★ 私儀、甚だ多用にて ★

第十七章

★ 1 ★

 患者が切れたろうと思える夕暮れに、鳩渓は玄白の家の前で蛇の目をすぼめる。油紙をつたって雫が三和土へぽたぽたと落ちた。黒い水玉模様がやがて繋がり、獅子か麒麟かという影に変わる。下駄の紺色の鼻緒は、水分を含んで黒く色が変わって見えた。
「雨で今日は暇だったんですよ」
 影が見えたのか、玄関へ出迎えた玄白が気を効かせて手ぬぐいを差し出した。膝あたりまで、派手にハネが上がっていた。
 
「藍水先生は、出発なさいましたか?」
 玄白が茶を沸かそうと厨房へ向かう。手伝いの者ももう帰らせたらしい。
「あ、お茶は結構です。できれば、水を一杯」
 今日は蒸して、雨が降っても涼しくならなかった。「水ですか?」と、玄白が笑っていた。子供の望みのようだったからだろう。彼は瓶から杓で水を掬って、客用の湯飲みへ注いだ。
「先生は昨日発ちました。なかなか大取込みでした。この先、雨の季節は大井川は大変かもしれませんね」
 鳩渓は問いに答えると、ごくごくと一気に水を飲み干した。
「お替りしますか?」
「え。あ、大丈夫です」あまりに子供のようなので、鳩渓も恥ずかしくなって頬を染めた。
「先日、国倫が桂川さんのところへ行って来ました」
「・・・。一人でお出かけになったのですか」
 玄白は、小さな目をいっぱいに見開いて鳩渓を見た。そしてすぐに視線を逸らした。
「すみません、ご一緒できなくて」
「いえ、そんな。お仕事でお疲れなのに。誘った国倫が考え無しなのです」
「違うんです。気後れして・・・断ってしまったのです」
 玄白は、低木の枝が折れるように、細い体をよじって俯いた。
 気後れは、神経の太い(と鳩渓には思えた)国倫でさえ感じていたのだ。玄白が躊躇するのは無理がない。鳩渓が玄白の立場なら、やはり断った可能性が高い。
 だが、国倫を一人で行かせてしまったことを恥じて下を向くのは、この人が誠実な証拠だろう。『裏切った』『ずるいことをした』と思っているのかもしれない。
鳩渓は「玄白さん」と、彼の手を取った。
「桂川邸は『御殿』ではない、普通の屋敷でしたよ。甫三さんも、彼のお友達も、決して偉ぶらない感じのいい人たちです。
 何より、阿蘭陀渡りの珍しい品々がたくさん置いてありました。玄白さんにも面白い物ばかりだと思います。
 今度は、是非、一緒に行きましょう?」
 温かい鳩渓の言葉に、玄白は顔を上げた。そして、笑顔を見せると頷いた。

 帰り際には雨がやんで、薄墨の雲が夜空を覆っていた。地はまだぬかるみ、所々に水たまりを作る。
「純亭も、一緒に行けるといいのですが。小浜藩の屋敷で会ったら、声をかけておきます」
「そうですね。純亭さんのはしゃぐ顔を見たいです」
 そんな話をして、そして数日後に、純亭が久しぶりに田村邸を訪れたのだった。

 梅雨の中休みという晴天の後、ひと雨来て、それもすぐに止んだ。
 留守を任されている国倫は、ほぼ毎日田村邸を訪れ、家族の様子を見てから門人を引率し、百花街へ出かけていた。
 夕方に田村邸へ戻ってからも、皆が座敷で寛いでいる間、庭の野菜の様子を調べに出た。
 茄子の大きな葉が、驟雨に打たれたせいか、数カ所折れて地面に散っていた。しゃがんで、他の株も丁寧に見て行く。幸い紫の愛らしい花は無事で、膨らんで収穫を待つ墨色の実も枝にしっかりぶら下がっていた。
 蔕に雨水が溜まり、指で触れるとつるりと実を伝って土に落ちた。艶のある表皮は美しかった。どれも実がしまって、このままいけばいい茄子が収穫できることだろう。
『親の意見』と並列に『千にひとつの無駄がない』と諺の例に出される茄子の花は、一輪の花に雄蘂と雌蘂のある両全花である。夏野菜の代表の瓜などには雄花と雌花があるが、茄子は全ての花が実になる。
 芽吹き、葉が育ち、美しい花が咲く。そしてさらに美しい実り。その果実がまた土に落ちて新しい芽吹きが始まる。本草学者である国倫は、単純で明確なその営みを崇高で荘厳なものと受け止めていた。生きる意味。次の命へと繋ぐこと。種を継続させること。
 ため息をつくと、長くなった前髪を掻き上げた。地の営みに参加できない自分が、もどかしく思えた。少年の頃から感じている後ろめたさだった。自分は何の為に生まれて来たのだろう。子も成せないくせに。何の為に生きるのだろう。

