★ 私儀、甚だ多用にて ★
第十六章
★ 1 ★
季節はもう皐月になっていた。
源内が儒学の林家に入門して、そろそろ一年になる。が、湯島の寮には寝に帰るだけの日々だ。ここの勉強の姿勢は自習が原則なので、源内も居ることができた。
それでも、月に二度の講義には絶対の出席を強いられる。何十年も変化のない学問、錆びついた教えを教師がもったいぶって伝授する講義を、鳩渓は舟を漕ぎながら聞いていた。
同郷の高松藩の者も数名ここで学ぶ。が、頼恭に目をかけられた源内に対し、風当たりが強いのは江戸でも変わらない。彼らがこちらを見て何か話すその瞳には、あからさまに棘があった。彼らから話しかけて来ることは無く、源内が挨拶しても無視されることはしばしばだった。無視ならまだマシだと鳩渓は思うことにしていた。高松では、宿舎の食器を割られ、布団を切られたからだ。
教室の畳は、他の生徒も退屈を紛らわしたのか、手で毟られた毛羽立ちが目立つ。料亭のように広い教室に、古い文机が並んでいた。皆、背を伸ばして聞き入るフリをしているが、こっそり他の書物を読む者や絵を描く者も見受けられた。
障子近くの席で頬杖ついて、鳩渓は単調な教えに欠伸を噛み殺す。雨の規則正しい音が更に眠気を誘った。この天気では、午後から田村先生のところへ行っても百花街の仕事は休みだろう。
仕事が無いのはわかっていても、紺屋町にある田村邸へは一応顔を出した。
奥方と藍水が、旅の荷を造りながらもめていた。
「夏の着物もお持ち下さい」
「ヤだよ、荷物になる。着物なんて、向こうで作ればいいじゃねーか」
「長崎での着物のお仕立て代がわかりません。お高いかもしれないでしょう」
源内に触発された藍水は、長崎へ勉強しに出かけることになった。数日後には江戸を発つ。二度目の薬品会を一年もたたぬうちに開催したのも、藍水の遊学予定があったからだ。
「大丈夫ですよ、先生。物価は江戸の方が高いです。旅館や飯屋は江戸より取りますけど」
長崎を経験した鳩渓の助太刀に、藍水は「それみろ」と嬉々として、夏物の着物を荷から放り出した。
「そうそう、着物と言えば」と、奥方が、藍色の風呂敷を鳩渓の前へと置いた。洗い張りしてくれた源内の袷だと思われた。
「ありがとうございました」と深く礼をする鳩渓に、「いいのですよ。うちの子も汚しましたから。何度も子守をしてくださって、お礼を言うのはこちらです」
田村の奥方は当然町人なのだが、知性あふれる品のいい婦人であった。気取らぬ性格でもあり、女性の苦手な鳩渓も気後れせずに接することができた。
横長の風呂敷包みを両腕で抱え上げ、鳩渓は「あれ?」と首を傾げた。夫人を見ると、ニコニコと笑っている。着物と袴一着ずつにしては、荷物が重すぎる。
畳に置き直し、風呂敷を解くと、新しい着物がもうひとつ入っていた。
「家にたまたまあった反物を縫っておきました。一枚きりしかないと、色々とお困りかと思いまして」
「うわっ、あ、ありがとうございます!」
鳩渓は代わる代わるに奥方と藍水の顔を見渡す。藍水も笑っていた。
「俺の留守を頼むぞ」
「はい」
藍水の長子はもう二十歳であるし、先輩の門人もいるのだが、その場の世辞ではなく藍水は源内を頼りにしてくれているようだった。弟子というより肩を並べる学者として扱ってくれる風があった。
「そういや、本丸で桂川甫三殿から催促されたぞ。『平賀さんは、いつうちへいらしてくれるのか。お忙しいのか』って。たいした人気だな」
「・・・。社交辞令かと思っていました」
「明日にでも顔を出させますと答えておいたぞ」
「えっ」
これはいよいよ、桂川御殿を訪ねねばなるまい。鳩渓は、玄白たちを誘って築地へでかける腹をくくった。
「時々、青木昆陽先生もいらっしゃるとのことだ。会えたら甫三殿に紹介していただくといい。俺は本丸で挨拶する程度の仲なので、平賀くんに紹介してやれるほど親しくないんだ」
「昆陽先生・・・。甘薯先生ですね」
「君は高松で甘蔗を作っていただろう?暑い国の作物を成功させる秘訣など、教えていただけるかもしれんぞ」
「・・・。」
鳩渓の胸に、さわと風が吹いてさとうきびの葉がなびいた。切なくて、眉を寄せる。あんなに必死に育てた甘蔗も、もう自分の手を離れて何年にもなる。玄丈達の甘蔗作りは進展しているのだろうか。白い砂糖は精製できたのだろうか。
翌日、国倫は築地を訪れた。初夏の日差しはきつく、長身の影が黒く道に焼きついていた。藍水に聞いた行程を辿る。
「本願寺の角を曲がる・・・と、おお、あの寺が本願寺じゃの」
結局、玄白も純亭も医師の仕事が忙しく、一人で訪問することになった。
