★ 私儀、甚だ多用にて ★

★ 第三章 ★

★ 1 ★

 そろそろ医院を閉める時刻だろうということで、源内は玄白の家を訪れる。玄白は最近父親から独立し、日本橋通りに病院を構えた。玄白の家なので訪問するのに気兼ねはいらない。地酒の大徳利を下げて、玄関の引き戸をあける。板戸は軋みながら、おずおずと開いた。橙の夕焼けが三和土(たたき)きを染める。夏は逝ったがまだ暑さは残る。源内は袴を付けず単の着流し姿だった。

 まだ患者が残っているのか、見慣れぬ草履が一対並んでいた。
「入りますよ〜」と、奥へ声をかけてから上がった。屋敷とは名前ばかりの、長屋に毛が生えた程度の狭い家だ。玄白に十分聞こえたはずだ。診察室の障子が開いて、「少し待っていてください」と玄白の丸い顔が覗いた。

 手前の部屋は患者の待合室として使われていた。源内は、散乱した薄い敷物を重ねて隅に整えた。一枚だけ壁の側に残し、そこに正座して待つことにした。まだ新しい障子には西陽が映り込み、近くの灌木の影を黒く落とす。
 この源内は、鳩渓(きゅうけい)だ。
 少しして襖が開いて出てきた患者は、この前もここで会った中年の大工だった。
「怪我の経過見ですか?」
 源内の問いに、男は「いや」と腹をさする。
「手の傷の方はもうすっかり。実は、腹下しでね。玄白先生に、お薬をいただきやした」
 ぺこりと頭を下げて立ち去った。
 玄白は外科医だが、普段は腹痛や頭痛、子供の発熱なども診る。偉ぶらないせいか、既に近所の人々から好かれ、患者はひっきりなしだと聞く。

「お忙しそうですね」
 源内が一尺(30cm)開いた襖の向こう覗くと、玄白は薬草を整理して薬箱へ納めているところだった。
「すみません、お待たせして」
 手伝いの女に「もう今日は帰っていいですよ」と断りを入れる。
「お茶を煎れますか?」と、女は気を効かせるが、源内が持参した酒瓶に目をやり、「いや、大丈夫です」と笑った。
 普段玄白は家で呑むことは無いし、これからの源内との時間は玄白にとっては『仕事』であった。本来なら、自分だけでも茶にした方がいい。だが、こちらが呑んでいないと話しづらいこともあるだろうと考え、自分も付き合うことにした。

 玄白は源内が座っていた部屋へ場所を移動した。診療時間以外は、ここが玄白の居室になる。診療室では夕刻でもすでに行灯を使っていたのだろう、それをそのまま部屋へ持ち込んだ。ゆらゆらと灯が揺れ、不安そうに板壁に視線を動かす鳩渓の瞳をも揺らした。だが玄白がぐい飲みを二つ畳に直接置く頃には、灯も鳩渓の表情も落ち着いた。 
 大徳利を前に、二人とも正座している。
「鳩渓さんが話されますか?」
 声を出さず、源内の首だけが動いた。玄白のところでは、他の二人は大抵おとなしくしている。玄白と鳩渓の気が合うので遠慮しているのか、モラリストで口うるさい玄白が苦手なのか。それとも両方だろうか。
「記録を取らせてもらっていいですか?もちろん、他の人には見せません」
 源内が承諾するのを見越して、筆と用紙は既に脇に置いてあった。
「どうぞ」と、少し掠れた声が答える。
 実は鳩渓もそう酒を好む方ではないのだが、自分から二つの器に酒を注いだ。そして、呑むと言うより少し嘗めた。
 お互い、まだ足も崩さない。玄白は膝の上に板を乗せ、半紙を広げる。文机まで持ち込むと、鳩渓を構えさせてしまうと思ったのだ。
「どこから話していただきましょうか。ご自分の中に複数いると気付いた頃からでよいですか?」
 源内の多重人格についての調査だった。

『これは心の病、頭の病と呼ばれるもののようです』
 玄白と二人でいた時、何気なく鳩渓はそう呟いた。長崎の阿蘭陀医師が語ったという症例。彼は、それを通詞(通訳)から聞いたので、詳しいことは知らないそうだが。
『病、なのですか?』
 玄白は眉をひそめ反問する。体に害を成すもの、痛みや不快感を伴うものを“病”とすると、源内のコレが該当するとは思えなかった。玄白はそう正直に述べた。
 鳩渓は苦笑した。
『不快感はありますよ。国倫(くにとも)ががぶがぶ酒を呑んで、翌朝わたしが二日酔いになる。わたしの意志を無視して李山(りざん)は陰間茶屋へ行く。自分の体を別の者が自由にして、自らの意志では動かすことができないのですから』
『・・・。す、すみません。何もわからず、失礼なことを』
『わからなくて当然です』と、また鳩渓は微笑む。諦観を浮かべた静かな目だった。
『それに、付き合いも長いので慣れました。喧嘩しないよう、うまくやっています。実の親子だって気が合わなければプイと家出すれば済むことですが、わたし達はそうは行きませんからね』
 その時、玄白から口にしたのだ。『この症例をきちんと書き留めて、まとめてみませんか?調べてみましょう』と。

