★ 私儀、甚だ多用にて ★
★ 第一章 ★
★ 1 ★
「すんごいヤツがやって来たんですよっ」
同じ小浜藩の医師である中川純亭が、白い頬を紅潮させてまくしたてた。一度咀嚼された饅頭の餡はその勢いで口から飛び出し、玄白の頬へぺたりと張り付いた。
「あ、す、すみませんっ」
まだ十九歳の純亭は、まるで子供のようだ。
「いいから、饅頭を全部食べちまって下さい。ほら、お茶です」
玄白は袂から豆絞りを出して顔を拭うと、盆の上の湯飲みを向こう側へと這わせた。女中が煎れて持ってきたものだったが、純亭は再び「すみませんっ」と頭を下げた。そして、そうぬるくもないであろう緑茶を、ぐびっと飲み干した。最近結い始めたばかりの儒者頭(じゅしゃがしら)が揺れる。
ここは牛込の酒井家藩邸。玄白の父に与えられた官舎である。玄白の父は藩医であり、純亭の父も同じだ。二人は「若先生」と言えば聞こえはいいが、まだ親の手伝いをしながら修行中の身だった。
純亭は、六歳年上の玄白を兄のように慕ってくれて、こうして遊びに寄ってくれることが多い。体が弱くて体力も無い玄白は、他の若者のように頻繁に外出することはできず、屋敷内で本を読んでいることが多かった。玄白は、この屈託のない無邪気な青年の訪問をいつも喜んだ。
「で、スゴイヤツって。この前、田村先生のところに入門して来た高松藩の浪人ですか?」
田村先生というのは、幕府お抱えの田村元雄(げんゆう)のことである。一流の本草学者で、特に朝鮮人参の研究・育成では日本一と言われていた。
純亭は、二個目の饅頭を口に含みながら、うんうんと頷いた。
彼も田村先生に入門し、本草を学んでいた。植物・動物・鉱物には薬用として価値のあるものも多いので、医師を志す者は本草学を勉強するのだ。
純亭は残りのお茶で餡を全部流し込むと、手の甲で口許を拭った。
「あいつ、実は、“長崎帰り”なんだそうですよ」
「ええっ!な、長崎!」
今度は玄白が驚いて中腰になった。静かな玄白にしては珍しい反応だ。長崎は阿蘭陀(オランダ)医学を志す者にとって憧れの土地であった。江戸から長崎ははるか遠く、長崎で学べるのは、家が富裕な学者や、優秀で藩が留学させるような学者ばかりだ。宝暦七年の江戸ではまだ、長崎帰りはそう多くはなかったのだ。
「讃岐の田舎侍かと思ってましたが、とんでもなかったです」
「そういう言い方は、よくないですよ」
「あ、すみません」
純亭が謝るのはこれで三度目だ。
江戸生まれで藩医の子である純亭には当然の価値観だった。玄白は自分が少し潔癖にすぎるかもしれないと、軽い溜息をついた。だが、やはり、そういうのは好きではないのだ。
彼も江戸生まれの藩医の息子という、同じ立場ではあるが・・・。
病弱ゆえに、弱者の立場が理解でき、身分の低い者も悪く言う気になれないのかもしれない。
「しかも、高松藩からの留学生だったそうです」
「それはそれは。さぞ優秀な学者さんなのでしょう」
「・・・。」
そこで純亭の勢いは失速し、首を傾げる。
「よくわかりません。でも、面白い男です」
白い歯に餡をこびりつかせたまま、笑った。
弟のような純亭が「面白い」と評した青年。しかも、長崎帰りだと言う。興味が、夏の入道雲のように沸いて出るのを止めることができない。
玄白が、神田紺屋町の田村邸を覗きに行くのに、そう時間はかからなかった。
★ 2 ★
まだ立春も遠い。縁側に面した座敷は、全て障子がぴたりと閉じられている。純亭も、厠からの帰りは、背を丸めて袖口に両腕を突っ込み、寒さから逃れようと試みた。
この気温の中、諸肌を脱いで庭を耕す男がいた。例の、“長崎帰り”である。
田村先生は、幕府から与えられた『百花街』という薬草の庭を本所に持っていたので、ここの庭は殆ど放ってあるような状態だったのだが。
