★ 私儀、甚だ多用にて ★
第十五章
★ 1 ★
初夏の陽差し眩しい宝暦八年四月、田村邸の居間は第二回薬品会を目前にして、物産であふれ返っていた。
初回より参加者は十三名も増え、出品数は二百を軽く越えた。その整理と準備で、門人たちは大忙しである。もちろん本業の人参座の仕事が滞ってはいけない。藍水は弟子たちを人参組と薬品会組に分けて、それぞれの仕事に集中させた。源内はもちろん薬品会組である。
「中川くんは、今日も欠席か?」
先輩の門人・松田長源が、和紙の包みをそっと開きながら眉を寄せた。純亭も薬品会組であったが、ここのところ田村家へは顔を出していない。
「体調でも崩しているのでしょうか。暑かったり寒かったりですから」
鳩渓は、目を細めて包みを覗き込む。昨日は寒くて羽織を脱げなかったが、今日は額に汗が浮かぶほどの陽気だ。
これは乾燥させた桐の樹皮と葉だ。煎じたものを塗布したり服用したりする。打撲と痔に効く。
「官位の岡先生です。全部で十一品ですね」とメモった。鳩渓は筆でなく、炭に布を巻いたものを筆記用具にしていた。これなら、頻繁に筆を墨に付ける手間がいらない。
「いや、あれじゃないか?父君に、そろそろ本草遊びは止めにして、本業の医学に精を出せとでも言われたんだろう」
「そんな!本草学は遊びではありません!」
鳩渓が細い声で抗議した。「それに、医業には必要不可欠な知識です」
「だが、両立するには本草学が大きくなりすぎた。どちらを専門にするか、中川くんも選ばねばならん時が来たのかもしれん。あいつは幾つだ?」
「二十歳になったはずですが」
「医者に専念して、結婚して跡を継げってことかな」
「・・・。」
先輩である松田に鳩渓は反論せず、そのまま唇を閉じた。純亭は小浜藩の藩医の息子である。自分にも覚えがある。二十歳過ぎると急に『嫁を貰え』と煩く言われるようになった。結婚はともかく、自分の進路について具体的に決めねばならない年頃なのかもしれない。
純亭の、まだ少年のように華奢な肩や顎の線を想う。実年齢より幼く見える無邪気で屈託の無い笑顔を想う。国倫は少し純亭を好きだっただろう。鳩渓も、明るく聡明な彼を良い友だと思う。できればずっと一緒に学びたいが・・・。そうもいかないらしい。
かつて、本草学は確かに医学に付随するものだった。薬のことを知る為に、本草を学ぶ。だが最近では、本草学は学問として一人歩きを始めつつある。本草を究めようと思ったら、とても医学と両立はできないだろう。
それは鳩渓にも人ごとの悩みではない。本草を学びたい。どどにうすのような図鑑を自分も作りたい。だが、自分は浪人である。医者という『糧を得る道』を捨てていいものか、心は揺れた。
「ほら、平賀くん。さっさと片付けちまおう」
松田が急かした。仕事は山積みである。
「金橘(きんきつ)、青柳仙安殿。以上六品」
「あれ、平賀くんは黄花木綿を出したの?」
既に書き終えたメモを整理しながら、松田が怪訝そうに尋ねた。
「ええ。敢えて。これからはパンヤが注目されるでしょうから、違いをはっきりさせた方がいいと思いました」
キワタには二種類ある。日本に有る黄花木綿は低木である。蛮種の木綿(パンヤ)は大木だ。黄花木綿自体まだ貴重品だが、鳩渓はパンヤは需要があると確信していた。そこで藍水に『パンヤパンヤパンヤ!』と言い続けたら、幕府にパンヤの種を輸入するよう進言してくれた。駄目モトで言ってみるものである。幕府は、阿蘭陀と唐の両方に打診してくれるとのことだった。
