★ 私儀、甚だ多用にて ★

 ★ 第八章 ★

★ 1 ★

 骨太の指が国倫の手首を痛いほど掴み、有無を言わさぬ勢いで引っ張った。そのまま頼恭は歩き出す。国倫は荷物のように引きずられた。
「頼恭様、毬は」
「放っておけ」
 国倫は振り返って蹴鞠を視界に入れた。枯れ草の上におっとりと乗ったままの金糸の月は、そのまま捨て置かれた。
 後ろを見ていたせいで、国倫は草履を敷き石に引っかけた。それでなくても、頼恭はせわしない足取りで国倫を引くので、足がもつれそうだった。

 頼恭はまるで自分の住処のように、国倫の部屋の引き戸を開けた。宿舎の玄関で草履を脱ぐ時も、国倫はつんのめって片手を床についた。頼朝はまだ握った手を離さない。
「俺のところだと、次の間に西尾が居たり見張り役の侍やら小姓やらたくさん居てかなわん」
 背中を向けて部屋の真ん中につっ立ったまま、頼恭はやっと手を離した。きっちりと手を掴んでいないと、国倫が逃げると思ったのかもしれない。
「あの・・・」
 部屋で二人で立ち尽くし、国倫の方が困ってしまった。頼恭は背を向けたままだ。
 頼恭は性急で直情な性格であるし、照れも手伝って余計に乱暴に振る舞っているように見えた。
「布団を敷いて帯を解け」
 やっと何か言ったと思ったら、言葉も無粋で雰囲気も無い。あまりに頼恭らしくて国倫は呆れ、苦笑した。
「その前に、寒いですけん火鉢に炭を足します」
 半刻の外出だったので、炭は消さずに灰の中に潜らせて出かけた。火掻き棒で炭を引出し、新しいものを三つほど足した。それでも、頼恭の居室に比べたら吹きさらしのような寒さだろう。
「頼恭様の、それは、命令じゃろか?それともご希望ですか?」
 棒で灰をかき混ぜながら、上目使いで見上げると、頼恭は振り返って戸惑った表情を見せた。・・・そして視線を畳に落とし、唇を噛む。
「すまん。だが・・・あまり意地悪を言わんでくれ」
 その返事に国倫は破顔した。十七歳の年齢差は消えて、もう身分も感じ無かった。頼恭は、二人だけの時を大切にしたくて、自分の絹の閨でなく国倫の冷たく薄い布団を選んだ。

 蹴鞠で遊んでいた頼恭の体は、まだ体温が高かった。最初は恐々とお互いの肌に触れ合った。遠く憧れる時間が長かったせいか、国倫は、ここに有るのが頼恭の胸だとまだ実感することができなかった。だが、一旦触れると気持ちがあふれ出した。二人は、何年ぶりかの逢瀬のように愛し合った。お互いがもうずっと焦がれ合っていたことが、肩や胸が触れる度に実感できた。
 頼恭の想いの強さに、国倫は時々軽い痛みを覚えるほどだった。だが、頼恭の指が、京の砂糖菓子にでも触れるように国倫の泣きボクロをゆるくなぞった時、思わず目尻から涙がこぼれた。
「・・・どうした?」
 幸福で息が詰まりそうで、返事はできなかった。ただ静かに首を横に振った。

 障子の白が薄墨に染まっていた。頬に触れていた頼恭の胸が動き、低い声が聞こえた。
「今回の参府はいつもの倍もつまらなかった。おまえのせいだ」
「え」
「せっかく帰ったのに、おまえは長崎に行ってしまうのか」
「・・・すみませぬ」
 留学を終えて讃岐に戻った時には、頼恭はまた江戸へ行っている。自分はいい、長崎で色々な物を学び楽しむのだから。だが、自分が好きな事をする為に、大切なひとが寂しい想いをする。薬園も、源内が不在の間、玄丈の負担は大きくなる。
「必ず、たくさんのことを学び、藩のお役に立てるよう努めますので」
「無理するな。そんな優等生な言葉はおまえに似合わんぞ」
 頼恭がそう言い笑い、胸が大きく動いた。
「おまえ自身が藩の財産だ。好きに学べ」
 愛情にあふれた暖かい言葉だった。国倫は、子猫のように頬を頼恭の胸に寄せた。

