★ 私儀、甚だ多用にて ★

★ 第七章 ★

★ 1 ★

 志度には松林があった。晴れた日には、白というより淡い紅色の砂浜に遠く林立した松がぼやける。他の海は知らなかったが、美しいと源内は思っていた。
 高松城の庭にも松林はある。高松城は瀬戸内海を臨む城だ。海の上に建っているように見えるらしい。松が潮の風を防ぐ。

「松や竹が生える土は、焼き物に向いている。珪酸という成分が多い。普通の植物を育てるには痩せている土地と言われるものじゃ」
 城の庭には頼恭の為の焼き物小屋(と言っても源内達の宿舎より立派だが)があった。頼恭は、側近や自分のお気に入り数名で焼き物のサークルを作っていて、予告通り源内も呼ばれた。この会には陶器作りの師匠の他に、土を選ぶ鉱物学者も参加していた。
 頼恭達が陶器の師匠を囲んで器の形を作る間、鳩渓は鉱物学者の袖を掴んでずっと土の話を促した。五十歳近いだろうか、その年配の学者は白く太い眉を上げて殿の機嫌をチェックしながら、それでも問われるままに鳩渓の問いに答えてくれた。
「珪酸というと、石英や瑪瑙(めのう)の類ですか?」
「そう。よく知っておるな。玉髄(ギョクズイ)、蛋白石などもそうだ」
 粘土は、土を水と混ぜて篩い、放置すると層になった時に検出できる。普段の状態でどろりとして見えても、それが粘土というわけではないのだ。
「粘土だけでは陶器は焼けぬ。砂、それも珪石と長石が含まれておらんと駄目じゃ。長石が高熱で回りを溶かして土を融合させる」
「へえ・・・」
「海が碧だとその土壌は長石が多い。藍色の海は珪石が多い」
「えー、海の色でもわかるのですか!」
 鳩渓が嬉々として質問している声が、頼恭にも届いたのだろう。
「こら、天狗!いい加減にこっちで器を作れ!」
「あ、はーい」
 いい加減な返事をしつつ、まだ、水を含まない状態の『陶器に適した土』を指で触って確認している。もともと陶器を作ること自体に興味は無い。それに、頼恭と接する時は鳩渓が『国倫さんは出現禁止です。浮気しそうだから』と宣言していた。
「天狗!!」
 怒声の後に、「ああっ!」という頼恭の悲鳴が聞こえた。怒鳴ったので手に余計な力が加わり、形を崩したらしい。
 仕方なく、粘土遊びに加わる。食堂の膳より立派な板を台座にして、いい大人達がぺたんぺたんと粘土をこねている。着物を見る限り、源内のような下級武士はいない。付き合いなのか見張り役なのか、家老の西尾や新しく殖産参謀になった木村季明までが参加して、たぶん必要でもないであろう無骨な湯飲みを形作っていた。
 鳩渓も、適当なぐい飲みのようなものを作っておく。あとは乾かして、また窯に入れる時に招集されるようだ。窯入れも興味があった。土によって焼く温度が違うはずだ。窯入れの専門家に、どんな成分の土が何度で焼けるか尋ねることができるだろうし、成分によっての焼き上がりも聞ける。
「どうだ、楽しかったか?」と頼恭に聞かれ、「はい!」と素直な返事を返す。
「土も、面白いです。とても勉強になります」
「焼き物以外でも、何か会があったらまた誘ってやる」
「・・・。あ、はい。よろしくお願いします」
 何かの会とは、頼恭の趣味の一つである狩りや釣りだろうか。絵の会か、香合わせか。蹴鞠の会か。あまりに多趣味で予想もつかない。

 梅雨時と言っても、雨の少ない高松は、降雨で無い日も多い。降らない日には、源内も玄丈も農夫に混じって甘蔗の手入れをした。今の時季、主茎以外の枝葉は全部斬り取る。これと思った茎だけ残し、その茎だけを丁寧に育てるのだ。
「平賀さん、これ、どっちを残しましょう」
 太さが同じくらいだと、迷うものだ。玄丈は鎌を握ったまま考え込んでいる。
「右は南に向いた茎じゃ。左はその陰になっているのに、同じ位に育っている。左の方が強い」
「ありがとうございます」
「そろそろ昼休憩にしよう」と、国倫も額の汗をぬぐう。二人は木蔭へと逃れた。もう既に高松は気温の高い季節で、陽が出ていればかなり暑くなった。
 薬園仕事の者には、昼は大きな握り飯が二個支給された。瓢箪や竹筒の茶で流しこみつつ、腹を満たす。ただの塩結びでなく中に具が入っているのは、高松藩が食料だけは豊かな証拠だろう。
「・・・そういえば、お殿様の焼き物会、いかがでした?すごいですよね、そんな会に誘われるなんて」
 玄丈は育ちがよくて、握り飯も二つに割ってから食べる。最初の中身は百華(高菜)だったようだ。イチョウの葉が、たくし上げた腕に複雑な影を落として透かし模様のように見えた。
「陶器はようわからんが。“土”について学ぶのは面白いけん」
 国倫はがぶりと握り飯に食らいつく。こちらは香の物だった。
「焼けたら、私にくださいませんか?・・・あ、すみません、図々しいですよね、いいですやっぱり」
「いや。やるのはいいが、わし、出来には自信ないけん」
 鳩渓は形成する時にも全然気持ちが入っていなかったし。国倫も腹が立つくらいに、本当にどうでもいいらしかった。あれは現在窯の中で焼かれている。彼は温度と土のことばかり窯師に尋ねて、また頼恭に怒られていたっけ。
「わあ、いただけますか?どんなひどい出来でも、大事にしますから」
「こら、それは言い過ぎじゃろ」
 こつんと指で玄丈の額を叩く。玄丈はふふっと嬉しげに笑った後、「あー、2つ目も百華ですぅ。今日は手抜きですね」と握り飯の中身に文句をつけた。
「わしのは両方沢庵だぞ?間違えて入れたかね。取り替えよう。ほれ」