黄花木綿の綿花(花では無く、種の周りにある白いフワフワしたもの)を加工する綿(わた)はまだ高価で、ふわりと柔らかく衝撃を吸収するが、パンヤの弾力には敵わない。
パンヤの木は日本に無い植物である。鳩渓はパンヤを加工した綿(わた)の効果をカピタンの長椅子や背に置く布団で知った。怪我人がこの布団に横たわれば楽だろうと思えたし、傷めた箇所を覆うにも便利だろう。もちろん大名や豪商はこの心地よさの為に大金を払うに違いない。良い殖産になるはずだ。田村一門の仕事は、幕府の殖産計画と連動している。
「当日は、見学者が多くて大変だろうな」
松田は儒者髷を掻いて溜息をつくと、次の包みを広げた。
「そうなのですか?」
飛び込みの見学者は認めず、事前に申込む方式を取っている。前回は見学者はそう多くはなく、出品者達の研究会という感じだった。
「本人が知らないとはな。一回目の噂はかなり広まってるぞ。多めに刷った会誌も宣伝効果があったようだ」
松田の言葉に鳩渓も『ああそうか』と頷く。国倫が、そういう努力をしたのだっけ。
当日も、人と接するのが得意な国倫が活躍することだろう。鳩渓は、こうしてコツコツと物品を整理する作業の方が好きだった。
★ 2 ★
第二回薬品会。曇天ながら雨が落ちることは無さそうだった。物品二百三十一点参加者三十六名、前回より確実に規模が拡大している。神田の料亭を昼間に借り切るが、酒や料理の接待は無しというのは前回と同じだ。
今回は、見学者には待合の部屋で茶が出された。入場者が多いと中が混雑して、よく見学してもらえない。時間で区切って入場制限をかけたのだ。入る前に待たせる代りに、待合の部屋では先に会誌が配られ、待ち時間に出品物の名を確認することができた。
国倫は中で藍水と共に見学者の質問に答える仕事を任されていたのだが、純亭に振り当てられていた待合室からの誘導や接客も一緒にやることになった。純亭は結局今回は参加できず、出品もしなかった。今頃は、病気の父・中川仙安(病名は仮病)の代りに、藩医の仕事をこなしているはずだ。自宅から毎日酒井上屋敷へ通い、医者として常駐する日々らしい。
「平賀くーん!ちょっと!」
受付で対処できない出来事がある度に、国倫は呼び出された。
「おーう、なんじゃ?」
受付では、松田が見学者の名前をチェックする仕事をしている。
「申込者本人でなく、代理でご子息がいらしたのだが。この場合、どうしようか?」
事前の申込にしたのは、人数の把握と、貴重な物も展示するので見学者の身元を明白にしたかったからだ。申込を受理された学者の息子なら、問題は無いだろう。
「構わんじゃろ」と、国倫が受付に顔を出しながら答えを返した。と、受付の前に立つ男にぎょっと釘付けになった。男は紐で背に赤子をおぶい、左手で五歳くらいの男児の手を引いている。
頭はぼさぼさの茶筅髷で、無精髭まで生やしていたが、額から目鼻にかけての美しさがこの男の聡明さを語るようだ。切れるような頭のよさではなく、包み込むような広い知性。そんなものを感じさせる男だった。歳は国倫と同じくらいか。
赤子はバアバアとやたら元気がよく、父の襟元を引くので、女のように衣紋がぬけて胸元もだらしなく鎖骨が覗いた。袴の方も、男児が布を握って歩いたのか、糸で縛った跡のような不自然な皺が出来ていた。ただ、着物も羽織も安っぽいものではない。
国倫は松田の手元・・・名簿のその男の名前を見た。
桂川国訓(くにのり)。
『松田さんっ。法眼の御曹司と違いますかね?』
『えっ?あ、そういえば桂川姓・・・』
法眼とは、幕府の医者『官医』の中で最も位が上の者である。しかし、目の前の、まるで女房に逃げられたような風体の男が?
