★ 私儀、甚だ多用にて ★

第四十四章

★ 1 ★

 涼しい秩父から江戸へ戻ると、その蒸し暑さにまた体が萎える気がした。健康は戻ったが、体力はまだ完全ではない。秋田への旅は難儀するかもしれない。
 田沼からの依頼は、秋田・久保田藩の銅山吟味の仕事を受けろというものだった。秋田からそんな仕事は頼まれていないがと思っているところへ、江戸の久保田藩邸から使いが来た。
 田沼の情報の早さは、いったい、どうなっているのだと思う。
 久保田藩は精製の効率の悪さに悩む。銅山の規模の割に産出が少ない。銅は最終的には長崎奉行へ納めるのだが、精製の技術が未熟な為、棹型にする大坂の業者が再精製で儲けている噂も聞く。
今の状態では、幕府に不正申告を疑われる可能性もあるとのこと。このまま銅山の経営が尻すぼみだと、再度上知令が出るかもしれぬと、久保田藩は怯えているように見えた。前回回避できたのは、山のように書類を持参して自ら銅山の不振を公開する恥かきを決行したことと、あとは付け届けも効いたらしい。二度目の回避は難しいと踏んでいた。
 なるほど。田沼が影で動いているのは、そういう理由かと納得した。源内は久保田藩の為に仕事をし、久保田藩から報酬を貰うことになる。しかし、田沼へも情報を流せということだろう。
 勤番の久保田藩役人から指示を出され、鉱山師の吉田理兵衛と共に数日後すぐに秋田へ向かうよう言われた。
 また江戸を空けることになる。

 出発の前日には荷物をまとめ、土間へと並べた。着物や日用品、参考資料の他に、長崎で手に入れた珍しい品々も詰めた。売る為のもの、見栄とハッタリの為のもの、色々詰めた。今回は久保田藩の中間が付くので、多少荷物が多くても大丈夫だった。道案内と護衛に藩士も随行し、上質の客人扱いのようだ。
 この荷物のように、自分の体の中も見栄とハッタリで一杯なのだろうな、と。李山は苦笑する。
 江戸へ戻って数日。忙しさもあって、玄白のところへ礼に行くのもぐずぐずに延びていた。今夜を逃すと、江戸へ戻るのは数カ月後だろう。
 刻はまだ五つ(8時)前。李山は提灯を下げて、新大橋の河岸へと向かった。前に玄白が猪牙を降りた場所だ。
 まとわりつく蚊と戦いながら暫く待つと、小柄な影を乗せた猪牙が川を昇って来た。乗客は着いた時からこちらに気付いたようだが、見ないようにして銭を払う。舟から降りると、石を固めた階段をよろよろと昇り始めた。右手で下げる提灯には火が無く、暗い足元に難儀しているようだ。李山は明かりを下げて、人影が昇る階段を照らした。
「ああ、李山さん。ありがとうございます。ぶら提灯の蝋燭が割れてしまったのです」
「・・・。喋りもせぬのに、何故俺とわかる?」
「なんとなく」と、玄白は微笑んだ。
 李山からすれば、玄白が三つ子を持つ母のように思えた。着物を取り替える悪さをしても、即座に目当ての子の襟首を掴む。
 李山は襟を掴まれたように首をすくめると、「では屋敷まで送ろう」と、先に立って歩き出した。日が落ちてから明かりなしで出歩くことを、お上は禁じていた。「助かります」と、玄白も素直に後に続く。

