★ 私儀、甚だ多用にて ★

★ 第五章 ★

★ 1 ★
 
 結局は頼恭に気に入られたのか、嘉次郎は薬園常勤を言い渡された。
 嘉次郎のように遠方のものは城の寮に暮らした。交代で休みがもらえるので、志度へはその度に帰った。

 帰っても、白石家には殆ど居ず、渡辺桃源の家で過ごすことが多かった。二十五歳になった桃源は父の仕事を手伝い、立派な若旦那になっている。既に女房も貰い子供も生まれていたが、嘉次郎といると童心に返るらしく、はしゃいでよく二人で馬鹿をやった。
「長崎から大坂へ行く船が着いた。荷物を見物するじゃろ?」
 もちろん、と嘉次郎は立ち上がる。
 渡辺家の親類の宇治屋は回送業・・・今で言う運送屋と貿易商を一緒にしたような商売をしていた。嘉次郎も詳細は尋ねなかったが、桃源は渡辺家の養子であり、彼の挙動を見ていると宇治屋は実家なのかもしれないと察した。宇治屋は大坂の加賀屋とは更に親戚関係にあった。加賀屋は、五箇所商人の唐反物屋・・・長崎から入る舶来品を売る許可を貰っている店であり、宇治屋の船にも加賀屋へ届ける舶来の品物が積まれている。長崎の街で普通に売られる着物や雑貨もデザインは和蘭風や唐風が目立ち、それらは志度でも降ろされる。その為の寄港だが、桃源は宇治屋の者に軽く会釈するだけで積荷を覗くことができた。

「びいどろの鼻煙壺ですか。きれいですね。どう使うのでしょう?」
 丁寧に紙包みを解いた鳩渓は、握り拳大の透明な瓶を蝋燭の灯に透かした。船倉の薄闇に、きらきらと光が反射する。
「こちらは陶器じゃが、みごとな赤色。青もある。なんと鮮やかなこと。異国の色じゃのう」
 桃源も別の包みを解き、ため息をついた。
 嗅ぎ煙草の為の鼻煙壺はガラスや陶器製で、唐物だった。葉の方は、残念ながらこの船には無い。鳩渓が本当に興味のある薬草や香料は唐薬問屋の扱いなのだ。
「羅紗がありますよ。これは絨毯には小さいですね。敷き布団位です」
 ラグなのだろう、単色織りだが太い糸の陰影で模様があるように見える。灯をかざすと偉人の顔が見えてくる気がして、鳩渓は子供のようにドキドキした。
「ボタンとは綺麗なものじゃの。どのように使うんじゃろう?」
 布のくるみボタンや木製の飾りボタンが木箱に何種類も納められていた。くるみボタンは紅色や浅葱やらの布に花の形に色糸で飾りを付けたものまである。
「着物に縫いつけるのでしょう?ほら、穴が開いている。ここに糸を通すんですよ、きっと」
「ボタンは蛮国の言葉だな。阿蘭陀ではコノブと云うんじゃ」
 嘉次郎が利発さを見せると、今度は桃源が博識をひけらかす。
 一通り荷を見て楽しむと、鳩渓と李山が体の中で入れ替わる。李山が荷を丁寧に元通りに包装する。紙の折り目もそのままに、紐の跡の通りに結ぶ。刀でヨレ一つなく剥がした封印を元の場所に貼り、出来上がりだ。嘉次郎は右手の人差し指が長く、細工物をするのには便利な手だ。李山は器用で冷静なのでこういう仕事は得意だった。
 李山は、それまでの鳩渓と国倫の一部分を請け負って生まれたようだ。草木の絵も以前は鳩渓が描いたが、李山の方がうまいのがわかり、交代することにしていた。
 