★ 2 ★

 春の種撒きの季節になった。この時期の薬園はいつも忙しく、宿舎に戻る時には腰も足の裏もずきずきと痛んだ。だが、これを越せば長崎が待っている。
 足袋を脱いで足の裏を指で押し、疲れをほぐす。ひどい時は薬草のペーストを張るが、今日はそれほどでもなさそうだ。次に、のろのろと立ち上がって野袴を外すと、下に巻いた腰紐を締め直す。帯の位置でなく腰の付け根辺りに巻くと、不自然な姿勢を続けても腰の負担が少なくて済む。これは、帯を色々な高さに締めていて気付いたことだった。
 源内は長身で痩せているので、帯の締め位置が難しい。見栄えを気にするのは李山だ。他の者が舵を握って着物を着る時でも、李山が気に入らないと『帯を結び直せ』とダメを出した。おかげで、腰に良い帯位置というのも発見できたのだが。
『足が拳一つ長く見えようが見えまいが、そんなコト、どうでもいいじゃないですか』と思って、ため息をつくのは鳩渓である。

「嘉次郎、入るぞ?」
 懐かしい名で呼ばれた。戸を引いて入って来たのは、藩医の久保桑閑だった。
「おや。桑閑先生。いい加減、嘉次郎はやめてくださいと言っているでしょう」
「すまん、すまん、平賀クン」
 桑閑はおどけて言うと、わははと一人で笑った。
 源内は、十代の頃、三好嘉右衛門と共に儒学の菊地黄山に学んだ。黄山の家は高松にあり、嘉右衛門の父親の友達なのか、高松で医師をする桑閑の所へも本草や医学を学びに立ち寄る事が多かった。桑閑は、嘉次郎のことも嘉右衛門と分け隔てなく可愛がってくれたものだ。
 桑閑は気さくな性格で偉ぶるところもなく、源内達も教師というより友達のように接していた。もっとも桑閑は源内より十八も年上で、頭を剃っているのと肥えているせいで実際より老けて見え、友達という感じでは無かったが。
 桑閑は藩医として城内にも出入りし、源内が薬園勤務になってからは年に数回顔を合わせた。一緒に酒を呑むような暇は持てなかったが、会えば立ち話で笑い合うことも多かった。
「長崎に行くそうだな」
「よくご存じで」
 やっかみもうるさいので、源内の長崎行きは一部の人間にしか公表していない。わざわざ源内の部屋を訪れるくらいだ、桑閑は何か爆弾を持って来たのではないか?鳩渓は用心深く師の顔色を伺いつつ、座布団を勧めた。
「奇遇だよな。私も行くんだよ」
「へえ、確かに奇遇・・・えっ!ほ、本当ですか?」
 鳩渓は腰を浮かして前のめりになった。桑閑はその反応が思惑通りで嬉しかったらしく、細い目をますます細く変えた。
「しかも、平賀、おまえと一緒に行くんだ」
「えーっ?ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
「藩の事務方も、薬園主任ごときをどういう理由で長崎留学させるか頭を悩ましたらしい。で、藩医が長崎へ勉学に行く随行・・・書生という形で出すことにしたのさ」
「・・・。」
「まあ、実際は私の方が目付役だろうがな。おまえは、一人で行かせると危ないと踏んだのだろう」
「そんな。わたしは子供じゃありませんよっ」
「危ないというのは、そういう意味では無いさ。一年で本当にちゃんと帰ってくるのか。長崎という刺激的な街に魅了されて、もう戻って来ないのではないか、下手をすると密航して阿蘭陀へ渡ってしまうのではないか。藩はそう心配したのじゃないか?」
 それは、あまりに源内の性格を知りすぎている者の心配の仕方だ。
「いや、藩と言うより、殿様がだろうな。あと一つ、おまえが浮気しないようにというのもあるか」
