★ 私儀、甚だ多用にて ★
★ 第十一章 ★
★ 1 ★
正月も終わり立春も過ぎ、源内と桑閑は桃の節句の頃に帰ることになっていた。宇治屋の船がその頃に長崎に寄るのだ。ここで学ぶのは、あとひと月足らずだ。
「では、あのかた達は、まだひと月も滞在なさるのですかっ」
奥方が幸左衛門を廊下で捕まえて詰め寄る。小声で喋っているつもりだろうが、声が甲高いので、戸を締めた源内の部屋にまで聞こえた。
下宿人の扱いで今まで金子(きんす)を渡していた源内たちだったが、ここ二カ月滞っていた。滞在期間が残り少なくなると、無理をして長崎の珍品を購入する機会が増えたのだ。桑閑は、高松では買えない唐薬問屋の薬品や土産の雑貨を豪奢に買った。源内だって、買える範囲で薬草や本は欲しい。家族や同僚に土産も買わねばならないし、桃源にだって手ぶらというわけにいかない。
そういうわけで家賃を待ってもらった。桑閑は高松へ帰れば金持ちだ。手紙を書いて金を送ってもらうと言ったが、二カ月ばかりの家賃であるし幸左衛門は遠慮した。ありがたい、かたじけないと二人で頭を下げた数日後、桑閑へ飲み屋の請求書が届いた。世話になっていた医者と二人、芸者を挙げて宴会したらしい。その分も幸左衛門が立て替え、奥方の頭からついに角が出たという寸法だ。
大通詞はそう裕福なわけではない。蘭学ブームで羽振りがよくなるのは、十年以上先の話だ。
出島にも最後の挨拶に行った。カピタンの応接間に副館長も外科医も集まり、源内と別れを惜しんだ。
「ホメット様は、また長崎に留学していらっしゃいと言ってます。又は、江戸へ出たら長崎屋へ顔を出せ、と」
幸左衛門がカピタンの言葉を伝える。鳩渓は苦笑しつつ礼の言葉を述べた。無理と思いつつ、頭のどこかの端っこで、江戸へ出たいという想いが芽を吹いていた。
讃岐では、自分の知恵をあらわにすることに用心していた。心を許した友人にだけ、考察や意見を語り、夢を語った。下手な人間に聞かれたら、奇異な目で見られ、上から叩かれ押しつけられる。だが、この街の文明は源内を受け入れてくれた。阿蘭陀人たちは源内の才能を認め、好意を抱いてくれた。
自分が自分として呼吸できる場所は、讃岐でなく、もっと高いところにあると気付いた源内だった。
鳩渓は珈琲を飲み干し陶器を空にした。ポットにも残りは無く、カピタンがテーブルのベルを手に取って振った。が、使用人は来ない。
「あ、いいです。自分で貰って来ますから」と、ソファから立ち上がり、厨房へ向かった。
厨房では話し声がしたので、コックはいるようだが。鳩渓がドアを開くと、誰かがテーブルの下へ隠れたのが見えた。白い作務衣を着た顔なじみの料理人が、「なにか?」と厳しい表情で鳩渓に視線を飛ばした。
「で・かーふぃを貰いに来ました」
「今入れてお持ちします。台所は、お侍様の来る場所ではありません」
「・・・」
早くここから鳩渓を追い出したいらしい。山吹と言うより芥子色に近い着物の袖だった。一緒に出島に来た蔭子の一人だろう。少し年長の、利発そうな、あの少年だと思われた。茶屋から逃げるのか、それとも阿蘭陀船に乗って密航でもするつもりか。知れたら当然死罪だが。
「わたしはもうじき高松へ帰ります。あなたにもお世話になりました」
コックと、テーブルの下の少年と、両方に言った言葉だった。
阿蘭陀人たちはワインを始めた。鳩渓と幸左衛門はカフェインのお替りを注ぐ。酒が入ったせいか、カピタンは何かジョークを言って自分で笑う。外科医も副館長も、鳩渓を見て笑いを噛み殺す。
「なんですか?」
「うーん。伝えてしまっていいのかな。
平賀さんを本物の蔭子だと思った船員がいて、あなたを呼べと言ったそうです。カピタンの客だと知り、憤慨していたそうですよ」
