★ 私儀、甚だ多用にて ★

★ 第六章 ★

★ 1 ★

 高松へ戻った源内は、城に残っていた家老代行に、父の死や改名について報告し、蔵番の仕事は代理を立てたことも告げた。
「殿に付いて参府している西尾も、おぬしの優秀さについてよく話しておった。薬園に残ってくれてありがたい」と、承認してもらえた。
「今年の砂糖の収穫はどうなりましたか?わたしは、それが気がかりで仕方ありません」
 さとうきびは豊作だった。かなりの砂糖が精製できたに違いない。
「うむ・・・」と、代行は片目を歪めた。
「まあ、それについては、薬園方の横道百太夫殿に」

 嫌な口調だった。結果がよければあんな言い方はしないだろう。鳩渓はその足ですぐに横道を訪ねた。素足で小走りに行く城内の長い廊下は爪先を凍えさせた。
 冬場は薬園の仕事は殆ど無いのだが、何をもったいぶるのか老人は控えの間で一刻は待たせた。そして、散々待たせた挙げ句、たるんだ頬を震わせて書類を読み上げ告げた砂糖の量は、惨憺たるものだった。
『なぜ、そんな少量ですかっ!?』
 それは、猪口一杯程度に過ぎないだろう。秋に、あれだけ風になびいていた甘薯の葉。幹は赤茶色に太く節くれていた。
「い・・・」
『いったい、何をどうやれば、そんな失態を!』
 だが、鳩渓は全ての言葉を飲み込んだ。横道は昔気質の武士であり、古参の役人だ。下手なことを言えば無礼打ちもあり得る。
『また一年を無駄にしたのか』
 父が倒れたのが冬の作業後だったら、などと不謹慎なことまで思った。
 横道に情報の礼を述べ、自分の宿舎に戻った。

 三カ月部屋を空けていたので、戻ったら掃除を覚悟していたのだが、源内の部屋は整えられていた。梁には蜘蛛の巣も無く、障子の下の文机は埃もかぶっていない。畳の足の裏にざらつきもない。誰かが時々掃除をしてくれたものと見える。その『誰か』は容易に想像がついた。
 志度から土産に持たされた五合徳利を下げて、源内は隣の玄丈の部屋を訪れる。
「わあ、白石さん!帰られたのですね!」
 玄丈は机に向かっているところだった。満面の笑顔で出迎えたが、「あ。お父上、お気の毒でした」と、源内の長期帰省の理由を思い出して、神妙な顔を作ってみせた。まだ春は遠く、どてらを肩から羽織っている。火鉢の火を切らしているようだった。
「跡目を継いだ機に、わたしは『平賀源内』と名を変えました。改めてよろしくお願いしますよ」
「えー、精悍な名前ですね。なんだか強そうです」
「強そうですか」
 玄丈の突飛な感想に、つい笑顔が洩れた。
「もしかして、掃除してくれたのは、玄丈さんでしょうか?」
「ああ。ついでですから。お互いそう広い部屋でもないし。布団も黴てないと思いますよ」
「うわ、布団まで。本当にありがとうございます」
 鳩渓は、徳利を差し出す。
「中身は、友人が長崎から手に入れた西洋の酒です。お口に合うかわかりませんが、珍しいものなので」
「ありがたいです。これでかなり暖まれます。無精してうっかり火鉢の火を切らしてしまって。
 あとで、厨房に貰いに行きます。あ、もしかして、白石・・・平賀さん、火を貰いに来ました?すみません、お役に立てなくて」
 玄丈は普段はそうお喋りな男ではないが、息継ぎももどかしそうに次々と言葉を発した。
「ああ、せっかく戴いた酒だ、一緒に飲みましょう。湯飲みしかありませんが、いいですよね?」
 背の低い陶器に、琥珀の液体がちょろちょろと注がれた。玄丈は、やはり少しはしゃいでいるように見えた。
『国倫さん。酒を飲まないといけないようです。わたしと変わって下さい』
 下戸の鳩渓が内に助けを求めた。やれやれと、国倫が立ち上がって舵を握った。
「すみません。私、変でしょう?もう、平賀さんは戻らないかもと思っていたので、嬉しくて・・・」
 声がくぐもって、涙ぐんでいるのがわかる。俯いた玄丈の首が震えていた。
 跡継ぎの源内は本当は志度に留まるはずだった。帰らない源内の為に、部屋を掃除し、布団まで干してくれていた。国倫は、膝の上できつく両の拳を握りしめた。
 鳩渓は、本当に鈍感だと思う。わざわざこんな場面で交替を言い出すなんて。国倫が何も感じないと思っているのか。
 国倫は頭を掻いて立ち上がった。
「わしが、炭、貰ってくるけん」
 そう言い残して部屋を出た。廊下の冷気はひりりと頬を刺し、頭を冷静に戻す。国倫は深く息をついた。
 玄丈はいとおしい。自分を見上げる瞳は黒くきらめいて、嬉しいことにいつも尊敬が込められている。ただ一人、この城の中で一緒にいて心を許せる相手だった。だが、手を触れないのは、鳩渓に釘を刺された『同僚云々』のくだらない理由ではなかった。
 自分はこの城では敵が多すぎる。関係を持てば、玄丈も同じ仕打ちを受けるだろう。

