★ 私儀、甚だ多用にて ★
第四十三章
★ 1 ★
源内は、暫く千賀邸の離れに住んだ。ここで新作の浄瑠璃を書き、薬や石の見立てをし、広告文を書いたり商人の相談に乗ったりした。
「暫くうちでお暮らしなさいな。家を借りても、鉄山から戻る次の冬まで空き家にしてしまう。もったいないでしょう」
そう言う道有の好意に甘え、千賀家の居候に甘んじた。家を借りれば金もかかり、家財道具も必要だ。今の源内には、その余裕はない。長崎から帰るのがやっとだったのだ。
長崎で手に入れた虫めがね(顕微鏡)を覗いたり、油彩の絵の具の代りになるものを研究したり。蘭画は、購入した本の挿絵だけではわからないことが多かったが、実作して概要は掴めた気がする。蘭画の手法を復習し、蘭書の挿絵を頼む画家にきちんと教える為のプログラムも作り始めた。
峻は今、どこに居るだろう。以前は平賀邸に人が自然と集い、情報はむこうからやってきた。だが今度は源内が出向いて集めなくてはならない。
久々に、李山は地本問屋・岡本利兵衛の店へと顔を出した。まずは、彼の長々とした挨拶と世間話に付き合う。退屈もあり、店頭の商品へと視線を走らせた。
擦り絵は、未だに『春信風』が流行る。だが、どれもただの真似で、春信の構図の巧さや人物の品格の高さには敵わない。あの澄んだ空気は、春信の精神そのままだったろう。
一枚、達者な物があった。鈴木春重の名が記されている。弟子だろうか。春信の死後も工房は活動していた。火事の後、どこかでまだ動いているのだろうか。
「春信の弟子達は、まだやっているのか?」
「いや、もう・・・」
李山の問いに、利兵衛は否定だけした。後の言葉は続けなかった。多弁な彼には珍しいことだ。
「長崎からの帰り、春信の贋作を見たぞ。あれは、だいぶ流通しているのか。そこそこの絵師でないと、あそこまでは描けんと思うが」
「うちでは扱いませんがね。でもまあ、お客は春信先生の名前で買うわけじゃありませんから。その絵が好きだから買うんでね。
先生は突然亡くなるし、前金で受けた仕事は山積みだし。弟子たちも大変だったんじゃないの?」
利兵衛は、暗に、贋作は弟子によって成されたものだと告げた。
「峻はどうしている?」
「・・・。」
その質問に店主は言葉を詰まらせた。いきなり核心に触れてしまったようだ。贋作を描いたのは峻だったのだ。
「数枚、春重として描いたあと、絵師を辞めました」
春重。この店でも目立った達者な刷り絵は、峻のものだったか。そういえば、弟子としてはそんな名だったと、あやふやな記憶が蘇る。・・・しかし、絵師を辞めた?
「今は阿蘭陀の学問を学んでいますよ。中津藩の医師で、長崎に留学して阿蘭陀に詳しい先生がいるそうで。その人に弟子入りしたようでさあ」
「前野良沢殿か?」
「あ、それだ。阿蘭陀語が達者な先生だそうですよ」
「そうか」
よりによって良沢の弟子とは。あの中津藩の門が、再び眼前に高くせり上がった。峻に蘭画を指南して、挿絵を描いて貰うのは無理そうだった。別の方法を考えねばなるまい。
日々は過ぎ、年は明ける。
鉄山の件で、秩父の川越藩が後ろ楯を買って出るという、いいニュースもあった。資金面で厳しかった源内は、胸を撫で下ろす。これで資金調達の為に動く手間が省け、雪が解ければすぐに秩父へ取り組める。
そんな中、千賀家に珍しい客があった。玄白が、『解体約図』という図譜を千賀親子に置いていった。千賀親子と玄白は、桂川邸へ通った頃に知り合っていた。
「玄白さんが来とったんか」
母屋の座敷で、国倫はその図をぱらりとめくる。
「良沢殿んとこで訳しとった外科書・・・ちゅうわけでも無さそうじゃが」
『解体約図』は、数枚の図譜と簡単な解説から成る。冊子ではなく、一枚ずつ独立した図と解説だ。それが、包み紙に包まれている。『ターヘル・アナトミア』は国倫も長崎で実物を見た。翻訳したら、こんなボリュームでは済まない。
「きちんとした本を出版する前に、様子見で出したそうです。で、御典医のうちへ一通。そして田沼様にも一通献上を頼まれました」