 船を降りた二人は港に腰を降ろし、一服する。
 讃岐は温暖な土地だが、風はもう秋のもの。船底が蒸したのと、興奮したので汗をかいたが、それが乾いて今は寒いほどだ。鳩渓は膝を抱えた。
「寒いか?ほら、吸うか?」
 桃源は半紙に刻み煙草を巻いて吸っていた。鳩渓が頷くと、それをそのまま渡す。数口吸って煙をふうと吐くと、「桃源さん、阿片の入れすぎですよ」と苦笑して煙草を返した。
「決まった量を守ってくださいよ、危険なんだから」
「すまん、すまん」と若旦那は頭を掻いた。
 煙草は刻みを煙管で吸うものだが、桃源も嘉次郎も阿蘭陀風を真似た。元は、桃源が大坂で手巻き煙草を見てきて、刻み煙草を半紙に巻いて吸い始めたのだ。
 阿片は三好家で教わったが、あの家では数年に一度、少量を裏で買いつけて来るようだ。かなり高価なものなのだろう。ケシから作れることを聞いた嘉次郎が桃源に教えると、彼は苗を手に入れ自分の庭で栽培を始めた。未熟果から採取できる液体を加工乾燥させて生阿片を作ったのは鳩渓だ。
 阿片自体は二百年以上前に日本に到来している。薬用のみの使用だったのか、鳩渓たちのような使用法は知らなかったらしく、浸透しなかったようだ。この時代でもケシは栽培されていたが、食用の実(ケシ粒)を採る為であった。
「桃源さんは、煙草に混ぜずに茶に入れて摂りなさいな。その方が体に害は少ない。まだお子を作るのでしょう?」
 腸内吸収の方が、喫煙で脳内中枢に直接至るよりはだいぶマシである。アジアで阿片中毒患者が多かったのは喫煙で摂取したためだ。反対に欧州では経口なので被害は少なかった。
「桃源さんは、仕事で大坂へ行けるなんて、いいですよね」
「大坂はたいしたことないけん。やっぱり長崎じゃの」
「・・・そうですね。やっぱり長崎へ行きたいです」
 二人で大きなため息をついて、長崎帰りの大きな帆船を見上げた。
「わたしは、やっとのことで、“高松城”です。長崎は遠いですねえ」

★ 2 ★

 嘉次郎は研究者として薬園に呼ばれたが、実際は人足に混じって地を掘り起こすことも多かった。庭園の一部を改築した薬園は、まだ整備の途中である。御薬坊主は侍医扱いで城内では一目置かれるものの、見習いのハタチの嘉次郎は雑用係りだった。
 父母の畑仕事は時々手伝っていた。土を耕すのは嫌いで無いし、肥桶を担ぐのも慣れている。
 この薬園の最大の目的は甘蔗(さとうきび)と朝鮮人参の栽培だったが、もちろん他の薬草も栽培している。嘉次郎は、甘草・無花果・糸瓜などの担当で、甘蔗の敷地に近寄ることもできない。甘蔗の係りは薬草方の偉い学者達だった。
 甘蔗はそろそろ収穫の時期だ。本当なら嘉次郎の背・五尺七寸(約175センチ)位に育っているはずだが、遠目で見て肩程度しか無い。細い緑の葉たちが、茶筅まげのようにひらひらと冬の風に揺れていた。

「殿様が狩りから凱旋じゃ。猪を仕留めたそうじゃ」
 同僚に噂を聞き、門まで見学に行った。
 ほど太い枝に猪の四肢を縛り付け、その前後を足軽二人が肩に担いでいた。枝はしっかりした太さだが、それでも獲物の重さで中心がしなっている。
 絵でしか見たことのない猪は、全身が黒いわけでなく、濃い灰色の部分と焦げ茶の部分が混在していた。血に汚れた毛は地に垂れ、牙だけが白い。顔は見えないが、枝に縛られた硬そうな爪は見て取れた。
 野袴姿で姿勢よく進む頼恭がいた。『相変わらずいい男じゃのう』と国倫はため息をつく。鉄砲を持つ小姓に何やら笑いながら話しかけていた。ちょっと羨ましくて、ふんっと足元の小石を蹴る。
「今夜はイノシシ鍋だな」という頼恭の低い声が風に乗って聞こえた。
『あ、そうか。料理で捌く前に描かせてもらえんかのう』
「おお、天狗小僧じゃないか」
 頼恭は嘉次郎を覚えていた。列で迎える者の中で特別に声をかけた。
「猪を間近で見たことは無いだろう?紙と筆を持って来るといい」
 殿がご自分から言い出したことであり、今回は厨房でもいじめられずに絵を描くことができた。