 貰い炭で消えた炭に火を付け、やっと杯を交わした。
「勉強中だったのに、すまんな。実は、新しい薬園方に会って、砂糖の収穫高を聞いたんじゃが・・・いったい、何をどうやったんじゃ?」
 国倫は切り出した。鳩渓も一番知りたいことだった。玄丈なら、包み隠さず教えてくれるだろう。
『実は』と玄丈が明かした事実に、国倫は呆れて大笑いした。
 液を絞る装置が作れなくて、人力で作業したというのだ。
「あれは、機械の紐を牛に牽かせんと。人が絞るなんてとんでも無いじゃろう?」
「だから、大変でしたよぅ!私なんて、腕の筋が何日もおかしくなりました」
「・・・なんと愚かな」
「横道ってバカなんですっ!志度にいた平賀さんに助けを求めればいいのに、意地になって」
「玄丈、そげな大きな声で。反対側の隣の部屋にも人は居るんじゃけん」
 玄丈は酔っているらしく、いつもより声が大きくなっていた。
「平賀さん、今年は絶対・・・」
 そこでコクリと体が折れた。
「危ない!」
 国倫は玄丈の体を支える。顔が火鉢に突っ込む所だった。体を助け起すと、玄丈は既に寝息をたてていた。
『おいおい・・・』
 国倫はまず自分の杯を畳に起き、玄丈の握る湯飲みの指を解いた。つららに触れたみたいに冷たい指だった。

 少しずつ、夜明けが早くなる。国倫も後ろから玄丈を抱きしめた格好のまま眠ってしまっていた。「うわあっ!」と悲鳴と共に飛び起きたのは玄丈で、国倫もその声で目を醒ました。
「すすす、すみません!私、話ながら眠ってしまったんですね」
「ん・・・ああ。火鉢に顔が引っつきそうじゃったぞ」と、国倫が笑うと、かっと顔を赤く染めた。
 玄丈を支えて眠ったせいで、肩や腕、背中、節々が痛かった。ぐるりと肩を回し、「どうせ仕事も暇じゃろ。部屋に戻ってもうひと眠りするか」と国倫が笑うと、彼はますます慌てて「すみません」を連発した。
「こんな時間に、私の部屋からあなたが出ていくと・・・また、噂になってしまいますね」
「噂?おんしとわしが、噂になっとるんか?」
「私が勝手に掃除したりしたから・・・。すみません!」
「何も謝ることはないじゃろう。そうか。申し訳なかったな。掃除までしてもらったのに、嫌な思いをさせて」
「本当にすみません、女房気取りであんなことして。何でもない平賀さんに悪くて」
「・・・玄丈。もしかして、他の者に炭を貰いに行きづらかったのか?」
 すでに、こいつを巻き込んでしまっていたのか?
 子供のような涙が玄丈の頬をつたっていた。
 自分に親切にした為に、苛めに遭ったのだろう。城の中で唯一の友達と言ってよかった玄丈だったが。仕方ない。国倫の心に苦い痛みが走った。国倫は頭を下げた。
「悪かった。もう、おんしに話しかけたり、親しげにしたりせんから。つらい想いをさせてしもうて、すまん」
「違います!そんなこと・・・」
 玄丈は国倫の腕を取った。
「私が平賀さんの恋人だなんて噂・・・違うのに。悲し過ぎます・・・」
 国倫の方が畳を後ずさった。これは、愛の告白ではないのか?
『ちょっと待ちぃ。これは予定外じゃ』
 どうしよう?と、内に持ちかけると、李山はにやりと肘打ちして『食っちまえよ』と囁く。
『李山さん、そういう言い方、やめてくれませんかっ?
 わたしが同僚に手を出すなと言ったのは、国倫さんのスケベ心に釘を刺しただけです。本気で好きなら、止める権利はわたしにはありませんから』
『おまえ、照れてるだろ?』と、李山はまだからかう。
『そうだよな。遊びで寝たことはあっても、相思相愛は初めてだろう。まあ、がんばれ』
 その後、楽しそうな李山の高い笑い声が響いた。
『くそう!おんしら、暫く目を閉じて耳を塞いどけ。覗き見したら承知せんけん!』
 国倫は、恐る恐る玄丈の肩に触れた。
「真実になれば、おんしは悲しくないか?」
 内で李山が吹き出した。
『気障なセリフだ』
 ほっとけ!
『わたしは耳栓して本草綱目でも暗唱してますから』
 暗唱でも朗読でも、何でも好きにやってくれ。