 鳩渓は目をぱちくりと開いて何度もまばたきした。頼恭と国倫の関係は、家老の西尾と側近の従者くらいしか知らない。
「友達なんだよ、殿様とは。元は本草学を教えたのだが、歳が近かったせいか仲良くなってな。よく一緒に呑むんだ。言っておくが、最初におまえを頼恭様に推挙したのは私だぞ?感謝してくれよ」
 だが鳩渓はむっとして、桑閑に背を向け、文机に座り直した。今日の日誌を付ける仕事が残っていた。
「どうせお二人で、わたしをネタに笑い合っておいでなのでしょう。体のどこにホクロがあるとか、どうするとどうなるとか。ああオヤジくさいっ」
 影で恋人とその友人がコソコソと下卑た噂話を楽しんでいたのかと思うと腹が立った。厳密に言えば、鳩渓は頼恭の恋人では無いのだが。
「誤解するなよ。殿を責めるな、私が脅して無理矢理におまえとのことを聞き出したのだから」
 脅して?
 桑閑と頼恭はそれほど親しいのかと、鳩渓の方が驚いた。
「おまえが私のところに通っていた、少年の頃のことを聞きたがるんでな。最初は、藩主としておまえの優秀さを確認したいのかと思ったが。些細な出来事やおまえの言った言葉をあまりに嬉しそうに聞いてるんで、さすがに妙だと思うだろう。嘉右衛門との話になると、機嫌が悪くなるし」
「あのひとに、嘉右衛門さんとのことまで喋ったんですか」
「すまんすまん、その時はおまえとのことは知らなかったものだから」
 藩医の桑閑は町医者としても成功していて名声も高い。本草学者としても讃岐で一、二を争うだろう。高松藩が桑閑を長崎で学ばせようという意図はわかる。
 しかも彼は裕福なので、滞在費は自分持ちだそうだ。源内は藩からの金だけでは心もとなく、桃源からだいぶ融通して貰った。それでも珍しい書籍を好きに買ったり、師について学ぶ余裕はないと思われた。長崎で少し小銭稼ぎしようと考えていたが、桑閑が一緒であれば経済的にも心強いし、何より恩師は大人で人柄も暖かく、頼り甲斐のある人物だ。
「正月明けに、一緒に紙鳶を見なかったか?」
「え?」
 言われれば、そんなことがあった。志度から帰って、まだ人の少ない城内で、庭の例の隠れ家で頼恭と並んで煙草をやっていた。誰かの子供が上げたのか、それとも藩士が童心で戯れに上げたのか、小春日和の空に凧が舞っていた。鮮やかな青の中、何にも染まらぬ白い四角い紙が楽しげに泳ぐのを、鳩渓も他の二人も痛いような想いで見つめた。隣に頼恭がいるのも忘れていた。
 あんな風に生きられたら、と。
 その時、凧の糸が切れた。操る者のない紙鳶は、一瞬乱れて舞ったが、次の瞬間には態勢を建て直してうまく風に乗って、遠く飛んで行った。そして瀬戸内の彼方へと消えた。
「糸の切れたそれを見ていたおまえの目が、忘れられないそうだ。このまま長崎へやったら、帰って来ない気がしたんだと。
 私はのろけ半分に聞いたがな。まあ、殿のその不安のおかげで、私は長崎へ行くことができる」
「・・・。」
 確かに自分達はそんな目で凧を見送ったに違いない。だが、それを頼恭が不安に感じるとは思ってもみなかった。
 国倫は愛されている。鳩渓はそれが嬉しくもあり、羨ましくもあった。頼恭の身分云々でなく、少年のように率直に国倫を想う気持ちが愛らしいとさえ感じた。
「わたしは讃岐を出るのは初めてです。桑閑さんがいると心強いです。よろしくお願いしますね」
「私だって大坂に行ったことがある程度だよ。だが、二人なら何とかなるだろう」
 桑閑が笑顔になると豊かな頬の肉が上がり、目が線のように細くなる。桑閑の人柄は好きだったし、きっと楽しい旅になるだろう。