早朝に霜が降りたのか、土も寒さで固くなっているのか、鍬の先がめり込む度にざくりざくりと重い音をたてた。肌襦袢までも肩を抜いていたので、着物が袴の飾りのように揺れていた。男は長身で痩身であったが、二の腕には、馬の足のように小振りだが頑強そうな筋肉が盛り上がっていた。鍬を握る手には、医学の授業で参考にしたいほど、くっきりと筋が浮きでている。彼は遊技のように鍬を掲げては降ろし、鼻唄混じりに土を耕していた。なんだか楽しそうにさえ見えた。
裸の背を汗が流れ、首の後ろで無造作に結んだだけの髪が幾筋も張り付いていた。
『体から、湯気が立ってら』
口許の息が白いだけでなく、男の回りには靄がかかって見えた。
「ご精が出ますね」
純亭の口から出た言葉も、白く結露した。
「冗談じゃない。精を出すのは恋人と閨に入った時だけでええけん」
男は笑いながら手を止めて、背筋を伸ばして答えた。腹から出る声は低からず高からず、朗々と響く。声のでかい男だ。
「全く、平賀殿は、そんなことばかりおっしゃるのだから」
純亭は歯をみせた。讃岐弁丸出しのこの男は、猥談や下ネタをよく用いる。だが、何故か不潔さは感じさせない。
「ここには、庭の為に雇った職人がいるでしょうに」
「わしはここに世話になったばかりじゃし、それは図々しい気もしますのでな。それに、わしが言い出しっ屁じゃけん、一人でやりますけん」
彼は、晩餐の席で、庭にも菜園をつくりましょうと提案した。先生も他の書生達も百花街で手一杯なので、新参者の“長崎帰り”に任されたのだが。
まさか、土を耕すところから始めるとは先生も思っていなかったろう。こいつ、本当に侍なのか?
純亭の頭の中を読んだように、
「おやじは一人扶持切米三石の蔵番じゃったけん、それだけでは食えん。うちは殆ど百姓のようなもんじゃ。米でなく、野菜を作っとったがの。高松藩の薬坊主んなってからも、薬園は自分で耕しとった。・・・野良仕事は苦にならんよ」と続けた。年下の純亭に対し、少し打ち解けた言葉になっていた。
「いや、苦になるどころか、好きかもしれん」
「そう見えました。だって、平賀殿、とても楽しそうでしたもの」
「確かに楽しいけん」
破顔して少年のような表情になり、手の甲で額の汗を拭う。三十に手が届くと聞いていたが、笑顔を見ると、純亭ともそう年齢差を感じさせない。
「土いじりは、楽しいけん。・・・やってみんかね?」
「えっ」
「ほれ。鍬なんて、握ったこと無いじゃろ。土の気持ちがわからんでは、草木の気持ちもわからんよ?」
「・・・。」
男の誘いに乗ったのは、草木の気持ち云々はともかく、面白そうだったからだ。
初めて握った鍬は思いのほかバランスが取りにくく、振り上げようと挙げると、頭の重みで足がふらついた。
「あ、あれ?」
「はっはっ、そんな腰じゃあかん。もっと重心を落として」
大きな掌が純亭の両腰を覆い、腰の位置を下げさせた。立ちん坊の姿勢より、この方が確かに力が込めやすい。
ざっ。
戸惑いとともに振り降ろした鍬の先は、土に少しだけめり込んだ。だが・・・今度は、めり込んだまま、純亭には抜けなくなってしまった。
男が横を向いて吹き出したのがわかった。
バカにされたと思った純亭は、ムキになって力まかせに引き抜いた。ぴきんと腕の腱が痛んだが、無視した。再び鍬を土へと差す。二度もやると、もう息が切れた。
男を振り返ると、細い唇の端を上げてにやにやと笑っていた。
数度繰り返すうちに、腕力でなく、かえって鍬の重さを生かせばよいことに気付いた。上げ下ろしにリズムが出てくる。
草木の心は聞こえそうにないし、しかも少しも楽しいとは思わなかったが、讃岐の田舎侍に侮られるのは我慢ならなかった。だが、すぐに腕がぷるぷると震え出した。
「握り方もおかしい。変な持ち方で力を入れすぎたから、腕が痙攣しとるんじゃろう」
男が純亭の背後から腕を伸ばし、握り方を直した。
「だいたい、なんで左手が前に出とるんじゃ。ほら、右手が前じゃけん」
