★ 私儀、甚だ多用にて ★
★ 第九章 ★
★ 1 ★
長崎は貿易の街であり、旅籠の数は多かった。
「桑閑さん、ここがいいです」と鳩渓がその旅館を指差したのは、外側の障子の桟が朱色の幾何学模様で、異国風だったからだ。そう大きな門構えではないが、飾り提燈の柄は牡丹でなく蘭のようだったし、出入り口の三和土には赤い石が埋め込まれていて、変わった色合いだった。長崎であることを意識しているのだろうか。観光客相手の宿なのかもしれない。
鳩渓が番頭から聞いた価格を桑閑に伝え、桑閑は頷いた。桑閑はいい旅館に泊まろうと言っていたので、この値段なら想定内だったようだ。鳩渓も船の揺れはうんざりだったし、地に背中が付く布団でぐっすり眠りたいと思っていた。
季節は、長崎はもう初夏と言ってよい気候だった。部屋に落ち着いて荷を解いた鳩渓は、朱の障子を開いて風を入れた。
「お侍様ですよね?お勉強のご旅行ですか?」
女中が、透明の器に麦湯を持って置き、桑閑に挨拶代わりに尋ねていた。
「私は医者で、あの若いのは本草学者じゃ。高松藩の者だ」
「うわ、ギヤマンの器ですね」と、鳩渓は水滴のまぶしさに目を細める。濃い青いグラスの中の飲み物は、何か不思議な薬品のように見えて少し不気味だ。ガラス器は長崎以外では大坂・江戸でだけ作られている。しかも数はとても少ない高級品だった。頼恭の部屋にも貰い物が飾ってあったが、使用はしていない。鳩渓は宇治屋の船の荷で何度か手に触れたことはあった。
濃紺に染まる縁に恐る恐る唇をつけた。自分がこの器で麦湯を飲むのが不思議な気がした。
「壊れものですので、よその地ではお高いそうですね。当地では、お客様への器としてお出しできる物ですよ」
女中は笑ってみせる。
『長崎に来たのだ・・・』
鳩渓はその想いを強くし、ちらりと唐風の障子に視線を落とす。まだ、船の上のような、どこか夢心地の気分だった。
高松藩では、長崎の大通詞・吉雄幸左衛門へ紹介状を書いてくれた。港から街へ入ると二人は一番に吉雄邸を訪問したが、幸左衛門は数日前に参府から帰ったばかりで超多忙とのことだった。彼から連絡があるまで、鳩渓たちは旅館で何日か待つことになるだろう。
桑閑が料亭へ行こうやら芸者を上げようやら言うので、鳩渓は苦笑混じりに睨んでみせた。
「船酔いが酷かったわりには、お元気ですね。下宿を紹介してもらうまで、無駄遣いはやめた方がいいですよ」
「なんだ。私の方が、諭されてしまったな」
桑閑は、殆ど無いに等しい短い首を、無理矢理にすくめた。彼は、この調子で、生真面目な鳩渓にずっと窮屈な思いを強いられることになる。
『長崎はおんしに任せた』と、国倫は勝手に宣言していた。
『そうだな。俺もさほど興味はないんだ』
李山も醒めた口調で言う。確かに一番長崎へ行きたがっていたのは鳩渓であるし、頼恭に直接約束を取り付けたのも鳩渓だった。
勤勉な鳩渓がずっと表に出ていた方が、勉強は絶対にはかどる。それが一番の理由だったが、長崎の花街の華やかさも、他の二人が躊躇する要因だった。資金には限りがあるし、遊ぶ金があったら本が買える。自分たちは、あまり外に出ない方がいいと思った。
長崎の最初の夜は、布団に入ってからも興奮が醒めなかった。まだ船に居て揺れているような錯覚に襲われた。障子の向こうは夜の暗闇なのに、うす明るいような気がして、目が冴えた。
「なんだ、源内。眠れんのか?」
何度も寝返りを打つ鳩渓に、桑閑がからかう口調で声をかけた。