 国倫は悠然と口の端を上げて、“面白そうじゃの”と煽る。
 李山の冷たい瞳が細められた。“俺はどうでもいい”と、吐き捨てるように言う。
 玄白に提案されて、一番動揺したのは鳩渓だった。
 国倫も李山も、自分に自信のある男だ。常に堂々としている。今までの人生で、後悔も恥じ入ることも無いだろう。だいたい、国倫は失敗を笑い飛ばすし、李山は人のせいにする。鳩渓のように傷つくことはないと思えた。
 玄白に話す。舌を噛んで死にたいような恥ずかしいことも、地団駄踏んで悔いたことも。玄白に軽蔑されるだろうか。打ち明けることは、躊躇された。
 だが・・・。
 信頼できる第三者に、どうしても、頼んでおかねばならないことがある。玄白に話を聞いてもらうのはいいかもしれない。
 玄白は、真面目で誠実な人柄で、優秀な医師でもある。
『お願いします』と、聞こえないほどの声で。鳩渓の薄い唇が動いた。

 今宵は、その話の後の、源内の訪問だった。

★ 2 ★

 ぐびりと、ぐい呑みが煽られ、空になった灰色の陶器が戻された。鳩渓はこんな飲み方はしないので、国倫が登場したのかと玄白は顔色を伺う。だが、細い眉根を寄せた源内の気弱そうな表情は、まだ鳩渓だ。彼は畳の傷に視線を落として言った。
「話す前に、お願いしたいことがあります」
「なんですか?」
 気軽に答えてから、鳩渓の切羽詰まった目に気付く。
「長崎の通詞から聞いた症例は・・・すべて、人殺しのものです」
 えっと、玄白の茶碗がぐらりと揺れ、酒が波打ち膝の半紙の上へ溢れた。
「すべてと言っても聞いたのは三件ですが。ただの人殺しではなく、連続殺人です。一件は、人斬りそのものを楽しんだ男。二件は、女性を手込めにして殺すという犯行です。多重人格の中の分かれた人格の一人がやったと供述しているそうで。記録では、頭のおかしい者として処理されています」
「・・・。」
「わたし達の誰か、いや三人ともに、人を殺める気質があるのかもしれない。それとも。人格は増えることがあるので、この先、殺人鬼とこの体で同居するハメになるのかもしれません」
 鳩渓は人ごとのように語る。口調はゆったりとして理路整然として、彼らしい喋り方だが。鳩渓は話すのが苦手で、いつもは考え考え言葉を探す。ここまで澱みが無いのは、頭の中で何度も反芻してきたからだ。
 玄白に聞いてもらう為に、何度も自分の中で組み立てて。その度に痛みを感じながら。

