★ 私儀、甚だ多用にて ★

第十八章

★ 1 ★

 夏が過ぎ、秋も逝く。桂川邸へ通う三人の影がどんどん長くなる。そして、往路でさえもう影の無い時刻へとなっていった。
 源内は、青木昆陽とも知り合いになることができた。馴れ馴れしい国倫が「甘薯先生!」と呼びかけるのを、玄白などは心臓が飛び出る思いで聞いた。昆陽が甘薯の栽培に成功したことだけでなく、「田舎学者」という意味も有り、昆陽の顔があばたであることから付けられた、陰口にも似た綽名だったからだ。だが人なつこい国倫の笑顔に応えるかのように、昆陽はいつも温かく迎えた。
 甫三は俳句も詠み、短歌も歌った。国倫の『有馬紀行』を楽しそうに眺めたりもした(時々吹き出したが)。
 会には俳人や絵師も集うので、学問だけを語るのとは異なる刺激も多かった。彼らは学者とは一目で見分けがついた。髷が違うだけでなく、羽裏に派手な赤や紫を使ったり、女物のような帯を締めたりして、無骨な学者達とは着物の着こなしが違っていた。凝った細工の煙草入れを胸元から覗かせ、煙管の羅宇の握り方は総じて女のように小指を離した。
「平賀さん、そんな綺麗な煙管で、乱暴な吸い方しないでくださいよ」
 椿の煙管を使う国倫に、握り方を指南する者もいた。頼恭からの貰い物の煙管だ。玄白のツテで煙管職人に掃除をしてもらった。
『まだ粋には吸えんけど』
 頼恭に告げた自分の言葉が思い出された。

 秋の終わりに、純亭が結婚した。
 子供みたいに駄々をこねていた青年も、ついに腹をくくったらしい。
 その日の国倫は、田村邸へも顔を出さなかった。長崎から帰省した藍水も、親友の玄白も、今日の純亭の挙式に出席している。国倫は珍しく湯島で自習して過ごした。
 昼過ぎから驟雨になった。どうせ朝まで宴会なのだ、純亭の方に雨は関係ないだろう。いや、玄白だけは「明日は早く開業しますので」と言って、土砂降りの中を帰宅するかもしれない。
 取り残された寂しさは隠せない。純亭は「夫」という責任のある地位に着く。
 国倫は無理矢理背筋を伸ばす。浪人。独身。自分が選んだ道だ。
 何にも縛られず、何にも頼らず生きたい。自ら選択したのだ。
 純亭はもともと、別世界の人間なのだ。それが、同じ学問を目指すおかげで、少なからず触れ合うことができた。それだけだ。
「・・・。」
 自分に言い聞かせ、そして再び溜息をつく。
 国倫は儒学の本を閉じた。儒学は好きでないので、少しも頭に入らない。集中できず、想いはまた同じところへ戻って来る。
 雨の中を、一人で桂川邸へ出かけた。
 向こうのみんなでわいわいとやれば、落ち込みも直るだろう。