こんなことなら、国倫か李山に体を変わってもらって、少し桑閑の酒に付き合えばよかったと思う。
『いや、わしも興奮しとるよ。僅かな酒では、酔って眠るのは無理じゃけん』
李山は特に何も言わなかったが。彼もいつもより楽しげにしている。
「そういう桑閑さんこそ、眠れないのでしょう?」
「私は一度寝て、おまえがゴソゴソうるさいから目が覚めた」
「うそばっかり」
暗さに慣れて、障子紙の白さがますます目に広がる。まあ、早起きする必要はないし。このままなら、長崎の街が明けるのも見られるかもしれない。それも一興だ。
夜明けを心待ちにしていたが、さすがにいつの間にか瞼は重くなり、寝入ってしまった。
吉雄からの連絡を待つ数日間、鳩渓と桑閑は街をぶらぶらと観光して時間を潰した。実は長崎の街には、阿蘭陀や唐渡りの商品を扱う店は少なく、あっても非常に高価だった。貿易を許された五箇所商人扱いの品物の殆どは大坂や江戸へと運ばれて売られる。宇治屋の船も、大坂へたくさんの輸入商品を運んでいた。
が、普通の店で売られる反物や簪、懐中物などの雑貨も、色使いや形が阿蘭陀風なのは感じられた。店主に尋ねると、通詞や花魁など、出島に出入りできる者たちから阿蘭陀の商品の配色や形状が伝わるので、それを真似て商品化しているのだと教えてくれた。
阿蘭陀人と思われる人足(水夫だろうか)と花魁が描かれた日本画なども売られている。
「阿蘭陀人の姿、これは真実(まこと)ですか?」と店主に尋ねてみる。髪は血のように赤く描かれているし、花魁が小柄だったとしてもあまりに巨躯だ。
「わしらは、参府に行くカピタン達しか目にしたことはないのでね。水夫の絵は、絵師が花魁から聞いて描いたものでしょう。
カピタン達の髪は枯れ草みたいな色でしたかね。背は高いが、こんな、鬼みたいに大きくはないですよ」
店主は笑いながら気さくに答えてくれた。阿蘭陀人たちは、普段は決して出島から出ることは許されない。長崎に住む者が直接会うことは無いのだ。
着物にコノブ(ボタン)が付いていない。阿蘭陀人の着物にはコノブが付いていて着脱するのだと予想していたのだが。履物の素材は何だろう?指に嵌めている輪は何だ?
鳩渓が矢継ぎ早に質問すると、店主は困った顔になった。コノブも通じず、鳩渓は指で形を作って説明しなければならなかった。
「お侍さんの方が、わしより詳しいよ」と、店主は不機嫌そうに眉を寄せた。だいたい、鳩渓の身なりは店にある雑貨を買えそうな羽振りには見えない。主人も暇だったとは言え、ただの冷やかしに親切に答えてくれていたのだ。
鳩渓は丁寧に礼を述べて店を離れた。早く大通詞に会って、色々と尋ねてみたかった。
幸左衛門から連絡が来たのは、五日も後のことだった。鳩渓達もいい塩梅に待ちくたびれて、心の落ち着きを取り戻していた。
「お会いするのに何日もお待たせして、すみませんでした」
羽織の衿を直しながら吉雄邸の客間に現れた武士の若さに、鳩渓も桑閑も顔を見合わせた。源内より、せいぜい五歳ほど年上のようにしか見えない。吉雄幸左衛門は通訳の最高位である大通詞になってもう四年と聞いている。通詞時代に幕府に進言し、外国からの書物を和訳する許可を取り付けた功労者たちの一人だ。もっと年配の男を想像していた。
「久保先生と、平賀殿ですね?いや、驚いた。高松で甘蔗作りに成功した平賀殿が、こんなにお若いとは」
鳩渓はきょとんと瞳を見開く。それは、こちらのセリフだと思ったからだ。