純亭は後ろから抱きすくめられる格好になっている。
「そういえば子供の頃、剣道を習った時も、同じことを言われました。・・・平賀殿は剣は?」
「“平賀殿”はやめてくれんかのう。裏で“長崎帰り”と呼ぶのも」
「わっ、すみませんっ」
純亭が赤くなったのは、陰口がバレていたせいなのか、息が首にかかったせいなのか。
「源内と呼んでくれると嬉しい」
「源内殿・・・」
『何やってるんですか、あれ』
竹垣から庭を見ていた玄白が、ポリポリと茶筅髷の根元を掻いた。どう見ても、源内が純亭を後ろから抱きすくめているように見える。声がかけづらくなってしまった。
珍しく外出したので、ついでに純亭に会いに来たのだが。・・・というより、平賀源内を見に来たと言った方が正しいかもしれない。
純亭は、屈託ない性格その通りの、はっきりとした目鼻だちをした青年だ。体も細く、いかにも、衆道の男が好みそうな。
『なんだか、平賀ってとんでもない男なんじゃないですか?』
奥から先生か他の書生が純亭を呼んだらしく、純亭は囲みを簡単に解いて縁側へ戻って行った。彼は全くわかっていない。純亭には少し鈍いところがある。まだ子供なのだ。
一人残された源内は、「ちっ。休憩するか」と後ろを振り返った。思わず玄白はしゃがみこんで隠れた。今の様子をぽかんと見ていたのが知られるのも気恥ずかしかったのだが・・・大の大人が竹垣の影にしゃがむのも決して褒められたものじゃない。
源内は、肩を抜いた着物を羽織って襟元を整えながら、まっすぐこちらへ向かって来る。座るのに丁度よい庭石が置いてあるのだった。玄白には気付いていない。
源内はこちらを背にして座ったようだ。刻み煙草の匂いがした。カチカチと火打ち石が鳴る。確か田村邸の書生は禁煙だ。だから縁側で休むことができず、庭の端へ来て煙管を取り出したのだろう。
「国倫(くにとも)さん、いい加減にしてくださいよ!」
玄白が知らずにいただけで、そこには既に誰かいたようだ。強張った調子で、国倫という名の男を責めた。
「純亭殿は年下ですが、先輩です。ああいう失礼な行為は・・・」
「“失礼”じゃとぉ?わしは純亭に惚れとるけん。色恋において先輩も後輩もあるか」
讃岐弁の男。国倫と呼ばれた、彼が源内のようだが。
「でも、田村先生を怒らせてここを追い出されたらマズイです。湯島の寄宿舎に入れるまでは、揉め事は起こさないでくださいよ」
「ああ、気の小さい男じゃ。鳩渓(きゅうけい)の肝っ玉は鳩並みじゃけん。ぽっぽっぽっ」
「国倫さんっ!」
「国倫。俺も鳩渓の意見に賛成だな。江戸に出たばかりだ。少し控えろ」
なんと、もう一人居たのか。それほど大きな庭石だったろうかと玄白は首を傾げた。男が三人、横に座れるほど。
「ふんっ」と、国倫が大袈裟に悪態をつく。彼の吐いた煙草の煙が、垣根の上へぽかりと浮いた。
「暫くの間、だ」と、三人目の男が、笑いを含んだ声でなだめた。
「俺も純亭は好みだよ。焦らなくても機会はいくらでもある。まあ、もう五年前に会っていたかった気もするが」
三人目の男は『若衆好き』のようだった。
「わたしの体を使って、勝手なことしないでくださいよ!」
「“わたしの体”だとぉ?わしの体じゃ!」
「いや、俺のだ」
庭の男達が怒りに任せて立ち上がった気配がした。男達・・・の、はずだった。
「えっ!」
しゃがんだままの姿勢で上を仰いだ玄白は、思わず声を立てた。立ち上がったのも振り返ったのも、たった一人の男。目が合った。足首の負担が驚きの衝撃に耐えられず、玄白はそのまま後ろへ倒れ込んだ。
どしんと背が路を叩いた。
「大丈夫ですか?」
源内が、垣根ごしに顔を覗かせた。その口調は、鳩渓と呼ばれていた者だった。日焼けした白い歯の好青年という面持ちで、同じ顔なのに、純亭を背後から抱えた男とは別人に見えた。
『・・・多重人格?』