「源内さん。・・・やめてくださいよー」
 背後から純亭の声がして、立ち上がる。
「おお、久しぶりじゃのう」
「源内さんが、真剣に茄子を握っていると、なんかいやらしいです〜」
「ほっこなことを、言うんちゃうちゅう」
「・・・え?」
 こてこての讃岐弁に面食らう純亭に、国倫は声をたてて笑った。
「江戸言葉だと『馬鹿言ってんじゃねいやい』ちゅう感じじゃ。
 しかし純亭も言うようになったのう」
「源内さんに慣らされましたから」
「ふんっ」と、国倫は悪態をついた。気を張って藍水の替わりを勤めていたせいか、純亭の顔を見て心が和らぐのを感じた。
「桂川御殿を訪問されたそうですね」
「玄白さんから聞いたんか?今日は出かけんで」
「いえ、今日は・・・別の場所へ連れて行っていただきたいのです」
 純亭は瞬きを何度もしながら、改まった口調になった。
「・・・。」
 なんやら難儀なことを頼まれる予感がした。
「茅町、か?」
「うわわわ、どうしてわかるんですか」
 茅町は、吉原よりもう少しカジュアルな花街である。そして蔭間茶屋も多い。いや、『茅町へ行く』と言えば、蔭間茶屋へ行くくらいの意味である。
「それくらいしか、考えつかんわ。・・・無理じゃ、金が無いけん」
「もちろん源内さんの分も出しますよ」
「わしは寮住まいじゃぞ。門限を過ぎると中に入れてもらえん。大直し(泊まり)は高いが、わかっとるんか?」
「知ってます。私だって、夜中に帰ったら叱られますから」
「あれから、えんだ・・・」
 縁談の方はどうなったか尋ねようとして、やめた。純亭はどう考えても男色家ではない。時々岡場所へ出かけて楽しんでいるのも知っている。急に蔭間茶屋へ行きたいと言い出すのは、不自然だったが・・・。その不自然さの理由も察しがついた。
『李山、あとは頼むけん』
 金に余裕がある時に茅町へ通うのは、李山だった。彼には決まった店に馴染みも居る。
『俺か?俺がおもりかっ』
 突然呼ばれた李山は憮然とした様子だったが。

★ 2 ★

「平賀さん、いらっしゃい」
 茶屋に足を踏み入れただけで、遣手婆が李山に気づいて声をかけた。純亭は李山の背中に隠れるようにして張り付いている。
「丁度いい時にいらっしゃいました。蜻蛉は、今空いたところですよ。
 あら、お友達とご一緒?珍しいこと。お見立てなさいますか?」
「え。あ、あの」と、純亭は後ろで李山の着物の袖を引っ張る。李山は冷たくくすりと笑った。
「花火は空いているか?」
「空いてるわけないじゃないですか。あの子の売れっ子ぶりはご存じでしょう?」
 壁に掛かる名前の板で、裏になっているのは三枚ほど。この三人が人気の蔭子たちだ。
 パタパタと裸足で廊下を走る音が聞こえたかと思うと、「平賀はぁん」と名前を呼びながら蔭子が玄関へ迎えた。歳は十六位だろうか。痩せてはいるが、背は純亭と変わらない。蜻蛉は蔭子の中では年長の類に入る。振袖も赤や朱でなく、落ち着いた藍色のものを身につけていた。声ももう低く、喉仏も目立つ。蔭子は育ってしまうと二流と見なされてしまうが、彫りの深い顔立ちにはっきりした二重の瞳の、知的で美貌の青年だった。華を売る艶よりも、太夫のような気高さが目立った。
「おう」
 李山が笑いかけると、愛想のなさそうな顔がかすかに笑顔になった。
「花火の客は、もうすぐ帰るところどすえ。すこうし待っていただければ、連れて行きます」