 食べ終えた後、玄丈の上くちびるに米粒が付いていた。人差し指で除くと、目が合って。玄丈の瞳が上目使いに国倫を見上げて、誘った。国倫の唇は、その米粒があった場所に触れ、そのあと玄丈の唇を覆った。玄丈の華奢な腕が、汗で着物が張り付いた国倫の背に回される。
「こらこらこら!仕事場で何やっちょるんじゃ!」
 こつんと頭を殴られた感触。覚えがあって振り向くと、家老の西尾が立っていた。苦笑している。
「いちゃいちゃしとったから話しかける機会を待っとったら。どんどん発展しおる。まったくもう」
「家老様が、薬園見回りですけん?」
「まあな。殿が大坂の商人から蛮州の蘭の鉢植えを戴いた。おぬしが、描きたがるだろうとおっしゃっていたよ。仕事が終わったら来んしゃい」
「え・・・。あ、ありがとうございます」

「平賀さん、随分お殿様に気に入られているみたいですね」
「さあのう。どうだか」
 国倫はため息をつく。

★ 2 ★

 夏が来て、新盆で源内は志度へ戻って来た。盆送りを済ませてほっとしたのも束の間、母からは見合いの矢の催促だ。平賀家は武士であり、源内は当主である。二十二歳にもなって独り身はまずい。
「ちょっと桃源のところへ言って来ますけん。おなごの情報収集にでも」
 結局親友のところへ逃げ出す。

「お母上の言うことはわからんでもない。わしが源内の歳には、もう子供もいたけん」
 桃源とは、大人になっても座敷で酒を飲み交わすことはほとんど無い。なぜか縁側で並んで飲んだり、港で海を見ながら飲むことが多かった。子供の頃からの習慣で、二人ともそれがしっくり来るのだ。今も、涼しくなった夕方の縁側で、一つのぐい飲みで冷や酒を適当に飲み合っていた。
「おとなしそうなおなごを貰うて、男児さえ儲ければあとは自由じゃ。女が駄目と言うても、我慢して四、五回抱けば運がよきゃ子が成せる」
「桃源さん、あのねえ・・・」
 鳩渓@源内は親友の能天気さに頭をかかえる。問題は性癖とか、そういうことではなかった。
「これ、試してみんか?」と、桃源が話題を変えて懐から布袋を取り出す。中から取り出した葉は、丸みのある桜に似たものだが、少し肉厚だ。乾燥していて、手に取るとパリと鳴った。
「長崎で時々流通しているコカの葉じゃよ。高山病の薬らしいが。覚醒作用もあると聞いて、回してもらった」
「刻んで煙草に混ぜるのですか?」
「現地では、生の葉をくわえて噛むらしいがの。蛮州では酒に浸す」
 そう言って一枚を陶器に落とした。
「源内は、志度を・・・高松を出て行きたいんじゃの?」
「桃源さん」
「確かに、おんしの才能はここでは余るじゃろう。
 嫁さんの話は、藩の上司からの勧めもあるとか何とか言って、お母上にはうまく誤魔化すことだな。二、三年逃げてりゃ、里与ちゃんも婿が取れる歳になるけん」
「だって、里与はまだ七つですよ?」
「綺麗事を言うな。だったら、嫁さんを貰えるか?それともわしがお母上に告げてやろうか、『源内は衆道ですから嫁は無理です』って」
「やめてくださいよ!」
 桃源がカラカラ笑ったのは、すでにコカに酔ったのかもしれない。
 帰省する度に母はヒステリックに結婚を勧めるだろう。次の正月に帰るのも憂鬱だ。とにかく適当に言い繕って逃げまわるしかない。

 城に帰ればまた忙しい日々だった。薬園の仕事に、頼恭の誘いが重なる。蹴鞠やカルタなど、源内の仕事外の誘いもあったが、付き合った。
 時間が空けば休養が欲しかった。玄丈と接する時間はどんどんと減っていた。時々何か言いたげにふと唇を動かす時があるが、玄丈は寂しそうに『なんでもない』と笑ってみせる。

