★ 平賀源内年表 ★
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『私儀、甚だ多用にて −非常の人々−』は、かなり説明を省いて書いています。
ただ、さすがに、自分の小説を読んでくださる人に、「源内や玄白の伝記を一冊読んでください」という態度はあまりに不親切だと思いますし。
というわけで、源内の年譜を付けておきます。
生年もはっきりせず、誕生日もわからず、江戸へ出る前の詳細は色々な説もありますが。
参照文献・・・芳賀徹「平賀源内」(朝日新聞社)、城福勇「平賀源内」片桐一男「杉田玄白」(共に吉川弘文館)、その他(詳しい参考文献は最終ファイルに添付しておきます)
★ 平賀源内 ★
1728?〜1779 高松藩の蔵番・白石家の三男として讃岐国志度に生まれる。
源内は俗名。諱は「国倫(くにとも)」、字は「士彝(しい)」。
物産学では「鳩渓(きゅうけい)」を名乗る。
俳句では「李山(りざん)」、戯作では「風来山人」(その他にも「天竺浪人」「紙鳶堂風来」など使用。紙鳶は凧のこと)、浄瑠璃作者としては「福内鬼外」と、名前を使い分けた。
男色家だったせいもあり、生涯独身を通した。
13〜19歳頃 三好某(嘉右衛門?)に本草学を習い、高松藩儒・菊地黄山に儒学を学ぶ。
(本草は、自ら野山を駆けめぐり独学で学んだ部分や、民間レベルの知識を総合統括して学んだ部分も多いようだ)
1746 19歳 藩主・松平頼恭の御薬坊主に召し抱え?(22歳説もある)
1749 22歳 父が没し、家督相続(兄達は既に没)、平賀性を名乗る。
1752 25歳 1回目の長崎。一年滞在。
1754 27歳 藩務退役。妹・りよ(12歳)に婿を取らせ家督を譲る。
<この間に、大坂で戸田旭山に医術・本草を学ぶ。俳句同人誌『有馬紀行』刊行。江戸に出て、田村元雄に入門>
1757 30歳 6月 林家に入門、湯島聖堂に寄宿。7月 第一回薬品会。主催は田村元雄だが、殆ど源内が仕切ったと言われている。
1759 32歳 8月 源内初主催で物産会
1760 33歳 高松藩に呼び戻され、藩主頼恭と共に帰省。衆鱗図譜その他に協力(というより源内の仕事でしょう)
1761 34歳 長崎屋でパウエルからオランダ博物書をもらう。高松藩辞職。芒硝を発見、採取。
1762 35歳 第五回東都薬品会。神田鍛冶町不動新道に住む。『紀州物産志』
1763 36歳 『物類品隲』『根無し草』『風流志道軒伝』
1764 37歳 秩父で石綿発見。火浣布作成。
1765 38歳 『火浣布略説』。春信の錦絵製作にアイデア出す。
1766 39歳 秩父中津川金山事業着手。
1767 40歳 大田南畝『寝惚先生』序。『長枕褥合戦(ひとねかつせん)』白壁町に住む。
1768 41歳 寒暖計製作。『痿陰(なゆまら)隠逸伝』『菊の園』『三の朝』
1769 42歳 『根無し草後編』。中津川金山休山。この年に長崎へ発ったという説もある。
1770 43歳 『神霊矢口渡』。10月に長崎へ。春信没。
1771 44歳 『陶器工夫書』(天草に行っている)。頼恭没。長崎滞在中に、江戸では玄白らが「ターヘルアナトミア」入手、翻訳にかかる。
1773 46歳 玄白(41歳)の結婚。秋田で鉱山開発。藩主・佐竹曙山と藩士・小田野直武に西洋画を教える。直武、江戸へ。
1774 47歳 秩父鉱山開発失敗。『放屁論』。玄白『解体新書』
1775 48歳 荒川通船工事で木炭の江戸積み出し。神田大和町に住む。
1776 49歳 エレキテル修復。『力婦伝』『天狗髑髏鑑定縁起』。菅原(源内)櫛。
1777 50歳 『放屁論論後編』。
1778 51歳 『菩提樹の弁』『飛た噂の評』。
1779 52歳 『金の生木』。神田馬喰町に転居。門人を過失で殺傷、獄中で没。
1780 玄白、墓碑銘を草す。
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