★ 私儀、甚だ多用にて ★
★ 第四章 ★
★ 1 ★
『中川純亭です。十九歳です』
率直そうな丸い瞳の青年が、畳に膝をついてぺこりと頭を下げた。江戸生まれの医者の息子は見るからに華奢な体つきで、年齢より幼く見える。
田村藍水の元で純亭と会った時、三人とも・・・鳩渓も、国倫も、李山でさえ、自分が十九の頃に思いを馳せた。
純亭を見る度に胸がひりひり痛むのは、自分の十九を思い出すからだ。自分の歳は既に、当時三十六歳だった頼恭の方に近い。
「私の開業祝いは、大層なことを計画していたらしいですね」
玄白邸を訪れた純亭は、「あーっ、知られちまいました?」と屈託なく笑うと、目をくりんと回し、「源内さんから聞きましたね。でもあれは、源内さんが提案したんですよぅ」と人のせいにしてお茶をすする。
冗談で、堅物玄白を吉原へ連れて行く話で盛り上がった事を差していた。
「そうじゃったかの?」と、国倫@源内はとぼけて胡座を組み直す。
今日は玄白の休診日で、儒学の授業をサボりたい源内と遊び盛りの純亭は、ここで待ち合わせして両国橋へと繰り出すことにしていた。
「私はとっくに“大人”です。子供の純亭に、嫁さんを貰った後のことなど気配ってもらわなくて結構」
「私だって子供じゃありませんよっ。・・・なんだ。でも、心配して損した。いったいいつの間に」
「余計なお世話です。私は純亭みたいに、ペラペラ喋らないだけです」
幼なじみにも似た二人のやりとりは微笑ましくて、国倫は笑みを浮かべる。日々の勉強で知った考察や、先生の噂話、色恋のことまで。純亭は、兄のような玄白に何でも話さずにはいられなかったのだろう。新しい知識が指から溢れ出して、驚きに心が踊って。瞳を輝かせて語ったことだろう。
二人の兄は早世し、女きょうだいばかりだった源内は、近所の渡辺桃源や安芸文江と遊んだ。彼らは源内より少し年上で、源内を可愛がってくれた。二人とも裕福な商人の息子であり、きちんと学問を受け、たくさん本も持っていた。特に桃源とは、詩作や勉強、私生活のこと等もよく報告し合った。腹を割って話せる親友だった。・・・多重人格のこと以外は。
「ねえ、源内さんは?」
と、急に純亭が自分に話を振った。好奇心が瞳に現れている。
「今度はわしかいね」
国倫は苦笑した。
「衆道の場合は、どれが初めてか特定しづらいけんね」
「さっ、そろそろ行きましょう」と、玄白が立ち上がった。玄白だけが赤面している。彼は色恋の話が苦手だ。国倫の表現がいつも露骨なのを知っているから、途中でとっとと切り上げた。
「行くけん」と、国倫も立ち上がる。元より話すつもりもなかったのだが。
純亭だけが、「えーっ」と不服の声を上げて口を尖らす。
* * * * *
松平頼恭が二十九歳で高松藩主に就く。源内が十二歳の時のことだ。
当時の源内・白石嘉次郎(かじろう)は、『御神酒天神』のからくりで近所でも有名になった頭のよい子供で、天狗小僧などと呼ばれていた。
御神酒天神は、掛け軸の前に徳利を置くと絵の天神様の頬が酔いで染まるというトラップだった。天神様の頬が丸くくり抜いてあり、徳利の重さで糸が攣れ、裏に仕込んだ朱色の紙が引っ張られるという仕組みだ。
当然、本物の掛け軸を切ると叱られるので、絵も自分で描き、掛け軸らしい体裁も整えた。こういうコツコツとやる仕事は鳩渓のものだ。鳩渓は絵もうまく、細工仕事も器用にこなした。そして、からくりを考えたのは国倫だった。
桃源に見せると「すごいすごい」「嘉次郎は天才じゃ」と腹をかかえてウケた。
得意になった嘉次郎は、家にそれを飾った。
「見てください、母上!」
床の間に自作の掛け軸を飾り、水を入れた徳利を置く。母は赤子を背負い、乱れた髪を掻き上げながら面倒そうに立ち止まった。
狩野派を模した天神様の頬が染まる。
だが、母の荒れた唇からは、感嘆は洩れなかった。
「天神様の顔をくり抜くなんぞ!罰があたるけん!・・・なんて怖いもの知らずの子じゃ」
「あ・・・す、すみません。考えが足りませんでした」
鳩渓は頭を下げて詫びた。
弟が背で泣き出し、母は慌てて前へ抱いて着物の胸をはだけさせた。醜悪で白い脂肪の塊が粗末な布の間から飛び出し、赤子はそれに口を寄せた。
