★ 私儀、甚だ多用にて ★

第十三章

★ 1 ★

 田村邸に、『どどにうす・ころいとぼつく』到来す。

 冬の木枯らしが背中に迫り、夕暮れの街は既に黒い外套を着せたような暗さだ。もうそんな季節となった。
 今日は一の酉だ。源内たちは、藍水先生の好意で薬園の仕事を早く切り上げさせてもらい、長國寺の酉の市へ出かける手筈になっていた。
 仕事と言っても土いじりは小作の者が行う。門下の学者は育ち具合や虫食いをチェックし、植え替えや収穫や間引き等の指示を出す。邸宅の庭で源内がやったような、自ら鍬を握って耕すことは稀である。
 鳩渓は庭の野菜の具合を見終わり、井戸で手を洗っていた。讃岐は霜月でももう少し暖かいと思う。水の冷たさに、地団駄を踏んで耐える。
「平賀さんっ!どどにうすが届いてますーー!」
 庭に面した障子が開き、藍水の長男・元長が大声で呼んだ。
「えーっ、ほんとですかっ」
 鳩渓は手ぬぐいを取り出すのももどかしく、野袴の腰で水をぬぐうと、縁側から草鞋を脱いで上がった。
 田村門下になって以来、鳩渓は『どどにうすのころいとぼつく』の素晴らしさを、事あるごとに語って来た。先生に向かって、『幕府に頼んで、買っていただいたらどうでしょう』と意見までする図々しさであった。
 最初は苦笑混じりに聞き流した藍水だった。だが、源内が薬品会を提唱したことで彼の先見の明に一目置き、そして成功させた手腕に信頼を置くようになっていた。
「えらい高くて、しかも稀少本なんだろう?俺がどこまで幕府に大事にされているか、自信がねえな。駄目でも、がっかりすんなよ?」
 薬品会が終わった頃、藍水は半信半疑の微笑で、『長崎商館長からこの本を買って貰えないか』と幕府へ問い合わせてくれた。藍水のような市井の学者が買える金額の本ではない。幕府に買って貰い、戴くか借りる形になる。
 そして、今日、幕府の者が屋敷へ届けてくれたらしかった。

