★ 私儀、甚だ多用にて ★
第四十二章
★ 1 ★
五十三次の宿場である金谷宿の近くに、田沼が拝領した相良藩がある。田沼は常に江戸に居るのでここを治めているわけではないが、近くを通ったついでに寄ってみることにした。今年の春に田沼は老中になったそうで、ますます勢いがついていることだろう。意外に開国も早いかもしれないと、李山らは明るい気持ちになる。
相良の民は田沼とは馴染みない人々だが、さすがに役人らには『田沼依頼の翻訳御用』は効力があった。築城の指導で、家老の井上伊織ら要人も数人がこちらに住んでいた。井上は李山を客人扱いでもてなしてくれた。李山も、長崎で手に入れた諸々のものを披露し、主人の井上やら奉行の須藤二郎兵衛や出入りの商人などを驚かせ楽しませた。旅の荷を解いて、自分用に買った顕微鏡や遠眼鏡、蘭画本のライレッセなどを広げ、説明してやった。
大坂で売れるものは売りつくしたつもりだが、相良の田舎では長崎で買った日用品の類も売れた。阿蘭陀文字が入った煙草入れや唐風の色合いの懐紙入れ、果ては単に長崎で買っただけの何の変哲もない矢立さえ欲しがる者もいた。
大坂で、壊れたエレキテリセイリティ同様に誰も買い手がつかなかったものに、長崎凧(ハタ)がある。これは意匠が阿蘭陀国旗だったので面白く思い購入したが、阿蘭陀の国旗を知る李山だから面白く感じただけで、大坂の好事家らにはピンと来なかったようだ。実際長崎でも、阿蘭陀国旗としてでなく丹後縞という名称で通っている。彼らにとってはただのイカ(上方の凧の呼び方)だった。
が、相良は違った。ここ十年ほど紙鳶(凧のこと)の喧嘩上げが漁師や農民の間で流行っており、その波は裕福な商人や武士にまで及んでいるという。近くの浜松では徳川治世の前から来賓の歓迎に大紙鳶を上げたり喧嘩紙鳶で争ったりと、漁師町は紙鳶が盛んだ。風を読む必要から、紙鳶も盛んになったのかもしれない。志度は内海なので穏やかなせいか、あまりその習慣はないが、外海へと船を出すここいらへんは、風を読み違えたら命にかかわるのだ。長崎でハタが流行るのも、似た理由かもしれない。
「長崎も、喧嘩だこが盛んだ。むこうでは、たこをハタと呼ぶ」
「ではこのたこは、喧嘩用ですか?」
李山が抱えるのは、相良の紙鳶の三分の一の小さな凧だ。絵も菱餅のようで威厳がない。相良は他地方同様、もともとは端午の節句に男児の健勝を祈って上げた紙鳶が中心で、勇ましい武者絵などが描かれている。誰が見ても長崎ハタは『弱そう』だった。
李山もそれを承知で「喧嘩は、体の大きさだけでするものではない。知恵もいる」と、長崎ハタを擁護し、相良の者らを挑発した。
「うちの下男は去年大会で一番になったのです。三両賭けて勝負しませんか」
まんまと井上が乗った。李山は内心にやりとほくそえむ。
「俺には賭ける大金はないぞ」
「虫眼鏡(顕微鏡)を賭けませんか」
売らないと言うと、余計に欲しくなるものらしい。李山は承諾し、ハタを抱いて下男と浜辺へと出た。
藩主様のお気に入りの学者と、村が誇る喧嘩だこの王者の対決だ。百姓は鍬を放り出し、漁師は網の繕いを途中に、皆が浜辺へと集まった。城造りの人足らもいたし、羽織袴もいる。役人も仕事を中断して来たらしい。平和でのどかな村であり、それも有りなのだろう。
相良の浜辺は、海の色は志度とは違うものの(含まれる鉱物の種類が違うせいだ)、潮の香りや人々のおおらかな気風は故郷を思い出させた。
「なんだか大袈裟なことになったな」と、李山は苦笑した。
『おい、国倫、おまえが上げろ。俺は力仕事は向かん』
内に向かって呼びかける。
『阿呆なこと言うちょる。わしの分担はもの書きじゃ。どっちかいうと、鳩渓は山歩きが好きで肉体派じゃろうが』
『えーっ。やめてくださいよ!