男色家同士は一目で気付くものだと、国倫も李山も誇らしげに語るが。鳩渓は間違われることが多い。だいたいそれは国倫たちのせいだと思う。そういう話題はうんざりだった。
彼らの杯が何度か空き、酔いが回った医師のエーフェルスは、鳩渓の手を無理矢理取った。『踊ろう』と言っているらしい。
「勘弁してほしいと言ってください!」
幸左衛門も早口でエーフェルスに抗議しているが、何か言い返されて黙ってしまった。その言葉は鳩渓に告げなかった。幸左衛門は怒りを押し殺そうと唇を噛み、月代に血管の筋を浮き立たせた。源内に対してか日本人全般に対してか、かなり失敬なセリフだったのだろう。
エーフェルは鳩渓を立たせると殆ど抱きかかえるように両腕で掴んだ。
こういう時の鳩渓は容赦が無い。ピシャリと彼の手がエーフェルの頬を打った。
倍の力で鳩渓は顔を殴り返された。数歩後ろへよろけた。エーフェルの足が腹を蹴り上げ、痛みで蹲まる。大声でエーフェルは怒鳴り散らす。カピタンと副館長が慌てて前へ立って彼をなだめた。
ほんの、数秒の出来事だった。鳩渓自身、何が起きたかよく把握できなかった。一瞬呼吸が出来なかったが、すぐに体を起こすことはできた。腹も骨も無事のようだ。歯で口の中を切ったらしくて、血の味がした。
気まずい空気が流れ、カピタンがさかんに医師に謝れと怒っているようだった。カピタン自身も鳩渓を助けて椅子に座らせ、眉を下げて早口で何か喋っている。謝罪しているのだろう。エーフェルは、先に殴ったのはヒラガだと言ってすねているようだ。
自分は客だ。鳩渓が「あなたの国の風習に慣れていなくて、驚いてしまって」と、自分から謝った。確かに、先に殴ったのは自分だ、撫でたような平手ではあったが。日本人のような野蛮な民族(と彼らが思っているのは端々から感じられた)に殴られたので、逆上したのだろう。どちらが野蛮なのだか。
西洋風の手を握る挨拶は、詫びや感謝にも使われると聞いた。鳩渓は右手を差し出してみた。エーフェルはそれを握り返し、何かボソリと謝りの言葉を述べたようだった。
全員が気まずいまま、鳩渓達は出島を立ち去った。
吉雄邸に帰ってから、珍しく幸左衛門が「ちょっと酒を付き合ってください」と地酒の大徳利を持ち出した。招き入れたのは客間でなく、幸左衛門の書斎。私室だった。
酒を飲むので、するりと鳩渓と国倫が入れ替わる。
「今日はすみませんでした」と、幸左衛門は深く頭を伏した。
「なに言うちょる。おんしのせいではないじゃろ」
ぐい飲みに注がれた酒を軽くなめてみる。口の中の傷にピリリと滲みた。
『喧嘩したのはわたしなのに、すみません』と、痛みに対する鳩渓の謝罪が聞こえ、国倫は苦笑いする。
「阿蘭陀人は、日本人を犬か猿みたいに思っているところがあります」
「もしくは、カモじゃろう。貿易で儲けるための、カモ」
自分で言って、ははと国倫は笑ってみせたが、殴られた頬が痛んで途中で顔が引きつった。触れると、少し腫れているようだった。
「西洋人は概ね残酷です。子供向けの本でも、目を覆いたくなるものもある。きっと、四つ足を食ってるせいですよ」
それは偏見だと思う国倫だった。頼恭だって肉を食う。だが、阿蘭陀人に対して『四つ足を食うから鬼のような人間』というイメージは、多くの日本人の中に有った。
「犯罪も、日本のものより、何倍も残虐なものが多い。押し込みで殺したり、恨みつらみで殺す事件は日本にもあるが、殺すこと自体を楽しんで、何人も殺す『殺人鬼』って奴がむこうには多いそうです。虫の息のうちに腹を割いたり、体をばらばらに切ったりするのを楽しむ事件もあったとか。気ぐるいとしか思えない」
「エーフェルには腹を裂かれたわけじゃないけん。怪我はたいしたことないし、わしは気にしてない。先にぶったのはわしじゃ」