 鳩渓が慌てて座敷へ飛び込むと、皆が背を丸めて青い風呂敷の荷物を囲んでいた。純亭や元長の若者に混じり、もう還暦も近い高齢の後藤梨春までもが、少年のように頬を紅潮させている。
「早く開きましょうよ」、元長が風呂敷に手を伸ばすと、「まてまて、藍水先生が来てからだ」と、梨春がぴしゃりと手の甲を叩いた。まるで祖父が孫の悪戯を叱る仕種だったので、鳩渓も純亭もくすりと笑った。
 当の藍水は、野袴から酉の市へ出かける羽織袴に着替えて、座敷を覗いた。
「なんだ。みんな、まだ開いてなかったのか」
「先生に開いていただこうと思いまして」と、梨春は息子のような年齢の藍水に丁寧な口調で告げた。藍水は五分刈りの短髪を掻いて、『別にどうでもよかったのだが』という表情で唇を曲げ、「おお、すまんな」と、含みも芝居っ気もない仕種でぱっぱと風呂敷を解いた。
「もっと、もったいぶってくださ・・・」
 軽口を叩こうとした純亭の口が、あんぐりと開いたまま止まった。表紙の、噴水と四阿の精密さに驚いた唇が、もう言葉を続けられなかった。
 梨春も元長も、「うわあ」と歓声を挙げた。
「ああ、どどねうすです!これです、これ!ころいとぼつくです!!」
 おとなしい鳩渓が、興奮して掌で頬を覆ってはしゃぐ。大通詞の吉雄邸で見たあの図鑑が、目の前にあった。あれから四年もたったなんて信じられない。その本は、昨日別れた恋人のように、鮮明にしっかりとそこに居た。壊れ物のガラス細工であるかのように布に覆われ、その姿は胸元に布を被ってはにかんでいるようだ。
「先生、早く!早くめくってください!」
 鳩渓の悲鳴のような願望に、「そうです」「早く!」と皆も続く。
 藍水はやれやれとため息をつく。
「今日はさらっと眺めるだけにして、とっとと長國寺へ行くぞ」
 紺屋町から浅草はそう近いというわけではない。藍水が急かすのは尤もなことだった。
 しかし、図鑑を捲り初め、図録が現れた時、藍水の手も止まった。
「なるほど、これは凄い。平賀くんがうるさく言うわけだ」
 そのページには、細い克明な線と本物にそっくりな色合いで、菖蒲の花が描かれていた。しかも、同じ花が、開きかけ、開花時、枯れる寸前という風に描き分けられている。ぎっしりと詰まって書かれた阿蘭陀語の説明は、この画に負けぬくらい詳しく細かいだろうと思わせた。
「純亭・・・」
 先生に名前を呼ばれる前から、少し阿蘭陀語を習ったことのある十九歳の医師が、皆から期待の眼差しで見上げられていた。
「うわっ、無理です、無理!私は簡単な単語しか習っていません。学術用語を訳すなんて、とんでもないです」
 青年は尻餅ついたまま、ずりずりと後ろへ下がる。
「まあ、そりゃそうだ。吉宗様がこれを訳させようとしたが、幕府の通詞も数行で音を上げたと聞いている」
「幕府にはこれがあるのですか?」
 鳩渓は驚きの眼差しで藍水を見上げた。
「カピタンからの貢ぎ物として蔵にでも納められてるんだろう。活用しなけりゃ、漬け物石と同じだ」
「・・・。」
 確かにそうだ。綺麗だ、精密だで終わらせてしまっては、この本が無駄になるのだ。鳩渓は、以前からこの図鑑を入手したら試してみたい計画を口にした。
「薬としてオランダから高い値段で買い入れている草木が、日本にもある物かどうか、この図鑑でわかると思うのです。
 純亭は、図鑑にある草木の名は読めるでしょう。わたしも、単語なら少しは発音できます。名前と、草木が生えている形状を照らし合わせれば」
「源内さんっっっ!、それ、やりましょう!」
 顔を真っ赤にさせて興奮した純亭が、バネ仕掛けのように体を起き上がらせた。と、つーと鼻から一筋、細い血が垂れた。
「うわ、鼻血かよ」
 藍水たちは一斉にコロイト・ブックスを純亭から遠ざけ、慌てて風呂敷をかけた。
「・・・ふんっ。私の体より、図鑑が大事ですか」と、恨みのこもった声で純亭は天井を向き、手ぬぐいで鼻を抑えた。
 顔を見合わせて「そりゃあ、なあ」と皆が笑うので、純亭は益々ふくれっつらになる。
「やれやれ、鼻血とは若い証拠だ。まあ、この図鑑に興奮する純亭の気持ちもわかる」と、梨春は筋張った首を振ってうんうんと頷いた。
「どんな枕絵を見ても、眉ひとつ上げないくせになあ」と元長。
「ほら、御酉様に行くぞ。どどにうすは、明日ゆっくり見ようぜ」
 せっかちな藍水が立ち上がった。純亭は畳に仰向けに横たわる。
「純亭は、血が止まったら後で来い」
「先生、冷たいですぅ。みんなが遊びに行くのに、一人でここに寝てろって?」
「わたしが純亭を診ています」
 鳩渓が、敷物を丸めて純亭の首の下に入れてやりながら、藍水に会釈した。
「おお、そうか、頼む」と、藍水はさっさと座敷を出ていった。元長と梨春も「では」と、後に続いた。

 鳩渓は、自分の手ぬぐいを濡らして、純亭の額に当てた。
「のぼせて出た鼻血です、すぐ止まるでしょう」
「いいですよ、源内さん、子供じゃあるまいし、一人で平気です。源内さんは、初めての酉の市でしょう。行って来てください」
「いえ。実は、ゆっくりと、どどにうすを見たかったんですよ」
「・・・なんだ。私を心配してくれたわけじゃないのか。ちぇっ」