高松から出たことのない鳩渓が知るはずもない。甘蔗の栽培はどの藩でも注目の的であり、高松藩が最近力を入れていることは周知の事実だった。琉球を傘下に置く薩摩は特殊として、どこが成功を納めるか、皆が気にしていたのだ。
幸左衛門は、聡明さが表情に滲み出るような好青年で、代々通詞を勤める家柄を彷彿とさせる品のよい立ち居振る舞いの男だった。
25歳の時に父親が亡くなって大通詞を継いだ。通詞も世襲制である。六歳の長男を頭に男児ばかり子が四人いるそうだが、行儀はだいぶよいようで、母屋の客間にいても子達が騒ぐ声は聞こえない。
茶を出してくれたのは奥方だった。幸左衛門より少し年長に見えた。育ちのよさそうな、おとなしそうな女性だった。
頼恭の書状に力があったのか、もともと幸左衛門が親切なのか。彼は、先日鳩渓が雑貨店で聞けなかった答えを、丁寧に教えてくれた。急いたように好奇心をあらわにする鳩渓に、兄のような温かい微笑で対した。
また、安い下宿を紹介してほしいという頼みには、書生の使う吉雄家の離れを提供してくれた。屋敷の本棚に置かれた蘭書なども、家人に断れば自由に部屋に持ち帰って見て構わないということだった。時々屋敷で開かれる阿蘭蛇語の勉強会にも、参加してみてはいかがかと誘われた。
鳩渓は、嬉しくて走り回りたい心を抑える為に、ぎゅうと着物の袂を握った。一張羅の袖が菊の花のような皺を作る。
明日から吉雄邸離れに移ることになり、宿泊費用はかなり安く上がりそうだった。桑閑は「これでもう、遊びに出てもいいじゃろう?」と、その夜、宿の主人から岡場所の情報を仕入れて来た。
「初めての街で、一人で遊びに出るのは心細いもんだぞ」
「でも、わたしは付き合いませんから」
「大通詞の屋敷に下宿となると、夜遊びには出にくい。今夜が最後の機会だと思うぞ?花魁から阿蘭陀人の話も聞けるぞ?」
「・・・。」
出島に出入りできる、数少ない者たち。一瞬、心が動いたが。だが、これからは、幸左衛門にいくらでも質問することができるのだ。
「わたしが女性が苦手なの、ご存じでしょう」
「蔭子がいる茶屋もあるぞ」
「結構です。桑閑さんは、わたしが浮気しないよう、頼恭様に見張っているよう言われたのじゃないですか?」
それを、煽ってどうする。
国倫も李山もちょっと付いて行きたい風だったが、鳩渓が許さなかった。鳩渓は、頼恭がきちんと約束を守って長崎へ出してくれたことに感謝していた。国倫は誠意を尽くすべきだと考えたし、だいたい遊びに来たのではないのだ。頼恭に申し訳ないではないか。
軽い罪悪感。頼恭に長崎行きを頼んだのは自分だ。頼恭は、国倫だと思って・・・自分の恋人の望みだと思って、夢を叶えてくれたのかもしれない。国倫も李山も長崎は行きたがっていたが、でも、どこかで頼恭を騙したような負い目を感じていた。
『鳩渓はクソ真面目じゃけん』
国倫が悪態をついたが、鳩渓は聞こえないフリをした。
『あ、雨・・・』
深夜、軒を叩く雨音で目が覚めた。パラパラと米粒が舞うような大粒の雨だ。
長崎へ着いてから、三度目の雨に驚く。高松はとても降雨量の少ない土地なのだ。ここは、よく雨が降る。
『この雨では、桑閑さんは大直し(花街での朝帰り)でしょうねえ』
高松を出て初めて、鳩渓は一人になった。そう広くもない旅籠の寝床の中で、自分の呼吸だけがやたらに響いて聞こえていた。天井が昨夜よりずっと高かった。
今頃、志度の自分の家では、里与は可愛い寝息をたてていることだろう。頼恭はどうだろう。玄丈は、忙しい季節だ、疲れ果てて爆睡しているかもしれない。