もの書きは肉体労働だって聞きましたけど!』
『もういい。俺が上げる』
顕微鏡を取られて困るのは、三人とも同じだ。喧嘩だこのようなバトルは、冷静な李山が一番向いていると思われた。
同時に上げ始め、馴れない李山は最初は糸の扱いにも苦戦した。腕にかかる負荷は大きく、ハタを動かすのに風が邪魔をした。足を踏ん張り方向を制御する。草鞋がずるずると砂に埋まって行く。蟻地獄に嵌まった気分だった。
しかし、要領を掴めば風は友となった。ハタは風に乗り、風になびく。汗ばんだ二の腕にも、着物が張り付いた背にも、海風が心地よく感じられた。
絶対の自信を持つチャンピオンは、積極的にこちらのハタに近づこうとする。ハタ同士をぶつけては負ける。李山は反対側へ走り込んで、敵の紙鳶の糸と自分のハタの糸をわざと絡めた。
「ああーーーっ!」「うおーー」
ギャラリーから、ため息とも歓声ともつかぬ声が一斉に洩れた。下男の方の糸が切れ、ふわりと、さらに上空へと飛んだ。
「そ、そんな」と下男は砂に膝をついた。紙鳶はくるくると旋回した後、海に落ちた。
「旦那様、も、申し訳ないです」
砂まみれになって頭を擦って主人に詫びる青年に、国倫も鳩渓も同情した。
『わたしたち、ちょっとズルしたわけですし』
「もちろんだ。タネ明かしはこれからする」と李山は小声で告げた。
「さすがは平賀殿。喧嘩だこまで達者とは、驚きました」
井上は作り笑いしつつ頬をひくつかせ、従者に3両の紙包みを差し出させた。
李山は首を振った。
「いや。すまん。実は俺は黙っていたことがある。
長崎ハタの糸は特別なのだ。糸に、びいどろの粉が混ぜて縒ってある。相良の普通の麻糸なら、簡単に切れてしまう」
「・・・。」
井上はぽかんと口を開けた。平賀のバカ正直さに驚いたのか、長崎ハタのしくみを知る博学に驚いたのか、仕掛けの意味がわからなかったのか。
浜に這いつくばる下男に、「嵌めた詫びだ。この長崎ハタを、おまえにやろう。この糸を使えば来年も一番だ」と、李山は勝者のハタを渡した。
慌てて井上は三両を李山に授ける。
「ではこれは、長崎ハタの礼です。・・・それに、負けは負けですし」
下男の立場も、主人の面目も、一応は保たれた。
たこ上げの後、もう一日、井上の家に世話になった。
参勤交代の無いこの藩では、武士達も江戸の情報に疎い。酒の席で奉行の須藤が自慢げに、春信の新作と言って見せた擦り絵は、当然贋作だった。
「ほう。幽霊が描いた絵か」と、李山は笑う。
「ご存じないか。春信はもう亡くなった」
「ええーっ!」
旅の行商から高く買ったのだろう、須藤は悔しそうに絵を畳に叩きつけた。
あまり期待せずに、李山は江戸の様子を尋ねた。
「先々で、春に大きな火事があったことを聞いた。神田がどうなったか、知っておられるか?」
「残念ながら、ほぼ丸焼けだとか」
これは、他の宿場で聞くのと同じ答えだ。たぶん、白壁町は全焼だろう。やっと家財道具が揃ったと思ったら、また無くなってしまった。まあ、貰い物も多かったわけだが。
蘭書は千賀家の蔵に預けた。千賀の屋敷のことを尋ねると、主人の井上は「無事だそうです」と即答した。李山は、やっと胸を撫でおろす。千賀家は田沼の愛妾の実家なわけで、そういう情報はすぐに届くらしい。
相良からは、街道に戻るのでなく海沿いを歩いて、焼津経由で興津(おきつ)宿へと出た。同じ暑いのなら、海沿いの方が風が強くて心地よい。右側にはずっと、抜けるような青い空と、深いベレインブラーウの海が続いた。目には、先刻の、空で争うハタと紙鳶が焼きついて離れなかった。空を見上げると、まだ、残像でそこにハタが躍るような気がした。
風を切って空を行くのは、さぞ気持ちのいいことだろう。
★ 2 ★
箱根を越えれば、数日で品川へと着いた。翌朝は伝馬町の千賀邸へと向かった。家が無いわけだから、千賀家を訪れるしかない。
長崎では吉雄家の内装の変わりように驚いたが、李山が江戸を離れた間に、千賀の邸宅も変貌を遂げた。玄関の天井にギヤマンが嵌め込まれ、金魚が泳いでいた。円形に組まれた天井は、水平なそれより水の重さが分散される。日本にはまだ大きな一枚のギヤマンを作る技術は無いので、こんな工夫をしているのだろう。