「それで、頼みと言うのは・・・」と先を続けようとした鳩渓は、器の酒が空のことに気付き、自分で継ぎ足した。今度は、唇を湿らせる程度飲んだだけだ。
「玄白さんが・・・わたしの異変・・・危険にお気付きになったら・・・」
 初めて鳩渓が言い澱んだ。全部を言葉にする気はなかっただろう。玄白なら察するとわかっていた。
 鳩渓は、毒を盛って自分を殺してくれと頼んでいるのだ。医師である玄白に向かって。
 当然、玄白は受ける気はない。冗談ではない。他にいくらでも方法があるはずだと思う。
 おとなしくて温和に見える鳩渓の、意外な激しさや思い入れの強さに驚いた。
「他の二人は、何とおっしゃっています?」
 一人の肉体の死は、三つの魂の終焉を意味する。そんな提案を、二人は承諾しているのか?
「国倫は・・・今、“部屋”の壁に寄りかかって、こちらを見ています。特に反対もしていません。李山は“好きにすればいい”と言いました」
「“部屋”の壁?」
「ああ。まずそれから説明しないといけませんね。わたし達は、一つの部屋に三人で住んでいます。部屋には、船の舵のようなモノがあって、それを握っている者がこの体を動かします。からくり人形の中に入って交代で動かしている感じと言えばおわかりになりますか」
「からくり人形、ですか?」
 意外な言葉に、玄白は目をしばたかせた。初めて半紙に筆を走らせる。話ののっけから“殺人犯”だったので、記す機会を失っていた。今までのところをまとめて書き留めた。
「長崎で聞いた話では、多重人格者には、別の人格が行動した時の記憶が無い人もいます。でも、覚えていて、傍観している人もいます。わたしの場合は、傍観です。
 今、二人は離れてわたしを見ているし、この玄白さんとのやりとりも、把握しています。表情やしぐさで気持ちを汲み取ることはできますが、考えまでわかるわけではありません。
 怪我の痛みや満腹感、睡魔や尿意などは共用しています。舵を渡している時でも、体に起こる感覚は一緒です。ただ、それを『どう感じるか』はそれぞれ違いますけどね。わたしがぼた餅をおいしくいただく時、普段は表情を変えない李山が顔を歪めます。よほど甘いものが嫌いなのでしょう。
 時々、人格がするりと変わることがあるでしょう?あれは、近くに居て、舵を奪われているのです。元の人格は弾き飛ばされます。・・・こんな風に」
 最後の一言のあと、鳩渓はぐいと酒を飲み干した。
「注いで、いつまでも飲まんでぐずぐずしとるのは好かん。イライラする」
「・・・飛ばされたんですね、鳩渓さんは」
「今、わしの背後でピーピー怒っとるがの。
 玄白さん、すまんかったのう。さっき鳩渓が言った頼み、あんなもの、無視していいけんね。返事に困ったじゃろう?
 わしらの都合で、あんたが人殺しの約束をする必要は無い。わしらの問題じゃけん、その時はわしらで解決する」
 この人は大人なのだと、玄白は国倫を見直した。源内は美男だし、どちらかと言えば女性的な顔つきだ。だが、国倫の時には獅子のような雄々しさと包容力がある。
 気が弱かった子供時代の鳩渓を庇うようにこの人格が誕生したことを想い、玄白は羨ましさを感じる。亡くなったという兄の代りなのかとも思う。

★ 2 ★

「事の初めを話すだけなら、鳩渓でなくともええじゃろ?
 鳩渓・国倫というのは、人格が分離してから便宜上そう呼び合うようになった。
 当時わしらは嘉次郎と呼ばれておった。
 李山の時と違うて、実ははっきり覚えていないんじゃがの。みんなこういうものだと思っておった。十歳の頃、食事の時に母に“母上のもう一人は今何をしておられるか?”と尋ね、家族に妙な顔をされた。その時に、これは自分だけのことなのだ、人にむやみに言ってはならないと知った。その記憶があるんで、わしが分かれたのは十歳より少し前かと思う。
 天狗小僧と呼ばれたのも、まあ、わしのせいじゃけん。わしはその呼び名は得意がったが、鳩渓は嫌った。それまでは、ただの頭のいいおとなしい子供で。山や森で静かに草や葉の絵を黙々と描いているような性格だったかもしれん」

 嘉次郎(幼名・四方吉)は白石家の三男として讃岐の志度に生まれた。二人の兄は早世した。
 鳩渓はコツコツと儒学や本草を学び秀才の名も高かったが、『御神酒天神』などのからくりを作って評判になったのは国倫だった。
 父も嘉次郎の賢さを認め、三好嘉右衛門に本草学を習い、高松藩儒・菊地黄山に儒学を学ぶことを許した。高松藩が、侍の身分の上下に関係なく、多くの学問を身につけることを推奨し始めたせいもあった。既に高松藩は、若き藩主・松平頼恭の時代。学問を愛し、新しもの好きだったこの青年が起こした風が、辺鄙な港町にいた少年の頬をも撫でた。