母は普通の田舎の農婦で、子を産み育てる為に作られた器だ。とうに考えることは止めているように思えた。この女と言葉は通じないのだ。
反対に、父の白石茂左衛門はこのからくりを見て面白がり、近所の者をわざわざ呼び集めて自慢までした。
蘭書の輸入と翻訳が許されるようになったのが享保五年。嘉次郎の生まれるたった八年前のことだ。吉宗の治世、勉学が推奨され始めた。父はもう少し遅く生まれていれば、違う人生を送った男だったかもしれない。
白石家の禄が低いのに飢える事が無かったのは、父が作った畑のおかげだった。気候と土と植物の理屈を独学で学んだ、父の畑作りは成功していた。
頼恭が高松の殿様になり、さらに領内に学問を勧める風潮が広がった。殿は、特に本草学の発展に力を入れた。幕府が推す「殖産興業」に一役買う学問ということもあるが、殿ご自身が狩りや散策がお好きで本草学に興味を持っていることが大きかった。
嘉次郎も、十三歳になると、地元にほど近い儒学の菊地黄山先生に学びつつ、遠く陶(すえ)村の三好喜右衛門に本草学を学びに通った。
息子の三代目・喜右衛門は嘉次郎の四歳年上。彼も高松城近い菊地先生宅へ学びに来ていた。富豪の息子である彼は馬で通う。嘉次郎もそのまま相乗りで便乗し、三好家で数泊して学び、二日かけて志度へ帰るということを繰り返した。三代目喜右衛門からは、勉強もそうでないことも、色々と教わった。いいことも悪いことも。
親友・桃源も裕福な商家の息子で、やはりワルだったように思う。彼は、どこで手に入れたのか枕絵などもよく持ち歩いていた。自慰を教えたのも桃源だった。海で泳いだ後や山を散策して遊んだ後、気持ちは昂って体はほどよく疲れている。どちらが「先にいくか」を競争したりした。何の迷いも無くお互いの自慰を手伝いもした。『どれが初めてか特定しづらい』と国倫は言った。喜右衛門とは肌は重ねたが一線は越えなかった。ただ、彼は、興奮剤となる薬やら、幻覚剤になる草木やらを教えてくれた。
嘉次郎は、見目のいい青年だったようだ。
すらりと長身で、だが肩幅もあり筋肉がある。涼やかな目元、鼻筋の通った顔立ちは、志度の田舎では十分に目立った。しかも、村始まって以来の秀才との噂だ。娘達は色目を使ったが、嘉次郎は全く取り合わなかった。女に興味どころか、既に嫌悪感を抱いていたのだ。すると今度は娘達は口々に嘉次郎を悪く言った。
志度の海は青く美しい。緑に輝く大地も、地に生える草木も、嘉次郎は愛した。だが、狭量すぎる田舎の村で暮らすのは、息苦しかった。
白石の家で、唯一ほっと心が安らぐのは、四歳の妹・里与と接する時だけだ。赤子の時、高熱を出した里与を、嘉次郎の薬草の知識が助けた。そのせいか、他の妹の誰より里与が可愛かった。喋れるようになると、嘉次郎が庭の草木の名を真っ先に教えた。請われるままに、よく花の絵も描いてやった。
幼児はデフォルメされた愛らしい絵を好むものだ。だが、嘉次郎は精密な花を描くので、今までは他の妹たちには受けが悪かった。唯一、里与だけが、「ほんものみたいじゃ」と喜んでくれた。
★ 2 ★
本草好きの頼恭は、領内の草木を調べる為、季節ごとに調査隊を出していた。薬園方・草木方の役人と小姓と目付。十人位の編成で5日ほど山を巡り、珍しい草木を採集し、棲息状態を調査するのだ。
嘉次郎は御薬坊主見習いとして、その隊に参加することになった。藩医の菊地黄山から、嘉次郎の秀才ぶりが藩に語られたのかもしれない。蔵番の息子としては、異例の抜擢だった。
十九で初めて高松城に上がった。と言っても庭で集合して出発するだけで、殿にお会いするわけでもない。普段の着物と袴に、履き慣れた草履という姿だ。髪も、侍でなく学者だという意識が強かったので、総髪で茶筅に結んだだけだ。最も、他の侍達は月代を剃って帯剣もしていた。
嘉次郎は、刀でなく短剣を腰に差す。それで枝も切るし石も砕く。今で言うサバイバルナイフのようなものだ。
山歩きに、長い日本刀は邪魔だと嘉次郎は思う。この調査隊は開始して三年になるそうだが。侍達はその不便さにまだ気付かないのか?