「おや、平賀さん。こんな雨の中を?」
 出迎えた甫三は少し驚いたようだった。いつも皆が集まる座敷からは、談笑の声は聞こえない。廊下で三枚も手ぬぐいを借りて、濡れた着物や足を拭いた。
「純亭の結婚式でみんなおらんで、退屈でのう。こちらの仲間と楽しもうと思うたんじゃが・・・誰も来とらんのか?」
「これだけの雨ですからねえ。
 そうですか、純亭さん、結婚されましたか。
 まあ、二人で、彼の結婚を悼んで飲みましょうか。あなたも、結婚なんて馬鹿らしいと思っているクチなんでしょ?」
 あなたも?幸福な結婚生活を送っているように見える甫三の、意外な言葉だった。
 甫三は徳利を下げたまま手燭を持ち、いつもの座敷でなく、隣の書庫の扉を開けた。
「狭くて今までお見せできなかったが、今日は二人なので。きっと、平賀さんも興味を引かれる本が多いことと思いますよ」
 招かれた書庫は、部屋が狭いわけではなかった。大きさは隣の座敷と変わらないだろう。ただ、棚に本や本箱がきっちりと並び、棚と棚の間は、体を横にして入らねばならないほどだった。
「桂川家の書庫に入れていただけるとは、なんちゅう幸運じゃろう。大雨さまさまじゃ」
「いつも集まっている、他の人たちには内緒にしてくださいね」
 いたずらっぽい口調で言うと、甫三は手燭をかざした。
「このあたりが、洋書ですね。これは戯作の本です。挿絵を見てください。これは蘭書独特の手法の絵ですよね」
「銅版画、か。日本は木版じゃけん、そう細い線は彫れん」
「字も、手書きのクセがある日本の書物と違って判読しやすい。蘭書は活字を組むのが楽なのですよね。アベシは数が少ないですから。
 こっちの本は、絵本なのですが・・・本当に秘密にしてくださいね」
「笑い絵・・・でもなさそうじゃの。絵だけ見ると、教訓めいた物語に見えるが」
 裸の一組の男女を、蛇が誘って果実を食べろと言っているようだった。
「ばてれんの教えで人類の最初と言われる男女だそうです」
「!」
「これは聖書ではありません。ただの物語の本です。でも、キリシタンの物語は、殆どがその教えの上に書かれているらしいんです。幕府からいただいた本ですが、禁止しているせいで実体を知らないのでしょうね」
「あきれた話じゃのう」
「これは知っていますか?キリシタンでは男色は絶対禁止。見つかったら下手すると磔だそうですよ」
「ああ、それは長崎で聞いたけん」
「平賀さんは日本人でよかったですね」
「・・・知っとったんか」
「隠してたんですか?」
「いや、ただ、ここでは特に言わんかったし」
「うちに集まる絵師や戯作者には、衆道の人が多いのでね。なんとなく、雰囲気でわかります。あなたを狙っている人もいるみたいです」
「・・・。」
「皆さん、色恋が華やかで、楽しそうです。私は結婚しているし、いつも傍観者ですけどね」
 ここへ通うようになって、甫三の愛妻家ぶりは何度も耳にした。薬品会の後に奥方はすぐに実家から帰られ、子供達も喜んだという話も聞いた。
 本丸からの仕事の帰り、甫三は妻の為に簪や綺麗な菓子などを買い求めたり、休みには梅や紅葉を見に二人で連れ立って出かけたりするらしい。そのことをからかい気味に褒めると、「蛮国式です」という答えが返って来た。
「・・・?」
「蛮国の夫婦は、そうするそうなので」
 単に西洋を真似ているだけだと言うのか。
「雨、ひどいですね。少しも止みそうにありません」
 書庫の屋根を、雨が叩く音がうるさいほどだ。
「よければ、座敷に床を敷かせます。泊まっていっても結構ですよ」
 甫三は、ゆっくり、優雅にほほえむ。
 誘っているのか、ただ親切なのか。甫三は、ふわふわとして本音が見えない。当たり障りの無い、感じのいい男を演じている風がある。だが、彼に衆道の匂いは感じない。
 国倫を誘うはずがなかった。水面に波が立ったのは、国倫の心の鏡・・・願望だろう。
『いかん、やめとき』
 そう自分に言い聞かせる。惚れても仕方がない。世界が違う男なのだ。
「いや。もういぬけん」
「え?」
「ああ、讃岐弁で『帰る』いう意味じゃ」
 この男は拒絶はしないかもしれない。肌を重ねても遊びと割り切り、半刻後には友人として分け隔てなく微笑む男だという気もした。
 それでも何かが心に歯止めをかける。心の奥に、まだ居る。まだ、忘れていない。あの男を完全に忘れるまでは、誰が相手でも中途半端な恋になる。
「雨で気が滅入っておったが、おんしと話せて気が晴れた。ありがとう」
「いえ。私の方も、今夜は誰も遊びに来てくれないのかと、寂しく思っていたところでした。
 あ、そういえば。平賀さんは高松藩の浪人でしたね。参府する役人や医師にご友人はいらっしゃいますか?そろそろ江戸に来る時期ですよ」
「えっ」と国倫の動きが止まる。
「父も私も本丸勤めですからね。情報は豊富です。五日後あたりに品川を通るんじゃないかな」
「・・・。」
 参府。そんなこと、考えてみたこともなかった。頼恭が江戸へ来る。
 いや、だからと言って、国倫には関係のないことだ。町を行く浪人ふぜいが中将級の大名に出会う機会は無い。藩主が上屋敷から登城する時も、駕籠から姿を見せることはあるまい。
 国倫はきつく唇を噛んだ。動揺したのに気づいたのか、甫三は小首を傾げたが、特に何も触れなかった。
「足元、お気をつけてお帰りください」
 甫三は引き止めることもしない。彼は人といつも一定の距離を保ち、熱くなりすぎない。
 国倫は縁側に立て掛けたままの蛇の目をひっ掴んで、「では」と逃げるように立ち去った。甫三が縁側で見送るのを感じたが、振り返ることなく庭を突っ切って出ていった。彼がどんな表情で居たか、想像もつかなかった。