★ 3 ★

 源内の長崎行きが迫っていた。明朝、桑閑と共に高松を出て、三日後に志度を出る宇治屋の船に乗せてもらう。
 柔らかい雨が障子の外の景色を煙らせて見せた。薬園の春の忙しさは峠を越えた。源内は、自室で玄丈と最後の打合せをしていた。二人の手元のスケジュール表は朱書きだらけで隙間も無い。玄丈の負担は大きい。
「すみません、わたしのわがままのせいで」
「大丈夫ですよ、これくらい。たくさん長崎で吸収して、また私にも色々教えて下さい」
「玄丈さんがわたしの分も働いてくれて、帰ってもわたしは薬園でいらないと言われそうです」
「そんな」と笑い、玄丈は冊子を閉じた。
 その時、「国倫!」の呼びかけと共に引き戸が開いた。頼恭だった。
 ごつんと、驚いてのけぞった玄丈の頭部が壁にぶつかった。まさか藩主が、気安く宿舎の戸を開けるとは思わない。かつて自分がしたのと同じ反応なので、鳩渓はくすりと笑いを洩らした。
「あ、客人か。失礼」
 頼恭は、この同僚が源内の昔の男だと気付いたろうか。玄丈に軽く視線を止めた。
「国倫、送別会だ。夕メシは俺のところで食わんか?」
 国倫が『これが本当の名じゃけん、“国倫”と呼んでください』と頼んだので、頼恭は素直に源内を“国倫”と呼んだ。当然、相手が李山でも鳩渓でもそう呼びかける。鳩渓は「はい」と一応返事をしてから、「お気持ちはありがたいですが」と眉を寄せてみせた。
「同僚と、ご城下の料亭で食事をする約束をしておりますので」
「いや、わ、私はいいですから。殿のお誘いを優先下さい!」
「でも、玄丈さんとは五日前に約束していますし」
 半分は鳩渓の律儀さ、残りの半分は・・・国倫への嫌がらせだったかもしれない。国倫は頼恭の方へ行きたいに決まっている。
 だが。玄丈の方も困っている。藩主の誘いを、自分との約束を理由に袖にされるのは冷や汗ものだろう。暑くもないのに手の甲で額の汗をぬぐい、「あ、忘れておりました。今夜は家に妻の親戚が来ています」と出任せを言った。
「私はこれで失礼します」と、慌てて腰を浮かす。戸口に立つ頼恭とすれ違い、気の毒なほど何度もお辞儀をして帰った。国倫でなく、玄丈を苛める格好になってしまった。申し訳ないことだ。
「国倫。フラれたな」と、頼恭が面白そうに笑った。
「頼恭様が玄丈さんを睨むからですよ。わたしが不在の間、同僚を苛めないでくださいよ」
 鳩渓のきつい物言いにも、頼恭は特に感情を害した様子も無い。
『玄丈さんとの料亭の食事なら、わたしが食べれたのに』と鳩渓はブツブツ不平を言いつつ、国倫に舵を差し出した。
『別にいいぞ、おんしが一緒に食っても』
『いいです、別に』
 殿との食事と言っても貧乏藩のこと。質素なものだ。まあ鳩渓は食べ物の内容のせいでなく、暫く会えなくなる国倫の為に遠慮したのだが。
 頼恭にとって『源内』は、国倫では無く三人をひっくるめての一人の青年なのだ。鳩渓は以前は殿と接する事も多かったし、あのボケっぷりが結構気に入られているようである。国倫と頼恭は性格が似ている部分も多い。国倫が鳩渓を見ていて可愛いと思うように、頼恭もそう感じたに違いない。この感情は軽い嫉妬なのだろうか。
 鳩渓の気持ちも、嫉妬と言えば嫉妬だ。愛されている国倫が羨ましい。だからちょっと意地悪したくなる。そんな時、李山は兄のように二人を見守っているのだ。珍しく唇に笑みを浮かべながら。

 高松藩主の膳は外見こそは食器が黒塗りで葵の紋が入っているが、決して華美な内容では無い。それでも鰆や山菜など、品数は食堂の定食の倍はあった。頼恭は酒も用意してくれ、差し向かいで杯を交わした。
 頼恭が「もう一合、行くか?」と、空になった徳利を上げるので、「あまり呑むと明日起きられんですから」と国倫は慌てて杯を裏返した。
「客間に寝床を用意させたが」
「いえ。明日は早いけん、宿舎に戻ります」と辞す。
「・・・。」
 頼恭は憮然として徳利を差し出したままだ。少し目が怒っている。
「この先二年も会えぬと言うのに。おまえは冷たい男だよな。どうせ、心は長崎のことで一杯なのだろう?」
 頼恭の悪態に国倫が笑って答える。
「そげんこと。今夜ここに泊まったら、明日の朝出発する勇気が出んけん」
「まったく。口のうまい奴だ」
 頼恭は仕方なく自分の杯に継ぎ足し、一口で飲み干していた。
「本当じゃ。それでなくても、怖いですけん。讃岐を出るのも、長崎へ行くことも」
「長崎が怖いか?」
「怖い」と、国倫は率直に認めた。
「長崎には西洋の学問や文化が溢れていると聞きます。わしは通用するんじゃろうか?わしはその凄さにおののき、触れることもできんのと違うじゃろうか?」
「おまえでも、そんな不安があるのか。世界で一番すぐれているのは自分だと豪語する男だと思っていたが」
「わし、そんなに偉そうにしてますかいの?」と国倫は苦笑する。国倫のはったりは、後に引けなくする為の縛りであることが多かった。『出来る』『やってみせる』と宣言することで、本気で取り組むしかなくなる。
「偉そうだよ。少なくても俺より偉そうだ」
「そんなあ」
「俺が頼んでも、とっとと宿へ帰ると言うし」
 頼恭は子供のように口を尖らし、ぷいと横を向いた。
「もーう。そげん、どくれんでも」
『どくれる』は高松の方言で、ふてくされる、すねる等の意だ。国倫は、初めから折れるつもりではいたが、頼恭の反応を楽しみたかったのだ。
「わかったけん。泊まればええんでしょう」
 国倫の答えを聞いた頼恭はにこりと笑って、「よしよし」と、国倫の頭を撫でた。