 秋も深まり、甘蔗の丈は源内の背を越えて風になびいた。夜は早くなり、宿舎の窓からの月は青く澄んで見えた。月を愛でるのが好きなのは李山である。湯飲みに注いだ酒の底には、桃源から貰ったコカの葉が沈む。
「平賀さん。あ、よかった、今日は居ましたね」
 引き戸を玄丈が開けた。“今日は”に妙なイントネーションが付いている。李山は『酒がまずくなるな』とにが笑いだった。
「あ、その陶器。お焼きになったものですか?私にくださるはずでは?」
 そんな数カ月前の約束をまだ覚えていたのかと、李山はため息をついた。
「これは俺が焼いたものじゃない。窯から出した後、会のみんなで適当に取り替えたんだ。誰が焼いた物か知らん。俺のも、誰のところへ行ったのやら」
 嘘だった。これは頼恭が『無理矢理』、源内の焼いた物と取り替えたのだ。鳩渓の焼き物は師匠から直々に批評されるほど「下手」だった。粘土で正円に窪ませることは奇跡に近いと言われた。焼き上がったぐい飲みは上から見てもみごとな円で、横から見ても高さはどこも全く同じ、器の厚さも笑いが出るほどに均一だった。まるで機械で作ったようなのだ。師匠が『何の面白みも無い作品』だと言い、頼恭は声を出して笑って面白がった。そして、それを欲しがったのだ。天狗小僧にも苦手なものがあったのがよほど嬉しかったのか。不愉快な男だ。

「一緒に居て、お邪魔じゃないですか?」
 断らず部屋に入って来たくせにと思う李山だが、国倫の恋人だしあまり無下にもできない。
「喋らずにいてさえくれれば。月を見ているので」
「はい」
 素直に承諾し正座する。半刻もじっとしていただろうか。国倫はコカ酔いだし、李山は玄丈に触れるつもりはない。このまま待たせるのも気の毒な気がした。
「疲れたので俺はもう休むが。月とおまえと。なかなか贅沢な時間だったな」
 それだけ言うと、残りの酒を飲み干した。李山にしてみれば、かなりのリップサービスである。
 聞き取れ無い声で、たぶん『おやすみなさい』とでも言ったのか。玄丈は一礼して出ていった。李山は窓から葉を捨てて酒の雫も切った。器の後ろには頼恭の銘が刻んである。
 国倫は内で膝を抱えていた。本当に酔っているのか、振りなのかは、李山にもわからない。
 李山は机に陶器を戻す。三畳間の片隅には、練習しておけと頼恭から押しつけられた赤い毬が転がっていた。

 師走の初めには甘蔗は切り取られ、源内が作った装置に入れられて牛が紐を引いて汁を絞った。おかげで大樽二つも汁は摂れた。しかし、甘みが少なすぎる。精製にはまだ手間がかかるが、出来高は多くても質のよい砂糖は見込めなかった。
「何がいけないのでしょう」と肩を落とす玄丈。
「苗の質。」と、鳩渓は明確に答えた。
 鳩渓はプランを語った。上位半分の優良な苗だけを育て、翌年も上位半分だけ残し、翌年も。そうしているうちに、質のいい苗だけが残っていく。・・・だが、そんなことをしていては何十年もかかる。それに、鳩渓が『苗を半分廃棄する』などという案を出して、通るはずがなかった。

 正月には志度へ帰ったが、雑煮を食いながらも食卓では嫁取りの話が出るので、源内は居心地がいいわけもない。
「正月から甘蔗の植えつけがありますから」と三が日を過ぎると早々に実家を出た。
 植えつけというのも決して方便ではない。薬園には正月にも帰省していない者が数名いた。それに、年末桃源を訪ねた際に闇の『琉球渡りの甘蔗』という苗を十束ほど貰っていた。本物かどうかわからないが、それを公にせずにこっそり薬園に植えたかったのだ。
 八歳になった里与が、峠まで送ってくれた。新しい着物を作ったので、外を歩きたがっていたのだ。
「里与はあと何年すれば婿が取れますか?」
 頭が源内の腰あたりまでしかない童女が、真顔で尋ねる。
「里与は、早くお嫁さんになりたいのか?」
「兄上を、早く楽にしてさしあげたいです」
「・・・。」
 鳩渓は胸が痛くなって、膝をついて妹を抱きしめた。「すまない」と何度も声が出た。だが、『おまえがそんな必要は無い』という言葉は、発することはできなかった。嘘はつけなかった。
「兄は、どうしても、お前に頼ることになるだろう」
「お役に立てるのは嬉しいです」
「讃岐一いい男を婿に見つけてやるからな」
「それは無理です。それは兄上ですから」
「里与・・・」
 その小さな頬に触れたい。口づけして抱きしめたい。突然の想いに鳩渓は動揺した。あまりに里与がいとおしかった。
『鳩渓、それは犯罪じゃぞー?』
 国倫の呆れた声の突っ込みが、鳩渓を正気に戻した。
「二番目も無理です。二番目は桃源様だそうですから。ご本人がそう言って笑ってました。里与は三番目の男でいいです」
「了解した」と妹の髪を撫でてごまかし、別れを告げた。何度か振り返ると、里与は小さな手を加減もせずに振り続けている。赤い晴着の袂が花びらのように揺れていた。