 両国橋辺りでは涼みに出る者も多い季節だが、大名屋敷の並ぶ新大橋には人通りもない。空は曇って光は無く、李山の手元の月だけが頼りだった。橋の傾斜をゆっくりと昇りながら、李山が前を向いたままで「先日は世話になった。感謝する」とぼそりと言った。
「いえ。ご回復されたようで、何よりです」
「薬代どころか、おたね人参まで。高かっただろう。すまん」
「あれは田村先生に『結婚祝いに是非下さい』と言って、タダで貰いましたから、大丈夫です。何も詮索されず、『わかった』と快くくださって。ほっとしました。
 後から考えると、私の様子も切羽詰まっていたので、誤解なさったのでしょうね」
 李山が振り返ると、玄白は悪びれず可笑しそうにクスクスと笑っている。玄白が猥雑なネタを冗談混じりで話すようになったので、驚いた。それは仕事に自信が出た余裕なのか、妻を娶ったせいなのか。
「そういえば、ご結婚されたのだな。おめでとう」
 玄白はその言葉に笑顔で応えた。はにかむ表情が、幸福なのを感じさせた。
「なにか祝いをせねばなるまい。遠慮なく言ってくれ」
 李山も嬉しくなり、気安く提案する。
「では、お願いを一つ聞いていただけませんか?」
 玄白の改まった口調に気付き、李山は立ち止まった。橋の中央で留まる提灯が、川面に映り、揺れる。
「国倫さんと、話をさせてください。お願いします」
 李山の眉がきつく上がる。
「それは無理だ。あの野郎にはもう舵は握らせない」
 だいたい、国倫はあれ以来、膝を抱えたまま声も発しない。時々顔を上げるものの、精気のない目を向け、死んだようにぼんやりどこかを見ている。
「国倫さんは毒を飲んだのですね」
 李山は答えず、欄干に肘を乗せて川面を見下ろした。腕や頬に蚊が近づき、振り払うと一時は離れるが、すぐにまたまとわり付く。
「もう舵を取らせないとは、厳しすぎませんか。国倫さんが本気で命を棒に振る気だったとは思えません。少し逃げたかったのじゃないですか?ちょっと暴れたかった、拗ねてみたかった。童子が膳をひっくり返したようなもの。
 許してあげてもいいのでは」
「世話にはなったと感謝はしている。だが、これ以上、俺たちのことに踏み込むな」
 李山はきつい口調で告げた。
「すみません・・・でも、せめて、言わせてください。国倫さんには私の話は聞こえていますよね?」
「・・・。」李山はだんまりを決め込む。しかし玄白は臆せず、隣に佇んで話し始めた。
「どうか、あの夜のことを許してください。ひどいことをしました。ひどいことも言いました。思いやりに欠け、幼かった私を、どうか許してください」
 李山はまじまじと玄白を見下ろす。小柄な玄白を、力ずくで襲ったのは国倫だ。国倫が百度謝って許されぬとしても、玄白が謝罪する義理などないではないか。
 だが玄白は冗談や嫌味で言っているそぶりはない。こちらは見ず、川面の提灯の一点を見据える。緊張しているのか欄干を握る手の甲に筋が立っていた。
「少し大人になった今・・・狭量だった自分を恥ずかしく思います。自分のことしか考えていなかった。あなたがなぜ、私を抱きしめたのか、何も考えていなかった」
「もう、よせ」
 李山が腕を掴むが、玄白は「いいえ!」と拒む。
「応じることはできなかった、でも、もっと違う対応ができたはず。なのにあなたをあんなに追い詰めて・・・」
『・・・潔癖で真面目なおんしを、あんなに追い詰めて』
 膝を抱えたままで、国倫が小さく言葉を発した。記憶がフラッシュバックする。怯える子供のように手を震わせ、小刀を首に向ける玄白が痛ましかった。
『惚れてなどおらんかった。ただ暖めて欲しかった。蔭間とおんなじに扱った。憤慨されて当り前じゃ。
 どこかで甘えておった。玄白さんは、大抵のことは笑って許してくれると。・・・傲慢じゃった』
 国倫は、届かない声で内で喋り続ける。李山は聞かない振りをし、無視を続けた。
 頬の周りで蚊が煩く、李山はぱしりと音をさせて自分の頬を殴った。玄白はその音に驚き、はっと口を閉じる。
「藩邸まで、急ごう。新婚のお内儀が心配するだろう」
 李山はぶら提灯を高く掲げると、歩き出した。玄白は言葉を飲み込み、小走りに後を追った。
「国倫には聞こえた。これで満足だろう?」
 冷たく言い放つ。国倫のことはそう遠くなく許すつもりでいたが、今ここでそれを明かすつもりはない。もう暫く蟄居して反省すべきだ。彼がもう一度、生きる気力を取り戻さない限り、また起こる。
 玄白の深い溜息。儒者頭の髷に蚊が停まり絡まる。
「少し動かずにいろ」と、李山が再び立ち止まって手を伸ばすと、玄白が首を竦め体を堅くした。指で羽虫を潰し、髪から丁寧に死骸を退ける。玄白は息を止め、下を向く。玄白の動悸の音が聞こえそうな気がした。
「蚊だよ。きっと吸われたのは俺だ。俺の血だな」と、李山は袴で指をぬぐった。体温の低い玄白は、蚊にたかられそうにない。
 この男は国倫に惚れているのだ。だが絶対に自分の気持ちを正視しない。認めはしない。なのに、心の震えやときめきは、間違いなくこちらへ伝わって来る。今の国倫は弱りきっているし、会わせればまた数回で同じことが起こる。お互いの心が混乱している限り、また仲違いになる。
「明日から秋田へ行く。何か面白いものがあったら、結婚祝いに持って帰ってやる」
「・・・。」
 玄白は憮然とした顔で黙っていた。国倫と話をさせるわけにはいかないのだ。
 