頼恭のことを好きなのは鳩渓ではないのだが。高松城を出た時の朝の寒さと、最後に抱かれた頼恭の腕の暖かさは自分の記憶にも残っていた。
讃岐が恋しかった。
★ 2 ★
一夜明ければ、ホームシックも過ぎる。
桑閑の帰宅を待って宿を発ち、下着の替えくらいしか無い荷物を下げて吉雄邸の離れを訪れた。幸左衛門は今日も出島へ出ていて不在だったが、書生に言って蘭書を借りることができた。吉雄家に世話になっている書生は三名。みな阿蘭陀語を学ぶ者だ。どの者もまだ二十歳を越えていないだろう。
『俺は、あの一番若いのがいい』と李山の触手が動くのを、鳩渓がピシャリと撥ねつける。
『この屋敷では、絶対あなたに舵は渡しませんから』
好意で世話になっている家で、問題など起こされてはたまらない。
初めて阿蘭陀の書籍を手に取り、その厚さに驚いた。綴じ方が日本の書と違うので、ぶ厚い本も作れるようだ。こんなに強い表紙なら、頻繁にめくっても破れることも少ないだろう。この綴じ方は、日本でも真似できないものだろうか。
西洋の書が横書きなのは知っていた。糸が絡まったような文字なのも知っていたが、鳩渓は一文字も読むことはできない。何について書かれた本なのかもわからなかった。だが、今は本を手に取っただけで鳩渓は幸福だった。頁を繰る指が震え、鼓動が早くなる。
日本では手描きの原本を版木に貼り付けて彫るが、この書の文字の均一さはどういう手法なのだろう。
また幸左衛門に尋ねたい事柄が溜まっていく。
書棚に、ひときわ厚く、背表紙の立派な本が並んでいた。
「こんなに大きいのに、『本』なのですねえ」
まるで家具のようだ。ページを捲るのに片手で支えるのさえ無理な重さだった。鳩渓は静かに畳に置く。
「うわあ」
美しい表紙に、思わず子供のような声が洩れた。肉筆のような淡い色彩に驚く。日本で本と言えば、版木で擦られたくっきりした黒しか無いのだ。その表紙には、目を細めても見えないような精密な線で、見たこともない草や花が四阿の柱と共に描かれていた。錆色の柱の向こうには池が見えた。池からは清らかな水が吹き上がる。この池はどんなからくりなのだろう。
何か美しい物語が描かれた本なのかと、興味本位でぱらぱらと捲った。
中を見た時の衝撃を、感動を、鳩渓は一生忘れることができないだろう。それは、植物図鑑だった。絵は実物そっくりに描かれ、手で触れた葉肉の感触や鋸葉縁の細かさまで再現されていた。
鳩渓は、思わず本に覆いかぶさるようにして、ページを捲り始めた。鳥肌が立った。添えられた絵は、葉や枝の厚みや丸みまでも感じることができた。見たことのない草や実も、まるでそこに有るようで、この先「見た経験がある」と記憶が混同しそうなほど生身であった。
次のページを早く見たくて、捲る指の愚鈍さがじれったくもあり、もっとじっくり見たいのにとっとと捲ってしまう指の性急さに腹も立った。
「ああ、この実は何だろう。この葉は?何て書いてあるのだ?」
挿絵の横や下には、ぎっしりと横文字が細かく並んでいた。アベシ(ABC)の一文字も読めないことが苛立たしい。鳩渓は、思わず拳で畳を叩いた。
「どうされました?ご気分でも悪いですか?」
通りかかった書生が、鳩渓の様子を見て声をかけた。
「あ、いえ・・・」
若い書生の前で、興奮し取り乱していることが恥ずかしく、鳩渓は居住まいを正した。
「あまりに美しい図鑑なので、驚いてしまって」
少し照れくさかったが、素直にそう告げた。