★ 3 ★

 城の宿舎に戻るとすぐに薬園へ出かけた。こっそり甘蔗の苗を植え終え、そしてまたこっそり戻ろうとした。庭を横切るとぽかん!と何かが頭にぶつかった。
「痛っ・・・」
 ぽん、ぽんと枯れた土の上を転がる毬があった。
「おお、すまん。天狗、そんなところに居たのか。毬、こっちへ頼む」
 頼恭が城壁に毬を当てて遊んでいたらしいが。絶対にわざとぶつけたのだ。毬扱いの巧い彼が、こんな場所にまではずすわけがない。
 鳩渓は早く部屋に戻って思いきり落ち込みたい気分だった。頼恭と話などしたくないし、面倒だった。
 物言わずに、毬を蹴り上げた。頼恭が居るよりもっと背後へ向かって。当然毬は頼恭の頭上を越し、点々と松林の方へ転がっていった。
「おいっ!」
 怒声が聞こえたが、無視して歩き出した。
『鳩渓、今のはまずかろう?一応、殿様じゃけん』
『知りませんっ!』
 おいおい〜と、李山も肩をすくめた。『国倫も、触らん方がいいぞ』
『わかった。そうするけん』
 このあと鳩渓は浴びるほど阿片を吸って、二日ほど宿舎でふて寝した。

「平賀さん。甘蔗の株を分けましたか?」
 松の内を過ぎて戻ってきた玄丈は、正月の挨拶も無しにいきなりそう言って部屋へ入って来た。宿舎に入る前に薬園へ行って来たらしい。荷物を置くより、恋人との挨拶より、甘蔗である。だからこそ源内にはいい相棒であり、薬園にはある意味で源内より尽くしている人物かもしれない。
「あれは琉球の株じゃけん。秘密じゃぞ」
「一体どこから。頼恭様ですか?」
 こういう時、玄丈の口からはよく殿様の名が出る。
「いや。裏からじゃけん名は言えんが、友人から貰うた」
「それ、合法じゃないですよ・・・ね?」
 見開かれた黒く澄んだ玄丈の瞳に、国倫は苦笑する。国倫は・・・たぶん鳩渓も李山も。結果の為なら方法は選ばない。合法?犯罪?・・・とっくに、人の道から外れていた。藩主に阿片を与えて甘蔗係りになり、肌を重ねた幼なじみから違法の苗を譲り受け。あんな小さな妹に家督の責任を押しつけて。
「わしは・・・江戸に出たい。いや、大坂でも長崎でもええ。讃岐を・・・この小さな島を出ていきたい」
「その為に性急な成功を、ですか?
 私は・・・この薬園に生涯を尽くすつもりでいます」
 膝を揃え、背を伸ばして玄丈は燐として言った。国倫を責めているように聞こえた。
「二十年、三十年かかってもいい。私は地道に甘蔗の研究を続けます」
『あなたと私は違う人種のようですね』、玄丈はそう言っているようだった。

「文机・・・自分のを持って行きんしゃい」
 国倫は視線をそらし、それだけ言った。
「わかりました」と玄丈は答える。
「春には、家に戻れと言われていました。でも、もう明日から家に戻って通います」
 玄丈の実家は高松にあった。裕福な医者の息子と聞いている。元々不便な思いをしてこの宿舎にいることは無かったのだ。
『家に戻れ』とは、嫁を取れということか。家が高松城下なら、源内とのことも耳に届いていたことだろう。
 国倫が引き戸を開けてやる。玄丈は自分の机を持ち上げた。畳の白さが国倫の胸を刺した。彼がこの机を持ち込んだのは去年の春だった。
「殿のご寵愛を受けている平賀さんのこと。きっとすぐに江戸に出られましょう。それまでは私は助手です。薬園ではまだお世話になります」
 ゆっくりと戸が閉まった。丁寧な動きで、ぴしゃりとも音がせずに桟が空間を消した。
『“殿のご寵愛”か・・・』
 玄丈はプライドが高かった。嫉妬しているのは知っていたが、今までは決して言葉に出すことは無かった。何も無いと釈明するのは簡単だった。たぶん玄丈もそれはわかっていたはずだ。もし頼恭と関係を持っていたら、国倫は『すまん』と正直に頭を下げて別れを切り出しただろうから。
 呼び出されて。渋々の芝居をして立ち上がる国倫の背を。玄丈はどんな冷たい視線で見ていたのだろうか。
 少しずつカケラがこぼれて、崩れ始める。でも気付かない振りをしていた。壊れていく時間はゆるやかで、だから鈍い痛みが長く続いた。
 国倫は小さなため息をつく。やっと終わった。ほっとしているのかもしれない。
 春は遠い。地はまだ霜を含んで踏みしめれば鳴るだろうか。泣くような声で。