「ほう。・・・なかなか知恵者じゃな」
「後藤梨春殿が、以前アベシ文字だけで発禁処分になったので、念には念を入れたとおっしゃっていました。
ほら、表紙を見てください。前野殿の名が無いでしょう?杉田殿たちが処分を受けても、原稿を守れるようにということです」
田沼様の治世で、もうそれは無いと思うが、玄白は、処分の可能性も考えているのか。その覚悟があるのだ。あの堅実な男が、それほどまでの決意でこの医学書を世に出そうとしている。
自分も、いつか作る大図譜の為に、家財道具まで売ってヨンストンを購入した。鉄山を保留にして、翻訳の為に大枚はたいて長崎まで渡った。しかし、玄白の情熱は、自分とは違う方向へ向かい、そしてそれが形になった。
「杉田殿は、翻訳ではなく、他の部分で骨折りしたそうです。皆が訳した散文を家に持ち帰り、忘れないうちにきちんと形にしたとか。連日夜半まで作業なさっていたそうです。阿蘭陀語は苦手で、他の方のようには理解できず、一冊訳してもよくわからなかったと苦笑なさっていました。半分は謙遜かもしれませんけれどね」
毎日仕事の後に築地へ通い、帰ったら家で原稿をまとめる。こつこつと少しずつ。いかにも玄白らしい、玄白だからこそ成功した仕事だろう。
玄白を褒め称える気持ちと、自分の短所を痛感する苦さと。複雑な想いだった。
以前から感じていた。玄白は自分と違う佇まいの人間だ。彼は『平賀源内』に憧憬を抱いていたようだが、とんでもない、絶対かなわないと思う。国倫も、李山も鳩渓も。我々には真似のできない生き方を、彼はするのだろう。
本編は一年後に出版予定だという。楽しみなことだ。
「絵師は・・・これは、誰のものかのう?」
下手ではないが、原図を知っていると見劣りは否めない。画法が日本画なのにも無理があるのだろう。
「熊谷儀克殿だそうです」
二年も江戸を離れたせいか、聞き覚えのない名だった。いや、力量から考え、元々そう著名ではないのかも。
「宋紫石殿に頼んだところ、高齢なので細かい絵は無理だと断わられ、仕方なくということのようです」
「なるほど」とすぐに納得いった。図譜を描く絵師について、玄白も悩みは同じことのようだ。
数日後に秩父へ発つということで、藍水のところへ挨拶に行った。珍しくも淳庵が訪れていた。翻訳もほぼ終わり、田村邸へ訪れる余裕ができたということだろうか。
「そんな。とんでもないですよ」
淳庵は深くため息をついて茶を飲み干した。謙遜している風でもない。
「今月から新たに『へいすてる』の外科書の翻訳も始まりましたし、『たあへる』の方の校正作業も山積みです。毎日、修正修正の連続です。わからなくて飛ばした部分を訳し直すのですから、一筋縄ではいきません。私、鬢に白髪が出て来ました。玄白さんは胃を壊しましたよ」
まさに身を切るような作業なのだ。
「おまけに、あのおっさんは、相変わらず出版に反対だし・・・」
おっさんとは、良沢のことか。
「まだ完全に訳せていないものを、世の中に曝したくないそうですよ。玄白さんは、一日でも早く出版して、この本を世の中の役に立てたいと考えています。考えは平行線です。
特に良沢殿は偏屈で子供みたいですから、本を出すなら、自分の名前は出すなとまで言いました。私は喧嘩しそうになりましたが、玄白さんがうまく間に入って」
それは玄白も胃を壊す筈だ。
「それで『解体約図』に、良沢殿の名が無かったんか」
「お縄になった時の為に原稿を守るって理由もありますが、でもそれは甫周にでも預ければいいことですから。甫周は桂川家の者なのでまず掴まりません。
・・・って、あれ?源内さんは、『約図』をご覧になったんですか?」
「千賀んちにあったんでな。玄白さんが持って来おったそうじゃ」
「なあんだあ。今日は、田村先生に一通お持ちしたのです。ついでに、源内さんの分も一部渡してもらおうと思って」
その言い方に国倫はふくれた。