玄白は、路に伸びたまま、小さな口を開けたままその青年を見上げていた。
「あ〜。もしかして、聞かれてしまいました?」
それが、平賀源内との出会いだった。
★ 3 ★
二十世紀後半のアメリカで、ビリー・ミリガンという青年のことが話題になった。この名前も、『青年』というのも、戸籍の上だけの話だ。彼の中には二十四人の人格がいると言われた。男も女も。少年も幼児も。
何故か芸術に秀でた人格が多かった。特に、絵画の才能はすばらしくて、病院に収容されている間に描いた絵も、高価で取引されていたそうだ。
十四歳のダニーは静物画が得意だ。十六歳のトミーは風景画、十八歳のアレンは肖像画と、得意な分野も好んで描く絵も違い、もちろんタッチも全く別人のものだった。同じ手、同じ指が描いた絵画であっても。
精神医学の発達や人権を尊重する風潮が『コレ』に気付かせたわけだが、彼より前に、長い人類の歴史の中で、同じ症状の人間がいなかったとは思えない。誰もわからなかっただけ、誰も信じなかっただけだ。
さて。
十八世紀の日本でも、症例が残っていなかったわけではないだろう。
それは、当然医学的な記録ではなく、伝承や半創作のような形であった。『こわい話』『不思議な話』として口づてで伝わっているもの、戯作として成されているもの。
源内は、酒井家下屋敷の玄白の部屋で、純亭と一緒に汁粉を啜っている。
「うまいです。暖まりますねえ」
薄い唇についた甘味を、舌で嘗めながら笑う。この口調は鳩渓だった。純亭は何も知らない。源内が三つの口調で喋ることに違和感も無いのか、それともそのことにさえ気付いていないのか。
「私は、箸を握っても手が痛いですよぅ。先日は、また、源内さんに畑仕事を手伝わされちまいましたから」
「すみません。でも、助かってますよ」
真っ直ぐな額はこの男の聡明な印象を際立たせた。切れ長の、左目の目尻にホクロが二つ並んでいる。日焼けした顔の中でもしっかりと目立つホクロだ。彫りが深く鼻も高く、日本人には珍しい顔だちだった。
玄白は、おとなしくて礼儀正しい鳩渓が一番好きだった。彼が出ている時は安心できる。源内もそれを承知しているのか、玄白と接する時はインターフェイスは鳩渓に任すことが多い。
反対に、純亭は、『今日の源内さんはつまらないなあ』と思っていた。きっと、玄白さんに遠慮しているんだ。玄白さんが真面目な人だから。
「純亭さんに手伝って貰って、春菊を全部撒きました。春と秋に撒いて、二回収穫するつもりです」
「へーえ。土はそれに耐えられるんですか?」
「肥料と、収穫した後の養生次第ですかね。でも、春に花が咲くから春菊なのですけど。二期目のは、何て呼べばいいのでしょうね」
快活に笑う。玄白も控え目に微笑んだ。
あの冬の日、源内から差し出された手を取り立ち上がった後、玄白は、田村先生宅で純亭から正式に彼を紹介された。
純亭が茶を用意しに席を立った隙に、「あのぅ?」と切り出した玄白に、源内はにやりと笑った。それは、最初に庭で見た時の源内・・・国倫の表情だった。
「聞かれちまったもんはしょうがないけん。
だが、わしは特に口止めせんよ。どうせ、言っても玄白殿が気ぐるいと笑われるだけじゃ」
プライドの高そうな国倫が、『頼みます。内緒にしてください』などと頭を下げるわけもなかった。
「誰かに告げてどうするというのです」と、かえって玄白は真顔で尋ね返した。
「あなたは、国倫さんですね?さっきまで居たのが鳩渓さん。
もうお一人は、まだお名前を伺っていませんでしたが」
「・・・“あれ”は、人に名前を尋ねられたことがないんで、喜んどる。名前っちゅうか、わしらは便宜上『李山(りざん)』と呼んどるがのう。源内の俳号じゃ」
「おねがいします!」
いきなり玄白は、頭を下げた。畳に額を擦り付けるほどに低くこうべを垂れる。
「げ、玄白殿・・・」
「李山殿と国倫殿にお願いいたします!