★ 4 ★

 薬園の仕事は滞りなくこなしているものの、なにとなげによそよそしいことや、玄丈が宿舎を出たことから、二人が別れたという噂は城内にすぐに広まった。皆、暇なのだ。殿の側室が増えたりお子が産まれたりという華やかなニュースも無いし、退屈しているのだろう。
 頼恭は、源内をあまり遊びに誘わなくなった。あれは、どうせただの嫌がらせだったのだと思う。二人の邪魔をしたかっただけだ。それで壊れてしまったのだから、あっけないものだ。
 春を待つ間、鳩渓は半紙で雛を折って里与のことを想った。国倫や李山に女々しい男だと笑われながらも。器用な鳩渓が作った雛は美しい出来ばえで、小さな娘のいる下働きの女などにやると喜ばれた。
 春になると薬園も忙しくなるのだが、その前に、そろそろまた参府の時期となり、城の中が準備で落ち着かない。
 
 春の近い柔らかい雨が、障子を湿らせていた。鳩渓はその日も机で雛を折っていた。着物の部分は半紙に鳩渓が自分で絵を描いたものだ。どこに桔梗や桜を入れれば袖に柄が出るかよく計算されていた。こんなたわいない気晴らしにさえ、鳩渓は自分が出てしまう。
 障子の桟を叩く音がして、振り向く。それも、細い堅い金属・・・煙管か何かで叩いたような音だ。頼恭の影が映っていた。
「何ですか?」
 障子を開けると「いや、何、しばらく吸えなくなると思って」と、煙管を差し出した。鳩渓は受け取り、作りを確認する。羅宇には紅椿が描いてある。金属部分、吸い口にも雁首にも椿を彫刻した細工。長さも短いし、女物のようだが。
「軒下でお吸いのつもりですか?」
 一国の藩主とあろうものが。
「一人か?」と、ちらっと中を見る。遠慮しているのか。
「一人です。別れましたから。どうせ噂でご存じでしょう?
 むさ苦しいところですが・・・と言うとお怒りでしたっけね」
「入るぞ」と、頼恭は障子を全開にし、袴の膝を框にかけた。草履を軒下に落とし、ひょいとそのまま中へ入った。
「窓から入ることはないでしょう」間男じゃないんだから。
「表へ回るのは面倒だ。木村に会うと何用かとうるさいし」
『確かに、阿片煙草の葉を貰いに行くとは言えないですね』
 火鉢はまだ使っていた。調合した葉を詰めると、火を付けてから煙管を手渡した。
 国倫を呼んだが、首を横に振った。未だに失恋から立ち直っていないらしい。原因の一つである頼恭には、まだ会う勇気がないようだった。
「その煙管・・・」
「綺麗だろう?この前の参府で江戸の商人がくれたんだ」
「女物ですよね?それも、あの・・・ちょっと」堅気の女性が使う感じはしない。
「江戸には吉原という豪奢な花街があってな。そこの売れっ子太夫に人気の型だそうだ。“江戸でいいひとでもできたら贈り物用に”と言ってくれたんだが、うちの藩には俺がこれ以上側室を持つ余裕などないし、だいたい江戸で女に会う機会など有るもんか。
 一本しかくれないから、側室の一人だけにやるわけにもいかん。妻は煙草など吸わんし。綺麗で気に入ったんで、俺が使ってる」
 妙に説明的だ。そんなことまで聞いてないと思う鳩渓だが。頼恭は喋り過ぎたせいか唇をなめた。
『妙な具合だぞ。おまえが出た方がよくないか?』と李山が国倫の肩を押したが。
 国倫は片方だけ眉を上げると『いや』と笑った。
『玄丈が結婚して幸せだっちゅう噂を耳にするまで、わしは頼恭様とは会わん。
 だが、自分が接している時には、夢中だったけん、頼恭様のことがよく見えていなかった。ここでこうしていると、面白いもんじゃ』
『そうか。知らんぞ?』
 頷く。国倫は、以前と違う想いで頼恭を見ている自分に気付いていた。
「確かに綺麗な煙管ですね」
 鳩渓は、気のない様子で適当に話を合わせた。
「おまえは、紙巻き煙草は吸うくせに、煙管はやらんのか?」
「貧乏侍や若い者には似合いませんから」
 鳩渓は、雛を折るのはやめずに話を続ける。頼恭も特に咎めなかった。
「そうか?江戸では若い職人がよく吸ってるぞ、なかなか粋に」
 李山と国倫は目を合わせて忍び笑いした。頼恭は、渡したがっている。贈りたいのだ。“いいひとでもできたら”と言われて、渡す相手もいなくてずっと自分で使っていた煙管を。
『江戸かあ』と、鳩渓は目を細める。
「いつご出発です?」
「五日後だ」
 そんなに詰まっているのか。忙しいだろうに、ここで阿片なんて吸っていていいのかとも思う鳩渓だ。
 そう、忙しいのだ。なのに、なぜ頼恭がここに居るか、鳩渓は考えない。
「また一年、つまらん江戸勤めだ」
「蹴鞠がうまくなりますね」
「ふん」と、頼恭は悪態をついた。
「ああつまらん。・・・おまえとも一年半、会えんな」
 鳩渓は紙人形の手を止めた。もしかして、頼恭は、阿片煙草の為でなく、わざわざ自分に挨拶に来てくれたのだろうか?初めて気付く。
「江戸、行きたいか?」
「そりゃあ。文化の中心ですし。一度は」
「・・・一緒に行かんか?」
「・・・はっ?」
 手が滑ってびりりと雛の着物が無残に破けた。白い亀裂が胸元に走る。
「・・・。」
 本気だろうか?鳩渓は頼恭の表情を図ろうとじっと目を見た。
「ま、無理か。薬園は春から多忙だしな。五日前に言ってもな」
 頼恭の方が苦笑して視線をそらした。
「わたしは、江戸より、長崎に行きとうございます」
「長崎に?そうか、おまえは本当に学者だなあ。江戸より長崎か」
 面白そうに笑うと、厚い唇から煙を吐いた。
「本気です。・・・薬園でてのひらに一杯の砂糖が出来たら。わたしを長崎に留学させてください」
「てのひら一杯か。大きく出たな。今、砂糖とは言えん“粉”が、猪口一杯しかできん状態なのに?
 まあ、いいだろう。てのひら一杯だぞ?」
「ありがとうございます!」
 鳩渓は額が畳につくほど深く礼をした。こつんと井草が額に当たった。
「礼を言われてもなあ。十年は無理だぞ?薬園方やおまえの上司達に、そう才覚のある者はいない。おまえが主任になるまで待つしかないだろう」
「・・・。」
 十年、か。だったら藩を辞めて自由の身になり、桃源の縁者の船に乗せて貰った方がまだ長崎は近いかもしれない。
 考えを巡らす鳩渓の着物の衿を、頼恭が掴んだ。
「え?」
「“抱かれたら主任にしてやる”と言われたら、どうする?」
「・・・!」
 それは殆ど脊椎反射だった。鳩渓は加減も考えず頼恭の手を弾き飛ばした。爪が当たった気がしたので、手を傷つけたかもしれない。
「馬鹿にしないでくださいっ。わたしは学者です!それに、言っておきますが、わたしを主任にしない限り、砂糖なんてできやしませんよ!頭を下げて“主任になって下さい”と言わねばならないのは、藩の方でしょう!」
『あーあ』と、李山と国倫が同時に言った。
『やっちまったな、鳩渓のやつ』
『頼恭様も頼恭様じゃけん。あんな言い方。
 鳩渓はまだマシな反応じゃ。わしだったら、本気で好きな分、殴ってたぞ?』

