急に目の高さに挙げた。手を握ってみたり甲に返したり、袖を巻くって上げたり下げたり。表情は真剣そのものだ。
「どうしたん?腕が吊ったかね?」
「え・・・あ、いいえ。この挿絵の筋の出方がよくわからなくて」
だが、棒のように細い玄白の腕では、筋など出るはずもない。
「これでええか」と、国倫は着物の袖を肩までたくし上げた。拳をぎゅうと握ると、二の腕の丘陵だけでなく、肘の裏の窪みや手首の線までが綺麗に浮きでた。
「ありがとうございます!完璧です! ここに止血の輪を締めるようですね」
玄白が二の腕に触れた。細く堅い指の感覚はひんやりと冷たく、少年の指が這ったようだった。
背に稲妻が走った気がした。
こんな指をしていたのかと、国倫は気付く。長い付き合いだが、玄白が国倫の体に触れるのなど初めてのことだろう。
「私はこんな腕ですから、絵の参考にもなりません。情けないです」
枝のような腕は、抜けるように色白で、青い血管の線が寒々と走っていた。
「ひやっこそうな腕じゃのう」
ぺたりと、国倫が掌を乗せた。触れられた玄白は嫌なそぶりも見せず、「私は冷え症なんです。女みたいでしょう。国倫さんは温かいですね」と告げる。彼が無防備なのは、無垢だからだ。男同士のごく普通の接触だった。彼は、頭で知っていても、衆道の者への実感がないのだ。
玄白をどうこうという気はない。だいたい彼が応じまい。だが一度欲情してしまった相手を、この先意識せずに居られるかどうか、国倫にはわからなかった。
「あかんのう・・・」
「あかんですか。疲れやすいのは冷え性だからでしょうか」
その返答に国倫は苦笑する。今夜は一滴も飲んでいない。だが、玄白を可愛いと思った。
「・・・あのなあ」
呆れつつも、ぎゅうと抱きしめた。小さな玄白は、国倫の胸にすっぽり収まる。もちろんこれ以上進むつもりもなかった。ただ、抱きしめたくなっただけだ。たぶん、冷えていたのは国倫なのだ。寒くて凍えていたのは。
友達でないと言われた時の気落ちや、三人の人格が棲むことを知られている安心感や、そんな複雑な想いがいっしょくたになった。
「わっ!」
玄白の方は、驚愕した。初めて、国倫の性癖を意識したかもしれない。独り身の娘が、そう素行も良くはない男と夜に二人きりで居る、それと同じなのだと気付いた。突き飛ばそうとしたが、玄白の力では足りなかった。
「すまんのう。ちょっとの間だけ。こうさせておいとって」
「わ、私は・・・違います!
あなたのご友人たち・・・淫らにあなたと遊ぶ、あの人たちと私を、一緒にするのですかっ」
怒りのこもった言葉に、はっと国倫は腕を離した。隙に、玄白は、先刻まで国倫が使った小刀を握った。
「お願いです!私に触れないでくださいっ」
刃は最初国倫に向いたが、すぐに玄白は自分の喉へ切っ先を近づけた。玄白の目からは、ぼろぼろと幾粒もの涙がこぼれ落ちていた。
「これは、私への侮辱です。もしまた触れようとすれば、自害しますよっ」
小刀を握る玄白の手は小刻みに震え、微かに先が皮膚に触れて軽い傷を付けた。
「やめんしゃい。血が滲んどるけん」
「約束してください。もう二度と私に触れないと!」
「潔癖に過ぎるじゃろう。わしがおんしの帯を解いたか?押し倒したか? ただ、抱きしめただけじゃろ?」
「そんなこと、口にしないで下さいっ!汚らわしいっ!」
国倫は、全身の血がすうっと引いた気がした。汚らわしい。確かにそう言われた。衆道の自分を、玄白は実はずっとそう思っていたのか?
玄白もいい過ぎたかと、はっと顔色を変えた。
「おんしのわしへの気持ちは、ようわかり申した。もう、二度と触れんし、話しかけもせん。
おんしを抱きしめたんは、そんなにいけんことか?