「お友達とご一緒に来はるかたは多いですが、平賀はんは初めてやなあ。普段も、お友達の話はなさらへんし」
 座敷で、蜻蛉が朱塗銚子からまず李山の盃に酒を注ぐ。
「俺には友達がいないと思っていたんだろう?」
「そんなことは言うとりまへん〜」と、蜻蛉は白い歯をみせた。
「こんな場所で、友達や家族の話をするのも無粋じゃないか」
 純亭は李山の言葉に赤面した。だいぶ無粋なことをしてきたのだろう。
「こいつは純亭。同じ田村門下の者だ」
 李山が紹介すると、「蜻蛉どす。おみしりおきを」と純亭の盃にも酒を満たした。
「き、京都のかたですか?」
 純亭が尋ねると、蜻蛉は「いややわあ」と破顔した。
 李山が鼻で笑うと、「江戸者なのに知らないのか。この子達は、女性らしく柔らかく見せる為に京言葉を使うよう言われているのさ」と教えてくれた。
「花火は、うちが言うのも何やけど、可愛らっしい子どす。歳も若い」
「はあ」と、純亭は要領を得ない返事をする。緊張しているのか、盃を煽る手の動きも硬い。
「おまえは昼間は忙しかったのか?」
 李山が蜻蛉から朱塗を取って、自分の盃を手渡した。蜻蛉は視線で礼をして飲み干す。青年に近い蔭子の客は、もう僧侶では無い。奥女中や商家の未亡人が殆どで、女性が相手だと昼の方が多忙になる。彼女達は夜に家を空けるわけにいかないので、明るいうちに遊びに来る。芝居見物だの買物だのと言って、茶屋通いをしているのだ。
「まあ、そこそこどす」
「すまんな、夕方からのんびりできると思って居たところへ」
「そうどすねえ、確かにお客はんが平賀はんだとのんびりできまへん」
 うふふと蜻蛉が笑い、李山が「こいつ」と苦笑した。隣で純亭は、居心地が悪そうに赤面したままだ。
「花火に、平賀はんがいらしたん、連絡して来ますね」
 純亭に気を使ったのか、蜻蛉が席を立った。