「お父上の代理は構いませんがのう。お子様はまずいけん」
大事な物品を壊されたりしたら大変だ。
「すまん。女房が女中を連れて実家へ帰ってしまって。今、私しか面倒を見る者がいなくて」
松田が、「お子様はこちらでお預かりしますから、どうぞごゆっくりご覧になってください」と愛想よくにっこりと歯を見せた。随分とサービスのいいことだと国倫が感心していると、「こちらの平賀が責任を持って子守いたします」。
「えっ。えーーっ、ま、松田さんっ!」
始めの混雑は解消され、今は待合室には誰も居なかった。
「ほら、坊主、そこへ座れ」と赤子を抱いた国倫が、敷物を顎で差す。
「失礼いたします」と、男児は礼をしてからそこへ正座した。
「私は坊主でなく『小吉』と申します」
少し憮然として答えた。
「え。あ。すまん」
四歳か五歳か。座ると、茶壺くらいの大きさしかない。だが背筋を伸ばして手を腿の上に乗せ、「平賀さんとおっしゃいましたね。父不在の間、宜しくお願いします」と挨拶をした。舌足らずの高い声は愛らしいが、口調はしっかりとして大人びていた。
利発そうな大きな瞳が、きらきらと輝いている。
「私がもう十歳上なら、父と一緒に見学出来ましたものを。残念で・・・」
「痛たっ!」
赤子の方は国倫の茶筅髷を引っぱってきゃっきゃと笑い声を立てた。こっちの子は、兄の分もイタズラっ子のようだ。
「こら、友吉!」
兄に名を呼ばれて嬉しかったのか、赤子は叱られてさらに激しく国倫の髪を引いた。
「痛いっ!痛いと言うちょるじゃろ〜。ったく、しょうもないお茶目じゃの」
「今日は初めての場所なので、まだおとなしい方です」
普段はいったいどんなやんちゃな赤子なのだ。
「私たちの世話があるので、父は申込めなかったのです。昨年の第一回の話を聞いて、二回目は見学したいと楽しみにしていましたから、気の毒でした。父の見学を許して下さって、ありがとうございます」
「いや、お父上のような立派な学者に見て貰えて、こちらこそ光栄じゃ」
現在の法眼・桂川国華(くにてる)の息子国訓(甫三)も、将来法眼になるであろう男だ。優秀な外科医であり、芸術にも造詣が深いことで有名だった。桂川家は官医の中でもエリート中のエリートだ。
「おんし、幾つじゃ?」
「五歳です」(今の年齢で言うと四歳)
小さいのにあまりしっかりしすぎていると、可愛げの無いものだと思った。
「お母上は、次のお子でもお産みになるのか?」
実家へ帰ったと言っていたが。国倫は小吉に茶を煎れてやり、自分も湯飲みを取った。
「父が吉原へ出入りしたのを知り、怒って出ていきました」
国倫は茶を吹きそうになった。ほんとに逃げられたのか。しかも、五歳の子供が両親のいざこざの詳細まで知っているとは。
だが、夫が岡場所で遊んだくらいで家を出る妻は珍しい。そんなことを嫉妬するのは、かえって仲がいい証拠ではないのか。
「お母上が出ていったのは初めてか?」
「いえ。私が小さい頃にも二度ほど」
今でも十分小さいが。
「なら、すぐに戻って来るじゃろう」
子供は口許を初めてほころばせて、「そうでしょうか?」と微かに笑顔になった。こんなひねた子でも、母が不在でやはり寂しかったのだろう。国倫の心が、じわりと暖かくなる。
そう、膝までじわりと暖かく・・・。膝?
「あ・・・平賀さん。友吉が粗相を」
放尿はおむつの吸い取る許容範囲を越えたらしい。膝の赤子は初めて不快さにわぁぁと泣き出した。
「おしめの替えは父が持っています。呼んで来ます」
「どうも、申し訳ない」
国訓は敷物の上で手早く赤子のおしめを替えた。なかなか慣れた手つきである。
「いや、赤子のすることですけん」
国倫の方は着物と袴を乾かしているので、長襦袢に羽織という情けない姿だ。
『いつも粗相されますよね、赤ちゃんに嫌われているのではないですか?』
鳩渓がからかい気味に茶化す。
「平賀・・・源内殿ですね。お噂はかねがね」
「え?」
「一度、お会いしたいと思ってました。今日は本当によかった」
国訓は寝かせた赤子に紐を絡めると、『よいしょ』と背負った。その運動が楽しかったのか、赤子は高らかな笑い声をたてた。
「官医の千賀殿や長崎通詞の吉雄殿から、あなたの名は聞いていました。もちろん藍水殿からもね。