幸左衛門はまだ気持ちが昂っているようで、阿蘭陀人から聞いた残酷な犯罪を列挙して糾弾を始めた。仕事での阿蘭陀人へのストレスも溜まっていたのかもしれない。あまり聞いて気持ちのいい話ではない。国倫は、酒に映る自分の顔を見ながら、静かに聞き流す。右の唇の上がぽこりと腫れていた。味の濃いものを食べたら痛むだろうと思う。
ごとりと陶器が畳に落ちて、酒が溢れた。
「平賀どの?」
「あ・・・ああ、す、すまん」と、慌てて手拭いを袂から取り出して畳をぬぐった。
多重人格の連続殺人犯。今、確かに。幸左衛門は、その話をした。初めて耳にした、多重人格の事例だった。
指先が凍って、湯飲みを拾おうとしてもまた滑り落ちた。鳩渓も。李山さえも息を飲んで次の幸左衛門の言葉を待った。
だが、彼の話は話題が変わっていた。もっと詳しく聞きたかったが、さり気なくうまく話を戻すなどできそうになかった。唇が恐怖で震えて、頬が引きつっていた。不審に思われずにいるのが精一杯で、言葉など発せられる状態ではなかった。
耳の後ろがドクドクとうるさくて、その後の話はすべてすり抜けて行った。
幸左衛門が別のことを喋っている最中も、先程の話を反芻し、頭の中で確認する。
彼が語った症例は三件。一件は、殺人そのものを楽しみ、死者のはらわたを取り出して集めていた男。残りの二件は、強姦殺人だった。逮捕されて、三件とも、犯人は『自分の中の一人がやったことで、自分は殺していない』と供述しているそうだ。事件が起こった時代も街もバラバラで、殺人の方法も違う。記録では、頭のおかしい者として処理されたという。
顔色が蒼白で様子もおかしい源内に気付いた幸左衛門は、言葉を切ってやっと酒を下へ置いた。
「どうしました?」
「ちっと、気分が悪くなった。それに、酒を飲んだら傷が痛んで来よる」
「あ、すみません、気持ちの悪い話をしてしまって。酒に付き合ってくださってありがとう。早めにお休みください」
幸左衛門はそう言って解放してくれたが。
部屋に戻り床に入っても、一睡とてできるはずがなかった。
★ 2 ★
桑閑は今夜も友人の医師と呑んだのか、大きな鼾をかいてだらしなく寝入っている。鼾が騒々しく響き、引いた後に一瞬の静寂がある。鼾はすぐにまた始まるが、その一瞬が部屋を凍らす。足先は布団の中でも少しも暖まらず、冷えて痛みさえ伴った。
国倫の目は闇にとっくに慣れて、桑閑の布団の小山も、窓際にぴたりと置かれた古い机も、天井の梁さえも形を知ることができた。
ひとりの体に何人もが宿る。それは物の怪のしわざか、神の呪いか。
自分はいつか誰かを殺すのか。それとも、凶暴な人格が登場し、三人の和を壊すのか。内蔵を引きずり出し、弱い者を凌辱し、首を絞め、腹を割き、背中を斬り付け・・・。自分は、いつか、人を殺すのか。内の誰が行うかはわからないが、この体が。この腕が。
ばかな、と軽く笑って寝返りを打った。あれは、犯罪記録の中での事例だ。全てが犯罪者なのだ。
例えば、源内は右手の人差し指が長い。中指とほぼ同じ長さだ。他にはこんな男は知らない。だからと言って、押し込みのカシラにこんな指の男がいたと聞いて、自分がいつか盗人になると怯えるなんて理屈があるものか。
多重人格というのは掴まって取り調べを受けたからわかったことで、事件を起こさない人々の中にもたぶんひっそりと居るのだ。平穏に常識的に道徳的に暮らす人の方が、きっと、ずっと多いのだ。国倫は自分に何度もそう言い聞かせた。
鳩渓も李山も一言も発しない。鳩渓は畳に尻をついて膝をかかえている。李山は腕を組んで立ったまま壁に寄りかかる。二人とも、口を開く気になれないようだ。たぶん、同じ、鉛のような心を持て余している。
足はますます冷たく、背も肩も寒かった。