「おーお、秩父に行く挨拶で来て、『ついでに』おんしに会えてよかったけん。『ついでに』約図も貰って帰るけん。『ついでに』秩父へ持って行って、『ついでに』川越藩の医者らに宣伝してやるけん」
「やだなあ、源内さん。すみません、でも、まったく、大人げないんだから」
「何言うちょる。大人として、物の言い方が悪かったんはおんしの方じゃろ。良沢殿はうるさい御方なんじゃろう?あまり玄白さんに負担かけんよう、おんしも気いつけい」
「はいはい」
じろりと国倫に睨まれ、「『はい』は一つでいいですね。はい」と苦笑する。
「ところで、良沢殿に、峻が弟子入りしたっちゅうて聞いたが」
「峻?」
「春信んとこの絵師じゃった男じゃ」
「ああ。今は司馬江漢と名乗っています。源内さんの処で蘭書を見て、阿蘭陀の学問を学びたくなったそうですよ。
約図の絵を描いてもらおうと思ったけど、あまり巧くないのでやめました」
そうか。娘の絵は巧く描けていたが、学術的な絵は苦手なのだ。宋紫石が高齢で眼が弱くなったのは、学者達にも痛手だった。三木文柳を紹介するにも、指示や質疑応答の往復がひと月もかかる。出版を急ぐ玄白には現実的な話ではない。
「秩父はまだ寒いんでしょ?お気をつけて」
「心が込もってないのう」
淳庵は心ここにあらずという感じだ。翻訳と出版の高揚でふわふわした気分でいるのだろう。だが、自分が初めて江戸へ出て高揚していた時、淳庵と違ったかどうか自信はない。
あの頃の、毎日走り続けるような気分を懐かしく思い出す。淳庵の浮かれ具合が羨ましくも切なくもあった。
★ 2 ★
秩父鉄山が操業を開始した。
今回は川越藩の役人が現場で指示出しするので、源内は毎日出ずっぱりでなくて済んだ。普段は二、三日に一度様子を見に出て行く。
掘り始めてひと月もすると、源内は頭を抱えることになる。ここの鉄山は、砂鉄も出るが、主流は鉄鉱石だった。
砂鉄なら、今までのたたら製法で製鉄できる。だが、鉄鉱石は、以前阿蘭陀人から得た答え通り、高温の炉が必要だった。高温炉は燃料が今の木炭では無理だ。カピタンから聞いた「石炭を蒸した燃料」というのが要る。石炭が他藩で僅かに採掘されるものでは、購入するにも高く、採算が合わない。
共同事業者の岩田と川越藩の役人と三人で話し合った結果、もう少し様子を見ることにした。源内が、たたら炉のままで鉄鉱石を溶解する方法を工夫できるかもしれず、また、このままもう少し掘れば、砂鉄中心の鉱脈に当たるかもしれないからだ。
三月には江戸へ戻り、長崎屋へと出かけた。今年の商館長はアルメノー、大通詞も幸左衛門だった。
国倫はアルメノーに鉄鉱精製や高熱炉について尋ねたが、以前の商館長同様、詳しい事は知らなかった。彼は商人であり、工業に携わる者ではないのだ。
だが、絵に関しては色々な疑問を解くことができた。油彩に代用できそうな日本絵の具を幾つか見せ、アドバイスを受けた。水溶性の染料は向かない。植物の染料が向かず、鉱物であれば代用できるとの折り紙も貰った。
幸左衛門は、『解体約図』発行の情報を得ていた。玄白らが前から『ターヘル』を読み分けしていたのも知っていた。今回、『解体新書』最終原稿のチェックと、序文執筆を依頼され、忙しくて源内と交流する時間もないようだ。
『きっと、わたし達を避けているのですよ。玄白さん達が蘭書を訳しましたから。平賀源内に、どどねうすを先へ進めようと言い出されると困るからではないですか』
鳩渓が、悲観的なのか冷静なのかわからない意見を呟く。
アルメノーは絵の師匠であり感謝もしているが、やはり本草に詳しい者が日本に来るのは無理なのだろうか。鳩渓は既に『望み無し』と踏んでいた。
今年、長崎屋に集う学者らの注目の的だったのは、『約図』を出した玄白らだった。
表紙に名が出る玄白と淳庵は医師らに囲まれ、質問責めにあった。
「あの骨格の図譜は凄い」「今まで信じていた内蔵の図と違うが、本当か」「本編はいつ出版されるのか」「どうやって訳したのか」「今から楽しみだ」等、たった五葉の出版物に、大きすぎる反応に玄白は驚いた。医者の主流である内科医は『約図』に批判的と聞くが、ここへ集まる学者達からは好意的に受け取られ、胸を撫で降ろす。