客間は畳の上に赤い柔らかな織物が敷かれ、障子襖の代りにぶ厚いベルベットがかかっていた。千賀親子は蘭方医でなく、漢方薬を扱う内科なのだが、とんでもない蘭癖である。いや、単なる新し物好きなのかも。まあ、羽振りのいいことで、何よりである。
焼け出された源内に、暫く離れの一室を使うよう言ってくれた。蔵の中の蘭書も全て無事だった。部屋でくつろいで、蘭書達と久しぶりの逢瀬を楽しんでいると、道有自らが酒を運んで会いに来た。
「ご無事でお帰りで何よりです」
「すまない。世話になる」と、道有の酌で盃を満たす。
「お住まいの事、直ぐに手配させますね。やはりよく知る神田が便利でしょう。あのあたりは丸焼けでしたが、もうだいぶ家が建ち並んでいますよ。
平賀さんと秩父で鉄山をやる予定の岩田様は、材木商でしょう。今年の火事でかなりご裕福になったようです」
天井に金魚を泳がす奴にご裕福と言われても、と思う李山だ。まあ、岩田には事業を二年も待ってもらった。その間に儲けたと聞けば、肩の荷も降りる。
飲み干した盃を返し、今度は道有に注いでやった。
「ありがとうございます。・・・長くお会いできず、寂しゅうございました」
色っぽい目で見上げるので、「誘っても無駄だぞ。俺は今、喪に服しているんだ」と釘を刺しておく。
「しょってますね」と道有は笑い、真顔に変わると「春信さんのですか?」と首を傾げた。もう何年もたつのに、という表情だ。
藩主とのあれこれをこの若者に語るつもりはなかった。「まあな」と曖昧に返事をしておく。まだ顔が納得していないようだったので、「おまえが死んだって、俺は三十年は喪に服してやるぞ」と言ってやった。
「まったく、もう」と道有はふくれっつらを見せる。
この日は旅の疲れを癒す為に早く休み、翌日は田沼様へのご報告へと出かけた。
門の前には、相変わらず会見を待つ商人や役人の列が出来ていた。李山は仕事の報告であり、裏木戸から門番に言って入り、すぐに会うことができた。
まずは老中に昇格した事への祝福を述べる。すると、「大人みたいなことをするな」と笑った。
驚いたことに、もう相良でのあれこれが田沼の耳に入っていた。長崎も田沼管轄なわけで、「報告しなくても、相良同様、長崎でのことも全てご存じなのでしょう?」と言うと、意次はおかしそうに肩を揺らした。
「だからと言って、報告を怠るのも誉められたことではない」
ご尤もである。翻訳の仕事は二割ほどしか進まなかったことを告げる。
「しかし、言い訳になりますが、どどねうすは、大通詞どころか、阿蘭陀人の商館長や医師でもわからぬ言葉が多く、難物でありました。本草の専門用語が多いのです。
本草を本格的に研究する阿蘭陀人が来ない限り、翻訳は難しいでしょう」
意次は李山を咎めることもせず、わかっているというように頷いた。
「一応、東インド会社へ商館長の希望は伝えてあるのだ。天文学に詳しい者、本草に詳しい者、からくり機械に詳しい者。しかし、皆、日本へはなかなか来たがらないそうで、商館長任命も大変であるらしい。帰った者が、一様に『狭い島から出られず、死ぬほど退屈だ』と伝えるせいか、日本は人気がない」
幕府から正式に話が行っているのなら、ここ数年のうちに、希望は叶えられるかもしれない。
「翻訳御用については、このまま、長い目で見守っていてくださると助かります」
失敗したわけではないのだ。まだこれからだ。そして、一旦、小休止するだけだ。
「そういえば、昔、野呂元丈が吉宗様に言われて、どどねうすを和解したことがあった。八巻ほどになるかな。城に残っているはずだ」
「ええっ」と、物に動じない李山が声を上げた。当然、内では国倫も鳩渓も騒然としている。
「どうしてもっと早く」と、つい恨みがましい声になった。
「はは、すまん。私も忘れていた。書庫で埃を被っている。平賀に『翻訳御用』を許してからだ、思い出したのは」
田沼の様子や言葉から、あまり役に立っていない様子が窺えた。