「門の明かりが見えます。ここまでで結構です。ありがとうございました」
 ぺこりとお辞儀をし、玄白は早歩きで小浜藩邸へ向かう。一度止まって振り向き、もう一度頭を下げた。暗くて表情は見えなかった。

★ 2 ★

 窓の外が微かに白くなる頃には起き、身支度を整え待った。六月も末であり、夜明けは早い。千賀家の女中が久保田藩役人の来訪を告げた。
 角田弟助は留守居役の役人だ。彼が秋田迄への案内役を勤める。
「おはよごぜいます。荷物はこの二つでがんすか。今、中間にしょわせます」
 江戸留守居役のくせに、目茶苦茶なまっていた。李山には殆ど聞き取れなかったが、幸い、何を言いたいのかはわかった。
「角田殿は江戸生まれではないのだな?」
 江戸で生まれそのまま勤番になる者も多いが、秋田から遣わされる者もいる。
「はあ。秋田の言葉、まだ抜けてねがんすか」と、角田は眉を思い切り下げて笑った。役人然とした堅さはなく、おっとりした印象の男だった。歳は李山と同じ四十代か、もしかしたらもう少し若いのかもしれない。
「行きは登りが多くてきついだす。覚悟どごしてけれ」

 まだ夜明け前というのに、道有がわざわざ起きて見送った。
「医師の仕事も忙しいのに、すまんな。騒がしくて起こしてしまったかな」
「いえ。平賀さんと暫くお会いできないのですから、見送らせてくださいよ。
 遠い土地までご苦労様です。父の代りに礼を言います」
 千賀道隆は、秋田の銅山にも手を出していた。秩父にも経営者の一人として出資したが、他にもかなり手広く儲け話に首を突っ込んでいるようだ。医師の看板は掲げるが、今は診療より事業で儲けている。秋田の銅山が儲かれば、道隆も儲かるということだ。つまりここでも千賀と田沼は繋がっている。
「お気をつけて」と、道有は名残惜しそうに李山の袖に触れる。
「たった百日だ」
「百日も、です」
 上目使いに睨んで見せた。李山は苦笑し、「まあな。いい子で待ってろ」と頬に触れ、歩き出した。
 同行者の角田はぎょっと足をすくませ、追いつく為に早足になった。
 恐る恐る尋ねた。
「あのう。確か平賀せんせは・・・」
「安心しろ。俺は衆道だが、若いのにしか興味ない」
 角田は明らかに安堵した。失礼な奴だ。だいたい俺は面食いなんだと、李山は憮然とする。