「じゃあ、まあ、十年地道に頑張るんだな」
 頼恭は、コロコロと煙管を畳に転がしてよこした。手首の白い部分に赤く線が走っていた。鳩渓の爪の跡だ。
「おまえにやる。十年後に主任になったら使え」
 頼恭は引き戸の出入り口から出て行った。鳩渓は憮然として挨拶の言葉も発しない。戸口を見もしなかった。
『頼恭って、窓から入って来なかったか?』
 暫くしてから李山が気付いた。鳩渓が障子の外を覗くと、軒下には草履が乱れたまま濡れている。表から、雨の中を足袋だけで戻ったらしい。
「す、すみません、国倫さん!わたし、つい・・・」
『構わんけん。素直にわしらを好きと言わんあいつが悪い』
「え?そうだったんですか?」

 やっと国倫が体に戻り、畳に打ち捨てられた煙管を手に取った。
 もう火皿のぬくもりは消え、吸い口も冷えていた。それでも国倫は頬に触れてみた。
 十年は待てなくても。一年半なら待てる。もう一度会ってから讃岐を出よう。
 今、いちぱん頼恭を身近に感じられた。

 脱藩して、桃源縁の宇治屋の船で長崎へ渡らせてもらう。むこうでの滞在費は、草木や薬の見立てで稼げばいい。鳩渓だけではない。国倫も李山も同じ考えだった。
 庭のいつもの灌木の影から、参府の船が大坂港へ向けて出発するのを見送った。草履を返しに行くのを忘れていたので城へ戻ると、殖産参謀長の木村に呼ばれた。
 今日から、薬園主任だと言われた。
「冗談でしょう?」
「殿直々の命令だ」
「嫌がらせでしょうか?」
「さあ。まさか」と木村は笑ったが。
「殿のこの草履、どこにあった?」
「道に落ちてました」と鳩渓は適当なことを言う。

『わたしを主任にしない限り、砂糖なんてできやしませんよ!頭を下げて“主任になって下さい”と言わねばならないのは、藩の方でしょう!』
・・・随分とでかいことを言ってしまった。ああ、やっぱり、嫌がらせに違いない。