 国倫は額をこつんと玄丈の額に当てた。早春の朝はまだまだ遅い。人が動き出すのは先のことだろう。ゆっくりと玄丈の着物の帯を解いた。

★ 2 ★

 春が来て、薬園は途端に忙しくなる。夏に撒いた朝鮮人参の種は、春に葉が出る。古い薬園から移動して植え換えるものも多かった。人参の植え換えだけでない。他の薬草も一斉に種まきが始まった。
 源内は三分の一の朝鮮人参を、上の学者が指定したのとは別の場所へ移植させた。下働きの農夫は、「こんな陽の当たらん樹の下で、本当にええんかね?」と何度も確認した。
 朝鮮人参は陽当りではなく土だと源内は思っていた。本場の清国の天然物でも、そう日光の当たらない樹蔭に自生するものが質がよいからだ。落葉や、その葉に付いて一緒に落ちた虫が朽ちる。葉の下やさらにその土の中に隠れた虫達の動きも活発だ。土は、種まきによい(発芽しやすい)のは日光の黒土とわかっていたので、江戸から運んで貰った。しかし、育成の為にはどんな土がよいかはまだまだ試行錯誤の最中だ。発芽用とは違う土で育ててみたかった。

「平賀さん。大丈夫ですか?」
 夕食の自分の膳を国倫の隣に置き、玄丈が小声で耳打ちした。
 藩の下級役人や薬園従事者は、畳の無い板張りの大広間の食堂で食事を取る。膳も立体的な塗りのものでは無く、平たい木の板だ。そこに飯と汁物と魚の皿が乗った。薄い敷物がある場所へ適当に座って食べる。
「何がじゃ?」
「人参です」
「おんしは人参が駄目じゃったのか。よし、わしが食ってやるぞ」と、国倫は、玄丈の膳に乗る橙の漬け物の一切れを箸で摘んだ。
「違います、私は菜人参は好きです」
「そうか。すまん」
 国倫は、箸を漬け物を摘んだままで玄丈の口許へ動かす。玄丈はそれをぱくりと口に入れた。
 回りで食事していた者達の視線が、さーっと別の場所へ引いた。二人を見ないように、煮魚の身ほぐしに前かがみになる者、不自然に隣と会話し出す者。
 二人の方は、噂も陰口も頓着せず堂々としていた。二人だと強くなれるというのもあるが、『回りのことなど関係ない』というのが、恋愛のさなかにいる者の気分なのだろう。
「勝手に、おたね人参の場所を変えましたよね?」
「上は甘蔗に夢中じゃけん。気付かんよ」
「横道様に何か言われても知りませんよ」
「そしたら、酒でも飲んでうっぷんを晴らす。付き合ってくれるじゃろ?」
「・・・はい!」
 玄丈は顔を輝かせて頷いた。
『やってられないな』と李山は苦笑するし、鳩渓も『まあ、仕事の時さえ真面目にやってくれればいいですよ』とため息をついた。文句を言いつつも、二人とも国倫の恋を祝福していた。

 各地から届く苗や種の仕分け、撒き時機や土の選択。肥料や水やりの量。書物で確認し、一覧を作るのも源内たちの仕事だった。
 この一覧は、農夫達も使用する。
 実は去年も一昨年も。作業確認で園内を巡る度に、必ず農夫の誰かに聞かれた。この草は春には水を杓で五杯でしたっけね?この草は、夏場には昼に水を足していいのでしたっけ?彼らの手には、一覧の複写が握られているにも関わらず、だ。
 藩の薬園で雇う農夫は読み書きができることが条件だった。だが、藩の薬園方に提出するような堅い言葉使いや難しい漢字は理解できないのだ。源内は、彼らが指示を間違えている事も多いだろうと危惧していた。