「ああ、ドドネウスですね。それは『コロイト・ブック』かな。先生のものではなく、カピタンからお借りしたものだそうです」
「どどにゆうすの『ころいとぼつく』ですか・・・」
この本との出会いが、平賀源内にとって、どれほど大きかったことか。既にこの時に鳩渓は、漠然と、いつかこんな図鑑を自分も作りたい、こんな図鑑の日本版を作りたいと思ったのかもしれない。
数日後、幸左衛門は同僚の通詞を何人か家に招いた。鳩渓と桑閑に紹介してくれるのが目的だったろう。西善三郎もその中にいた。後に江戸に出て来て、懇意になる男だ。
鳩渓の質問に彼らは明確な答えを与え、また鳩渓の視点や理解力に驚いているようでもあった。阿蘭陀医の通訳も勤めることから、自然に彼らは医学にも通じ、桑閑にも新しい知識を多く与えた。
小さなギヤマンに注がれた透明な液体は、日本の酒ではなかった。飲めない鳩渓も、好奇心で少しだけなめてみた。甘みはあるが、一瞬で口の中が熱くなった。
『もったいないから代われ』と国倫に言われ、しばし交替する。国倫は喉の焼けも心地よく感じながら、その酒を飲み干した。幸左衛門が「これは『シロ』です。『アカ』というのも有りますが、それは少し渋い味ですね。で・うぃいん(ワイン)という酒です」と説明した。
阿蘭陀物は高価なので、通詞の家にあるのは個人的にカピタンから貰った物だそうだ。昔は寄贈自体禁止だった。最近はだいぶ規制も柔らかくなり、それでも全ての貰い物は奉行所へ連絡しなくてはならないと言う。
「花魁や商人だけでなく、料理人や掃除夫などは私達同様、出島へ通っています。密輸入が無いよう、かなりお調べは厳しいですよ。花魁も、あのたくさん着た着物を全部脱がされると聞きました。それでも、髪や股に隠して、色々と持ち帰るようですけどね」
「髪や・・・股じゃと?」
国倫は不快さに眉を寄せる。だから女は恐ろしい。だいたい、貴重な阿蘭陀物だとしても、女の股に入れて持ち出された物など、触れたくもないと思う。
「平賀殿、面白い物をお見せしましょう」と、通詞の一人、今村源右衛門が袂から、掌で握れるくらいの機械を取り出した。面の上ではゆらゆらと棒が揺れる。四方には四つのアベシ文字が記入してあった。
「どこにいても、自分の場所がわかる便利な機械だそうです。桑閑先生、金二百両でお買いなさらんか?」
桑閑はその馬鹿高さに酒を吹き出したが、国倫は動じずその仕組みを上から覗き込んだ。
「それは阿蘭陀人の言い値かいね?ぼってくれるもんじゃのう」と笑い、「日本にあるもので、簡単に作れるじゃろうが」と軽い溜息をついた。
「作れるですと?」
今村の問いに国倫が頷き、方位磁石のしくみを暴いた。他の通詞は目を見張ったが、幸左衛門だけは「ほらほら。平賀殿が若いからと言って、軽く見てはいけませんよ」と、得意そうだった。
「だいたい、二百両ってなんじゃ。今村様、日本の損になることに手を貸してはいかんじゃろ」
国倫に意見されて、桑閑と歳の変わらぬ通詞は、参ったなと照れ笑いをして誤魔化した。軽そうな男に見える国倫だが、彼は結構本気で日本のことを考えていた。新しい物は好きだし、好奇心は旺盛なので阿蘭蛇物に興味津々ではあったが、それに負けない物を日本という国が作り出せると信じていた。いや、『日本が』では無いかもしれない。『自分が』、だ。国倫が日本を愛するのも、『わしという人間を産み出した国じゃから、たいした国だ』という考えだったのかもしれない。
幸左衛門は白うぃいんを飲み干して頬を赤くして、機嫌がよさそうだった。