恋愛は自由なものです、勝手なお願いとはわかっています。でも、純亭を、どうかそっとしておいてやってください」
「・・・。やめてください、どうか面(おもて)を上げてください。約束させます。二人には、わたしが、絶対に約束させますから!」
口調が鳩渓に戻っている。彼らは瞬時にするりと入れ替わるようだ。
「国倫さんと李山さんが直接私と約束してください。鳩渓さんを信じないわけではありませんが・・・。
純亭は、まだ勉学途中の身。私にとって、弟のように大事な男です。あいつはまだ子供です。江戸には、もっと遊び慣れた者もたくさん居ます。どうか、勘弁してやってください」
誠実と真摯で満ちていた瞳が、突然猥雑な色に変わる。同じ泣きボクロが違う効果を発揮してそこにあった。粋に細く整えられた眉が、片方だけ陰湿に上がる。
「こういう無粋な頼みはしらけるのう、李山?」
「俺は・・・言ったはずだ。純亭は育ち過ぎだと。もう少し青いのが好みだな」
同じ喉から発せられた声。確かに同じ声だったが。背筋を寒くさせるほどの冷やかな空気が男のまわりに漂った。人を何人騙しても何の色も見せないだろうと思わせる冷徹な瞳は、凍るように輝いていた。薄い唇に浮かべた微笑みは、剃刀を思わせた。この男が、李山。
「あの・・・すみません、二人とも素直でないので。でも、今のが承諾の台詞のようです」
廊下に足音が聞こえ、玄白も背筋を元に戻した。源内はもう鳩渓に戻っている。まるで早変わりの役者のように、表情もたたずまいも変わる。
純亭が茶と茶菓子を持って部屋へ戻った。その後は、国倫も李山も登場しなかった。
「玄白殿のことは、純亭殿から聞いていました。若いけれどとても優秀な蘭方医で、お人柄もすばらしいと伺っています。無学な田舎者ですが、以後、お見知り置きいただければ幸いです」
「いえいえ、こちらこそ。長崎へ留学なさった話、伺いたくてウズウズしておりました」
鳩渓とは何やら性格も似ているようで、玄白はすぐに仲良くなれたのだが。
今は、純亭と共に部屋に上がって、一緒に汁粉をすするほどに。
★ 4 ★
玄白は、汁粉が空になった碗を三つ重ねた。
「その“薬品会(やくひんえ)”って何なのです? もっと詳しく教えてくださいよ」
「源内さんが、田村先生に提案した企画なんですよ! 先生の心も動いてるみたいです。実現するといいなあ」
玄白は客人に振ったのだが、純亭が嬉しそうに答える。まるで自分の出した企画のように自慢げだ。
「薬用に利用する本草を展示し、お医者様や本草学を学ぶ皆さんに見ていただくという、ただそれだけの企画なのですよ。珍しい物品をお持ちの方から、その期間お借りして」
鳩渓は、ゆっくりとはにかみながら話す。喋るのはあまり得意ではないようだ。だが、江戸言葉をしっかりと意識している。讃岐訛りはない。
狐や猫が憑依して、別人のように振る舞うお伽噺はよく聞く。玄白は、たどたどしく動く鳩渓の口許を見ながら、ああいう話も実は源内のような症例だったのかもと考える。
ただし、玄白には、これが病気だという想いは無い。便利なのか不便なのかも、よくわからない。源内があまり困っているように見えないせいかもしれない。
自分も鳩渓に似た部分が多い。臆病なのは、体が弱くて家に籠もってばかりいたせいと・・・母の死も原因だろうか。人前に出て喋らねばならない時、国倫のような人格が助けてくれたら、それは楽だろうと思う。
「漢方を学んだ医師たちは、薬品もそのまま漢方の名前で覚えます。高いお金を出して唐の国から薬を買っていますが、実は日本にあるものも多い。日本の医師の勉強不足と思います。これでは、日本が損をしている。病人も、不必要に高い金を払っている。いや、高いから治療が受けられず、悪化する人、亡くなる人だっている」
「本当にそうです!私もそう思います!」
玄白は、鳩渓の意見に大きく頷いた。
「ね?玄白さんも同意すると言ったでしょう?」と、純亭が、ぽんぽんと彼の肩を叩いた。
力づけられたのか、鳩渓は、静かに続けた。