「李山が“来た”のは、十七の時でした。国倫の時は“分離した”のかもしれませんが、記憶に残っていなくて。李山は、何というか・・・突然隣に居たのです。その時のことは、はっきり覚えています」
 その口調は鳩渓に戻っていた。舵を取り返したらしい。鳩渓が言うところのその“部屋”での攻防を想像し、玄白の口許に笑みが洩れた。
「わたしはその頃から本草学に夢中で、採取箱と紙と矢立を抱え、何日も山に籠もったりしました。夜明けから日暮れまでひたすら草木の絵を描き、変わった石を拾い、川の水で乾きを癒し体も洗い、魚を獲ったり果実を採ったりして日々を過ごしました。夜は大きな樹の陰や洞窟で野宿しました」
「何日も、ですか?」
「そうです。五日六日は平気でした。わたしは一人で居るのは苦になりません。何より、ずっと草木や石のことを調べていられるのが楽しくて仕方ありませんでした」
「“一人”と言っても、国倫さんも一緒だったのですよね?」
「でも、ほとんど話もしませんでしたよ。彼は、からくりなどを作ることは好きですが、自然の生物にはあまり興味ありませんし。
 彼が“呼んだ”のかもしれません。もう一人を。寂しくて耐えられずに。
 わたしは、何日も、自分とだけ向き合い、幹の木肌や葉の鋸歯などとずっと語り合って過ごした。それが楽しかったし、正直、国倫の存在は何度も忘れていた。わたしは人と接するのが苦手で、だから国倫という存在が産まれたのだと思うのですが、国倫は賑やかなのが好きなさびしがり屋です。
 その夜。森の木々が切れて星空が覗いていました。手を伸ばしたら届きそうな星の群れでしたよ。幾つか流れ星も見えました。
 仰向けになって星を見ながら休みました。その時、国倫の深いため息が聞こえて・・・。初めて、彼が人恋しがっているのに気付きました。ああ、すまないことをした、明日には帰ろうと思って。そうしたら、ふうっと、隣にその男が現れて。
“その男”と言っても自分と同じ顔ですし、隣に居たと言っても例の“部屋”の中での話です。森の中で隣に寝そべっていたわけじゃありません。でも、その時の思い出は、三人で川の字になって、星を見ていた感覚として残っています。
 変な話でしょう?」
 玄白は筆を握ったまま聞き入っていた。この美しい話を、薄っぺらい半紙に残す気になれなかった。紙はもう先を記さなかった。
 兄の顔を見せた国倫の、『弟分』であったはずの鳩渓が、今度は兄、否『姉』か『母』の慈悲と哀れに満ちた眼差しで国倫の孤独を語る。

“寂しさ”から産み落とされた李山という男の、あの鋭利な視線を思い出す。玄白といる時は殆ど顔を出さないが、普段も舵を取ることは少ないという。
「まあ、以来、三人で何とか均整を保ちながらやっています。
 突然李山が登場したことを考えると、いつ四人目が現れてもおかしくないでしょう?」
 いつ、殺人鬼の人格が現れても。

 長崎でその話を聞いてから。
『自分はいつか人を殺めるかもしれない。いつか狂うかもしれない』
 その畏れは源内の中に・・・三人の中に、ずっと付いて回った。

「だからって、私は約束はしませんからね」
 自分のぐい飲みを空にして、玄白は口をぬぐう。鳩渓は、自分の陶器を弄びながら手元に視線を落としている
「いいですよ。そう言われるのはわかっていました。ただ、あなたに知っておいて欲しかっただけです」
「・・・。」
 女に言われたら、殺し文句だと思った。
 鳩渓はただ友情の一環として想いを語っただけだろう。だが、彼のまとう弱さや一途さには危険な色気があった。本人が全く意識していないのは明らかだが。小柄な玄白よりずっと長身で肩幅もあるこの男が、まるで少女のように華奢に見える時がある。
 そっちの気のない玄白は、不思議な浮遊感を感じるだけだが。
『国倫さんも李山さんも大変でしょうね』と、二人の苦悩を思いやって苦笑する。二人はきっと鳩渓に色艶を感じていることだろう。それは、永遠に遂げることのできぬ恋だ。
 障子の外は闇に包まれ始める。行灯が作った源内の横顔が淡く障子紙にぼやける。

 玄白は思い出したように尋ねた。
「鳩渓さんは若く見えるけどもう三十でしょう?結婚なさらないのは、国倫さんたちの為ですか?」
「え、ああ」
 鳩渓は笑った。
「わたしは、故郷に好きな女性がいます。片想いですよ。今は人の嫁さんです」
 意外な答えだった。
「へえ・・・」と、玄白があげた声は、感嘆だったかもしれない。その女性を想い続けて独り身でいると言うのか。
「綺麗事言うとるんじゃない。この女児好きめが」と、自虐的に(同じ口で話すので結果的にそう見えるのだ)言い放ったのは、国倫だった。
「え?」と眉を八の字に下げた玄白に、「鳩渓のやつ、嘘はついておらんが、本当のこととは偉い違いじゃけん」と、身を乗り出した。
「あ、あの?」
 きっと鳩渓は、舵を奪われて、慌てて取り返そうともがいているところだろう。
「あいつは、“大人の女”があかんのじゃ。李山の陰間好きをとやかく言える立場じゃない。胸や尻がでかいのが駄目なのは、結局わしらと同じじゃ」