「まあ八巻と言っても。毎年、義務として長崎屋で通詞に訳させて。それを野呂が形を整え、本に纏めて八冊になったというものだ。初めの頃は一冊に十七件十一件と本草の種類も揃うが」
「・・・。」十七件で種類が揃うと言われても、と思う。すると田沼は心を読んだようににやっと笑い、「末巻に近づくと六件ずつになる」と続けた。
一冊に六件。それは、本というより、引き札並の情報量だ。
「しかも項目は全訳ではない。通詞が阿蘭陀人に読んでもらい、わかったところをちょろちょろっと訳したに過ぎん」
「・・・。」
そう言えば、幸左衛門は、父親が幕府のドドネウス翻訳に係わったと言っていた。この本のことだろう。
「よかったら、書庫から借りて来てやる。見るか?」
「一応、お願いします」と頭を下げたものの、あまり参考になる本でもないような。
午後からは田村邸へ帰宅の挨拶に行った。純亭に会いたかったし、エレキテリセイリティを手に入れたことを、先輩の梨春に知らせたい気持ちもあった。この機械のことは、梨春の著書『紅毛談』で知ったのだから。
だが、目的は二つとも果たせなかった。純亭はここ数カ月顔を出していないとのことだ。高齢だった梨春は既にこの世の人ではなかった。
「このところ、知人が死んだ話ばかりだ」
李山は長いため息をつく。
「仕方ない。そういう年齢になったということさ。これからは、出会いより別れが多くなる。そういうもんだ」
藍水は年長者らしく、悟った口調で語った。
「ところで、純亭は病気か何かか?」
「いや」と藍水は笑い、五つ(八時頃)を過ぎた時刻に築地の中津藩の門前にいれば、彼に会えると教えてくれた。よくわからないが、師の助言に従うことにした。
ついでに、彼が『淳庵』になったことも藍水は教えた。つまり父親が亡くなり跡を継いだということだ。次から次へと、『死』のエピソードがまとわり付く。この先ずっとこんな感じなのだろうか。すぐに慣れてしまうのだろうか。
築地にある中津藩藩邸は奥平家の中屋敷だ。周りには松平・井伊・細川などの大名屋敷が並ぶ。五つ刻まで中津藩の門前で待つのもきまりがわるく、門番に見えない場所で、石の上に座って煙草を吸う。すると今度は細川家の門番に、「火種は落とすなよ」と注意されたりして、居心地悪い事このうえない。
『国倫、代われ』
気取り屋の李山には、ここで待つのは耐えられないのだ。
国倫だって気は進まない。しかし、随分長い間、李山に色々と任せてしまった。もう、外へ出なければ。そうそう落ち込んでばかりもいられない。
中津藩と聞くと、苦手な相手が思い浮かぶ。
前野良沢。別にこちらが嫌っているわけではない。良沢が大人気ない様子であからさまに毛嫌いするので、国倫も困ってしまうというわけだ。
良沢のあの子供のような純粋さは、少し鳩渓に似る。鳩渓も、嫌いな者にああいう子供じみた態度であることが多い。だから国倫は決して良沢が嫌いではない。生真面目すぎる分、見ていて面白いところもある。しかし、国倫が笑うと、それもまた良沢の気に触るのだ。
まあ、こんな夜分に、良沢と出会うことはないだろう。彼は外出嫌いだそうで、殆ど出歩かないのだそうだ。
そうこうするうち、門から出る人影があった。国倫は提灯を高く揚げて確認する。間違いない、二年ぶりの淳庵だ。
「じゅ・・・」
声をかけようとして、更に人影が出てくるのに気付いて息を止めた。若い人影は甫周だ。そして、小柄で華奢な三人目は・・・会いたくて会いたくない男。玄白だった。
提灯の灯に気付き、淳庵が「源内さーん」と手を振り駆け寄る。仕方ない。国倫は道端の石に座したまま、のろのろと煙管をしまう。
甫周も「え、源内さん?」と笑顔で駆け寄る。玄白も提灯をかざす。名を聞いて強張った表情が、ここからでもはっきり見えた。月も白々と青く玄白の面を照らした。
「帰って来たんですね?いつ?今日?昨日?」
淳庵は変わらず屈託がない。
「淳庵。田村先生から聞いたけん。お父上、気の毒じゃったのう」
「・・・。ああ。そんなに、源内さんとは長い間会っていなかったんですねえ」
淳庵はそう言って笑った。
「ご無事で何よりでした。長崎ではまた何か仕入れて来たんですか?」
