★ 私儀、甚だ多用にて ★
★ 序 章 ★
伝馬町の窓も無いその一室で、男は明け方の空を見上げるようにぼんやりと宙を見つめていた。
室内なのに吐く息が白く煙った。まるで命を吐き出しているような気がした。寒さと飢えで、目も霞んでいた。いや、初めから自分は何も見ていなかったのかもしれない。そんな想いに、ふっと苦笑する。
牢と言っても、侍は町人達とは待遇が違う。「揚屋」はそこそこの食事も出され、畳もある。手足を伸ばして横になれる広さもあった。だが、男はここに入ってから全く食べ物を口にしなかったし、ここ数日は横にもならなかった。壁にもたれたままで、昼か夜かわからぬ時を、うつらうつらと彷徨い続ける。
男が心待ちにして焦がれているのは、『死』であった。
指先が凍えて動かない。人差指が中指より長い、変わった右手だ。五十年以上も自分に付き合って来た手を、見るともなく見つめる。凍って痛みさえ覚えるのに、数日前のぬくもりが残っている錯覚があった。
自分に会う為に、裏でいくら積んだのか。そういう事が大嫌いだったくせに。別れ際に握った、玄白の筋張った掌の感触を反芻する。
『あいつとやっとけばよかったのう・・・』
讃岐弁混じりの男の呟きに、今度は『結局それですかっ、あなたは!』とヒステリックに返す声がする。牢の中に響く声はない。すべて男の心の内、頭の中に響く声だった。
『親友の玄白さんへの、最後の言葉がソレですかっ!?』
『キーキーわめかんでも。傷に響くけん』
久五郎を斬った朝に、自害しようとしたところを家人らに取り押さえられた。半端な腹の傷が膿を持って発熱していた。脇腹の熱と反比例して背中や二の腕に寒気による震えがある。玄白には『破傷風を起こしている』と言われたが、治療してももう手遅れだろう。
『鳩渓(きゅうけい)、おんしはまだ丈夫じゃなあ』
『国倫(くにとも)さんこそ。そんなこと考えられるのですから!』
『掛け合い漫才もたいがいにしろ。いや、痴話喧嘩か』と、第三の声がからかう口調で言った。鋭利な冷たい声の持ち主だ。
『李山(りざん)は容赦ないけん』、国倫と呼ばれた男が柔らかく頬を崩した。
一人の体、その中に三人の人格があった。性格の全く違う三人が、一つの体に同居する。決して仲が良いわけではなかった。反発もしたし、口論もした。だが、最期にこうして三人で寄り添って逝けることは、有り難いことだろう。他の者は皆独りで、黄泉の河を渡らねばならないのだから。
からくり細工の玩具のように、目まぐるしく嘘臭く、華やかで大仰で、面白可笑しい人生であったことよ。
意識が遠く白くなっていく。もう、他の誰の声も聞こえない。
灰色の壁と天井にぽかりと大きな穴が開き、冬の鈍い色の空が覗いた。糸の切れた紙鳶が、天に昇って行く。時には風を切り、時には風に翻弄されて。風を読み、風を圧し、そして何より風を感じて気持ちよさそうに空を泳ぎながら。
安永八年(1779年)、十二月十八日、早朝。
伝馬町牢内にて、浪人・平賀源内、死亡。破傷風による病死とも、絶食による衰弱死とも伝えられている。
* * *
それから更に三十年以上の歳月が過ぎる。
翁は一旦筆を置いて考えた。
巻紙の最後の数文字、墨は掠れている。迷いがあった。
と言っても深刻なものでは無い。目の回りの皮膚をたるませ、微かに微笑んだ。知性と年輪が額に付けた皺は、この老人を聖人に見せた。
「やはりこれは、私と、『あなた達』とだけの、秘密にしておきましょうね」
嬉しそうに声に出して提案し、筋張った細い手で、長紙を途中からぴりりと切り離した。翁は、捨て去る部分を丁寧に二つに折ると、他の失敗部分(これもきちんと折って、分けてある)の上へ重ねた。几帳面なこの男は、書き損じたものも丸めて畳へ投げるなどという不躾なことはしないのだ。
翁は、喜寿も数年前に済ませたという高齢の身である。医師である彼は、摂生と養生に勤め、寿命が五十年と言われる今の世ではかなりの長寿であった。子供の頃から体が弱く、青年時代も『私は明日にも死ぬかもしれないし』が口癖だったが、現在は口にしない。当時は回りの者も冗談と解釈して失笑で終わったが、今それを言うと、皆を困ったような哀しいような表情にさせてしまう。なにせ、本当のことなのだから。
満足に生きてきた翁にとって、死の足音は、そう怖いものではなかった。ソレは、きっと優しく肩を叩くだろう。だが、その前に、やっておかねばならないことがあった。
回顧録(のちに『蘭学事始』と呼ばれる)を、少しずつ書きためているのだった。
辞書もないオランダ語の医学書を訳した苦労話というより、新しい山を乗り越えようと奮闘する若者たちの青春記という体裁の草稿になっていた。蘭方医達の話だけでなく、あの新しい風を作った学者達、画家や戯作者達、当時の空気を、これからの人たちに伝えたいという想いで筆を取った。それは、翁に当時を鮮明に思い出させる、楽しい作業でもあった。
翁は、時をさかのぼる。あの時代に身を委ねる。文机の筆は置かれたままだ。
皺だらけの右手を、熱い想いで見つめた。あの日握った、大きな手のぬくもりが蘇るようだ。
肘をつき、視力の弱った目で窓の外の空を仰ぐ。白色にも似た晴天の一画を、糸が切れた凧が気持ちよさそうに横切っていく。
自らを紙鳶と称したこともある男。
翁は、その男のことを書いた部分を、どう書き直そうかと思案した。廃棄へと分けられた原稿へ目をやる。もう五十年も昔のこと。あれは、夢だったのかもしれないとも思う。
窓から吹き込む風が、二つ折りの和紙をはらりとめくった。
『十三 奇才平賀源内とバウル』。
章のタイトルが覗いた。
翁は、考えを止めて硯に筆を落とし、新しい巻紙に記した。
『十三 奇才平賀源内とカランス』。
後日、『蘭学事始』の中で、誤記・記憶違いとされる章であった。バウル(バウエル)もカランスもオランダの商館長である。実はそれは翁が意図した間違いだった。
『本当のことを書いた章は、別にある』
折られた方の和紙が、時々、風で、蝶の羽のように柔らかく揺れた。
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