「医師のせいばかりでもない。日本は細長くて、寒い陸奥の人は、温暖な讃岐の土地に棲息する植物を見たことも無いでしょう。薬になる前の、棲息している状態を知らないことも多い。本の挿絵だけで見分けることは難しい。
わたしは・・・みんなで知識を共有すべきだと思うのです。実物を見たり触れたりすることはとても大切です。貴重な物産をお借りしてでも展示すれば、多くの学者・医者の目に触れさせることができる」
長く喋ったせいか、鳩渓の唇は乾いてしばしば張り付いた。甘味の後に茶を殆ど飲んでしまった。鳩渓は恨めそうに湯飲みを握ると、残り少ない粉混じりの渋茶を飲み干した。
鳩渓を誤解していたかもしれない。彼は、声高に叫ぶタイプではないが、きちんと自分の意見を言える男なのだ。玄白は、腫れぼったい瞼をきゅっと引き締めてちいさな目を見開き、鳩渓を見つめ直した。
「藍水(田村元雄の号)先生は、何て?」
「・・・。」
鳩渓は目を伏せた。少なくても快諾はしてもらえていないようだ。
藍水先生も鳩渓と似た考えの人で、門人だけで知識を独占しようなどとは考えない学者だが、そうでない学者も多いことを先生はご存じなのだ。たくさんの学者から出展を募るということは、知識の開示を強いることになる。それを嫌う者もいるし、田村一門を敵視する者も出てくるだろう。
実は、鳩渓の考えは、自分の利益や立場を守りたい学者にとっては、危険な思想だ。この頭のいい男が、それを知らぬわけはない。十分承知しての提言だ。闘いの意志を持っての。
玄白は、自分の臆病さは好きでなかったが、世間に恥じ入るようなことでもないと思っていた。人を傷つけたり、そしったりしたこともないし、誤ったこともしていない。真面目にこつこつと生きて来た。
だが、今、初めて、『あ、私も何かしなくては』と駆り立てられた。足袋の足の裏がくすぐったいような、わっと叫んで走り出したいような気持ちだった。
「お汁粉、もう一杯、いかがですか?」
「いただきます!」と乗り出す純亭と、「いえ、わたしはもう」と苦笑する鳩渓。そう言えば、李山は甘味が苦手なのだと言っていたっけ。
「では、源内さんには、お茶のお替りを」
玄白は、碗を持って立ち上がる。足の裏のもどかしさは、まだおさまらない。
その年の秋に、玄白は父から独立し、日本橋通四丁目で開業する。蘭方医の外科医として。
やがて春も来て、国倫がうまく藍水先生を説得したのか、鳩渓の真摯さが先生の心を動かしたか、李山の冷静さが信用されたのか、たぶんその全部だろうが、第一回薬品会の開催が決まった。
主催者は先生の名前だが、企画の詰めから細かい事務手続きや人との応対まで、殆ど源内が一人で請け負ったと言う。
多忙のせいで玄白の元へ遊びに来なくなったのかと思えば、先生の屋敷から、湯島聖堂の寄宿舎へ寝床を移したのだそうだ。それも純亭から聞いたことだった。
「なんでも、儒学の勉強の為に林家に入門したそうですよ」
季節は初夏になっていた。純亭はくず餅を頬張りながら、情報を提供する。口の回りはきな粉だらけだ。皿のくず餅も、箸の力が強すぎて崩れていた。性急で元気のよい純亭らしい食べ方に、玄白は笑みを洩らす。
「儒学ねえ。今さら、あの人が?」
それはたぶん、寄宿舎が安く宿泊できるからだ。彼が中国の古い学問に興味があるとは思えなかった。
田村邸の食客でいる間、源内は玄白との約束は守ってくれたらしい。純亭の子供っぽさは変わらず、恋や色に心を奪われている様子は無い。
「来月はいよいよ、源内さんの企画した薬品会ですね。私も三点ほど出したんですよ。玄白さんも見に来てくださいね〜」
「わかってますよ」と、玄白は、上手に箸でくず餅を掬った。力を込めすぎない握り方をするのがコツだ。
しかし、箸先はいきなり四辺を潰し、皿の上で崩れた。黒蜜ときな粉をからめる。この食べ方の方が、蜜がたくさん付いておいしいのだ。時には、力んで壊すことも必要かと、ひやりと冷たいくず餅を口に運んだ。
第2章へつづく
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