★ 2 ★

 もう冬も近い晩に、玄白が田村邸を訪れた。純亭と源内と連れ立って桂川家へ行く約束の日だった。
 玄関に出迎えた純亭は、先日の挙式の礼を述べた後、「源内さんはもう六日も来ていないんです」と告げた。
「先生は本人から数日休むことは聞いていたそうです。先生の留守をずっと預かっていたことですし、休養が欲しかったのかもしれませんね。
 すみません、ここまで来させてしまって。私が玄白さんに連絡しておけばよかったです」
「いえ、いいんですよ。純亭は新婚で色々と忙しかったでしょう」
 そう言われて純亭は「いえ別に」と照れて赤くなった。

 紺屋町まで来たついでである。玄白は様子を見に湯島まで足を伸ばした。
 初めて会った頃、国倫は純亭に好意を寄せていた。それを『手出ししないで欲しい』と頼んだのは自分だった。純亭の結婚は、国倫に何らかの影を落としたかもしれない。玄白自身、幼馴染みで弟のような純亭が遠くへ行ってしまったような寂しさを覚えていた。
『いや、それは言い訳かも。私が、国倫さんに会いたいだけかもしれませんね』
 肩をすぼめて歩きながら、そう認めた。
 
 寮の玄関では、源内が風邪で寝ていると告げられた。見舞いを許可されたので、玄白は部屋へ上がり込んだ。
「ああ、すまん。心配をかけたの。雨に濡れてこの体たらくじゃ」
 国倫は掻巻を肩にかけ、布団から半身を起こし粥を食っていた。粥に生姜が入っているのか、部屋にはきりりとした香りが漂う。換気をきちんとしているのだろう、病人が臥せった部屋にありがちな澱んだ空気は無かった。
 茶筅髷を解いて耳の横で女のように結んだ国倫は、意外に首が細くて華奢に見えた。寝込んだせいで瞼が腫れ、目が潤んで少し熱っぽそうだ。国倫はいつも快活で大雑把な性格に見えるが、ふとした拍子に繊細な影を見せることがある。玄白を見て精一杯微笑む国倫だが、表情の翳りは病気のせいだけではない気がした。
 しかし、だいぶ回復したようで顔色は悪くない。木匙を使って粥を黙々と食べ、食欲もあるようだ。
 同室の者は他の部屋へ避難したらしくて、部屋に居るのは国倫一人だった。
「玄白さんは体が弱い。わしに近づかん方がええで」
 急な雨が降ったのは一昨日だった。
「一昨日、どこかへお出かけなさいましたか」
「・・・田村先生に休みを貰って、ずっと品川へ行っておった。高松藩の大名行列が来るかと、毎日通った」
 国倫の翳りが、すうっと濃くなる。同時に実体が薄く淡く変わり、背後の障子に溶け込みそうな錯覚を玄白は感じた。
「お友達が参府なさるのですね。到着の噂を聞いてから屋敷へ出向けばよろしいじゃないですか」
「会わす顔は無い。ただ、遠くからでよいから、見たかっただけじゃよ」
 紋切りの口調で言うと、国倫は一気に粥をかっこんだ。現実へと引き戻された体は、栄養を貪欲に取ろうとやっきになっている。普段からよく動く国倫は体力もあり、風邪の回復も早そうに思えた。
「讃岐時代の・・・恋人ですか?」
 玄白の問いに、思考の早い国倫が少し考え澱み匙の手を止めた。そして、ためらうようにゆっくりと言葉を発した。
「いや・・・恋人だったかどうかは、結局わからん」
 恋愛経験のない玄白には、よく理解できなかった。恋人だったか否かが、年月がたつと曖昧になるものなのか。