輪から離れ、良沢が一人で、今回の蘭書を物色する姿が見えた。
「・・・。」
このまま良沢を説得できなければ、本編も、良沢の言う通りに彼の名を入れることはできない。翻訳に関しては殆ど役に立たなかった玄白が、表に立つことになる。それではあまりに胸が痛い。
玄白は、幸左衛門の序文に、一部、希望を伝えた。良沢の名を入れて欲しいというものだ。
「びっくりしました。帰りまで、源内さんと話せないかと思いました」
帰路の道で、淳庵が国倫を追って来た。
「大人気じゃったな」
嫌味を込めたつもりはなく、淳庵も素直に照れて「あはは」と笑った。
「私は今までぱっとしなかったので、こんな扱いを受けると、居心地が悪いです」
「何を言うちょる」
田村門でも聡明な淳庵の評価は高い。だが、今までに本を成すなどの業績が無かった分、淳庵の知名度は低かったのかもしれない。
「長崎屋通いの間は、千賀さんのお宅にいるのですか?」
「ああ。・・・玄白さんは?一緒でないんか?」
「吉雄さんとまだ話しています。長くなるそうなので、先に失礼しました。このままじゃ、源内さんと会えそうになかったし」
「それは光栄じゃ。わしと会う為に急いで来てくれたんか」
「そういう言い方、やめてくださいっ。それでなくても、源内さんと親しいと、誤解されるんだから」
「かわいげがないのう。昔はあんなに素直じゃったんに」
「だから、そういうの、やめてっ。
学者仲間は源内さんをよく知り、素晴らしい学者だと尊敬してます。だけど、あなたは、その、戯作などであまりに衆道として有名で。世間は、平賀源内を衆道の代表みたいに思ってます。
私は妻の黒江に真顔で源内さんとの関係を尋ねられましたから!」
「・・・。そげんこと言われてものう」
ただ淳庵にのろけられている気がしないでもない。
「実際、玄白さんも迷惑しています。登恵殿のお父上からもこっそり尋ねられて、困惑したそうです」
「登恵殿?どなたじゃ?」
「あ、聞いてないんですか。玄白さん、五月に結婚するんです」
「・・・。」
聞いていない。いや、そんな報告をし合うほど、もう親しく接する機会は持っていない。
「そりゃあ、玄白さんののろけじゃろ。まともに請け合ってどうする」と、かろうじて返した。
「えっ、そうかあ。なんだあ。
そうですね、嬉しくて仕方ないのかも。婚礼がまとまったのも、『約図』で名前が売れたおかげと笑っていました」
淳庵は国倫の言葉を鵜呑みにして、うんうんと頷いた。今は彼の単純さが嬉しい。
「それはご謙遜なさったのじゃろう。玄白さんは立派な方じゃろうが」
「まあ、ね。
源内さんは、お式には出られるんですか?」
「・・・。呼ばれてもおらんものを。出るか。だいたい、わしは暫く秩父を降りれん。
嗚呼、おんし、秩父のことを思い出させよったな」
国倫は機嫌を損ねたフリをして、歩調を早めた。
「あ、待ってくださいよー。どこかで一杯やりましょうよ!」
淳庵も早足で追った。
阿蘭陀人らが江戸から去れば、源内も秩父へ戻らねばならない。戻る途中、人づてに中島利兵衛の死を知った。もう三年も前、春信と同じ頃に亡くなったという。疎遠になっていたので、中島家も敢えて知らせなかったようだ。しかし知ったからには無視はできない。利兵衛には世話になった。線香を上げに行った。
ところが、息子に塩を撒かれて追い返された。この家は相変わらずだ。この家で孤立し、本草にのめり込んでいった利兵衛の姿が見える。
秩父へ帰るとすぐにまた、高熱炉の研究に没頭した。たたら炉を試行錯誤していじってみる。ふいごの力を強くしてみたり、炉を小さくしてみたり。しかし火力はそう変わらず、鉄鉱石を溶解するには至らない。
源内は焦った。源内が炉を成功させるか、神頼みの砂鉄が出るかしなくては、鉄山は成功しない。そして源内は・・・国倫も李山も鳩渓も、誰一人、神など信じていなかった。