 日本橋で吉田理兵衛と合流し、北へ向かった。病み上がりの李山だが、若い頃から山歩きに慣れているせいもあり、特に遅れることもなかった。一行は歩き続け、七月半ばに院内銀山に到着。角田とここから交代する奉行職の平井喜六郎は江戸詰めの時期もあり、李山とは顔見知りであった。久保田藩の留守居役の中に平沢常富(つねまさ)という男がいて、彼は手柄岡持という名の狂歌師であり、大田南畝の友人だ。李山は岡持を通して平井を知っていたのだ。
「阿仁さ行ったら、吟味役の本山様には気いつけるがんす。平賀せんせば来ること、快く思っていねようだす」
「・・・。」
 平井は李山より少し年上の、実直な男である。藩の恥になるような事柄も、親切で知らせてくれたりもした。だが、李山にそう不安は無い。
 院内銀山を検分したところ、特に問題なく稼動していた。採掘方法でなく、精製に問題があるのは明かだった。これから向かう阿仁銅山で銅の精製の指導をすれば、同時にここの銀山も改善されるはずだ。同じ指導を何度もするのは無駄なので、ここは黙って宿を発った。
 阿仁への途中、角館で宿を取った。角館も小さいながら情緒のある城下町だ。柳かと見紛う枝垂れ桜が所々に佇み、細い枝は風に揺れて葉を躍らせ、李山を誘う。
「春はみごとだろうな」と李山がため息をつく。観光で来たわけではないが、それでも実に残念だ。平井も「それはもう、すげ綺麗がんす」と胸を張った。
 宿泊は、平井のツテで地元の豪商・五井酒造店に話をつけた。この家は藩の御用聞町人だ。藩米を大坂の米市場へ運送し売る。米は阿仁銅山へも送っていた。
 五井家の屋敷は城下の大名屋敷に負けぬ大きさで、但し町人のこともあり派手すぎることは無い。木造の落ち着いた塀が、北の街の色淡い風景に溶け込む。切妻の屋根がなだらかで優美だった。この建物を雪が囲った姿もさぞ風情があることだろう。
 店とは別棟の重厚な門をくぐり、手入れのいい庭を経由する。気のせいか、庭にまで酒の匂いが漂う。美しい庭だが、散策するだけで鳩渓が酔っぱらいそうだ。玄関で迎える花も花器も華美過ぎず品がいい。花器はどこのものと特定できぬが、無銘でも十分な逸品だと思った。
 李山は長い廊下を案内され、書院作りの座敷へと導かれた。艶のある廊下の板は重く厚く、大柄な李山が大股で歩いても軋みもしない。用意された部屋は、障子の格子から欄間の意匠、床の間の軸から襖絵まできちんと趣向があり、主人の目の確かさを感じさせた。特に屏風絵が素晴らしい。
 この絵も無款であり、無名の画家のものと思われた。だが、小花や枝先などの細い線にも揺れがなく、大きな幹には迷いがない。かなりしっかりした技術の持ち主だ。達者で老成している。そして堅さがない。花々が軽やかに舞う雅な狩野派のモチーフの中に、はっきりした色相や力のある線が新鮮だった。宋紫石が戯れに狩野派風に描いたような、不思議なタッチの絵だ。

 食事の時に主人が挨拶に来たので、部屋のあれこれの趣味の良さに感心したと告げてやる。五井孫左衛門は「じぇんぶ、無銘の品ですがども」と恐縮しつつ、自分の目利きに自信を持っている様子が窺えた。李山も銘や落款に左右されるのは嫌いだ。この主人とは趣味が合いそうで、「ささ、一献」と酒を誘う。
「平賀先生は、こっちゃある屏風ば一番誉めとっただば。たすか、北家オダノのブスケの絵でねのが?」
 平井は手酌で既に銚子を一本空けている。だが、顔は赤くなるが酒は強いそうで、しゃんと背が伸びている。
「んだ。頼んで描いてもらったでがんす」
「この絵師とお知り合いか?」
 絵師は、角館城主(北家)・佐竹義躬に絵を指導する、若い武士だと言う。名を小田野直武、通称を武助(ぶすけ)といい、四男なので部屋住みではあるが、絵の才能を認められて本家・久保田の殿のところにまで絵の指南に出かけるのだそうだ。
 この屏風の絵師がまだ二十五歳と聞いて驚いた。若者の描く線の青さは無く、肩の力の抜けた、どこか老いの侘さえ感じさせる絵だった。
 李山は、蘭画の絵師を育て、自分の図譜の挿絵を描かせる大望を捨ててはいない。絵が達者で若くて。無役の部屋住みなら、江戸へ呼ぶことも可能かもしれない。いや、それは無理でも。蘭画を教授する方法論を、この屏風画の描き手相手に試してみてもいいかもしれない。それは江戸で誰かに教える時の役に立つだろう。