 その年に収穫した甘蔗は、砂糖の元になる茎も短く細く、わずかに甘い汁が摂れただけだった。精製など夢のまた夢だ。
 朝鮮人参は順調らしいが、あれは自然栽培が最高品種と言われている。自生に近い状態で収穫できるのは百年先だとか。気の長い話である。
 嘉次郎は、年末も志度には帰らなかった。年末年始は作業の手が減るので、希望してここに残った。白石家に帰りたくないのはいつものことだが、今の時期は桃源のところだって忙しい。客は迷惑だろう。
 人が少ないと言っても、冬に手入れが必要な薬草は少なく、嘉次郎は暇だった。仲のよい同僚も皆帰省した。
 嘉次郎は昼食の後は庭園の隠れ場所にいた。ここは彼が見つけた灌木の茂みで、中を過ぎると座って足を伸ばせるスペースがある。高松城は瀬戸内の海水を堀に回り込ませた海の上の城で、見晴らしがいい。その茂みの中からでも海は臨めた。遠く霞むのは小豆島だ。

 鳩渓が手巻き煙草をふかしていると、背後で蹴鞠の音が聞こえた。庭園で頼恭が練習を始めたらしい。
 と、音が止み、こちらに近づく足音がした。煙が昇っているので、不審に思ったのかもしれない。
『まずい・・・』
 鳩渓は茂みの中に頭を抱えて隠れた。頼恭が茂みを越えて広い場所に入って来た。くんくんと鼻をならし、煙を確かめた。嘉次郎はますます腰を曲げて小さく丸くなる。
 まるで隠れてトイレで喫煙する高校生である。それも、担任や生活指導でなく、いきなり校長に見つかったというやつだ。
「こら、火事になったらどうする。だいたい何故隠れて吸う?」
 嘉次郎の天井から声がした。首を上げたらにやにや笑う頼恭と目が会った。
「薬園方には黙っててやる。その変わった煙草を俺にも吸わせろ」
 すごすごと灌木から這い出すしかなかった。

「ほう。半紙に巻いているのか。荷物にならなくて便利だな」
 煙管は長くて邪魔になるのだ。
「中身も普通の煙草では無いのですが。いいですか?」
 阿片が混じっているとはさすがに言えないが、念だけは押しておく。ごく少量だし危険はないと思う。
「お酒は召し上がっていませんね?」
「細かい男だな。早くよこせ」
 気の短い頼恭は、嘉次郎の指からシガーを奪い取る。厚い唇が、既に湿った吸い口を躊躇なく覆った。精悍な口許が皺を作り、多くの煙が吐き出される。
「あと二回吸ったら返してください」
 吝嗇で言うのではない。いきなり多量に吸わせると危険だ。
「高松で俺に命令する奴は、るせ(側室)と西尾とお前くらいだ」
 文句は言うものの、きちんと返してよこした。

 二人は、灌木に背をもたれて小豆島の影を見ながら、一本の煙草を交互に吸った。
『国倫さん、替わってくださいよぅ』
 鳩渓は内へ呼びかけるが。李山が『だめだ』と指を振った。
『国倫は阿片酔いしている。吐かずにいるのが精一杯のようだ。殿の御前に出られる状態じゃない』
 下戸の鳩渓はクスリには強かったが、酒に強い国倫はクスリが駄目だった。
『わたし、殿と一本の煙草を吸い合ったりしたら、国倫さんに恨まれますよぅ』