「ここか」
御殿というから、どんな豪邸かと思っていたが。人の背程度の塀と木造りの門。藍水や純亭の屋敷と変わらない、一般の官医や藩医並の屋敷だった。大名屋敷のような見上げる門も無く、足軽の門番もいない。
木戸を押して庭へ入る。刈り込まれた松もやたら巨大な石もない、季節の木々がそっけなく植えられた庭だった。国倫は、肩の力が抜けるのを感じた。桂川甫三は自分と同じただの学者でただの医者なのだ。萎縮して変に意識していたのは自分の方だったかもしれない。彼とは歳も近い、きっといい友達になれる。
下働きの女が草木に水をやっていたので、「平賀と申しますが」と甫三へ会いに来たことを告げる。
「国訓(くにのり)坊っちゃまの、お勉強のお友達ですね」と、直接離れへと案内された。
★ 2 ★
「おお、平賀さんか。どうぞ上がってください」
障子が開いて、座敷から人なつっこい笑みの甫三が顔を出した。
離れは、座敷と、隣の部屋は書庫のようだった。
邸宅には決して華美な部分は無く、どちらかというと質素な造りである。廊下の破損部分には板が貼られていた。障子の低い位置に穴が空いているのは、子供が破ってそのままになっているのだろう。
部屋には、甫三の他に既に五人ほどの学者がつどっていた。綿入りの敷物に散り散りで座り、談笑し合う者、一人で本を読む者、その有り様も気さくな印象だ。あちこちに本が散らばり、本からは栞が何枚も飛び出す。藍水の家とそう変わらない。だが、ここが桂川御殿と呼ばれる理由もわかる。畳に点在する本の中にはぶ厚い洋書も混じり、床の間には唐渡りの世界地図が掛かる。地球儀天球儀が転がる。長崎で見た遠眼鏡や顕微鏡のからくり物、蘭引きなどの医療道具も見えた。
「え、薬品会の平賀さんですか」
「桂川さんはお知り合いか」
若い者も年上かと思われる者もいたが、客たちは座敷に上がった国倫を一斉に取り囲んだ。その視線に険は無く、『噂の平賀源内とはどんな男なのか』という興味で瞳は見開かれている。
『薬品会の平賀』、江戸の学者達に、自分はそう呼ばれているらしい。
紹介された甫三の友人たちは、江戸常駐の藩医や幕府の学者だった。
「長崎にご留学された経験があるそうですね?」
「薬品会は、どんなきっかけで思いつかれたのですか?」
矢継ぎ早の質問が飛んだ。皆が前のめりになっている。その勢いに、国倫の方が面食らった。
「はあ。わしは元は讃岐じゃけん、長崎はさほど遠くない。一年ほど滞在しました。ええと・・・六年前のことじゃ」
言葉にしてから自分でも自覚した。長崎へ行ってから六年も経っている。自分の情報はもう新しくはない。現に、江戸のここには既に顕微鏡も天球儀もある。
江戸へは毎年カピタン達が訪れ、彼らが宿泊する長崎屋では学者達との会見も許可されていると聞く。江戸の学者の方が、長崎の最新情報を知っていることだろう。
「桂川さんは、あれらのからくりや阿蘭陀の本は、カピタンから買われたかね?」
国倫は、床の間の時計などを顎で差した。
「本は本丸から借りて来た物です。時計やら地球儀やらは・・・買いました」
値段を思い出したのか、甫三は苦笑していた。
「高いことを言われたじゃろう?」
「まあね。おかげで、桂川家は御殿などと言われても、貧乏で塀も直せません」
国倫は正面からしか屋敷を見なかったが、どこか塀も壊れているらしい。庭や屋敷の体裁を整える金があれば、珍品やからくりを買ってしまう男。国倫は、この甫三に好感を覚えていた。だが、同時に、工夫すればこれらは作れるのにとも思った。
「私は今年初めて、父の供で長崎屋へ行きました。値切ったり躊躇したりすると、すぐに他の学者が買うと言い出すし、焦って買ってしまいました。修行が足りません」
国倫の表情を読んだかのように、甫三は言い訳し、頭を掻いて笑った。
「それに、時々、正確でないからくりも混じっているようなので、買うのも博打みたいですよ」
「百両でいんちきを掴まされそうになった者もいたと言ってたよなあ?」と、友人の学者は口を挟んだ。
「あはは、いんちきは言い過ぎだよ」と、甫三は目を細める。こんな仕種が妙に優雅で、育ちのよさを感じさせた。
「高価なので私は手が出なかったが、歩いた数がわかる機械というのがあって。勧められた学者が『本当に歩数がわかるのか』と言い出したんだ。で、若くて新参の私が、そのからくりを腰に付けて座敷を歩かせられた」
「で、結果は?」と、皆が次の言葉を待つ。
「三十歩あるいて、十歩以上狂ってた。いんちきだから買わないと突き返していたよ」
そりゃひどい、ぼったくりだ等と皆が口々に言う中、国倫は袴に下げた自作の量程器を引っ張り上げ、「なんじゃ。初めから、そんだけ狂うもんじゃったのか」と安堵の息を発した。