「お久しぶりです。江戸へはいつお帰りに?」
甫周も愛想よく国倫に向かった。少し大人になった感じだ。顔立ちが精悍になり、顎の線が強くなった。
玄白がゆっくりと近づき、コクリとお辞儀だけした。国倫も一瞬動作が止まり、僅かに頭を下げた。
玄白の方を見ないようにして立ち上がり、「なんなんじゃ、今夜は。中津藩で何があった?」と、淳庵に尋ねる。
「前野良沢先生のところで、みんなで『たあへる・あなとみあ』を翻訳しているんです。ほら、去年の春、源内さんが買えるようにしてくれた医学書ですよ」
そういえば、そんなこともあった。翻訳?彼らは、蘭書を訳す為に集まっているというのか?国倫の体が、衝撃で痺れたように震えた。
「私達、去年の春に、幸運にも腑分けを見学する機会を得ました。その場に、玄白さんと良沢先生が、約束したわけでもないのに『たあへる』を持参してくれて。我々は、図譜と参照しつつ見学することができました。
この書の正確な図譜に驚きましたよ。我々は興奮して、是非この書を翻訳して、日本の医師達に広めたいと考え、翌日から翻訳を始めました。以来、毎日、仕事の後にこうして集まっているのです」
作業を終えた高揚感からだろう、淳庵は早口でよく喋った。
「去年の春から?もう一年半も続いておるんか?」
「はい。出口が見えてきた感じです。なあ、甫周?」
甫周も力強く頷く。出口が見えたとは、完成が近いということだ。
国倫の体から力が抜けて行く。自分は長崎まで行き、二年かけて、どどねうすを二割訳すのがやっとだったというのに。
「おんしら、阿蘭陀語が読めるんか?」
「初めは、良沢先生が二百ほどの単語をご存じなだけでした。私は、日常語の単語の、意味はわからず発音ができる程度。玄白さんに至っては、全く阿蘭陀語は知りませんでした。最初はその三人で始めました。初日は一行目から行き詰まり、一行も訳せませんでしたよ」
楽しい思い出話でもするように、淳庵はあははと笑った。
「それでも、幾つかとっかかりを見つけると、少しずつ解けるようになって。少しすると、甫三さんが甫周を参加させて欲しいと言ってきて。甫周は結構阿蘭陀語が読めたので、かなりの戦力になりました」
「いえいえ、そんな。その頃は、皆さん、もうかなり読めていたじゃないですか」
甫周は真面目な顔で謙遜する。
「そうか。すごいのう」
声に力が入らなかったが、とにかく誉めなければ。落ち込んだことを彼らに悟らせてはいけないと、必死になった。
「私は近所なんで、ここで」
立ち話の切れ目を見て、甫周がいとまを告げた。彼は門前から西へ向かう。桂川邸はここからすぐだ。
淳庵の家は麹町だ。
「私は徒歩で帰ります。源内さんは伝馬町の千賀殿のところに居るのですか?でしたら、玄白さんと一緒に猪牙舟で帰るといいですよ。玄白さんは新大橋の中屋敷なんで、舟で帰る方が便利なんです」
伝馬町へ帰るのに、わざわざ玄白と別に帰れば変に思われる。「そうじゃな」と、曖昧な言葉で返す。当の玄白は黙っている。
「久々に源内さんと会えて、三人で一杯いきたいところですが。私も玄白さんも、朝早くから藩の勤務なので。連日遅くまでここで作業ですし、今夜は失礼します。後日、時間がある時に、みんなで会いましょう」
淳庵も大人になったものだと思う。『時間がある時に』。『後日』。その場限りの体裁のいい挨拶で、綺麗にその場を去る。たぶん彼らにはずっと時間は無いし、つまり後日などは無い。
「猪牙舟の乗り場はこちらです。毎晩のことなので、いつもの船頭が待っている筈です」
今夜初めて、玄白が口を利いた。二人きりになり、国倫の喉は緊張で張り付く。あんなに、会ったら謝ろう、土下座も辞さないと思い詰めた時期もあったのに。国倫は声も出せず、ただ玄白の後ろを付いて行く。
★ 3 ★
築地の船着場には、幾つかの猪牙舟が客を待つ。
「にいさん達、吉原へ繰り出すのかい?安くしとくよ」
「山谷堀までかい?」
猪牙舟で吉原へ向かうのが粋とされるせいか、客引きもまずその地名を挙げる。玄白は柔らかい表情のまま、それらを無視して通り抜けた。