「水を撒き肥料を与える仕事をするのは彼らじゃのに。この書類は、ただ、役人が権威付けの為に提出させる紙ぺらにすぎん」
 一覧を作り終えた国倫が、怒りで筆を畳に放り投げた。玄丈は軽く笑って筆を拾い、手拭いで畳の墨をぬぐう。
「本当に。これは、儒学をきちんと学んだ者しか理解できないですよね」
「やっちまおうかのう?」
 いたずらっ子の口調で、国倫は玄丈に振り向く。
「え?」
『李山でも鳩渓でもええけん。代わってくれ』
 国倫は、完成した巻紙を壁に立て、新しい用紙を広げた。
「農夫にもわかるよう、全部絵で描く」
『きさま、人が描くと思って、そんな難儀なことを』
 李山がブツブツ言いながら筆を取った。

 園の主な薬草の、本葉が数枚出たところと、花や実を付けたところと。季節は雛や月見などの風物でわかりやすくして、水の量は杓を何本か描くことにした。全く文字を書かないわけでなく、子供にもわかる平易な文で説明を記した。
「これを5、六枚複写して、農夫たちに渡そう。数人に1枚あれば回し見するだろう」
「私も手伝います。ここで描いていいですか?机を持って来ます」
 玄丈は自分の部屋から運んだ文机を、源内の隣に並べた。一つの燭台で、隣り合って一枚の絵を写す。これが国倫であれば心踊る作業なのだろうが。
「玄丈、そこ、葉の形が尖り過ぎだぞ」
 李山は冷静で厳しい。
「あ、す、すみません。描き直します」
「当然だ。描き直せ」
『李山。もうちっと、優しく言ってあげれんかのう?』
『そうですよ。玄丈さんは、手伝ってくださっているのですよ』
 玄丈は、何気に鳩渓も味方につけているらしい。李山は仕方なく、「本草学には、絵を正確に描くのも大事だ。きっといい勉強になるぞ」と言い添えた。
「はい。ありがとうございます」
 素直に頷く玄丈が可愛く思え、ちょっと国倫を妬かせてみたくなる。
「手首の使い方が硬いな。こうして筆を握ってみろ」
 背後から回り、手首を取る。目で見るよりずっと細い手首だった。
『こらーっ!李山っ!』
 国倫が怒鳴った。まあまあと、鳩渓がなだめていた。
 
 薬園の仕事の後、こっそり二人は描き続けた。三日で七枚が完成したので、農夫のリーダー格の力三へと手渡した。
「力三さんはしっかり字がお読みになれますが、下の方たちの中には自信の無い方もお有りでしょう。皆さんでお使いください。
 このことは、横道様にはご内密に」
 力三はきつい訛りで早口に繰り返し礼の言葉を述べ、何度も深々と頭を下げた。

 この時、鳩渓は、横道百太夫に対する口止めしか頼まなかった。横道の名を出せば、家老の西尾や木村のことも含み、一事が万事と思っていたのだが。

 雨の季節になる前に、頼恭が高松に帰ってきた。
 すっかり忘れていた。そういえば一時好きだったっけと、国倫も懐かしく帰宅の報を聞いた。玄丈と薬園の仕事を分け合い、楽しく充実した日々だった。
 だから、雨で宿舎に居る時に、突然「いるか?」と頼恭が引き戸を開けた時には、あまりに驚いて後ろの壁に頭をぶつけた。しかも、頼恭の手には、力三に渡したあの紙が握られているではないか。
 玄丈が部屋に居なくてよかった。あれは自分一人でやったと言い通そう。