全員が揃うのを待ちながら、嘉次郎はぼんやりと庭石に座り込み、灌木越しに隣の庭を見た。殿様の相手をする為なのか、青年侍が蹴鞠の稽古をしていた。袴の裾を紐に入れてたくし上げ、金糸の着物も諸肌脱いでいる。汗だくでリフティングの練習の最中だった。
胸板の厚い筋肉質の男で、なかなかボディバランスがいい。年季の入った粗末な毬を、爪先から額、額から胸と、自在に飛ばす。乱れた髷がほつれ、逞しい首に汗で幾筋も張り付いていた。
女の着物がはだけていても、少しも色気は感じない。だらしないと不快に思うだけだ。
蹴鞠の侍に見とれているのは国倫だった。この頃にはもう中に李山もいたが、彼は年下の男が好きらしい。こういう時の鳩渓は特に含みも無く、ただぼんやりと国倫と行動を共にしている。
侍は、右足で高く蹴り上げると、くるりとターンして後ろ足で受ける大技を試みた。汗が四方に飛んで陽に光った。
「あっ」
残念ながらうまく履物の裏に当たらず、ころころと嘉次郎の元へ転がった。
嘉次郎は拾い、投げて返す。
「かたじけない」と笑う青年の歯が溢れた。
「足首が、まっすぐに伸びすぎていたけん」
「え?」
「最後の、受けるところ」
「・・・。」
集合を告げる声が聞こえ、嘉次郎は慌てて石から立ち上がった。
「本草の調査隊の者か。名は?」
「白石嘉次郎。御薬坊主見習い」
「おまえが噂の天狗小僧か」と、侍は笑った。
不審に思いながら、嘉次郎はぺこりと頭を下げ、集合場所へ早足で戻った。
高松の殿様が蹴鞠が得意で、「紫袴」という免状まで得ているのは、だいぶ後で知った。だってまさか、殿様が一人でリフティング練習をしているなどとは思わない。正式に頼恭と会うのは、もう少し後のことだった。
嘉次郎は毎回隊に加わり、既に二度目の秋を迎えてた。二十歳を過ぎても相変わらず、草木と話し、草の絵ばかり描いている偏屈な青年だったが、彼が加わってからの調査はめざましい成果を上げた。嘉次郎が過去に収拾した草木薬草の種類を全部頭に入れているので、隊は重複して採取することがなく、手間も荷物も減る。また、過去のデータ・・・気温と季節、高度、日当り、土の種類などの多くの情報を系統立てて、「新しい種」の棲息地を見つけ出す才能に長けていた。
高松城に隊が帰宅して。荷を解いて外の井戸で手を洗っていた嘉次郎の耳に、調理場から「明石の鯛じゃ」「今が旬じゃけん」という声が聞こえた。
鯛の図は写したことはあるが、本物は見たことがない。勝手口から中を覗くと、厨房勤務の料理人たちが桶で撥ねる桜色の魚を囲んで賑わっていた。
「すまんが・・・生きた鯛の絵を、ちいと描かせてくれんかのう?」
嘉次郎は既に荷から紙と矢立を抜き取り、しっかり握っていた。
「何言うとる、少しでも新鮮なお魚をお殿様に食べて戴こうと、みな苦労しとるんじゃ!」
「そうじゃ。描いてる間に目が死んでしまうぞ。
さ、さ、はよう焼いてしまおう」
「けち!」
「何がけちじゃ!」
「・・・焼いているところでもいい、描かせてくれ」
「未練がましい男じゃの。邪魔だ」
「描かせろ」
嘉次郎は、塩まぶしにされ網に乗せられた真鯛を写生し始めた。料理人達は、わざとらしく竈の火を仰いで煙を立てたり、水桶を抱えて肩にぶつかったり、嫌がらせをした。