★ 5 ★

 頼恭が高松にいない一年半は、薬園の仕事に集中もしていて、そう長くは感じなかった。ぎくしゃくしていた玄丈とも、距離を空けながらもうまく接することができるようになった。その年の秋、さとうきびの髭が風になびく頃には、彼はぽつりぽつりと妻の話もし始めていた。
 薬園主任が、煙管が似合う上級職とは源内も思わなかったが、貰った煙管はいつも携えているうちにサマになってきたような気がした。阿片もコカもやめて普通の刻みに変えた。退廃に浸っている暇はなく、仕事はいくらでもあった。
 その冬の砂糖は、「きちんと甘みのあるもの」がぐい飲み一杯分ほど取れたが、それは約束には足りない。源内は、優良な茎から取れた汁だけを別に精製させた。だから、味の無い砂糖も大樽に五つあった。甘みの少ない苗は半分を別の場所に移動し、分けた。廃棄まではしなかった。これは殖産用の砂糖とは関係無く、讃岐の中で料理や駄菓子などに使えばいい。他の藩から買うよりはいい。

 正月は帰らなかった。実家には、『主任になって忙しい』という内容の手紙だけを送った。
 睦月の末に、江戸の高松藩から手紙や荷物が届く。家族宛ての手紙や小さな贈り物が運ばれて来たのだ。
「平賀。おまえにだ。西尾様から」
「ご家老様から?」
 木村季明から渡された手紙を開く。それは、二重になった巻紙に、頼恭からの伝言を書き付けたものだった。それも、伝え書きはたったの一言。
『如月の満月の夜に月を見よ』という、それだけだ。
「何かの暗号でしょうか?」と鳩渓が首をひねると、木村も「さあな」と笑う。

 鳩渓は覚えていない。あの日は雨が降っていたから。いや、その夜に月が出たとしても、仰ぎ見る心の余裕など無かっただろう。
 だが、国倫は微笑んだ。意志は『すまなかった』なのか『好きだ』なのか『待っていろ』なのかさっぱりわからないが、これは、その夜一緒に月を見ようという提案だ。
『その日は、晴れるように照る照る坊主を作るけん』
 その夜、墨染めの雲が空を覆うが、時々、うっすらと、恥ずかしげに月が顔を出した。照れ屋で、素直で無い月だ。まるで自分達のように。春の近い月は青味を帯びて、凍ったように涼やかだった。

 夏に源内は一度倒れた。頑張りすぎたのだ。
 藩医でもある玄丈が三日付き切りで看護してくれた。城内の空部屋を借りて床に付いた。参府中は部屋も結構空いているのだ。
「こんなに日焼けした病人も珍しいです」と玄丈は、回復した源内に笑いながら粥を渡す。
 ばさばさに伸びた髪を農夫のように後ろで結んだ源内は、顔も首も腕も真っ黒に日焼けしていた。
 疲労のせいだけでなく、二十四歳になった源内は、頬や目の回りの肉が削げて精悍で大人の顔になっていた。主任職という責任を負った為に、顔つきも変わったかもしれない。
「粥に、おたね人参が入っちょる。わしなぞにもったいないけん」
「薬園のやつです。試しに入れてみました」
「人体実験かいね?」
 国倫が大袈裟に眉を寄せる。玄丈は柔らかく微笑んでいる。
「早くよくなってください。・・・頼恭様も、もうすぐ帰りますよ」
「ああ、そうじゃな」
 病後のせいだろうか。静かな落ち着いた気持ちだった。幸福だった分、傷ついた恋だったが。時間がたつと、その思い出は、熟した果実のような芳醇な口当たりのいい甘みに変わっていた。
「玄丈さんも、もう休んで下しゃい。何日もわしに付き切りで、家に帰ってらっしゃらんじゃろ?」
 国倫は、別れた後から玄丈を敬称を付けて呼ぶようになった。今はそれが自然に思える。
「ええ、でももう少し様子を」
 玄丈の目の下に隈が出来ている。今度は彼が倒れてしまいそうだ。
「効いて来たけん」
「え?」
「人参。一緒にいると責任持てんとよ?」
 玄丈はくすっと少年のように笑うと、「わかりました」と帰り支度を始めた。玄丈が帰れるよう気遣って言った冗談を、聡明な彼はきちんと受け取った。
「でも、くれぐれも無理なさらないで下さいね」

 薬園には、別植えの甘蔗は株の数を三倍に増やし、背ももう源内を越えようとしていた。来年自分はここにいないだろう。
 長崎の喧騒と明るい空を思いつつ、国倫は再び横になって瞳を閉じた。

★ 六 ★

 国倫は膝をついたまま眉間に皺を寄せて皿を掲げた。皿は、指の長い源内の両のてのひらを合わせたよりひと回り大きい。そこに、ざらめの砂糖が山になって積まれていた。
 薬園方の武士達やら殖産参謀長やら家老やらが注視する中。高座から頼恭が手を伸ばして頂上の砂糖を手に取った。
『やった!』と国倫は心で手を打つ。実は甘い砂糖なのは表面だけ。張りぼてなのだ。均一に混ぜれば糖度はかなり下がる。これは賭けだった。
 頼恭は砂糖を口に入れて「仕方ない」と笑った。
「長崎留学か。あまり金を使うなよ」