 頼恭は少しトランスに入ったのか、瞼が重そうだ。
「これは・・・惚れ薬か?」
 靄のかかった瞳で鳩渓を見つめた。
「ああ、そういう効果も無いわけじゃありませんね。心が緩やかになって、空がいつもより綺麗に感じたり。女も綺麗に見えるかもしれない」
 鳩渓は鈍感だ。男に興味ないせいもあるが。頼恭が、鳩渓の切れ長の目や、その目尻のホクロ、そして首筋に視線を動かしても全く気付かなかった。
 にこやかに、まるで整腸剤の説明でもするような爽やかさで言葉を続ける。
「わたしは試したことはありませんが、これを摂取してコトを行うと普段より良いと言う人もいます」
 眠そうだった頼恭の目がぱちりと見開かれる。
「そんな素晴らしい効果があるのかっ?」
 素晴らしいと問われて、価値観の違う鳩渓は返事に困ったが、頼恭の勢いに押されたまま答えを返す。
「え・・・。だから、人づてですけど」
「これ・・・貰えんか?」
 ぼうっとした調子で『まあ、いいですが』と言おうとした鳩渓を突き飛ばし、李山が舵を取った。
「一つお願いがあります」
 権力者の頼みを叶えるのに、見返り無しでやってたまるかと李山は思った。
「何だ?」
「俺を甘蔗の係に回してください」
「それは構わんが」
「ありがとうございます!」
「では、これは貰ったぞ」
 頼恭は、吸いかけのシガーを摘んだまま、庭へ戻って行った。
 イギリスが阿片で清国を自由にしようとするのはだいぶ後のことだが。嘉次郎は、こうして一本の阿片入り煙草で、甘蔗係りの地位を手に入れた。


★ 3 ★

 次の一年は頼恭は江戸へ出ていた。
 殿の一声で甘蔗係に格上げされた嘉次郎は、当然嫌がらせにも遭った。陰口だけでなく、面と向かった厭味。仕事から帰ると、宿舎の部屋が荒らされていたこともある。布団を隠されたこともあった。
 長屋造りの宿舎は薬園勤務者の為に建てられたものだった。隣室には、同僚で医者の息子の池田玄丈が住んでいた。彼は、「今夜は私の部屋で寝てください」と言ってくれた。翌日には荒らされた部屋の片付けも手伝ってくれた。
 まだ十七、八歳だろうか、育ちのよさそうな素直な男で、嘉次郎が受けた仕打ちに頬を赤くして憤慨した。
 嘉次郎は、そうきれいな方法で甘蔗係になったわけではない。鳩渓も国倫も李山も、仕方ないと思っていたところもあるし、志度でも生意気で上の人間から嫌われた。出る杭が打たれるのは承知だ。こういう仕打ちは慣れていた。
 だから、玄丈が自分の為に怒るのが、微笑ましくもあった。
「嘉次郎さんが有能だから、みんなひがんでるんですよっ!」
 割れた茶碗を拾い集め、玄丈が口をとがらす。嘉次郎・・・鳩渓は、書き損じの半紙を濡らして千切ると畳に巻き、それを箒で集めて捨てた。水に緩く糊を混ぜてある。散った陶器の破片は、これで全て集められた。
「このやり方、何の書に書いてありました?」
「わたしが今思いついただけですよ」
「すごいっ。やっぱり嘉次郎さんはすごいです〜」
 無邪気に鳩渓の腕を取って、ぴょんぴょんと跳ねた。
 彼が慕ってくれるのは嬉しい反面、注意が必要だ。
『わたしの同僚には、ぜぇったいに手は出さないでくださいねっ!』
 わたしのって何だ、俺にとっても同僚だぞなどの抗議が内から挙がったが、すぐに黙った。鳩渓は、長く連れ添った出来のいい(つまり強い)女房みたいな、有無を言わさぬ口調で物を言う時がある。そういう時は、絶対に守らなくてはならない。破ると、半端でなく怖いのだ。二人はそれを身をもって知っていた。