高熱炉が上手くいかぬまま、秩父にも雨の季節が訪れた。山岳部の五月雨は採掘作業も中断させた。炉の研究もできず、源内は幸島家敷地の自宅へと籠もったままになった。ここは江戸と違い、気晴らしに出かける遊び場も無い。
てるてる坊主の着物に京風の絵を描いてみたり、長崎のハタを真似て作ってみたりもした。ハタ作りにも飽きて、紙風船を作って長火鉢の暖風で揚げてみせ、下女の子供達を喜ばせたりもした。
退屈と雨音の陰気さに嫌気がさした鳩渓は、再び阿片を吸うようになった。国倫はまだ浄瑠璃の原稿をここで書かねばならず、鳩渓に抗議するが。鳩渓も、ではもう酒を飲むなと反論し、喧嘩になりかけた。仲裁する李山もうんざりだ。
国倫は煙管の火皿を懐紙で丁寧に拭き取り、阿片の片鱗をもぬぐい去る。最近の鳩渓は紙に巻くのでなく、刻みに混ぜて吸うのだ。同じ煙管を使う国倫の身にもなってほしい。
玄白の挙式のことは、淳庵からは、五月というだけで日取りも聞かなかった。本人から何も報告がない以上、祝いをやるのも腹が立つ。それにしても、一言告げてくれてもいいものを。
もう挙式は済んだのか。
「どうせわしなんぞ、友達じゃないんじゃろう。わしが衆道のせいで、迷惑がかかるそうじゃしのう」
拗ねて独り言を言い、竹筒でこつんと雁首を叩いて灰を落とした。・・・つもりだった。手元が狂い、筒先に羅宇が当たった。しかも怒りでいつもより力が入っていた。
ばりんと音がして、羅宇が割れた。朱色の椿の花に亀裂が入り、ぱっくりと傷口が開いた。
「・・・うそじゃ!」
煙管を握る手が死人のように冷たく固まった。指先は凍ったように羅宇に絡み、意志では動かせそうになかった。
左の指で、椿の亀裂に触れた。見間違いではない。亀裂の段差を指に感じた。
「痛っ」・・・ささくれが指を襲った。あまりに痛くて死んでしまいたかった。涙を抑えることができなかった。
頼恭から貰った、今は形見となってしまった煙管。
『泣くな、泣くな。・・・俺が直してやる』
見かねて李山が口を出した。
『亀裂は、膠で何とか付く。ただ、もう煙草を吸うのは無理だな』
「・・・。」
『何年使った?そろそろ寿命だったろう。
もともと、この繊細な細工の煙管は実用向けではない。仕方ない』
李山の論理的すぎるもの言いに腹が立った。李山にはこの煙管の大切さがわかっていないのだ、と恨めしく思った。
国倫は、刻みを丸めると火皿に乗せた。火鉢の炭から付け木に火を付け、煙草に移す。吸うと、亀裂から白い煙が洩れた。舌の上には、ほんの少しの煙草の味が辿り着く。
『止めておけ。このまま使うと傷がさらに大きくなるかもしれん。修復が難しくなる』
「使えんもんを、表面だけ取り繕うてどうするんじゃ。もう仕舞いじゃ」
鳩渓の使う煙草入れを取り出すと、刻みに阿片を混ぜた。最初の火種を掌へ移し、新しい煙草に火を付けた。
『無理するな』と李山は言葉では止めたが、煙が洩れるのでそう国倫が吸い込まないと軽く踏んだ。
国倫のまぶたは重くなり、体はだるく眠気が襲った。羅宇からより、火皿で燃える煙の方を多く吸い込んだ。思考がゆるく錯綜する。
どうせ、ドドネウスを翻訳するのなど、自分には無理なのだ。この鉄山も、大図譜を刊行する為の資金作りだ。日々を楽しく暮らすだけなら、本草や石の見立てや浄瑠璃本の執筆で十分だ。苦労して高熱炉の研究などしなくてもいい。
大図譜の刊行は、自分の一生の夢だったではないか。その為にがんばってきたのではないか。そんなに簡単に諦めていいのか。それではもう、自分の人生は終わりではないか。
簡単にではない。散々もがいてみた。あと、何年もがこうと、できないものはできない。わかっているはずだ。わかっていて、綺麗事を言うな。往生際が悪い。現実を見つめろ。できないと認めろ。
認めるのは簡単だった。だが、その後の人生をどう過ごしていいのか、国倫にはわからなかった。
次の阿片入り煙草は梅の実ほどの大きさに丸められ、それは火皿に乗らないだろうと思われた。
『・・・国倫?』
国倫は、それを口に入れて飲み込んだ。
★ 3 ★