ゴホゴホと咳き込みながら、目を擦り、半分ほど描いたところで、「白石殿!」と呼ぶ声がした。振り向くと、調査隊の薬園方の侍だった。
「殖産参謀長が呼んでおる。おぬし、何かやらかしたか?」
「えっ、西尾様が?」
「白石嘉次郎、参りました」
おそるおそる西尾縫(ぬい)の居室を訪ねる。
「やっぱり。汚いナリじゃの」
縫は、嘉次郎の身形を頭から爪先まで眺め、ため息をついた。泥だらけの足袋は点々と廊下を汚し、部屋の畳にも砂を落とした。
「調査から戻ったばかりですので」
言い訳しつつ、さすがに砂はまずいと思い、足先で払った。本人は気付いていないが、魚を焼いたそばにいたので、煤が顔を汚していた。
「まあ、今回の採取もおぬしのおかげで上々らしい」
笑うと、縫がまだ若いのがわかる。まだ三十代だろう。嘉次郎もにっと笑い返した。殖産参謀長は嘉次郎の仕事を評価してくれていた。
「風呂に入って体を清潔にしたら、これを着てくれんかの」
畳の上を、こざっぱりした着物を滑らせて縫が言う。古い布だが洗濯も糊も効いている。足袋と下着は新品だ。
「私の古着で悪いが、その格好で殿の御前に出すわけにはいかん」
「殿の御前?」
「褒美に、おぬしを夕食に招待するそうじゃよ」
「わしをですか?」
頭にぽかりと縫の拳固が落ちた。
「殿の御前では“私”と言えよ」
★ 3 ★
「どうした、膳はまだか?」
頼恭がせかすように扇子を動かす。金の塗りが雪洞の灯でその度にきらめいた。縫はちらちらと次の間を伺う。
「は、今、お毒味中で」
「嘉次郎はまだか?」
「そろそろ参ると思いますが」
「駄目ですっ!」
「ええじゃないか、描き終わるまで毒味を待てと頼んどるんじゃ!」
声と、どたどたと争う音がして、頼恭自らが立ち上がり襖を開けた。箸を握った毒味係と筆を握った嘉次郎が、掴み合いになっていた。毒味の頬には筆が擦ったか墨で横に『一』の字が書かれている。
「殿、こいつが、毒味で箸を付ける前に鯛の絵を描かせろと・・・」
「あ、あの時の蹴鞠侍!」
嘉次郎は頼恭を見上げて筆で指差した。嘉次郎は、またぽかりと縫に拳を貰った。
「かたじけのうございます」
嘉次郎は膳の前で深々と礼をすると、矢立の筆を取った。さっき厨房で半分ほど描いた紙に続きを始める。
「おまえは・・・面白い奴だな」と、頼恭は笑った。『怖いもの知らず』と言おうとして言い換えたのだ。自らを『怖い者』としてはまずかろう。頼恭は、身分に関わらず優秀な者を登用し、藩の力を強化する計画を立てていた。さばけた殿様を目指しているのだ、偉そうなイメージはマイナスになる。
「俺は腹が減っているのでな。なるべく早く描き終えてくれよ」
「かしこまりました」
嘉次郎は、頼恭の顔も見ずに返事をする。
「そういえば。おまえの言う通りに足首に余裕を持って受けたら、後ろで毬をうまく飛ばせたぞ」
「そうでしょう?」
「・・・。」
呆れた青年だった。藩主の自分に対等な態度で接する。敬語は使い、深い礼もするが、形式だけなのは見てわかる。
「お待たせしました」と、意外に早く嘉次郎は手をおいた。それでも手元に描かれた鱗魚の画はみごとに精密だった。