「そんなに緊張せずに、まあ呑め」と、李山が含み笑いをしながら純亭の盃に注ぐ。飲み干すや否やまた注ぐ。酔ってしまえば緊張がほぐれるのを期待するかのように、純亭もまた飲み干す。
「蜻蛉と違って、花火は小柄でまるで女だ。女のように扱えばいい。大丈夫、相手は売れっ子だ、心得ている」
「・・・帰りましょう」
「おい」
「帰ります。駄目です、私、やっぱり帰ります」
 涙目になっている。
「衆道に走れば、縁談を断る理由になると思ったんです」
「俺みたいに、か?」
「・・・はい。まだ結婚なんて恐くてできません。相手は、家柄も申し分なくて、いい縁談なのです。断る理由がありません。
 でも、怖いんです。その娘と結婚して、幸せにしなきゃいけない責任を考えると、息苦しくて窒息しそうです。子供が出来たら、きちんとその子の規範になれるのだろうか。とてもそんな自信もありません」
「自信がないから逃げる、か。
 この場でも、お前はそうしようとしている。ずっと同じなのだろうな」
「あ・・・」
 純亭は恥じて下を向いた。
「いい、帰れ。二人には、『純亭は急用を思い出した』と言っておいてやる。もちろん、逃げ帰ったのは明白だがな」
「・・・。」
「平賀はん、そない苛めはったらあきまへん」
 蜻蛉の声がして襖が開いた。
「花火は、もうすぐ来はるそうどす。
 一緒にお酒を飲んでお話しするいう楽しみ方も、茶屋には有りますん。もちろん、ご用事があるんならお帰りになるのを止めまへん。詮索など野暮もしまへん。
 ほんま、平賀はんは意地悪どすなあ」
「なんだ、おまえは純亭の味方か」
「こなにしょげはって、可哀相どす。
 さ、もう一杯、いかがどすか」
 純亭は言葉もなく、ただ盃を受け取る。そして無言で飲み干した。苦い薬でも飲んだ顔だ。表情を消した李山は蜻蛉から銚子を奪い取り、再び純亭に酒を注いだ。
「俺のよく知る人間で、やはり衆道の男がある。跡を継ぐのに嫁を貰えと責められ続け、つらい思いをしていた。奴のため息を側でずっと聞いていた。どうしたらいいのかと悩んで悩んで・・・妹に婿を取ってくれと頭を下げたのは、行き詰まった最後の手段だった。そして今度は妹への負い目で、鉛を飲んだような想いに苛まれている」
『李山・・・』
 李山は、自分をそんな風に見ていたのかと、国倫は目を見開いた。普段、李山は、国倫や鳩渓のことにあまり口出ししない。年長者が見守るようになのか、勝手にやれと突き放しているのか、いつも遠目で二人がもがくのを眺めている。だが、その視線にこんな情があったのかと、国倫は意外に思った。
「・・・おまえのやろうとしたことに、俺は腹がたつ」
 李山の声は空気を斬る。
「す、すみません!」
 純亭はその場で畳に伏した。
「色恋の相手が男なら、責任がないとでも思っているのか?」
「平賀はん、もうそろそろ許してあげておくれやす。言葉であんたはんに勝てる人はおらへん。辛辣すぎるのは悪い癖どす」
 国倫が諭そうとしたことを、蜻蛉が言葉にしてくれた。国倫は胸を撫で下ろす。確かに純亭は甘ちゃんのお坊っちゃまだと情けなくなるが、だからと言って可哀相な想いもさせたくない。本当のことをそのまま厳しく言うのが最良とは限らない。
 李山は意見されてにやりと笑う。蜻蛉に叱られるのを楽しんでいる表情だった。
「可愛い顔で憎たらしいことを言ってくれるな。その口を塞いでやるぞ」
 その時、再び襖が開いて、「平賀さん、平賀さん、平賀さーん!」とまだ声の高い蔭子が飛び込んで来た。花火だった。毬が転がるように小柄な体で小走りで近寄る。片手で赤い着物の裾をめくって端折り上げていた。細い脛が覗く。
「わあい。平賀さんだー!久しぶりー!」
 子供のように、李山の背中から抱きつく。腕も子供のように痩せている。小さな顔から溢れそうな大きな瞳も、まだ無邪気さを残す。
「また、長崎の面白い話を聞かせてよ!」
「それは都合がいい。今日の花火の客は、酒を飲みながらずっとお話したいそうだからな」
 厭味の籠もった口調で、ちらりと純亭を横目で見る李山だった。純亭はまた俯く。
「・・・。へえ。・・・それは丁度よかったよね。ね、冬至まつりの続きを話して!」
 詮索するのは野暮。この仕事の者たちには徹底されるしきたりだ。花火も不思議そうな表情をした後、疑問は口にせずスルーした。ただし、お客が帰った後には邪推と噂話と悪口のオンパレードとなるのだが。
「こら、花火!お客様にその言葉使い!きちんと京言葉を話しなさいっ!」
「だって、平賀さんは怒らないもん。蜻蛉は、俺と平賀さんが仲良くしてるから、面白くないんだろ?」
「花火!・・・もーう。ほんまにかんにんなあ。売れっ子やさかい、みながこの子を甘やかすもんやから」
「・・・蜻蛉。おまえ、だんだん花火の母親みたいになってきたぞ」
「平賀はんっ!」
 真っ赤になって憤慨する蜻蛉。わははと李山は声をたてて笑った。李山が声を出して笑うなんてそうあることではない。
 純亭もつい吹き出してしまった。
「あんたが、俺のお客かい?俺は花火。純亭さんていうのか。まあ、一杯」
 長い睫毛の瞳を屈託なく細めて、花火が酌をした。