「と、殿様が薬園係の長屋に何の用ですけんっ?こんなむさ苦しい所へ」
 普通、藩主は、一人で下級武士の部屋などに来ない。用があれば誰かを使って呼びに来させるものだ。
「むさ苦しくて悪かったな。これも全部俺の持ち物だ」
 頼恭は勝手に部屋にずかずか入り胡座をかいて座ると、「コレくれ、コレ」と、指で紙巻き煙草をふかす真似をした。変装なのか普段着なのか、地味な木綿の着物と野袴という姿だった。これなら一人で城内を歩いていても、中級の役人にしか見えなかっただろう。何にしろ変わり者の殿様だと思う。
 国倫はしぶしぶ机から刻み煙草と阿片の包みを取り出して調合し、半紙を切って丁寧に巻き付けた。
「ほーう、そうやって作るのか。器用なもんだな」
「今、火打ち石で火種を作りますけん」
 やはり突然の頼恭の訪問で狼狽しているのだろう。火打ち金を握る指に力が入らない。鉄は見当違いの石面を擦り、なかなか火花を散らさなかった。
「早くしろ」
 それでなくても頼恭はせっかちな男だ。
「雨で湿気てるんじゃ、仕方ないけん」
 国倫も負けずに言い返す。
 やっと火種がホクチに落ちて枯れ百草を燃やした。静かに息を吹きかけると赤黒く熱を発する。押しつけた付木にぽっと上がった火を、国倫は急いで燭台の蝋燭に移した。
 頼恭は紙巻きに火を付けると、大きく息を吐いた。
「美味い。一年半ぶりだ。・・・ああ、高松に帰って来たなあ。生意気そうな天狗の顔も、一年半ぶりか」
 国倫は、煙を逃がす為に障子を少し開ける。雨の冷気が心地よい。顔が火照っているのかもしれない。玄丈にすまないと思いつつ、煙草をくゆらす頼恭の見目のよさに動揺していた。
「江戸は本当につまらん。明日晴れたら早速、狩りだ、狩り。いや、釣りか」
「江戸は、そげんつまらんところですか?」
「吉宗様の頃はお目通りも楽しかったが、今は面倒なだけで退屈だ。大名はいい子にしてにゃならん。気軽に外へ遊びにも行かれん。俺は庭で毎日蹴鞠ばかりしていた」
「それはさぞご上達で」
「くそ、ばかやろう」
 国倫が冗談で厭味を言うと、頼恭は口汚くののしり、そして声を挙げて笑った。江戸勤めを終えてほっとしているのだろうか、機嫌はよさそうだ。
「江戸言葉だけは好きだな。江戸は時間の流れが違うようだ。すべてが早い。むこうの奴らはみんな早口だし、言葉も明確でまどろっこしくない」
「頼恭様は、気が短いですけん」
「おまえに言われたくないぞ。
 で・・・この紙切れのことだが」
 部屋に入ってきた時から握っていた紙を、皺のまま投げてよこした。
「わしが描きました」
「ああ、力三がそう言ってた。絵が達者で驚いた。そういえば鯛の絵もうまかったな」
 この人は、力三のところにも直接会いに行ったのか?フットワークが軽すぎないか?まったく、油断も隙も無い。
「最初、『平賀源内殿』と言われて誰かと思ったが。天狗、偉そうな名前になったものだな」
「恐れ入ります」
 頼恭が平気で畳に灰を落としそうだったので、部屋の隅にあった火鉢をずりずりと押して手元へ置いた。頼恭は気付いてそこへ灰を捨てた。
「横道のことは・・・俺も考えてる。しかし、この藩では俺よりずっと古い男だ。初めての参府の時も、とても世話になった。参府は、色々と面倒なしきたりが多くてな。
 ただ、確かに今の職は適職ではない。次はもう少し頭の柔らかい男を回そう」
「ありがとうございます」
 力三に渡した紙のことで叱られると思っていた。国倫は、感謝で畳に平伏した。
「いや、俺がいなかったせいで、おまえらにも迷惑かけた。
 あ?・・・なんでこの部屋には机が二つあるんだ?」
 無頼のようで細かい男だ。変なことに観察が鋭い。国倫は、何かが喉に引っかかるように声が詰まった。
「・・・同僚と一緒に勉強をしますけん」
「あーあー。例の噂の男か」
 煙草をくわえる頼恭の口許が笑った。目がからかうように細められた。国倫は赤面して下を向く。
「仲良く勉強も二人で、か。若いの。まあ、楽しそうで、しかも勉強熱心で何よりだ」
「・・・。」
 皮肉なのか本気で言っているのかわからず、国倫は黙ったままだ。
「そうだ、おまえ、焼き物をやらんか?」
「焼き物、ですか?」
 頼恭の趣味の一つに陶器制作があった。
「“土”を学ぶ気はないか?鉱物は少しは詳しかろう」
「詳しい友人から少し教わった程度です」
 四歳年上の三代目三好喜右衛門は、焼き物も趣味だった。彼が、というより父親が陶器もやっていたのだ。嘉次郎も遊び程度に関わった。
 草木の育成には、陽当りや雨量だけでなく、土の質が関わっていることは周知の事実だ。また、土や岩には薬用効果の高い成分が含まれているものもある。
 土を見分ける。本草学には必要なことだった。源内は草木ほどには土は熟知していなかった。
「学ばせていただけるなら、ありがたいことです」
「年配の奴らも、もっと勉強熱心だと助かるのだがな。
 焼き物の機会があったら声をかける」
「お願いいたします」
 頼恭は煙草を一本吸いつくし、火鉢に吸殻を押しつけると部屋を出ていった。
 喋った内容は、煙草一本の暇潰しだったかもしれない。相手は殿様だ。あまり真に受けていると苦しくなるだろう。・・・自分は少し大人になったのだろうか。
 国倫は細く開けていた障子をぱたりと閉じた。



第7章へつづく

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