 玄白が怪訝そうに顔を眺めるのに苦笑して、国倫は眉を下げた。
「好きじゃったよ。だが・・・」
 粥が空になった椀へと視線を落とす。
「相手がどうだったのかわからんかった言うことじゃ」
「行列はご覧になることは出来ましたか?」
「いや。その前にこのザマじゃ」
 気の毒で玄白は胸が詰まった。昼間とは言えもう木枯らしの季節だ。展望の良い高台にでも居たのだろうが、よけい気温は低い。長時間留まれば体も凍えよう。まして一昨日はもう冬の雨の冷たさだった。
「江戸へ出たことは後悔しとらん。
 じゃが、何も告げずにわしは讃岐を逃げて来た。どんなにののしられようが、頬を打たれようが、きちんと頭を下げて別れてから来るべきじゃった」
「国倫さん・・・」
「すまんのう。熱に浮かされているようじゃ。今更言っても詮ない愚痴じゃけん」
「いいえ、話したいのでしょう?聞くだけでいいなら、いくらでも聞いて差し上げますよ」
 何日も、どんな想いで出かけて行ったのだろう。寒かっただろう、切なかっただろう。玄白にできるのは、静かに相槌を打ってあげることぐらいだ。
 だが、国倫は笑って首を振った。枕元に茶碗ごと置かれた煎じ薬を口に含み、ぐびりと音をさせて飲み込む。クズ根を煎じたもののようだ。
「終わったことじゃけん。行列を見つける前に風邪で倒れたんも、そういう運ってことじゃ。もう、会うことも無いけん。こんで気が済み申した」
 そう言ってこの話をお終いにした。
「今晩は甫三のところへ行く約束じゃった。すまんかったの」
「いいんですよ。国倫さんが回復なさったら、またご一緒させてください」
「おう、玄白さんに見舞ってもらって元気百倍じゃ。明日には田村先生のところへ出て行くけん。新婚の純亭をからかうのが楽しみじゃのう」
 声を出して笑おうとして国倫は咳こむ。「大丈夫ですか」と玄白があわてて背中をさすった。
「念の為もう一日、お休みになった方がいいですよ」
「名医がそうおっしゃるんじゃから、しょうないの、休むか」
 玄白が外科医なのを承知でそう言い、今度は静かに微笑んだ。

★ 3 ★

 国倫も元気になり、さらに十日ほど後に、三人で改めて桂川家を訪問することになった。
 田村邸を出ると、国倫は墨染めに近い西日に目を細めた。
 高松藩の上屋敷は紺屋町から戌の方角だ。同じ江戸の空の下に、頼恭が居る。
「どうしました?小石川でも時々ぼーっとなさってました。源内さんには珍しいことです。まだ、お体が十分ではないのですか?」
 純亭が大人びた気遣いを見せた。
 国倫は「いや」と苦笑する。薬草園はさらに上屋敷に近いので、気持ちも落ち着かなかったのだ。
 寮で目覚めても、ここから一刻も小走りで行けば会える距離かと思っては、ため息をつく。登城日の駕籠は九段下辺りを通るだろうか。そんなことばかり考えている。
『なにが"気が済み申した"ですか。玄白さんの前で、いいかっこして。全然"終わって"ないじゃないですか』
 鳩渓の突っ込みは容赦が無い。
『あいつは一年も居るんだ、そのうち慣れるさ』
 皮肉笑い混じりに言うのは李山だった。だが、李山の言葉の方がまだ温かみがある。子供ほど残酷なことを言うものなのだ。
『誰が子供ですかっ!』
 こんな独り言にさえ、いちいちムキになるのだから。