「彼と話をしてみたい。会えないか?」
「あすだにでも、呼んで来っぺ」と平井は簡単に引き受けた。部屋住みなので、仕事はせずに家にいるのだ。
「ところで、このあたりで陶器製造をしていると聞いたが」
 李山は次の用件を切り出す。
「すらいわのことでがんすか。おととす始めたばかりだがす」
「・・・。スライワ?」白岩のことだろう。言葉が通じないのは難儀だ。
「あすだ、案内すますだ」
 秋田への往復も、李山は無駄にしたくなかった。見かけぬ北の草花を見つければ写し取り、よさそうな土があれば口に含んで陶土としてどうか確かめた。江戸の藩士らから、角館の白岩で藩営の焼物が行われていると聞いていた。

 旅の疲れも有り、理兵衛は先に休んだ。平井と孫左衛門の三人で盃を交わし談笑する間に、李山は持参した虫めがねや世界地図などを広げる。壊れたエレキテリセイリティも、空いた時間に修理しようと持ってきた。
 平井らは驚いたり感心したりで、夢中になって李山が長崎で入手した物品を眺めた。孫左衛門は富豪であったが蘭癖ではなく、珍しいものだから買うという感覚の持ち主ではなかった。李山は商売にはならなかったが、こっそりここの主人には好感を抱いた。確固とした好みとブレない価値観で名品を蒐集する富豪は、李山が会った者の中にはあまり多くは居なかったからだ。

 翌日は平井に連れられ、白岩へと出向いた。ろくろ師の山手儀三郎と千葉伝九郎も同行し、李山は窯を見学し、土も見せてもらう。李山は、長崎で思いついた新しい源内焼き・・・阿蘭陀の形の茶器や食器の製作を諦めたわけではない。よい土とよい窯があれば常に学びたいと思っていた。しかし、この土地の陶器事業はまだ三年目の試行錯誤中で、完成品は良品とは言い難かった。
 せめて土を少し持ち帰らせてほしいと、土堀取立役・小高宗決に掛け合ったが、それも承諾されなかった。ろくろ師も陶工も、李山を妖術使いか何かのように、距離を置いて疑い深そうな目で眺めた。それは小高も同じだった。北の国の人とは、こうもかたくななのか。
 江戸を行き来する平井喜六郎や、大坂商人ともやり取りする五井孫左衛門が特別だったのだ。

 気落ちした李山が五井邸へ戻り、裏口の井戸で足を洗っていると、下女が手拭いを差し出し「小田野様がお見えで、部屋でお待ちだす」と告げた。
「オダノ?」
「絵描き様でがんす」
 あの屏風絵の作者だ。急いで足を拭くと布を下女に押し付け、小走りで部屋に向かう。「御免」と声をかけ、襖戸を開いた。盆に半分茶を飲んだ茶器が残るが、人影は無い。
「・・・。」
 下女に、いつ来たのか聞くのを忘れた。だいぶ待たせてしまったのか。庭にでも出ているのかもしれない。李山は庭を探そうかと、襖を閉めかけた。と、件の屏風が奥へ移動しているのに気付いた。朝はそのままだったので、女中が掃除の時に動かしたのか?
 日の光の下、筆遣いもしっかりと見えた。いい絵だ。李山はさらに屏風に近づく。
「・・・?」
 屏風の奥に人の気配がした。確かに、息を停めてこちらを窺う。・・・屏風の前に簪が落ちていた。拾って手に取ると、それは木製の粗末なもので、玉飾りも端切れを丸めたものだった。若い下女のものだろう。掃除の娘が落とした・・・わけではなさそうだ。屏風の横から、袴の裾と腰紐の端が見えた。李山はひょいと、屏風の裏を覗いた。