 今度の正月は、長崎行きを報告する為に志度の実家に帰る予定だ。桃源には以前から船のことは頼んであったが、細かい予定も立てる必要があった。滞在は一年だが、旅程も入れると一年三カ月位だろう。玄丈との密な引き継ぎも必要だ。結構多用だった。
 嬉しくないわけはない。だが、まだ心は沈んだままだ。
 頼恭が高松に帰ってもうふた月になる。阿片煙草をもらいに来るかと待っていたが、宿舎にはまだ訪れない。もちろん公の場所では何度か会い、会話もしたが。
『あれは、自分の勘違いだったんじゃろうか?』
 国倫は、次第に自信が無くなって来た。
 まあいい、長崎に行けるのだ。相手はどうせ殿様。雲の上の人だった。そんなことより、確実に自分が体験できる新しい空気や新しい学問に今から動悸がした。

 師走で城の中は忙しいが、甘蔗作りを終えた薬園係りは少し余裕があった。源内は気安く下働きを助けて城下へ買物へ出たり、掃除を手伝ったりした。
 買物を厨房へ渡して宿舎へ戻ろうとして、庭で一人で頼恭が蹴鞠をしているのを見た。皆、忙しいから相手をしてやれないのかもしれない。
 野袴と絣という姿は、国倫と役職もそう変わらなく見える。薬園係りの武士は野袴姿の者が多いが、源内も作務衣や野袴を着ることが多かった。
『あの人は、何歳になったんじゃっけ』
 今回帰った時に、髷に白髪が目立つことに気付いた。江戸勤めのせいで白髪が増えたかもしれないが、だが頼恭ももう四十一だ。
 初めて姿を見かけた時も、こうして一人で蹴鞠をしていた。着物の諸肌を脱いで袴の裾も腰ひもに入れていた。まさか殿様とは思わなかった。
『殿様なんぞに惚れるもんじゃないな』
 蔵番の息子が留学で長崎へ行く。そんな夢のような話が、来年には本当のことになる。それでもあの腕もあの胸も遠くて。長崎より江戸より遠い。走って飛び込めばそこに居るのに。
 受け損ねた黄金色の毬が点々とこちらへ転がり、頼恭が初めて源内に気付いた。
「・・・天狗か。まだ帰省せんのか?」
 息が上がっていた。口許の呼吸が白く煙る。耳の横を一本二本と汗の筋が落ちた跡が見えた。
 それは、月のような色の毬だった。『見ましたよ、ちゃんと、満月』、それさえも口に出せずに蹴って元へと返した。
「実家は嫌いじゃけん、もう少し留まります」
「ここも嫌いじゃないのか?俺を嫌ってるだろうに」
 えっ?と国倫は頼恭の顔を見た。頼恭はただ毬だけを目で追ってリフティングを続ける。
 あの雨の日。鳩渓に爪で傷つけられるほど拒否されたこと。
 そうだった。きっと、あの日は頼恭は勇気を揮ったのだ。江戸へ行く前に。一年半会えないからと。頼恭の身分であれほど手ひどく振られたことは無かっただろう。
 帰ってきた頼恭に、国倫が何か行動を起こすべきだったのだ。頼恭は恐くて近づけなかった、源内にはもう。
「頼恭様を嫌ってなんておらんけん」
 自然に言葉が出た。
「無理するな。今さら長崎行きを取りやめにしたりせん」
 頼恭の応えを聞いて泣きたくなった。
「如月の月も見もうした。二年前は雨だったから、満月の日だと気付かんかった。あんな言い方されたら夜鷹の女郎だって怒る。煙管は使っとる。まだ粋には吸えんけど」
 言葉が勝手にほとばしった。想いが溢れて止まらなかった。
 頼恭が毬を芝の上に落とした。草履で抑えてまだ爪先を見続けている。
「・・・では。どう言えばよかったのだ?俺とおまえは会えば口争いばかりしていた。おまえは俺を嫌っていると思っていた」
「そげんなこと!」 
 国倫の右足が、キープされていた毬を蹴飛ばした。金の毬は、色を無くした枯れ草の上を、乾いた音で転がっていく。
 転がっていく月でなく、頼恭はやっと国倫の顔を見た。
 国倫は、自分が笑顔なのか、泣きそうな顔なのか、もうわからなかった。
「何も言わず・・・。ただ黙って抱きしめてくれさえすれば。
 ・・・そのまま目を閉じたものを」
「天狗。俺をからかっているんじゃないのか?」
 国倫は声を出さずに「しっ」と唇を動かしてそのまま人差し指を当てた。
「・・・。」
 頼恭は、恐る恐る腕を国倫の背に回して来た。
 長身の国倫の方が頼恭を抱きしめた。頬が温かい。
 汗ばんだ頼恭の着物が腕の内側に触れ、ひやりと心地よかった。初めて会った時に見惚れた頼恭の汗が、焦がれた肩や背が、今、やっと肌に触れた。




第8章へつづく

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