「わしが作ったもんが失敗ってわけでは無かったんじゃ」
全員が、はっと国倫を振り返り、その掌に納まる平べったい機械を見つめた。
「平賀さん、作ったんですか?」
「長崎で見せられて。さすがにわしには買えとは言わんかったが、その時も百両すると言うとった。そげんもん、わしなら簡単に作れると言うたら、カピタンは笑っておったがな。
見て、使い方を聞いて、しくみはわかった。バネで棒を留めて、足を上げると棒は揺れ、バネは元へと戻す。歯車を取り付けて、その回数を記録できるようにすればいいんじゃ。
が、道にはでこぼこがあり、人の歩き方にはクセもある。歩かなくても、後ろを振り返っただけで上半身が揺れる。落ちた物を拾っても揺れる。結局、讃岐へ戻ってからわしが作った物は、正確な数字は示さんかった。失敗作だと思っとったが・・・元の西洋のからくりの方も、その程度の精度じゃったか」
「うわーっ、ちょっと見せてください」
甫三が瞳を輝かして、量程器を握る国倫の掌を握った。彼はそう大柄ではないが、手は大きく繊細な長い指の持ち主で、その感触に一瞬どきりとする。そのあとに、私も俺もと他の学者達も群がった。
「付けて歩いてみるといいけん」
「えーっ、いいんですかっ!」
玩具を借りた子供のように、甫三は無邪気に顔をくしゃくしゃに崩した。
『なんや、かわいい男じゃ』
『ダメですよー、国倫さん!』と、頭で鳩渓の声が響く。
『わかっとるってば』
「わあ、すごい!歩数だけじゃなくて、歩いた距離もわかるんですね!」
国倫の量程器には裏面もあって、一里二里の目盛りも付いていた。
「それはわしの歩幅に合わせておるので。背が違うと狂うてしまう」
「この紋様は、平賀さんがご自分で?阿蘭陀風ですね」
真鍮の器には、日本画の草木とも違う、中国の唐草ともまたニュアンスの違った茨の蔓に似た模様が彫られている。
「かっこいいなあ。私、篆刻もやるんです。印にこんな草の模様を入れたら楽しいでしょうねえ」
白い頬を紅潮させて源内の仕事を褒め称える、その甫三の姿は国倫にとって嬉しくないはずはなかった。
その後は、座敷にあった遠眼鏡を見せて貰ったり、世界地図の間違いを教わったり、国倫自身も新しい物に触れて楽しい時間を過ごした。
「そう言えば、藍水先生も長崎へお出かけになるそうですね」
「家では、旅の荷造りでおおわらわじゃ。先生は、長旅自体が初めてのご様子じゃけん」
「江戸の学者は、そりゃあそうですよ。私だって、江戸を出たことはありません。
いいなあ、長崎」
官医は確かに名誉な地位であろうが、幕府から離れるわけにはいかない。
「まあ、来年の長崎屋を楽しみに待つことにします」
長崎屋、か。国倫は長崎では非合法で出島へ入れたが、地位ある人間にはできない芸当だろう。だったら、遠い地まで足を運ばずとも、江戸を訪れた阿蘭陀人達に話を聞いた方が効率がいい。甫三は、それが許された人種なのだから。
「大通詞の吉雄さんは来ておったか?」
「あ、少し阿蘭陀語を教わりました。昆陽先生でも曖昧な言葉がいくつかありましたので」
「おんし、阿蘭陀語が喋れるんな?」
「昆陽先生に習ったので。日常会話程度ですよ」
「凄いのう」と賞賛した国倫の言葉に、甫三は照れて頬を染める。
「平賀さんこそ。見ただけで量程器を作ってしまうなんて、凄すぎます」
二人はすっかり仲良くなり、国倫はまた桂川邸を訪れる約束をする。
訪問する前に感じていた、気取った場所ではないかという不安は杞憂であった。甫三自身が気さくで素直な性格のようだ。
このまま親しくなっていくと、好きになってしまうだろうか?
国倫の中に、漠然とした苦さがある。
純亭を可愛いと思うのとは違う、尊敬や憧憬込みの・・・頼恭に感じたのに似た気持ちだった。
だがもう、あんな恋はしたくないとも思う。遠くて遠くて、宙の星に焦がれるような。届かないことへの諦めで、心がささくれていくような片想いだった。
頼恭には可愛がられ、何度か抱かれた。けれど、今となっては、愛されたのか玩具だったのか、国倫にはわからなくなっていた。
湯島へ帰る道、暮れて肌寒ささえ感じる路地に、国倫の長い影が伸びる。淡い鈍色に土を染める影は、淡くて、曖昧で、輪郭もぼけている。
もう、恋はいい。他にやるべきことがある。自分はその為に江戸へ出たのではないか。
己に言い聞かせて、唇を噛んだ。
そろそろ雨の季節が来る。
第17章へつづく
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