★ 2 ★

「ごめんください」と、玄関で声がする。
「あれ?玄白さんの声ですかね」と、鳩渓が腰を上げた。が、奥方が対応したのが聞こえ、また座り直した。
 純亭が、「あー、忘れてた!」と、濡れた手ぬぐいの額にぺたんと手を置いた。
「どどにうすで、いろんなことがぶっとんでました。玄白さんも誘ったんです、御酉様。患者が早めに引いたら、ここへ来るって言ってて」
「純亭さん、鼻血出してよかったですね。後で玄白さんに怒られるところでしたよ?」
 鳩渓の軽口に純亭がぶすっと口を尖らしたところへ、玄白が入って来た。
「遅くなってしまって。田村先生達はもうお出かけですってね。
 純亭は何で鼻血なんて?枕絵でも見ましたか?」
「元長くんによると、純亭はそんなものじゃ眉ひとつ上げないそうですよ」
 鳩渓が笑いながら言うと、「ははは、そうですか、それは失礼」と玄白も笑ってみせた。
「実は、どどにうすが届いたんですよ」
 まるで自分に届いたように、鳩渓は得意そうに胸を張った。
「えっ!鳩渓さんがいつも言っていた、あのどどにうすですか!」
 玄白も小さな目を見開く。
「わたしたちは、さっそく見せてもらいました。さ、玄白さんもどうぞ」と、鳩渓は勝手に風呂敷を解いた。
「うわあ。細かい部分も潰れず刷れているのですね。おお、この珊瑚!本物が紙の上にあるみたいです!」
「そうでしょう?!玄白さんもそう感じましたか?わたしも、長崎で見た時」
 二人の盛り上がりようを横目で見つつ、純亭は濡れ手ぬぐいをずらしてため息をついた。まるで少女たちが美しい簪や菓子でも与えられたように、きゃっきゃとはしゃいでいる。いや、もちろん気持ちはわかる。加われないのがつまらないだけだ。
「ねえ、源内さん。私の鼻血はもう止まってますよねえ」
 起き上がろうとする純亭に、「あ、ちょっと待ってください」と、鳩渓が胸元から懐紙を取り出し、契って縒って鼻の穴に詰めた。「これでもう少し様子を見ましょう」
 純亭はぶうとふくれて、再び仰向けに寝た。腹が立ったので、「源内さんに穴に入れられたら、婿に行けません」と下品な冗談を言った。
「純亭っ!!」
 先に玄白の怒声が響いた。鳩渓は苦笑しているだけだが、玄白の方が憤慨して真っ赤になっていた。
「何てこと言うんです!平賀さんに謝りなさいっ!」
「玄白さんもそうムキにならずに。純亭は拗ねてるだけですから」と鳩渓は玄白の腕を取って、図鑑へと引き寄せる。
「それに国倫さ・・・いえ、いつもわたしが言う猥談の方が、もっとえげつないですね。ね、純亭?」
「・・・。」純亭は応えず、横を向いた。もう血は止まったようだ。青年の整った鼻筋から滑稽に飛び出す懐紙も、血は吸い上げていなかった。
「純亭はそろそろ大丈夫そうですね。
 あ、玄白さん、これ、豌豆マメみたいですよ。こっちは蒲公英じゃないですか?」
 豌豆マメ自体は古くから日本にある。遣唐使が持ち帰ったと言われている。だが、日本のものとは実の大きさが違うように見えた。蒲公英の方も馴染み深い草花で、食用にも薬用にも使われて来た。ただし薬は医師が調合するわけでなく、民間療法で葉や根が整腸・利尿・解毒などに使われた。
「えっ、どれですか?あああっ、本当だっ!阿蘭陀にも蒲公英が?」
 二人とも勢いよく本を覗き込んだ。
 ごん!と鈍い音がして、鳩渓は「痛っ!」と額を抑えた。
 同時に玄白も「いたたた」と目と目の間、鼻の付け根を抑えた。普通はぶつけない場所だ。先に鼻の頭がぶつかるはずだが、何せ玄白の鼻は低かった。
「大丈夫ですか?」と、鳩渓はオデコを擦りながら玄白を気遣う。玄白の方は「は、はい、大事有りません」と真っ赤になって慌てる。お互いの唇が触れたことに、鳩渓は気付いていないようだ。
「あっ・・・。玄白さん。鼻血・・・」
 