いや、最初に聞いたのはもっと昔だ。松平讃岐之守が自慢していました。うちの藩には凄く頭の切れる天狗がいると」
「・・・。」
高松藩は十八万石ながらも一応は松平家であり、幕府の中では強い立場にあった。法眼の家系と懇意であっても不思議ではない。今思うと、田村門に難無く入れたのも、旭山の紹介だけでなく、藍水が頼恭と知り合いだったのかもしれない。
そうだ、唐人参の為に『日光の黒土』を持って来させたり、頼恭は讃岐の学者も知らない最新の知識を持っていた。江戸では退屈で毬ばかり蹴っていたと言ったが、色々な情報を仕入れ、勉強していたのだ。
『参ったのう』
国倫は苦笑する。『天狗!』と自分を呼ぶ、響きの良い声が耳に蘇る。意志の強い瞳と、遠くまで通る笑い声。頼恭はなんと偉大で魅力的な男なのだろう。
忘れてなどいない。何年たっても忘れられるものではない。自由の代償に捨てたものは、あまりに大きかった。
「今度、うちに遊びにいらしてください。長崎屋で買った阿蘭陀の本や珍品を是非ご覧いただきたい。あなたと話の合いそうな若い学者も、たくさん集まります。若くないのも来ますけどね、甘蔗先生とか」
甘蔗栽培の成功と阿蘭陀語が達者なことで、青木昆陽先生は有名な学者であった。その先生をあだ名で呼ぶとは、よほど親しいのだろう。
「いや、実を言うと、皆も平賀殿に会いたがっているのですよ。絶対来てくださいよ」
国倫も心は動く。阿蘭陀の書籍に珍品。長崎で見た、遠眼鏡や時計などもあるのだろうか。薬品や植物もあるかもしれない。彼らに色々なことを教えてもらいたい。
だが、築地にある彼らの屋敷は『桂川御殿』と呼ばれる。裕福で恵まれた学者達が集う会に違いなかった。国倫のような浪人の貧乏学者が足を踏み入れる場所ではないだろうと察しはついた。国訓は世辞で言ってくれたのだろう。
国訓は「では」とぺこりとお辞儀をすると、右手に男児の手を引き、左手で汚れたおしめの包みを下げ、背に赤子をしょって帰って行った。御殿に帰る人には到底見えない。
「平賀くーん!すまん、ちょっと!」
松田の呼ぶ声が聞こえた。
「はいはい〜、今行きますけん!」
国倫は踵を返し、受付の松田の元へ走った。長襦袢姿、肩に引っかけた羽織の裾がひるがえる。何でも屋・平賀は、今日も大取込であった。
★ 3 ★
「こんばんは。今、大丈夫ですか?」
格子戸を開ける声と共に、源内の声が聞こえた。同じ声なのに、声の調子で鳩渓と知れる。診療を終えた夕刻、玄白は蕎麦でも食べに行こうかと思ったところだった。
玄白は財布を袂に放り込むと、玄関へ急いだ。穏やかに微笑みを浮かべた鳩渓が立っている。表情だけでも鳩渓だとわかる。
「もう患者は切れましたか?」
「はい、今日は締めました。一緒に、蕎麦を食べに行きませんか?」
「あ、わたしはこれを渡しに来ただけなのですが」
それは、薬品会の会誌だった。
「昨日だったのでしたね。見に行けなくてすみません」
受け取った玄白は二冊あることに気付き、返そうとすると、「すみません、純亭さんの分なのです。ついでで結構ですので」と頼まれた。
「純亭は、薬品会にも顔を出さなかったのですか?」
「ええ、先生のお宅へも、このところ全く。本業のお医者の仕事が忙しいのは仕方ないことです。玄白さんなら、藩のお屋敷で会うこともあると思って」
純亭が去年の薬品会の時に感激で興奮していた様をまだ覚えている。今回も、さぞ、参加したかったことだろう。
「鳩渓さん。これから、麹町の純亭の家へ会いに行きませんか?お忙しいですか?」
幼馴染みは、慣れない侍医の仕事で消耗しているのではないだろうか。ちょっと様子を見に寄りたいと思っていたところだ。それに、純亭も源内に昨日の事を聞きたいだろう。
玄白は、鳩渓の顔色を覗き込む。食事の誘いも断るくらいだから、立て込んでいるのだとは思うが。というか、この男はいつも立て込んでいる。
「あ・・・そうですね。玄白さんは純亭さんの家をご存じですものね。それなら純亭さんに直接渡せます。行きましょう」
鳩渓は快く承諾してくれた。
純亭は二人の来訪を跳ねるほどに喜び、「私も一緒に行きます」と屋敷を出た。
「ご家族と夕食を済ませたのでは?」と問う玄白に、「でも蕎麦一、二枚ならまだ入りますよ。もちろん酒も」とにやりとした。