『馬鹿野郎!吐き出せ!』
煙草の葉も阿片も食すれば毒だ。だが国倫は李山の声を無視して、今度は薬棚へと向かった。この家には何年も居るので、薬も常備してある。煎じて飲む草をそのまま口に入れればやはり害が有る。薬研で粉にした薬をひと握りして口に放り込み、徳利の酒を喇叭飲みで薬を飲み込んだ。これから薬研にかける草もバリバリ食べる。
『やめろと言ったろう!吐け!死ぬぞ!』
李山が舵を取ろうと国倫と争う。
『鳩渓もとめろ!』
鳩渓は壁に背をつけ座ったまま、二人の争いを見ていた。
『もう、いいじゃないですか。この先、死んだように生きるのなら。
どうせうまく行かないのなら、いっそ』
『ふざけるな!』
李山は鳩渓へと走り寄り、胸ぐらをつかんで頬を殴った。
「やめんしゃい!鳩渓を殴るな!」
舵を握る国倫の手が一瞬緩んだ。
『おまえも今殴りに行くよ』
李山の拳が国倫を打った。
徳利が土間へと飛び、派手な音をたてて割れた。李山が舵を掴む。今の音で誰か駆け付けてくれると助かるのだが。
既に胸が激しく鳴り、目が回っていた。耳の後ろがドクドクとうるさい。よろける足で裸足で土間へ降り、杓で桶に水を汲んだ。だが水はまだ飲んでは駄目だ。先に刻みの草を吐かねばならない。
「どうなさいました?」
幸島家の源内付きの女中が、恐る恐る引き戸を開けた。
「母屋から、壺ごと塩を持って来てくれ」
「お加減が?」
「早くしろ!」
壺を持参した女中から、李山はそれを奪い取るようにして受け取る。
「薬棚の上から三列目、向かって右から二番目の薬を煎じてくれ。袋に入っている。一袋を一升で。四半刻火にかける」
指示だけ出すと、塩を握って抱えた桶の中へ投げ入れた。手で溶かし、杓を小わきに厠へと向かう。だが足がもつれてよろけ、桶が波打ち、水が半分も溢れた。
厠の引き戸を開けた時はもう立てなかった。膝に力が入らず、廊下へ崩れた。背を流れ落ちる汗は腰から腿へまで伝い、袴を張り付かせて余計に動きにくくした。
煙草は水を飲むと毒の吸収が早まる。まずは這いつくばったままで喉の奥へ指を入れ、吐く。目がまわって吐き気がしていたので、三回ほど胃に力が入れると、勢い良く酒臭い水が出た。だが、肝心の煙草の葉は混じっていない。水を飲まずに吐くのはきつい。胃がきりきりと痛み、喉が熱く締めつけられる。背を叩く、胸を叩くなどして、もう数度吐いた。やっと、煙草の臭いの葉の塊が飛び出た。
あとは水を飲んで行ける。杓で桶から塩水を飲む。一気に二杯飲んだ。途端に嘔吐が襲う。激しく吐瀉物が飛び出した。葉の苦い液と胃液が逆流する。長いまま飲み込んだ薬草が喉に掛かり、咳き込んだ。鼻からも塩水が流れ出てその痛さに涙が出た。
何度か塩水を飲み、何度か吐いて、やっと草や葉が出なくなった。だがまだこれで安心とは思えなかった。
「平賀さま・・・。お薬、煎じ終わりました」
廊下の向こうから、女中が怯えながら李山に声をかけた。
「悪い。・・・床を用意してくれんか」
「お医者を呼びましょうか?」
「いや」
こんな田舎にろくな医者がいるとも思えない。
「それより、庄二郎を呼んでくれ」
庄二郎は、源内の為に江戸と秩父の連絡役を勤める男だ。
李山は床に臥せったまま、矢立で走り書きをして、庄二郎に渡した。
「夜が明けたら、江戸でこれらの薬を買って来て欲しい。金はツケで大丈夫だ。だが、おまえだけだと、質の悪い薬を掴まされる。
小浜藩の中屋敷に、杉田玄白という医者がいる。この男は江戸で一番信頼できる。彼にこの書き付けを見せ、一緒に買いに行って貰え」
千賀や淳庵では、後で色々と詮索される。悔しいが、玄白しか頼む相手は考えられなかった。
煎じた薬は下剤で、嘔吐感も伴う。その夜、李山は何度も下痢と吐き気に苦しんだ。厠まで這う気力も暇もなく、火鉢に嘔吐し催した。もう人としての尊厳も何もかも無くした気分だった。だがそれでも李山は死んでたまるかと思っていた。
『もう、この体は、おまえらには渡さん。おまえらは、生を放棄したんだ。これからは、亡霊か背後霊のように、俺のすることを何もせずに眺めているがいいさ』