障子の外はまだ暗転だが、そろそろ七つか七つ半かと思う。一番冷える時刻。だが立春も過ぎて、夜明けも早くなったはずだ。
国倫は静かに起き上がった。桑閑を起こさぬように身支度を整える。
「桑閑さん、ちっと借りる。いつか返しますけん」
文机には、桑閑が長崎で購入した高価な土産物が置かれていた。その中から玳瑁(たいまい)細工の笄を手に取る。玳瑁は今でいう鼈甲である。ぬくもりを買いに行こうにも、源内には金が無い。
「お馴染みはおありか?」と遣手に問われ、「いや」と応える前に「初会ならお見立てなさいますか」と返される。だが、玄関に下がる札は一枚しか開いていないし、お見立てなさるも無いものだ。夜明けに近い。こんな時間に客が来ると思っていなかったのだろう。
「その前に。こんで支払いの代わりになるかいの?」
「仕方ないねえ。どれ。・・・玳瑁だね。これなら二切だ」
一切は線香一本が燃え尽きるまでの時間だった。この時代の線香一本は半時(一時間)程度。
バタバタと廊下を走る音が聞こえ、客を取っていない蔭子・・・札が表にされた少年が、今頃顔を出した。
「うわあ、遅くなってすみません」
うたた寝でもしていたか、髷がほつれて紅も剥げている。芥子色の振袖。一緒に出島へ行ったあの蔭子だった。
「平賀さん・・・」
少年も源内を覚えていた。
「顔見知りは堪忍してほしいのう。この子しかおらんなら、ほいでから出直して来る」
「私が育ちすぎてるからダメですか?」
情けないほど悲しそうな顔をする。商売がうまい。
「違う、顔見知りじゃと照れ臭いじゃろ」
国倫はこの利発そうな少年に好感を持っていたし、この子を買うと浮気になるだろう。頼恭に知れることはないと思うが、罪悪感は残る。
「ねえ、善吉の客が帰り支度をしていました。すぐに奴を呼びますから、それまで一杯やりながらお付き合い願いませんか」
それは少年の方便に思えた。だいたい善吉なる蔭子がこの店にいるのかさえ怪しい。
「平賀さん、頬、どうしました?転びましたか?」
少年はそう問うと、にっと笑ってみせた。彼は、源内が殴られた騒ぎを知っているようだった。
「おまえ、このお客様とどこでお近づきに?」
遣手婆が不思議そうに首を傾げる。『出島で会った』なんて言われては困る。
「わかった。わしの負けじゃ」と、苦笑いで下駄を脱いで玄関を上がった。
「善吉云々ちゅうのは、どうせ嘘じゃろ?」
行儀が悪いと思ったが、寒さで凍えそうだった。部屋へ入ると、足を伸ばして足袋の裏を火鉢にぴたりと当てた。
「すみませぬ」と少年は破顔し、徳利を差し出す。
手も悴んでいた。猪口がうまく掴めない。
「冷たい手ですね。外は寒かったでしょうに」と、少年は一度徳利を置いて両手で国倫の手を包み込んだ。
「こんな時間に来んでもって顔をしちょる」
「あはは。少し驚きましたが。・・・悔しくて眠れませんでしたか?」
「え。ああ、殴られたことか。よう知っとるの。
それより、わしは、おんしが密航か茶屋抜けでもするのかと思っちょった」
「厨房で、気付いておいででしたか。
客から逃げただけです。紐で手を縛ろうとするので、恐くなって」
「・・・。」
「ほら、跡がついてるでしょう」
少年は袖を手繰って手首の痣を見せた。痣はまだ赤く、新しかった。
「今夜はお互い運が悪かったようですね」と、少年が、国倫の口許の傷に触れた。
国倫は苦笑する。殴られたことなどもう痛くなかった。重くのしかかるのは、幸左衛門が洩らした多重人格者の症例。自分が残虐な狂人なのではないかという畏れだ。
「半年前までは、もう少し小柄だったんだけどなあ。急に背が伸びてしまって。あんなに食べ物も我慢して、育たないよう気をつけていたのに。
すみません、私なんかしか残ってなくて」