 甘蔗は琉球や薩摩、暑い地方で育つ。讃岐も温暖ではあるが、暑さでは敵わない。薬園で一番陽の当たる場所に畑を配置したものの、去年は育ちが悪かった。
 今年、少しずつ薬園の植物が頼恭の庭園へ移動することになった。今までは岩清尾塔山の西芳寺そばにあったが、朝鮮人参や甘蔗が軌道に乗った場合、警備の困難が予想された。また、薬園の仕事をする者達も、遠くまで出かけるのに時間が無駄になっていたのだ。
『では、あの庭を使えばいい』と頼恭は簡単に言ったそうだ。権威の象徴でしかない立派な庭園など必要ない、と。おかげで、美しく広大な敷地が、薬園として使えることになった。
 新しく植え換えるものについては、新米の嘉次郎の意見も通った。砂を運んでもらい、それを混ぜた畑に甘蔗を植えた。
 さらに、嘉次郎の提案は、周囲の温度を上げる為、陽の当たる方向以外の三方に白い布を張ることだった。畑の回りに布団干しのような棹立てを作り、布をかける。動く陽や風通しに合わせて、布を外したりかけたりするのだ。手間はかかるが、反射で温度は上昇する。
 水のやり方も、琉球の降雨量の記録を参考にしたらどうかと提案した。元々讃岐は雨の少ない場所である。植物には必ず人為的に水を大量に与えなくてはならない。
 生意気な口を効く奴と思って見ていれば、雇われた農夫達と一緒に土を運び、平気で泥まみれになる。炎天下、彼らに混ざって楽しげに水撒きしていたかと思うと、今度は火消しポンプを真似て散水システムを作った。
 薬園方の役人や先輩学者らの態度が少しずつ変わっていった。嘉次郎が、“栗林薬園で一番日焼けした学者”と呼ばれ始めた、夏が終わる頃。もう嘉次郎の部屋の湯飲みが割られることも無くなっていた。

 秋には、嘉次郎の背を越える甘蔗の葉が風に揺れた。百町の畑の砂糖原料は、皆の笑顔の中で収穫された。茎は長く太く、齧るとじわりと甘みが舌に滲みた。実験には十分な液が絞れることだろう。
 冬には、茎から甘みの汁を効率よく絞る実験と、それを精製して讃岐独自の“白い砂糖”を作る実験が予定されている。ここの学者は机上の学問を学ぶ者ばかりで、実験・実地に弱い。嘉次郎の中には、李山と国倫という強い味方がいた。ロジックに強く物理に通じる李山と、人の考えない細い道を見つけ出すのが得意な国倫。嘉次郎の一人勝ち、最も活躍できそうな仕事だった。

 だが。
 嘉次郎はそれに参加することが許されなかった。師走に、父・茂左衛門の危篤の知らせが宿舎に届いたのだ。
 志度へ向かう嘉次郎の足は、二つの重さで硬い冬の土にめり込んだ。一つは父の容体への心配。もう一つは・・・。

『わたしは、なんて自分勝手な男なのだろう』と、鳩渓は、自分をぼかぼかと殴りたいほど厭んだ。このまま父が帰らぬ人となったら、自分が白石家の跡取りだ。あの粗末な錆びた蔵を律儀に守り続ける日々。
 志度の田舎町に縛られ、知性も文化も無い海風に吹かれて過ごす。老いて港を臨み、そこらへんの子供相手に藩主と会話したことを自慢げに話して。擦り切れたような自慢話には尾鰭がついて、人から馬鹿にされて。まばたきの間に、自分の未来が見えた気がした。
 絶望が、鳩渓の背に降りて来る。黒い影がしがみつき、肩を締めつけた。

 茂左衛門は脳溢血だった。年が明けると間もなく亡くなった。二十二歳になった嘉次郎は、家督を継いで切米三石の蔵番となる。弟は子供の頃に死に、今では嘉次郎がこの家で唯一の男子だった。
 葬儀を済ませ、少し落ち着いたところで、とりあえず一度高松へ戻らねばと気付いた。父が死亡した連絡だけは入れたが、薬園係を辞めるとなると、引き継ぎも必要だ。危篤と聞いて宿舎に荷物も本も置いたままで来た。皆に挨拶もしなければいけないだろう。
 もう節分も終わり、母は妹たちの雛を出す準備を始めた。高松へ出かけて来る旨を家族に告げた。
「わかりました。でも、この家はあなたが頼りです。しっかりなさってくださいね」
 老いた母が、敬語で自分に話しかけた。呪文のような呪いのような言葉だった。