 これは、彼らの痴話喧嘩なのだと思う。玄白は可笑しくて吹き出しそうになったが、鳩渓は傷つくかもしれないし、国倫は怒るかもしれないので、下を向いてこらえていた。
 しかし、新たに発覚した鳩渓のロリコン。何というか。三人三様で、それぞれ苦労も多そうだが、仲良く付き合っている秘訣もそこにあるのかもしれない。自分に負い目があるからお互いを思いやれる。
「国倫が言ったことの補足だ」
 目を細めて玄白を見たのは李山だった。オールスターキャストである。
「ちなみに今、鳩渓は舵を取り戻そうと必死だが、国倫にはがい締めにされている。鳩渓は、俺たちとは違う種類のカッコ付け野郎だ。あんたに清廉な部分だけを見せていたわけだ」
 李山も国倫も、鳩渓をいじめて結構楽しんでいるようだ。同じ肉体なのに、国倫の方が腕力がありそうな感じがする。イメージの中でも、鳩渓が国倫から逃れるのは無理に思えた。
「何が“今は人の嫁さんです”だ。自分が自由になる為、その惚れた女に婿をあてがって故郷から逃げて来たくせに。俺はあんな人でなしは他に知らん」
 自分の分身をここまで辛辣に言わなくても。だが、鳩渓の悪口を言う李山は妙に嬉しそうだ。目が笑っていつもより柔和に見える。
「その先はわたしが自分で言います!」
 やっと鳩渓が舵を握った。鳩渓に“言わせる為”に、国倫が腕を緩めたに違いない。
 源内は江戸へ出る時、家督を妹婿に譲って脱藩したと言う。李山の言葉で察しはついていた。
「わたしが愛した女は、りよ一人。りよは十五歳下の妹です。でも指一本触れたことはありません」
 こういう言い方が国倫たちに「ええかっこしい」と笑われる部分だろう。よく言えば、ロマンチストだ。玄白はうんうんと頷いてみせた。

 弟のような純亭が目をキラキラ輝かせ、『かっこいいんですよ、源内さんって』と語った男。藩費で長崎に留学するほど優秀で、江戸へ出てもいきなり田村藍水のお気に入りとなるほどの秀才。そこそこの美貌の持ち主で、絵もうまければ俳句も詠む。考えてみれば、玄白のようなぱっとしない男が、一番嫉妬を感じるタイプの男性だった。
 だが。
 面白い。この男は、面白すぎる。

 玄白は、ますますこの男に好感を持った。

「こういう告白大会になるとは思いませんでした。
 私も何か明かしましょうか?」
 鳩渓にだけ恥ずかしい思いをさせるのも、居心地が悪い。
「私の初体験は十五で。酒井中屋敷の五つ年上の女中で」
「いや、い、いいです。すみません。お恥ずかしいところをお聞かせして」
「私がこの歳でまだ結婚しないのは、女に惚れるのが怖いからです。情を抱くのが怖い。父を見ていますから。
 父は二人の妻と妾一人に死なれました。医者が、愛する女を病で亡くすのは、つらいものです」
「玄白さん・・・」
「私は、女に・・・いや、男にでもですが。人に惚れたことがない。情の深いあなたに比べたら、欠陥者ですよ」
「いえ、そんなことは・・・」
 酒に強くない玄白は、ぐい飲み一杯で酔っていたのかもしれない。世界を掌で転がしてもおかしくないような天才が、自分の前でしょぼんと首を垂れている。おかしくて仕方がなかった。五歳年長のこの男が、とても可愛らしく思われた。
 記録を取った半紙は数枚にすぎないが、それを無造作に折ってたたんだ。明日、焚きつけに混ぜて燃してしまおうと思う。
 話してくれたことは心に刻まれ、忘れることは無いだろう。『記録』はいらない。経過見でも監視でもなく、ただこの男が好きだから、この先も一緒にいようと思った。

「腹、減りませんか?蕎麦でも食べに行きませんか」と、玄白は食事に誘った。
「あ、いいですね。珍しくいっぱい喋ったせいか、お腹が空きました」
 鳩渓は嬉しそうに立ち上がる。
 例の“部屋”で、国倫と格闘したせいもあるだろうと、玄白はくすりと笑った。

 二人の間柄は、歳を経ても、立場が変わっても、続いていく。
 二十年後の源内の死まで。いや、六十年後の玄白の大往生まで、その想いは継続された。老いて玄白が書き残した文の中で、平賀源内は生き生きと呼吸して江戸を日本を飛び回っている。


第4章へつづく

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