 甫三とは豪雨の夜以来だったが、彼は変わらぬ笑顔で出迎えた。意識したのは国倫だけで、彼は特には不審に感じなかったのかもしれない。いや、前に会った時の出来事など覚えてさえいないかもしれなかった。彼は刹那を漂うような、どこか不思議な雰囲気がある。
 座敷には初対面の先客がいて既に甫三とかなり杯を開けたらしい。官医だと名乗り、国倫たちに会釈した。
「高松藩が到着なさいましたね」
 甫三は国倫の盃に酒を注ぐ。
「ああ、そうげなやのぅ」
「え?」と甫三が小首を傾げる。讃岐弁が聞き取れなかったのだろう。だが、国倫は気づかない振りをした。
「じゃが、わしは浪人じゃし、もう関係ないけん」
「側用人の木村殿が田村先生にあなたのことを尋ねていましたよ。『平賀は元気にしていますか』って」
「えっ」
 動揺した国倫の酒が波うった。
「田村先生は『この前まで風邪引いてました』なんて答えてました。先生、とぼけてるよなあ。あなたにも、何も告げてないのでしょう?」
 国倫は無言で酒を飲み干した。自分の経歴を承知で受け入れてくれた藍水は、高松藩と何らか有って脱藩したことを察しているのだと思う。懐の大きな人だ。季明とのやりとりも聞いて楽しい話ではないし、国倫に黙っていたのだろう。
「側用人?木村殿はまだ家老にならんのじゃの」
 国倫も適当な受け答えをする。
「木村殿は讃岐弁じゃないんですね」
「あの人は、元は守山藩の人じゃ。たぶん江戸生まれじゃろう」
 松平家の三男だった頼恭は江戸の上屋敷で過ごしたはずだ。季明は側衆として一緒に高松へ来たのだと聞いた。
「ふうん」と甫三は興味の薄そうな返事をして、手酌で自分に注いだ。客の医師も空の盃を差し出し、新たな酒を貰った。
「平賀殿のような優秀な人材を辞めさせるなど、高松藩の人事は不可解ですな」
 世辞のような厭味のような曖昧な言い回しだった。
 これ以上高松藩の話は続けたくない。国倫は「そんなことより、この純亭が、ついに嫁を貰いました」と話題を変えた。
「おお」「おめでとう」と二人に祝福され、「えへへ」と頭を掻く純亭だ。二人は次々に純亭に酒を注いだ。
「なんとまあ、この若さで」と医師が気の毒そうに眉を下げると、甫三も「気の毒な同胞よ、こっちへ来なさいな」と純亭を呼び寄せてまた酌をした。
「なんだかなあ。あまり祝福してくれてないですよね?」
「結婚は人生の墓場ですよ。君も墓場へようこそ」
「やだなあ、愛妻家の桂川さんにそんな事言われると。今から気が滅入ってしまいます」
 純亭は肩を落として顔を顰める。甫三たちは純亭をからかっているのだ。背後で国倫と玄白は顔を見合わせてくすりと笑い合った。

 仲間と談笑して、学問の話に興じて、高松でのあれこれもいつか忘れてしまえるだろう。
『そのうち慣れるさ』と言った李山の言葉を国倫は反芻した。

 すぐに、あまりの多忙で思い出す暇もなくなった。年が明けると、源内は藍水に「今年の薬品会の会主は、平賀くんで行くぞ」と肩を叩かれた。
 夏まで、国倫も鳩渓もそして李山までもが、準備に奔走した。他のことはもう考える余裕が無かった。疲労して寮へ帰り、ただ眠る。どちらが上屋敷の方向かなどと、確かめることもなく倒れるように床に付いた。
 その年の夏は、あっと言う間に来た。



第19章へつづく

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