国倫も鳩渓も反論無く黙っていた。
明け方になって雨も止み、窓からやっと光が差した。玄関の戸が軋み、庄二郎が出かけたようだ。
次の間では、例の愛想のない女中が容体を見つつ控えていた。李山が起きているのに気付いて、襖戸を静かに開けた。
「失礼します。お着替えを手伝います」
女は湯で絞った布を差し出した。「まずはお顔をお拭き下さい」
そして新しい布で李山の体も拭くと、背から浴衣をかけた。余計な言葉は一言も発しない。汚れた着物を抱えて出て行ったかと思うと、火鉢の汚物を片付け掃除して新しい灰を入れた。てきぱきと必要な作業をこなす。この女は汚物を見ても顔色さえ変えなかった。
「すまん。もう大丈夫だ。あとは休んでいいぞ」
「お粥でも作りますか」
「いや。まだ何も口に入れない方がいい」
「わかりました。では、母屋の誰かと交替しますので」
その後、どの女中が来たのかもわからぬほど、李山は深い眠りに落ちた。
★ 4 ★
玄白は藩医の仕事を終えると、この日は前野宅へは向かわず、自宅へ帰った。明日の結婚式の準備の為だ。
家に残る妹のさえにあれこれは任せてあるが、身につけて着物の丈を直すだの、料理の格(値段)を決めるだの、玄白が早く帰らねば済まない用事が多かった。
「おにいさま。先程、平賀さんの使いの方が見えて。勝手口でお待ちです」
さえに告げられ、意外に思う。疎遠になっていた彼が、遠く秩父から、何故に使いなど?
「お待たせしました。私が杉田ですが」
廊下から土間へ降りて来た玄白に、庭に控える男は庄二郎と名乗り、自分と一緒に薬を買いに行って欲しいと頼んだ。
「明日ご結婚式だそうで。お忙しいところ、申し訳ないですが。
平賀先生が臥せっておりまして、この書き付けの薬を必要としています。わしが一人で江戸の薬屋で買物をすると、偽物や粗悪品を掴まされるというんで。信頼のできる医師の方に付いて来てもらわねばならん、杉田先生が一番信頼できるとおっしゃられまして」
「・・・。源内さんが伏せっているのですか」
江戸まで薬を買いによこすなど、かなり重症なのではないか。気持ちが急いて、庄二郎が差し出す前に、その書き付けへと手が伸びた。
そして、買い求める薬を見て、息が止まるかと思った。
「この薬を、源内さんが?」
それは、口に入れた毒物を緩和する解毒の薬だった。医者である彼が、誤って飲むとは思えない。誰かに毒を盛られたのか、それとも。とにかく只事ではない。
「・・・そうですか。この薬なら、買いに出なくても、うちにあります」
玄白は部屋へ戻ると震える手で薬草を懐紙に包み、濡れないようにさらに油紙で包んだ。庄二郎は礼を述べて受け取り、「代金は、ツケで大丈夫だと先生はおっしゃったのですが・・・。それでいいでしょうか」と恐々尋ねた。
「料金はいりません。私からの見舞いです。
源内さんの容体はどうなのです?ご自分で書き付けができるぐらいだから、もう命に別状はないのですよね?」
玄白も心細い想いで尋ね返す。
「容体のことは何も・・・。ただ、この字は確かにご自分でお書きです。夜中じゅう、苦しんでいたのは聞こえておりましたが」
答えを聞き、玄白はうつむき、唇を噛んだ。源内の苦痛の声が聞こえる気がした。悶え苦しみ、喉を掻きむしり、玉の汗を流す姿が見え、心がきりきりと痛んだ。
「・・・。すみません、庄二郎さん。私も、連れて行って下さい。源内さんを診察させて下さい。看病させてください。もし、容体が変わるようなことがあるといけない。その村にはきちんとした医者はいないのでしょう?お願いします」
言葉にすると、涙があふれた。何があったのだ。今も毒に苦しむのか。どんなにつらいことだろう。力不足かもしれないが、側にいてやりたかった。
「いえ、あの・・・、杉田様が、秩父へいらっしゃるのは、体力的に無理かと思います。かなり険しい山道を行きます。山歩きの達者な平賀先生だからこそ、秩父は越えられます」
「・・・。」