「兄上はもう帰っていらっしゃらないの?」
 雛壇の前で、飾り物の箪笥の引出しを開け閉めしつつ、七つになった里与がたどたどしい口調で小さな唇を動かす。
「普通に喋っていいよ?」
 鳩渓も、倒れていた三人官女の一人を助け起こした。女の人形は触るのもあまり気持ちのよいものでなくて、指で肩をそっと触って興した。
「でも、母上が・・・」
「わたしが帰らないなんて、誰が言ったの?それも母上?」
「・・・。」
「そうか。母上もわたしの希望はご存じなのか。それで不安なのだろう。
 大丈夫だよ、里与、兄はおまえたちの側にいて守り続けるから」
 膝をついて七歳の目の高さに腰を落とし、里与の両肩に手を置く。屈むと、緋毛氈の赤さが部屋全部を覆うような気がして目眩を覚えた。
「そんな約束、すると困るでしょう?里与は、兄さまが日本一偉い学者になる方が嬉しいです」
「里与・・・」
 里与は、きょうだいの中でも嘉次郎に似たところがあった。賢いだけでなく、少し醒めていて子供らしくない。それが嘉次郎にはまた、いとおしくもあったのだが。

 程なく、鳩渓は家を発った。
 志度の村を出ようとすると、「嘉次郎!」と呼ぶ声がした。桃源に掴まった。父の療養中や葬儀で世話になった礼を簡潔に述べて、『急ぐので』と逃げようとすると、『途中まで話しながら嘉次郎に付いて行く』と言う。
「わたしはもう“嘉次郎”じゃないですから」
「ああ、そうだったな。平賀源内どの」
 嘉次郎は家督を継いだ際に名を源内と改めた。姓も、白石家は元々が祖先を平賀三郎国綱としていたので、これを機会に平賀に戻したのだった。
「からかいに付いて来るなら、やめてください」
「いや、すまん。そんなに複雑な話じゃないけん。
 家のことだが・・・近所にいるわしに任せてくれてもいいんじゃよ?おぬしは志度村始まって以来の秀才じゃ。せっかく高松城へ昇ってこれからって時じゃ」
 あまりに都合のいい申し出だった。自分しか頼りの無い家族を親友に押しつけて、好きな学問を続ける。それは人の道に外れていると鳩渓は苦笑した。
「無茶言わないでくださいよ、桃源さん」
「志度村だけの問題でもないの。ここでおぬしを蔵番にしといたら、高松藩どころか、日本の損失じゃ。お母上は、わしが必ず説得してみせる。それぐらいできんでは、わしも、お上に申し訳が立たんぞ」
『しかし』と、首を横に振ろうとした鳩渓の頭を抑えたのは、李山だった。李山が鳩渓の両腕を押さえ込んだ。顎で国倫に『行け』と合図する。国倫が、舵を握った鳩渓の指を一本ずつ剥がして行く。
『やめてくだいさい!』と鳩渓が叫んだが、体から出た言葉は、「すまんの、甘えさせてもらうけん」という国倫の讃岐訛りだった。
『勝手なことしないでくださいっ!阿片を浴びるほど吸いますよっ!』
 李山はにこりともせずに、鳩渓の耳元で囁く。
『国倫はそれぐらい覚悟の上だ。俺だって、きさまがぼたもちを胸が詰まるほど食おうが構わん。このままの状態が続くよりは、な』
『李山さん・・・』
『いつまでいい子ぶっていれば気が済むんだ?きさまは、そんな良い人間じゃない』
 蛇でももっと優しい口調で話すだろう。李山の氷の言葉は、魂を細い剣のように突き刺した。鮮血が飛び散り、指の間を流れ落ちる。だが、その痛みは鳩渓には心地よいものだった。
 やっと腹が決まった。
 清廉な道を選び、心を納得させて静かに生きる方法もある。だが、それは自分のやり方では無い。自分は傲慢でわがままな男だ。自分は汚い人間なのだと、やっと認めることができた。

 桃源は峠から手を振る。嘉次郎、否、今は平賀源内と名乗るようになった男は、一人で山道を歩き出した。
『今回は、俺たちが気を利かせた。次からは自分でやれよ』
 李山の声には笑みが含まれ、珍しく少し暖かみがこもっていた。
 春の早い讃岐のこと、瀬戸内を臨む道ではもう蝶が舞っていた。踏みしめる足には、行きとは違う重みを感じた。



第6章へつづく

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