「平賀殿を、出島へ連れて行けたらなあ。カピタンのところには、面白い機械がたくさんあります。あれらを、あなたに見せたいなあ」
その口調から、それが夢のように難しい話だろうということは察することができた。
同僚達が帰り、国倫も部屋へ戻った後も、桑閑と幸左衛門は地酒を煽って酒宴を続けたようだ。桑閑が騒がしく寝床に着いたのは遅い時刻で、かなり出来上がっていたように思う。
「水をくれ、水!」と叫んで、国倫が水差しから湯飲みに注いだ時にはもう鼾をかいていた。仕方ないので、国倫が憮然としつつもその水を飲んだ。
翌朝は桑閑のことは起こさなかった。朝食の膳で幸左衛門に挨拶した時、妙によそよそしいのが引っかかった。国倫を見る視線に険があった。昨夜までは、平賀源内を評価し、好意を持っていてくれたように見えたのだが。
商館長宅へ出向くまでのせわしない時間のはずだが、「平賀殿、ちょっと」と、改まって客間に呼ばれた。
国倫が座に付くや否や、幸左衛門は単刀直入に切り出した。
「うちには書生が数名います。彼らに悪い影響がある人を置くわけにはいかない。
あなたが衆道であり、藩主の愛人であるというのは本当のことですか。今回の長崎留学も、それのおかげだというのは」
「・・・。」
辛辣な質問に、国倫は息を飲んだ。正座した腿に置いた手の、甲が氷に付けたように冷たくなった。
「留学は・・・砂糖を作れたらという約束でしたけん。約束したのは、だいぶ前じゃ。その当時に、殿がわしをどう思っていたかは、知らん」
国倫は、声を絞り出すように答えた。昨夜、桑閑は酔って余計なことも話したのかもしれない。
「情人であることは否定なさらないのですか」
「否定せんよ。本当の事じゃ。だが、自惚れと思われるかもしれんが、わしは実力でこの留学を勝ち取ったと思っとる。
身分の低い侍が留学なんぞすると、そう思われてしまうのは仕方ないけん。藩も、扱いに困って、桑閑さんの付き添いちゅう形でわしを出した」
淡々と答える国倫に、幸左衛門の方が肩を落として深いため息をついた。
「嫌なことを尋ねて、すみませんでした。私の誤解でした、本当に申し訳ない」
「書生のことだけじゃないじゃろう、ご心配は。藩主を誘惑して留学した男なら、大通詞にも同じ手法を使うと懸念なされたか?」
国倫が鼻で笑うと、幸左衛門はかっと頬を染めた。
「いえ、あの、そんな。・・・すみません、実は」
あまりに率直に認めたので、国倫の方が驚いた。幸左衛門は耳まで真っ赤になっている。
「松平讃岐之守は、かなり様子も良く聡明な方だそうで。自分を同じに考えたことが、恥ずかしいです」
恥じるピントがどこかズレている気がするのだが。この男、最初の質問もどうかと思うほど真正直だったが。ぶしつけではあるが、裏表の無い男なのだろう。
「で、わしは、まだここへ置いてもらえるのかのう?」
上目使いで幸左衛門の顔を覗き込むと、あわわと唇を震わせて「もちろんです」と唾を飛ばした。
彼の出勤を見送り部屋へ戻ると、桑閑はまだ高いびきで寝入っていた。
悪意があったわけではなく、『アイツは殿にも愛されて』というような自慢話の類で明かしたのだろうが。まったく、困ったオヤジだ。
桑閑のせいで部屋が酒臭いので、窓の引き戸を全快にした。早い朝の空気が、頬に心地よい。空が高い。今日は一日晴れるだろう。
長崎の、夏は近かった。
第10章へつづく
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