 結局用意してもらった客間は使わなかった。頼恭の布団は猫に抱かれるように暖かかったが、一番冷える時刻に寝床を去らねばならなかった。うとうとはしたものの、国倫は眠っていない。愛された疲労と睡眠不足で、頭の奥が鈍く痛んだ。頼恭のぬくもりの中から出ていくのは、身を切られるようだ。
 頼恭の寝所は、襖を開けた次の間で小姓が灯の番をしていて、暗転になることはない。頼恭を起こさぬよう、静かに着物を付けて身なりを整えた。
 二年。決して短い期間ではない。頼恭はどう考えても我慢強い方ではないだろう。次に会った時に心が離れていても、文句は言えない。
「行くのか」
 閨の中から頼恭が声をかけた。隣の部屋から照らす蝋燭の灯では、頼恭の表情までは見えない。
「すみませんの、起こしてしまいましたか」
「いや、元々眠ってない。起きたら隣におまえがいないなんて目覚めは真っ平だからな」
「・・・。」
 何故、自分は行くのだろう。愛する者を置き去りにしてまで。淡い闇の中、肩が震えるのを頼恭に気付かれただろうか。

 宿舎に戻り、たいした荷物も無く城を後にした。見送るのは早朝の白く煙る靄だけだった。このあと城下の桑閑の家へ迎えに寄り、志度へ向かう。実際の船出はまだ数日先だが、頼恭の腕を出た瞬間から、もう気分は発ったと同じだった。
 頼恭と初めて会ってから六年も過ぎていた。だが、それと同じ年月もう会う事も無いなど、この時の源内に知るよしもない。

 桑閑は脂肪の分歩くのも遅く(本人は山道に慣れていないと言い訳した)、昼過ぎに平賀の家に到着した。そして一息つくと二人ともその日のうちに渡辺家の客となった。
 桃源のもてなしに満腹になり酔いも回り、桑閑はたくさん歩いて疲れたのかすぐに床に付いた。
 桃源と二人になると、例によって大徳利を縁側に持ち込んで呑んだ。庭では盛りの梅が芳香を漂わせる。夕闇に白と紅がぼうっと霞んで、時々の強い風が枝を擦った。それに混じり、波が砕ける音が聞こえていた。海が荒れているのかもしれない。
 国倫は前夜殆ど寝ていないので、ぐい呑みを握ったまま、時々ふっと船を漕いだ。
「おい、縁側で寝るなよ。春とは言えまだ冷えるぞ」
「志度は、波の音が聞こえるのう。住んでいた頃は気にせんかったが、つい眠気を誘う」
 ただ眠いだけなのだが、国倫は強がりを言う。
「高松城だって海に近かろうが」
「海は臨めるが波の音までは聞こえん」
「旅が不安か。おぬしの、そんな心細そうな顔は初めて見る」
「・・・。」
 国倫は返事ができなかった。さすがに幼なじみだ、よく気付くものだ。
「のう。わしが薬園に上がらず、ずっと志度に居た方がおんしは楽しかったよな?一緒に俳句を作ったり酒を呑んだりできたろう」
「まさか、後悔しておるんか?
 何を愚かな。おぬしが成功するのが、桃源の喜びじゃよ。誇りでもある」
「わしはそんな大層な人間じゃないぞ。わしはおんしに甘える一方じゃ」
 国倫は湯飲みを両手で握り直す。
「用立てた金のことを気にしとるんか。それはいつか返してもらう。おぬしが名前を残すことで、な。わしは、平賀源内を助けた友人として、歴史に名が残るんじゃ」
「馬鹿なことを」と国倫は笑って酒を飲み干した。
 そして桃源の言った事は現実になるのだが。

 よく晴れた朝、志度港から長崎行きの商船が出航した。それはただの商用の船出ではなかった。天才の卵を天才へと孵化させる旅。卵は今、恩師と共に船の縁を握り、輝く水面にはしゃぐ。
 ばさばさで後ろに結んだままだった髪を、桃源の家で整えて貰った。学者らしく儒者髷に結って、少し得意な源内だ。
 船の甲板に立ち、海風に吹かれると、心が踊った。髪のほつれが頬を撫で、羽織りの袂がはたはたと靡いた。不安は、動悸を伴い期待へと変わっていく。握った拳が震えた。それが武者震いだと気付き、自分が高揚していることにまた興奮した。
 狭い瀬戸内の海が、長崎へ、そして西洋へと続いていた。



第9章へつづく

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