 手持ち無沙汰で酒を飲み過ぎたせいか、純亭の瞼は重くなっていった。花火がねだった長崎での話は、純亭の知っているものだったせいもある。朝から藩の屋敷で患者が切れることがなく、忙しかった疲れもあった。
 空の盃を握ったまま、純亭の首ががくりと落ちた。話に夢中で聞き入っていた花火でさえ、すぐに気づいてはたと純亭を凝視する。既に寝息が聞こえていた。
「やれやれだな」と、李山は苦笑して立ち上がった。
「蜻蛉、反対側の肩を担げ。寝床に運ぶ」
 李山は純亭の脇に腕を入れて立たせた。と言っても純亭は曝睡したままで、畳に爪先が付くか付かないかという具合だ。
「ああ、いやや。また筋肉が付いてしまいますう」
 文句を言いつつ、蜻蛉も肩を貸した。
「俺はもう、次のお座敷に行っていいよね?」
 花火は、李山の返事も聞かずに部屋を飛び出して行った。気が短いのか、元気が有り余っているのか。どこででも飛び跳ねているような少年だ。
 李山は座敷隣の部屋の襖を開き、敷いてある寝具の上にどさりと乱暴に純亭を落とした。それでも酔っぱらいはまだ高いびきである。
「まったく、腹のたつ。俺は子守は向いてない」
「いたたまれのうて、お酒が過ぎたんやと思いますよ」
 大の字になる純亭に、蜻蛉が上掛けをかけてやった。
「眠ってしまえて幸いだったろうよ。無意識にまた逃げたんだろう」
「そんな、厳しいことを。・・・あ、平賀はん」
 李山が素早く蜻蛉を捕まえる。背から抱きしめて、うなじに唇を付けた。
「反対の部屋にも、お床がこしらえてありますえ」
 聞こえなかったように、李山は静かに蜻蛉を床に倒した。すぐ隣では、純亭が曝睡したまま酒臭い息を吐く。
「平賀はん、あなたはんって人は、まったく・・・」
 しぃと指を薄い唇に当て、李山はにっと笑ってみせる。蜻蛉は諦めたように小さなため息をつくと、李山の指に身を任せた。
 蜻蛉の袂や裾が波打つ度に、有明行灯の火がゆらゆらと揺れ、二人の吐息を闇に溶かした。

★ 3 ★

 盛夏の夕暮れは、少しも涼を呼ばない。田村邸軒先の風鈴は、風が無ければ重く硬い金属でしかなかった。ちりりとも鳴らない。
「ごめんください」と呼ぶ声は、玄白であった。背後には純亭も控える。今日は三人で桂川御殿へと出かける約束をしていた。玄白と純亭は、今回初めての訪問である。
「暑いやのぉ」
 団扇で顔に風を送りながら玄関に出て来た国倫は、着流しであった。
「源内さん、その姿で訪問するんですか」
 純亭の声には驚きとも批難とも取れる響きがこもる。正式な訪問で、盛夏で羽織は略するとしても、袴も無いのは失礼には当らないのか。
「いかんのやろぉか?この前は浴衣で行ってしもうた。甫三の奴は、職人のように腹掛けと越中だけでおったぞ」
 わははとおおらかに笑いながら、国倫は先頭に立って築地へ向かって歩き出した。
「源内さんの前でそんな危ない格好をするなんて。大胆ですね」
 純亭の言葉に、「じゃったら、おんしは湯屋で会うおなご全部に欲情するんか?」と反論してみせる。コホン、と玄白が咳払いした。国倫の露骨な表現への、ささやかな、そして絶対的な抗議であった。国倫は、もうこの話題は引きずらない。
「甫三は、全然気取らない男じゃ。二人とも、肩の力を抜いてええけん」