少年はさかんに申し訳ながった。彼は大きな瞳とまっすぐで美しい額をしているが、すでに美青年と呼べそうな面立ちで、女性の代りとしては育ちすぎている。瞼は深く窪み、頬の線も鋭利な大人の顔だった。
自分は残虐ではないと証明したかった。この少年に優しくしてやりたくなった。
「わしは別におんしを女に見立てるつもりはない」
国倫は、ほつれていた少年の髪を撫でて直した。
「平賀さん?」
「わしはおなごは嫌いじゃ。女がいいなら女郎屋へ行った。
おんしはそう嘆くが、今まで床を同じくした者の中で、一番華奢じゃぞ?器量もええ」
「まだ、同じくしていませんよ」と、少年が笑顔をみせた。
「では、あなたを温めて差し上げてもいいのですね、手だけでなく」
可愛いことを言う。国倫は返事の代わりに少年を引き寄せる。消えかけた首の白粉の匂いが、微かに鼻をくすぐる。少年の頬は暖かかった。
だいぶ陽が明るくなっていた。国倫はそろりと吉雄邸の玄関を開けた。幸左衛門はもう仕事へ出かけているだろう。桑閑は起床しているだろうか。
「あら、平賀さま、お早いお帰りですこと」
幸左衛門の女房が国倫を見つけて皮肉を言った。彼女は水差しを持って離れへ向かうようだ。
「丁度ようございました。これを桑閑さまにお持ちいただけますかしら。二日酔いで、お水が欲しいそうですので」
奥方の頭の角は、天井に届くほど長くなった気がした。詫びと礼を幾度も言って、水差しを受け取った。
そして、離れの部屋に戻ると今度は、桑閑には、勝手に土産の笄を借りたことを何回も謝罪した。
十日ほどすると、宇治屋の船が着いた。この船は阿蘭陀や唐の雑貨を積んで、長州の下関や、安芸・備後の港を経由し、志度へ一度戻って大坂へ向かう。輸入品は大坂の指定の唐反問屋で販売せねばならないが、長崎で普通に売っている土産雑貨も各地で高く売れる。行きは大坂の荷を直接長崎へ下ろす船で向かったが、帰りはそれぞれの港へ寄って荷を捌きながら進むことになる。
季節がよくなり、カピタンも参府へ出る時期だ。幸左衛門も当然随行する。源内達が吉雄邸を去る潮時だった。源内も桑閑も心からの礼を述べ、屋敷に別れを告げた。
「平賀殿が江戸へ出ることがあったら。長崎屋で会いましょう。また、お会いしたいです」
幸左衛門は世辞を言わない男だ。鳩渓はこの男の好意を信じる。
「阿蘭陀式で」と、幸左衛門の手を取って強く握った。
「幸左衛門さんのおかげで、勉強になりました。それに、とても、楽しかった」
そう、楽しかった。楽しすぎるほど楽しかった。讃岐に戻るのが怖いほど。
だが、薬園では仕事が待っているし、玄丈も一人で難儀しているだろう。里与は大きくなっただろうか。母は・・・嫁候補をずらりと門に並べて立たせるかもしれぬ。このまま逐電したいと一瞬思うが、そうはいかない。長崎で得たものを自分の人生に生かしたい。逃げずに何とかしなきゃいけないと思う。
国倫・李山に比べて逃避癖の強かった鳩渓だが、少し強くなったのかもしれない。
よく晴れた朝、船は港を出る。
長崎から遠ざかる旅。
この時寄港した備後鞆之津(現・広島県福山市鞆町)で、源内は鍛冶屋が使用する土を見て、これが良い焼物を作れる土だと見抜く。この土を探し、江ノ浦で発見。その土地の溝川某に『ここに窯を作るとええ。この土で陶器を作ればげんしゃ(金持ち)になれるぞ』と教えたという。
『富豪になったら、感謝してここにわしを祀れ。わしは平賀源内という』
最後の一言は、全く無名の讃岐の田舎学者の、冗談だったろう。だが、自分の知識を、藩だけでなく日本の為に生かしたいという気持ちでした助言だ。帰路、源内の目は、狭い讃岐でなく、日本全土に向いていたのだ。
波に揺られつつ。源内の気持ちは固まっていく。
第12章へつづく
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