「玄白さんの方は、ぶつかって出た鼻血だから、少し時間がかかるかもですねえ」
 さっきまで純亭が使っていた濡れ手ぬぐいを額に置いて。鳩渓の声を聞きながら、玄白は懐紙を鼻に詰めて天井をぼんやり見つめた。
 回復した純亭と、ぶつけても何でもなかった鳩渓は、玄白を見守るというより図鑑について語りながら、先生の奥方に煎れてもらったお茶をすすっていた。
「源内さんが言うように、在来する草木と同じものがあるかもしれません。手分けして調べて行きましょう」
「わたしは純亭のようには阿蘭陀語は読めません。ご指導よろしくお願いしますね」
 玄白が居ることなど忘れ、どどにうす活用計画に夢中のようだ。腰を落ち着けて、計画の実行について話し合っていた。
 今から浅草へ出かけて行っても、どうせ藍水たちは帰る道中だろう。それに、門人でもない玄白を一人置いておくわけにはいかない。
「すみません。鳩渓さんは、初めての酉の市なのに」
 さっき純亭が言ったのと同じことを言って詫びる。
「謝らねばならないのは、わたしです。この石頭のせいで・・・。
 御酉様は二の酉もありますし。来年だってありますから」
「そうですね。その時は付き合います」
 やっと玄白が笑顔を作った。鳩渓の真っ直ぐ切り立った端正な額が、まだ少し赤かった。
「・・・大通詞の吉雄さんも、本草に詳しくないのでこの本の半分も読めないと言っていましたね」
 鳩渓の心はまだこの一冊の本に取り憑かれている。酉の市などどうでもいいようだった。口から出るのは、どどにうすの名前ばかりだ。
「どどにうすを日本語に訳して出版してくれる学者はいないでしょうかね。そうしたら、わたしはお金を貯めて・・・」
 そこで鳩渓は言い澱んだ。
「無理ですね、和解(わげ)されたものでも、きっと高価でしょうね」
 彼は浪人であり、故郷から仕送りを受ける身だ。宿泊費を浮かす為、儒学になど興味も無いのに湯島の寮に居る。
「・・・玄白さんか純亭が手に入れたら、必ず見せてくださいな」
 玄白には、大柄な鳩渓の背中が妙に細く見えた。本当は自分のつむじを見下ろすほどに長身の男なのに。
「鳩渓さんが訳せばいいのでは?阿蘭陀語を勉強なさって」
「わたしがですか?」と、面食らって鳩渓は玄白を見た。切れ長の目が細められ、玄白と目が合う。玄白が頷くと、鳩渓の左目尻の二つのホクロが、笑顔と共に優雅に位置を変えた。
「そうですね。いつか・・・」

 半刻ほどで藍水たちが戻って来た。外から帰った彼らの着物からは、もう冬の夜の匂いがした。三人とも鼻の頭と耳たぶが赤い。
「平賀さん達が来ないから、つまらなかったです」
 元長が甘えて拗ねた口調で、鳩渓を睨んだ。父親と、祖父のような梨春と三人では、窮屈だったのだろう。
「玄白さんがいらっしゃるとは思わなくて。お土産、二人分しかないんです」
 元長が差し出したのは小さな白木の熊手だった。稲穂が一房だけ、飾りに添えてあるシンプルなデザインだ。
「わたしの分、玄白さんに差し上げていいでしょうか。怪我はわたしのせいですし、何より、開業してらっしゃいますから」
「いや、患者は少ない方がいいです。怪我人病人は減った方がいい」
 熊手は縁起物なので店を開業している者にはいいが、医師はまた事情が違う。玄白らしい生真面目な物言いだった。
「私は貰っておきまーす。可愛いですね、これ」と、純亭は無邪気に熊手を手に取った。象牙色の穂が、さわと揺れた。
「酉の市が来ると、今年も終わりって感じですねえ」
 稲穂の鳴るのが面白いのか、純亭は小槌のように何度も振る。さらさら、さらさらと、時が落ちていくような乾いた音がしていた。




第14章へつづく

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