「さすがに若いですね」と、鳩渓も笑った。
三人が久しぶりに集い、薬品会の翌日ともなれば、蕎麦で済むわけがない。蕎麦猪口はすぐにぐい呑みに変わった。
「では、桂川国訓様がおいでだったのですか」
あまり酒を飲まない玄白でさえ、話に夢中でつい杯を空けた。
「えー。じゃあ、源内さんは会ったのですね。いいなあ」
純亭は会誌に目を落としつつ、頬を膨らませる。しぐさは子供っぽいが、このひと月で純亭の頬はこけて、微かに疲れが見えた。学問としての医学に自信はあっても、生身の患者と接する気苦労は実地でないと学べないものだ。
だが、気のおけない友と会って、今の純亭は楽しそうだった。
「国訓さんって、どんな人でしたかぁ?」
後の世に『桂川サロン』と呼ばれた国訓の仲間たちの集まりは、江戸の学者や文人の憧れであった。
「ええ男じゃったぞ」
いきなり国倫に変わっていたので、玄白は酒を吹きそうになった。
『いつ変わったんですか!』
『たった今じゃ。酒を飲むき』
「やだなあ、源内さんはぁ。衆道から見た目じゃなくてぇ」
「衆道だろうが女色だろうが、ええ男なのは違わん」
国倫はむっとして言い返す。
「当たりの柔らかい、おおらかそうな男じゃったよ。あまりに偉そうにしとらんので、まだ本人なのか信じられん。いや、息子は確かに賢そうじゃった。
家に誘われたが・・・本気なのか世辞なのか」
「えええっ!桂川御殿にぃぃぃ!」
玄白と純亭、同時に叫んだ。玄白は口から酒をこぼし、純亭は箸から蕎麦を落とした。
「すごいじゃないですか!い、いつ行くんですか?」
「行ったら、是非報告してくださいよ」
「・・・。」
二人の勢いとは反対に、国倫の表情は曇っていた。
「着物が乾いたら考えるけん」
着物? 玄白は国倫の襟元から足先までをざっと見下ろした。袴の裾はふくら脛が半分覗くし、着物の裄も短い。
「今日は田村先生のものを借りとる。わしのは洗い張りしとるんでの。先生の奥様が縫ってくださることになっているが・・・。そろそろ新調せんと」
国訓の次男に汚されたこともあり、着物と袴を洗ったのだ。少し季節は早いが、確かにもう洗わねば灰色の水が出そうだった。袷の着物は縫い目を解いてから洗い、乾いたら再び合体させる。源内は今着るものが無い。裾の短い袴で外出するに関して、李山の機嫌が悪いったらない。李山は本当はこんな恰好で外をうろつきたくは無いのだ。鳩渓が玄白邸に来て会誌を渡してすぐに去ろうとしたのは、李山が苛立っていたからだった。
「私のを貸しましょうか?」と純亭が言うが、彼も背恰好は藍水と変わらない。玄白は更に小さい。江戸の学者たちは子供の頃に野山で遊ばないせいか、みんな小柄だ。
「いや。着物の品隲会に呼ばれたのと違うで。乾いたら自前で行くけん」
高松藩主の御前にも作業着で上がっていた国倫に、臆するところは無かった。ただ、さすがに世辞を間に受けて、のこのこ訪ねるのはバツが悪い。
反面、国訓が社交辞令で口を滑らせたにしろ、その言葉を利用して訪問するのもいいかという考えもあった。江戸の一流の学者達と会って話をしてみたかった。
「源内さんは、どうやって、うまく嫁貰え攻撃を回避したんですか?」
国倫が自分の想いにとらわれているうちに、純亭も酒が回って来たのか、少し深刻な話を持ちかけて来た。
「うまくでは無いじゃろ。わしは単に故郷から逃げて来ただけじゃ」
いきなり私的な事柄に触れられ、国倫は純亭の意図が掴めなかった。
「縁談があるのですか?それはおめでとう」
玄白の方が純亭の状況を推察し、笑顔で祝福した。
年下の純亭に先を越されることになる。玄白は複雑な想いではあった。
「まだ話があっただけですぅ!どうやって断ろうかと思って。私、まだ二十歳ですよ。
それより、なんで玄白さんは結婚しないんですか?」
「えっ」
玄白は、さっき酒をこぼしてぬぐった胸元へ、今度は杯ごとを落として酒浸しにした。慌てて手拭いでぬぐう。
「玄白さんこそもう二十六じゃないですか〜。それに、お父上はご高齢でしょ。まだ嫁を貰わないんですか?」
純亭は無邪気な分、容赦が無い。玄白はやっとのことで苦笑してみせた。玄白は父が四十二の時の子だ。甫仙は既に六十八歳である。早く嫁を娶って世継ぎを作り、安心させてやりたいのは山々なのだが。