玄白を連れて行くのは、庄二郎には負担になるだろう。薬は一刻も早く届けた方がいい。
「それに・・・。杉田様は、明日に挙式を控えていらっしゃるのでは?」
玄白ははっと正気に返り、袂で涙を拭った。そうだった。明日は自分の結婚式なのだ。
「そうでした。軽はずみなことを言いました。申し訳ない。
宿はもうお決まりですか。うちは狭いですが、よかったら」
「いえ、お式の前でお忙しいおうちに、そんな。
夜明けと共に少しでも早く発てるよう、今夜は板橋まで行ってそこで宿を取ります」
下男と言っても、庄二郎は礼儀正しく教育も行き届き、源内が信頼して使うのがわかる人物だった。何より、源内を尊敬しているのがわかる。源内の体のことも、本気で気にかけているのが窺われた。
山から降りるより登る方が時間がかかる。庄二郎が幸島邸へ戻ったのは五つ(八時)を過ぎていた。
李山は目覚めていた。顔色は土の色で目の下にはクマができている。唇が乾いて切れたのか、血が固まっていた。
「遅くなりました。今帰りました。早速薬を煎じましょう」
庄二郎が荷を解いて薬の入った包みを取り出すと、女中が後ろからそれを取り上げ、「庄二郎さんはお疲れでしょう。私がやります」と竈へと向かった。事前に煎じる量や使用法も聞いていたようだ。
「玄白殿には会えたか?」
首を曲げるのも大儀で、李山は天井を向いたまま尋ねた。粥にはまだ早く、白湯と胃薬だけ飲んで過ごすが、戻してしまうことも多い。
「はい」
草鞋を解いて土間で足を洗いながら、庄二郎は玄白が親切に応対してくれたことを語った。薬は自家のものを譲ってくれたこと、自分が秩父へ診察に行くと泣いたこと。
「これもくださいました。おたね人参です。
わしが板橋の宿へ着いて休養していると、四つ少し前でしょうか、使いの者が届けに来ました。会った時でなく後から届けたということは、あの後わざわざ手に入れてくださったのでしょう。
式の前日で、お忙しい時だったのに。本当に親切なかたです。先生が『江戸で一番信頼できる』とおっしゃった意味、よくわかりました」
「式・・・。そうか。今日が玄白の結婚式なのか」
あのまま国倫に舵を取らせていれば、玄白の挙式に源内の訃報が入ったかもしれない。まるで嫌がらせ、殆どツラあてのように。
『国倫。聞いただろう。翌日挙式を控えているのに、秩父へ来ると言ったそうだ。
いつまでいじけている?子供っぽいことだ。玄白がおまえを嫌っていると、本気で思うのか?』
国倫の反論の言葉は無い。ただ唇を結び、黙っている。
李山も、国倫のもやもやした気分が理解できぬわけではない。国倫には、玄白の『友人としての好意』の『好き』と、自分が人を好きになる時の『好き』の区別がつかない。いや、区別があるとは思っていない。国倫にはどれも同じだからだ。玄白のあの命がけの拒否は、今も心の痛みとして残る。なぜだ?と混乱し、そこまで自分は嫌われているかと疑った。玄白の気持ちが見えなくなった。
李山から見たら、国倫は馬鹿者だ。玄白は生真面目な男だし、遊びを嫌う。あんないい加減な気持ちで抱こうとすれば、怒るに決まっている。本気の者相手なら、男だろうが女だろうが、断わるにしても玄白の方が謝罪するだろう。そして玄白には、友人の壁を越える奔放さはない。
女中が煎じて来た薬を少しずつ飲みこんだ。水分だけでも、一度に多く入れるとまだ吐き気が起こる。
「おたね人参は・・・使えるのはまだ先だな。
明日から食事を取る。一分粥にしてくれ。椀に少量ずつ、四度ほど口に入れてみる。翌日は三分粥、三日目は八分粥にして、八分になったら擦り下ろした人参を試す」
李山は女中に指示を出して人参を渡した。
人参が効いたのか、李山は五日後には立って日常が送れるほど回復し、十日後には鉄山へ出向けるまでになった。
そして、その回復の噂を聞いたかのように、田沼意次から秋田行きの依頼が届く。
第44章へつづく
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