「あ。」と玄白が馴染みの船頭を見つけたようで、そちらへ真っ直ぐ進んだ。
「今夜は二人です。最後は新大橋まで。途中で一人降ります。ええと、伝馬町だから」
「いや、一緒に降ろしてくれてええ。そこから歩くけん」
猪牙は、駕籠ほどではないが贅沢品だ。国倫も江戸へ出た当時は興味本位で乗ってみた。が、高いので常用など考えたこともなかった。玄白は乗り慣れているようで、躊躇なくするりと舟に降りた。国倫はよろけぬように緊張した。足を付くとぐらりと揺れた。
舟は狭く、小柄な玄白が端の細い方へと座る。国倫も静かに腰を降ろした。
笹の葉のような舟は、ゆっくりと漕ぎ出す。船頭の棹が時々川底に当たり、こつりと軽い衝撃があった。徐々に速度を上げていく。波頭が夜に光る。舟は風を切り、髪がなびくほどだ。猪牙はその速さが売りなのだ。
国倫は舟のへりに掴まった。玄白も、安定するよう正座から胡座へと足を組み換える。白くて細い足がちらと覗き、国倫は目をそらす。
「毎晩猪牙を仕立てるとは、羽振りがいいの」
言ってから、嫌味に聞こえないかとどきりとした。しかし玄白は諭すように静かに微笑んだ。
「私は他に金を使いませんから、少し贅沢ですが、でも、体が弱いので。歩きでの往復では、毎日は続かなかったでしょう」
仲違いの時に『もう話しかけない』と宣言した国倫だったが、玄白はそんなことはもう忘れたかのように、さらりと言葉を返した。
他に話すことは・・・話したいことは、山のようにある筈だった。だが言葉が出てこない。玄白は、明らかに変わった。以前の弱々しさが消えた。落ち着いていて静かなのは昔通りだが、大人になった感じがあった。医学書の翻訳の苦労や、それを克服した自信、夢が叶いそうな達成感が、彼を強くどっしりと見せるのだろうか。
国倫は唇を噛む。丁度同じ頃、江戸と長崎で。玄白は出来て、国倫は出来なかった。
猪牙は隅田川の本流、大きな流れへと出た。川幅が広くなり、月が見えた。数日前に満月を経た月は、ゆがんだ楕円の輪郭を湿気でにじませる。見る者を不安にさせる脆弱な円だった。
「明日は雨じゃろうか」
こんなことが言いたいわけではないのに。天気の話など。
「そうですね。ひと雨来ると、秋らしくなりますね」
どうでもいい言葉と声を、舟は運んで行く。
猪牙はあっという間に新大橋へ着いた。さすが速さを誇る舟だ。恨めしい想いで国倫は陸へ上がる。船頭に支払いを終えた玄白が陸に上がるのに、手を差し出すと、「女子供であるまいし」と微笑んだ。そして猫のように軽やかに舟から出た。国倫の手を嫌悪した様子は無く安堵するが、二度と触れないとした言い争いの記憶は深い。
「五十文払えばええかの?」と国倫は話題を変え、巾着を取り出した。玄白が百文を払うのが見えたからだ。築地からこの辺りまでだと相場は百二十位だが、連日の客なので負けて貰ったのだろう。本来なら年長の国倫が全額払うべきだが、それほど手持ちはない。
「いいですよ、そんなの」
「そうもいかん」
「そういえば、私、お箸代を立て替えて貰ったままです。それで無しにしましょう」
「・・・箸?」
何のことかわからず国倫は玄白を見下ろした。彼はその件には触れず、「では、おやすみなさい」と頭を下げ、新大橋へと向かった。
「あ、大切なことなのに、言い忘れていました。『たあへる・あなとみあ』を買えるようにしてくださったこと。ありがとうございました」
玄白は振り向き、もう一度丁寧におじぎをした。
一年半も前のことに礼を言われ、妙な感じだ。
源内も伝馬町の千賀邸へ向かって歩き出す。そして数十歩あるいて、思い出し、立ち止まった。箸。
仲違いの夜、国倫が何膳も箸を買って持って行ってやったのだ。玄白はあの時のことを言ったのだった。
ひやりと、背中が冷たくなった。
玄白は忘れていない。許してなどいない。態度こそは穏やかだが、玄白はあの夜をまだ昨日のことのように恨みに思っているのだろう。
今の夜も、あの晩からひと続きの時間に過ぎない。
第43章へつづく
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