「見つがってすまいますたか」
 下女の着物の裾を握ったまま、上になった若い侍がにやりと笑った。娘は慌てて裾の乱れを直し、緩くはだけた胸元を整える。
「見苦しい。早く行け」と李山が叱咤すると、娘は泣きそうな顔で走り去った。
「あーあ。ええところだズのに」
 青年は悪びれずに起き上がり、膝まで脱げていた袴を付け直し始めた。
「わすが無理に連れ込んだでねえげすよ。屏風の裏さ来い言っだら、喜んで付いて来ただす」
 李山は正面から容姿を見て、その青年の美貌に息を飲んだ。中村座にも森田座にもここまでの男はいない。くすみのない漆黒の瞳が李山を見据える。淡雪のように白く溶けそうな肌、手を加えずとも細く鋭い眉。唇は小さく赤く、魔の色に濡れて光る。
「小田野武助殿か?」
「んだ」
 青年の乱れた鬢が幾筋か頬にかかり、顔に憂いを落とした。上目使いで李山を睨むが、長い睫毛は瞳に影を作る。二丁町にも芳町にもこんな艶っぽい男はいない。武助は髪を直しもせず、着物の襟もそのままに、李山の前に立つ。
「襟ぐらい直せ」と、李山が整えようと手を伸ばすと、武助がその手を掴んで胸元へ引き入れた。
「なっ・・・!」李山は驚き手を弾く。
「おめさんが、邪魔したが。その気さなっとっただが、どうにかしてけれ」
 こいつ。俺を誘っているのか。ふざけるな。
「おまえは色情狂かっ。ずいぶん下品な誘い方だな。粋も風情もない。美しい町なのに、角館の男はこんなか。がっかりだ」
 武助はむっとして、自分で襟を整えた。
「おめさんが、おれどご呼びつけた学者だが?」
「そうだ。平賀と言う」
「あの、マラづくしさ書いたおひとでがんしょ。おめさんに色狂い言われたくねだす」
 あの戯作を卑猥だと取る者も確かにいる。幼稚な感覚の持ち主だと、国倫は相手にしなかった。だが、李山はこの男に言われたら、なんだか無性に腹が立った。
「とにかく、おまえに絵についての色々を尋ねてみたかった。屏風の表へ来い。きちんと話をさせてくれ」
 武助の表情が変わった。
「絵、だすか?」
「なんだ、聞いていなかったのか。この屏風があまりに素晴らしいので、絵師と話がしたいと頼んだのだ」
「・・・。」
 武助の瞳が見開き、喜びの色に染まるのがわかった。今までの猥雑で素行の悪そうな若者とは別人の顔になった。が、それも一瞬で。武助は唇をヘの字に曲げると、のろのろと屏風から出た。いい加減に袴を履いたようで、左の裾が畳を引きずっていた。