 歩きながら、玄白は「平賀さんに、何か報告があるんじゃないですか?」と、純亭に催促する。
「ほう、改まって何じゃ」
 縁談が決まったかと察しはついたが、国倫はとぼける。にやにやと純亭の言葉を待った。
「いえ、いいです。田村先生が戻ったら、正式に挨拶に行きますから」
「いいですとは何じゃ、張り合いの無い奴じゃの。茅町では相談に乗ってやって、しかも迷惑をかけておいて、わしには事後報告かいな?」
「しっ、しっ、源内さんっ!」
 純亭は慌てて掌で国倫の口を塞いだ。
「茅町?」と、玄白の耳がぴくっと動く。純亭は諦めて手を放した。がっくりと肩を落とす。
「国倫さん、純亭を蔭間茶屋へ誘ったのですかっ!」
「そんなこと、おんしにいちいち知らせる必要はないじゃろう?」
「知らせなかった事を怒っているわけじゃないですから!
 純亭も純亭です!誘われたからって、そんな悪所へ付いて行くなんて!」
「ちょっと待て。純亭は童とちゃうとって。いい大人が自分の判断で花街へ行く、少しも悪いこととは思えん。玄白さんこそ、親でも兄でもないものを、口出ししすぎとちゃうんか?」
「純亭を悪所へ連れて行っておいて、開き直るのですかっ」
「わしは悪いことをしたとは思おておらんっ」
「やめてくださいよ」
 路で怒鳴り合う二人に、純亭が割って入った。
「わたしのことで・・・しかもそんな内容で。やめてくださいっ。
 玄白さん。私が源内さんに頼んで、連れて行っていただいたのです。源内さんが誘ったわけではありませんよ。
 源内さんも。玄白さんのところを訪れる性病患者の殆どは、花街で感染しているんです。だから、玄白さんは悪所を嫌うのです。
 お願いですから、喧嘩しないでください」
「喧嘩なんぞしておらん。この堅物が勝手に怒っているだけじゃ」
「源内さんっ!」
「着いたで」
 玄白の憤慨を無視して、国倫は桂川邸の木戸を開けた。庭で女中にあって、「甫三さんは離れにおるかい?」と尋ねる。
「はい。平賀さん、今日はお友達とご一緒ですか?」
「おう。友達と、その他一名じゃ」
 玄白はますます怒りで顔を赤黒くした。丸い瞳を三角に尖らせながら、玄白は後に続いた。純亭は二人をはらはらと見つめつつ、少し距離を置いて続いた。

「おや、いい月が出ていますね」
 たっぷり一刻は過ぎた頃、桂川邸の門を出た玄白は、明るい声で月を見上げた。熱気で汗ばんだ肌に夜気が心地よい。月は曖昧な丸さだったが、くっきりと鮮やかな黄色であった。玄白の手には、甫三から分けて貰った一包みの綿(わた)があった。輸入物で高価なものだ。患部を乗せる台は今まで布をたくさん巻いて作っていたが、綿を入れ込めば僅かでも痛みを和らげてあげられるだろう。
「世界地図も地球儀も、初めて見ましたよ。日本は小さい国ですねえ」
 興奮のままに、早口で語りかける。
「大きさは関係ないけん。阿蘭陀も小さな国じゃ」
 国倫も熱い口調で続ける。
 すっかり仲直りしていた。純亭は二人の様子を見て苦笑いしている。
「洋書の輸入を幕府が許したのは知っていましたが、今までそのことさえ忘れていましたよ」
 純亭も、畳に何冊も無造作に置かれた阿蘭陀の書物に心惹かれた様子だった。
「純亭があげん阿蘭陀語を読めるとは思わんかった。凄いのう」
「いや、私のは読めるなんて程じゃ。ああ、でも、もっと勉強しておけばよかった。習っても利用する機会なんて無いと思っていましたから、身が入りませんでした」
「なんの。これからまだまだ学べるじゃろう。甫三に教わることもできるし、昆陽先生がいらっしゃることもあるそうじゃぞ」
 三人とも頬を紅潮させて、帰路を辿る。甫三から提灯を借りた国倫だが、話に熱が入るとオーバーアクションになり、提灯も闇の中を派手に動く。
 藍水のところにある『どどにうすのころいとぼつく』は純亭には手強過ぎる相手で歯が立たなかったが、勉強すればいつか訳せる時も来るかもしれない。
 楽しく、刺激的な時間だった。そして背をしゃんと伸ばさせ、前を向く厳しさも教えた勉強の場であった。
「藩医として働く純亭はともかく、一介の町医者の私が、桂川さんとお知り合いになれるとは思ってもみませんでした。国倫さん、ありがとうございました」
「な、なんじゃ、改まって。照れるわ」
 玄白が深々と頭を下げるので、国倫は慌ててその場から逃げる。
「・・・お辞儀をしてる時に、置き去りにしないでくださいよっ」
 また玄白が憤慨しているので、純亭は吹き出した。純亭も玄白も、小走りに国倫を追いかける。
 先頭で、国倫が下げる提灯の月が、螢の明りのように目まぐるしく動いていた。



第18章へつづく

表紙に戻る