「少し塩が強いようです」
嘉次郎はそう言うと、縫に背中を小突かれた。
「味見じゃない、毒味だ。感想はいい!」
頼恭は横を向いて笑いをこらえている。箸を握る手も笑いで震えた。
鯛の身を口に入れると、「なるほど、確かにしょっぱいか」と素直に頷いた。
「だが、塩は味付けだけでなく、腐敗防止の効果もあるのでな」
「防腐なら酢みかんで代用されてはどうかの。あれは隣の阿波の名産ですが、讃岐に無いわけでは無い。気候的にうちでも育ちますけん」
「蔵番ふぜいが殖産計画に口を出すな」と、また縫が拳固を振り上げるので、嘉次郎はひょいと避けた。
「わしが蔵番のわけじゃない。わしは学者だ」
「それは正論だな、御薬坊主見習い」
頼恭は声をたてて笑った。
食事が済むと「酒は飲めるか?」と聞かれた。
「少し。弱い方です」と答えると、「そちにも弱いものがあったか」と、また頼恭は笑う。
『もしかして、いい感じじゃないか?』と、李山が肘で小突くのを感じた。声にからかいは含まれるものの、背を押してくれる気持ちは十分感じた。
国倫は、あの蹴鞠の時も、頼恭を美しいと思って眺めていた。焦がれた、と言っていい。
殿が、若くて美しい小姓を好むのはよくあること。
『国倫さんはお小姓じゃないし、ハタチじゃもう若くはないし、だいたい美しくも無いでしょう!』
国倫が期待する出来事に抗議すべく、鳩渓が厳しい口調で反論する。
「隣へ来て酌をせんか」
首の後ろがトクトクと激しく鳴った。「はい」と珍しく素直に返事をし、頼恭の隣に座る。杯に酒を注ぐ時、手が震えた。
「どうした?」
「殿の御前で、緊張しております」
「今さら、よく言う。俺よりずっと度胸がよさそうに見える」
「滅相もございません」
「可愛いところもあるのだな」
国倫は黙って下を向く。
頼恭は、その耳に口を寄せて小声で囁いた。
『閨に行くぞ?いいな?』
やったっ!!・・・ガッツポーズ!殿様ゲット!
心の中で国倫は拳を握り両手を挙げる。
『こら、急に手を離すな!』と李山が慌てて舵を支えた。
「二人とも、待ちくたびれておるぞ」
頼恭はにやりと笑うと扇で仰いだ。
「・・・えっ?」
「そちは、胸の大きいのと、若いのと、どちらがよいか?」
「あ、あの・・・」
『それが普通の接待だと思いますよ?』と、鳩渓はぷいとそっぽを向く。国倫のスケベ心が打ち砕かれて、ざまあみろと思っている。
「申し訳ありません!」
国倫は、畳に額を擦りつけて詫びた。
「粋なはからいに感謝はいたしますが、わしは心に決めた人がおります!無骨な田舎学者ですけん、無粋はご勘弁いただきたい!」
難を逃れた嘉次郎は、別室に寝所を作ってもらったが、結局寝つかれずに月を見に出てきた。大徳利から直接酒を含む。さわさわと、風が疲れた長い草を泳がせ、秋の虫が歌を自慢していた。
手に握った真鯛の画を眺める。半分は生で、半分は塩焼きという妙な絵だ。
殿を怒らせるまではなかったが、気分は害されたようだ。まあ、仕方ない。
初めて口にした明石の鯛。ジャリと、歯に痛いような塩の辛さだけが、いつまでも嘉次郎の唇に残っていた。
第5章へつづく
表紙に戻る