★ 3 ★

「絵は誰に習った」
 詰問に似た李山の口調に、武助は嫌そうに答える。
「武田円碩だがす」
 師に『先生』の敬称も付けない。武助は残っていた冷めた茶を飲み干す。
「久保田の御用絵師で、狩野派だす」と、説明を加えた。
 確かに屏風絵のモチーフは狩野派のものだ。しかし・・・。
「宋紫石殿の絵を学んだことは?」
「参府帰りの者の土産で見ましただ」
 絵を参照にして独学で学んだだけとしたら、相当の力量だ。
「あの屏風絵さ見ただけで南蘋派の影響がわかるだか?」
「まあな。紫石殿の絵が好きか」
「・・・。」
 武助はふてくされた表情で黙った。図星だったのだろう。
「これを見てみろ」と、李山は荷物から一枚の絵を取り出した。紫石がよんすとんの獅子を写したものだ。よんすとんは大切な図譜なので旅に持ち歩きする気にはなれないが、こうして図譜の写し数枚を『ハッタリ』の道具として持って来ていた。
「紫石殿の直筆の絵だ」
「えええっ。うわわわわっ!」
 武助は体を乗り出した。素直な反応に、李山は内心笑みをこぼす。つっぱっていても、まだまだ子供のようだ。だが、威厳を保つ為に、厳しく唇を引き締めた。この難しい青年の心を、うまくコントロールせねばなるまい。
「触ってええがすか?」
 李山が頷く前に、もう武助は絵を撫で回している。紫石の描線を指で辿り、墨の感触を味わい、光に透かして下描きの当りの付け方を確認し、もう一度畳に置いて指で線に触れる。絵をぎゅうと抱擁しかねぬ勢いだ。
「・・・すかす、変わった獣がす。江戸にはこんなんがおるだ?」
「江戸にいるか。これは獅子だ。紫石殿が、俺の蘭書の挿絵を写した」
「蘭書・・・。紫石様は、外国の絵さ描くだか!あやや、すごいお人でがんす」
 畳に広がる絵を、目を細めてうっとりと眺める。それは至福の表情だ。先刻はあれほど猥雑で艶っぽさだけが目立った青年が、菩薩のように清らかな顔立ちに変わった。このまますうっと空気に溶けてしまいそうな澄んだ様子をまとう。
「紫石殿には、ちらりと阿蘭陀絵の手ほどきをした」
「えっ!」と武助は初めてこちらを見上げた。
『えっ!』と内では同時に、鳩渓も驚きの声を挙げた。
『李山さん。またそんな、見栄を張って。確かに本を貸したり画材の説明をしたりはありましたが。あれは手ほどきってほどでは』
 国倫は黙って見ているだけだったが、李山が江戸の老絵師に嫉妬したのだけはわかった。
「嘘でがんす!」
 きゅと武助は眉をひそめた。
『ほら、すぐにバレますよ』
「おめさんの閻魔様の絵さ見たことあるがんす!」
『根南志具佐』の挿絵のことだった。内で鳩渓は思わず吹き出し、国倫も苦笑する。
「紫石様におすえるほど、うまかねがだだ」
 李山はむっとしたのが顔に出たかもしれない。李山は本草の絵は達者だが、他は「素人にしては巧い」程度だ。戯作の挿絵など遊びで描いたもの。いちいち引き合いに出されると頭に来る。
「蘭画は、日本や唐の絵とは違うのだ。おまえは『日本画は』達者なようだが、蘭画は描けまい?」
「すたらことは、ね!」
「・・・だったら、供え餅を真上から描いてみろ」
 武助は「わすを試すでがんすか。しがもそだら簡単な物」と鼻で笑った。懐中から矢立を取り出し、懐紙に整った線で円を描く。円のバランスは正しく、線は流れずに強い。上と下の餅の大きさも距離も絶妙だった。
「わすは殿様の絵さ指南してら。ほいど(馬鹿)さすな」
 李山に完成した絵を投げつける。李山はその絵を見て眉を片方上げ、「これが供え餅だと?」と口の端で笑う。
「これはただの二重丸だ。餅に見えん」
「・・・。」
 くしゃりと紙を取り返し、武助はまじまじと自分の絵・・・というより記号のようなものを睨んだ。きつく唇を噛む。悔しそうに李山を見上げた。
 暫く武助はこの絵を見つめていた。どうすれば餅に見えるか考えているのだろう。だが『真上から見た』という縛りが入る以上、餅は円にしか描くことはできない。
 李山は勝ち誇ったように腕を組む。

 と、武助の目が狡猾そうに笑った。さらさらと矢立が動く。
「これでいかがだべか!」と絵を差し出した。
『まさか、そこまでの才能が、この男に?』と李山ははやる気持ちで紙を受け取る。・・・そこには、二重丸に矢印が向かい、文字で『そなえもち』と書いてあった。
「こんでこの二重丸は、供え餅でがんす!」
 李山は呆れて瞬時茫然としたが・・・つい吹き出した。眉に力を寄せるが、我慢出来ず肩が揺れる。忍び笑いが洩れ、ついには「あはははは」と笑い声が出た。
『李山が笑うちょる?』
『声出して笑うのなんて、初めて見ましたよ?』
「まあ、これも確かに供え餅だとわかるが・・・。ちょっと矢立を貸せ」
 李山はまだ笑いが止まらぬまま、筆を取って円に影を描き足した。
「あ・・・。ほんさだ。餅さ見えますた。たったこんだげで。すごいことでがんす!」
 武助は瞳を輝かせた。
「手法だけなら、俺のような『うまかねが』者でも指南できるんだよ」
 李山はまだ根に持って、先刻のけなし言葉を、わざと強調した。
「おまえは、蘭画を俺から習う気があるか?」
「おすえてくれるだが?」
 武助は、飛び跳ねるように数歩分も身を乗り出す。

 武助を指導すると言っても、角館に何日も停まり教えることはできない。明日明後日には李山ら一行は阿仁銅山へと向かうことになろう。 
 平井喜六郎には、『絵の指南役がさらに手法の幅が広がれば、殿様もお喜びになるだろう?』と上手く言い含めた。同行者に武助を加えてもらった。これで、道中も蘭画を教えることができる。



第45章へつづく

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