「私はもてないので、嫁さんの来手などありませんよ」
実は縁談も無いわけではなかった。だが、色が白く少年のように小柄な玄白は病弱そうに見えるのか(実際に病弱でもある)、「お体が弱そう」「少し頼り甲斐が」などの理由で、断られる事が多かった。才でもあれば別なのだろうが、玄白も自分が真面目だけが取り柄の愚鈍な男だと知っていた。
この時代、江戸の男女比は四対一程度。女性の方は亭主が選び放題である。
「もてないなんてご謙遜じゃけん。わしがおなごなら、玄白さんとこに喜んで嫁に行きますけん」
国倫のリップサービスと頭でわかっていても、さらに玄白は動揺して徳利をひっくり返した。台には酒がひたひたと溢れた。
「あーっ、もったいないー」と純亭。
「この着物は先生のじゃけん」と、国倫は慌てて立ち上がって避難した。
「知りません!くだらないコトばかり言って笑わせる二人のせいですよ!」
玄白の狼狽ぶりが可笑しかったのだろう、純亭は「玄白さん〜、酒をこぼしておいて人のせいにしないでくださいよ」と腹を抱え、「人のせいにするなど子供のようじゃよ〜」と国倫も笑い声をたてた。
「久しぶりに笑ったら、気が晴れました。仕事で少し滅入ってたので」
純亭は笑顔になる。
「薬品会にも参加できず、お手伝いもできず、すみませんでした。せめて見学くらいしたかったな」
「私もです」と、玄白もため息ついた。
「お二人は医者が本業。患者を放って見学に来るわけにはいかんじゃろ」
「まあね。玄白さんは市井の人相手に、よくやれてますね。私は小浜藩の侍が患者でも辟易してます。人の指示は聞かない、守れない、症状も医者にうまく説明できない。あれじゃ、ちっとも回復しませんよ」
国倫も大坂では旭山の助手を勤めた。旭山は著名な学者であるが、基本は町の開業医だ。学問の無い町人達も多く訪れた。純亭の嘆きは理解できた。
「ああ、純亭は頭が良すぎるのでしょう」と、玄白は笑顔になる。
「説明が簡略過ぎたり、薬を飲む手順が難し過ぎたりしていませんか。『こんなことを説明したら、相手を馬鹿にしているようだ』と思えるようなことでも、きちんと説明をした方がいいですよ。説明がくどくて怒る人は居ません、・・・稀にしか」
「でも、稀には、居るのですね〜」
玄白は『稀に』怒られたりしたわけだ。
「私の場合は、彫り物した人も来ますからね。痛いと怒鳴られたりして、結構怖いです」
玄白はさらりとそう言ってのける。国倫と純亭の方は、驚いて眉が上がったままだ。
「そそそ、そういう時、玄白さんはどう対処するんですかっ?」
目を見開いたままで、純亭が問う。
「怒鳴る元気がある患者さんは、回復も早いのでありがたいですよ。『怒鳴るともっと痛くしますよ』とか、『脅かすと手が震えて変な所を切ってしまうかも』などと言って黙らせますけど」
「すごいなあ、やっぱり先輩なんだなあ」と、純亭は尊敬のこもった瞳で玄白を見上げた。玄白は青白い頬を赤く染める。
「やめてくださいよ。開業してまだたった一年です。純亭も、すぐに度胸がつきます」
国倫は、二人の会話を楽しげに聞きながら酒を空けた。
玄白が『もてないので』と言った経緯は推測できた。外見だけ見て『頼り無い』と縁組を断った女人は、大変損をしたと思う。誠実であるということは、強さも優しさも聡明さも、全て併せ持っているのだ。国倫が、自分に無いと自覚する部分でもある。良き友である玄白に色恋は感じないが、自分が女だったらこんな男の嫁になれば幸せだろうと思うのは、本心からだった。
平賀家がもし、杉田家にふさわしいもっといい家柄で、里与が二人いたとしたら、などと、考えてもしょうがないことを想像してみる。国倫も酔いが回って来たのかもしれない。
笊の上にはもう蕎麦は無く、酒の猪口も空っぽだった。だが三人の話は尽きることは無く、笑いもあぶくのように次々に沸いて出る。
いつまでも、みんなで笑いながら学んで、遊技のように渡って行けたら。それが絵空事だとわかっているから、国倫は余計にその想いを強くする。
泡はいつか、一つ二つと消えていくから。
第16章へつづく
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