おんしが承知しないのをわかっていて、友のおんしと、力づくで交合(まぐわ)ろうと、わしがすると思うたのか?わしをそんな男だと?」
玄白は黙ってうつむく。涙がぽたぽたと畳を濡らし、首の傷の血も一滴混じった。
「・・・しまいじゃな」
国倫はそう言い捨てると、部屋を出た。
夢中になって箸を削ったせいで、小刀を握った指が傷んでいることに気付いた。自分の愚かさに腹が立った。夜の中をがむしゃらに歩くが、白壁町の家へは足は向かない。あんなに人が多いところは御免だった。散々歩いて足を棒にして、観念して茅町へと向かう。
何本もお銚子を空けて蔭子らと騒ぎ、飲んで飲んで飲んで、自分が誰かもわからなくなった。体がバラバラになりそうになりながら、それでもまだ盃を空けた。どの蔭子を抱いたのかも、抱かなかったのかも、覚えていない。
昼近くなって、背中と頭の痛みで目が覚めた。
金が足りなくて、茶屋の者が白壁町まで付いて来た。歩くと目が回って、家までの道で二度嘔吐した。家には何人かが残っていたので、不足分を立て替えてくれた。
「先生、大丈夫ですか?」
誰かの差し出す水を、素直に受け取り、全部飲み干す。
「梯子、一人で昇れますか?背負いましょうか?」
「いや、夜具を下へ降ろそうか。座敷で寝た方がいいだろう」
皆の話す声が遠巻きに聞こえた。前の景色ががぐるぐると回る。
「寝る?布団?・・・いらん、いらん。これから本石町じゃ」
「でももう九つ(十二時)ですが。それにこの状態で、長崎屋へいらっしゃるのですか?」
皆の心配満載の視線に送られて、国倫は長崎屋へ向かった。籠を呼んでくれた者がいて、それに乗ったものの、途中で気分が悪くなって降りた(また吐いた)。
長崎屋で、会見の座敷へ行く前に麦湯をいただき、その後手水で顔を洗った。茶筅髷の髪も撫でつけ、着物を整える。だいぶ意識が戻って来たが、頭痛と、どんよりした吐き気はどうしようもなかった。
会見の末席に座る。近くにいた純亭が国倫を見つけ、隣へと座った。
「本を購入したから、もう来ないのかと・・・うわっ、酒くさいですね」
「頭が痛むけん、大声を出しますまい」
ちらりと座敷内を見渡す。前の方に、玄白の姿が見えた。また今日も律儀に早くから訪れたことだろう。隣には良沢の背があった。玄白もこちらに気付いたが、すぐに視線を逸らした。
座敷内はざわざわと談笑に似た空気で、阿蘭陀人への質問は行われていなかった。
「カピタンが謎解きを出したのです。もうすぐ、ここへも回って来ますよ」
「・・・?」
静かに座っているとまた吐き気が襲って来た。会見が無いのなら、無理に来なくてもよかったかとも思う。
純亭の手元に、掌くらいの大きさの丈夫な紙製の巾着のようなのが運ばれて来た。純亭は、今まで優秀な学者の歴々が解けなかった謎は自分には無理だと放棄し、即座に国倫の膝へと置いた。
「これです。阿蘭陀人の小物入れで、開いた人には・・・」
「下を向くと吐きそうじゃけん」と国倫はそれを手に取った。口金が知恵の輪のようになっている。煙草入れのようだ。簡単に開くと湿気てしまうので、からくり仕掛けになっているのだろう。
「これをくださるそうで・・・」
「ほい」
純亭の説明が終わらないうちに、国倫は口金をぱかりと開き、「ううっ。今は煙草の匂いもダメじゃけん」と、純亭へと押しつけた。
「ええーっ!もう開いちゃったんですかーーーっ!」
純亭の声を聞いて、座敷の学者達から波のような歓声が上がった。
幸左衛門が上座から背を伸ばしこちらを窺って、「わあ、平賀どのが開けたんですか!」とどこか誇らしげな声を挙げた。
そんな大袈裟な、と思う。針金の輪をひっくり返して絡めてあるだけだった。きっと誰もが萎縮して、きちんと仕掛けを見なかったに違いない。
気分が悪いままに帰宅して寝込み、酒が抜けるまで丸一日伏て寝をして、今度は腰が痛くなった。
酔いが抜けて目が醒めた時、そんな夢を見たと思っていたカピタンの小物入れが、枕元にあった。あれは現実だったわけか。
玄白と仲違いしたことも。あれも現実だった。
酔っぱらっているうちに、夢になってしまえばいいものを。
二度と触れない。口も利かない。
自分が宣言したことだが、人に強いられたことのように「ああ、そうですか、わかりましたよ」と江戸弁で呟いて、寝返りを打つ。
ここんところ、ずっと疎遠だったのだ。別に日常はそう変わらないだろうと嘘ぶく。
李山は呆れているものの、口を挿まない。鳩渓は、彼も怒って『国倫さんとは、わたしも口を効きたくありません!』と言った。
頭と胃が痛む。体もだるい。当面、何も考えたくなかった。ちょっとだけ、考えることを辞めにしたかった。
階下では、新しい阿蘭陀本を見に来る客が絶えず、相変わらず賑やかな声が聞こえていた。
第38章へつづく
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