★ 私儀、甚だ多用にて ★

第十九章

★ 1 ★

 宝暦九年八月に、三回目の薬品会が予定されていた。源内が会主である。
「平賀くんの名前ももうだいぶ知れただろうし、実質はきみが仕切っているようなもんだし。そろそろ会主を名乗ったらどうだ?」
 藍水の言葉は源内への信頼の上に成立していた。先生の長崎の留守を無事に勤め、さらに地位を確立した感のある源内だった。
 会主といってもやることは以前と変わらない。参加者から物品を拝借する手続きや、見学希望者名簿の管理。物品が重複しないような手配。学者の仕事とは思えない煩雑な仕事を、鳩渓は手際よく片付けて行った。

 七月も末という暑さの盛り、鳩渓は田村家の書斎に籠もって会の書類整理に追われていた。
 物品の出展リスト作成は、面倒だが楽しい作業だ。絵では見たがまだ実物は知らぬ物、まだ数度しか触れたことのない物、それらがもうすぐ集まるかと思うと心が踊った。
 今回は、純亭も参加する。純亭が出品するのは、金星草、エゾスミレなど六種だった。金星草は唐名であり、日本で「シキシノブ」「忍草」などと呼ばれる。陰干し乾燥したものを「瓦韋(がい)」と呼び、これが薬になる。煎じて服用すれば利尿効果があり、塗布すれば出来物に効く。
 藍水は五十種、息子の元長は九種。二人の出品物には長崎産が目立った。藍水のものは蛮国(外国)産も多かった。椰子、コルク、甘草などである。どちらも長崎行きの成果であったろう。
 反対に、見学者のリスト作りは煩わしい仕事だった。
 見学希望者は書簡でも口頭でも受け付けた。口頭の場合は、田村門下に直接告げて貰って、門下の者が紙に書いて国倫へ提出する。
 門下に口頭で告げた届けと書簡とが重複した者、複数の門下生に連絡したので重複した者。それを見つけるのはなかなか厄介な作業だ。おまけに、本名、本草で使用する名、雅号俳号、俗名、みんないくつも名前を持っている。重複しているのか別人なのか、判別は難しかった。
「うわーっ、この人、前にも出て来ましたよね?」
 独り言なのか、国倫か李山に尋ねているのか。だが二人とも知らん顔だ。細かい作業は鳩渓が押しつけられることが多い。
 いろは順に並べた名前に線を引いたり書き足したり、そのうち半紙に額の汗がぽたりと落ちた。
 開け放した障子の外の空は染めたように青く、蝉の声がじっとり着物を背に張り付かせた。
「平賀さん、少し休憩なさったら?」
 田村の奥方が甘酒を差し入れてくれた。江戸では夏場に温かい甘酒を飲むのだ。甘味と米麹が夏の疲れには確かに効く。
「ありがとうございます。でも、皆さんは外で薬園の仕事をなさっていて、もっと暑いことでしょう」
 手拭いで汗を拭いて、「一段落ついたらいただきますので」とぺこりと頭を下げた。

「あ、高松藩の人が見学に来るみたいですね」
 紙を捲りながらの鳩渓の『独り言』に、国倫が反応した。
『湯島の寮の奴じゃろうか?』
「いえ、上屋敷からなので、参府中の役人でしょう。木村・・・木村季明ほか一名ってなっています。木村殿がいらっしゃるのですね」
『えぇぇぇーっ!』と国倫は悲鳴のような驚きの声を上げた。
『ほか一名って。ほかって誰じゃよ!』
「さあ。殖産関係の役人でしょうか?」
『頼恭だろ』と、李山は冷静に言い放つ。
『あいつは本草が好きだったろう。お忍びで覗きに来てもおかしくないさ』
 途端、びりりと鳩渓は木村の名を書いた紙を破り捨てた。
「木村殿からの申込みは来なかったことにします」
『おいっ!』『おい!』
 国倫と李山が同時に突っ込んだ。事前申込みが無いと、薬品会は見学させてもらえない。
「引き札(招待状)も送りません。受付で何か言われたら、『申込みが届いていない』で押し通して下さい。
 頼恭様と会えるかもなどと期待すると、国倫さんが心を乱しますから」
 取り付く島も無い。頼恭との再会の可能性を秘めた紙片は、鳩渓の指によってくしゃりと握り潰された。
『まあ、その方がいいかもしれんな。去年頼恭が江戸に着いた頃の、国倫の浮わつきっぷりを考えると。薬品会を前にして、仕事は山積みだ』
『いや、いいんじゃ。わしだって・・・会いたいとは思おておらん。今更、どのツラ下げて会えるっちゅうんじゃ』
 それは国倫の本音であり、しかし建前でもあった。偶然ちらりと姿を見るだけでもいい。頼恭の駕籠が通った道に佇むだけでもいい。どこかでそう願う自分に気づいていた。
「さ、とっとと作業を進めましょう」
 鳩渓はそう呟くと、湯飲みの甘酒を飲み干した。生真面目なこの男は、薄情でロジカルだ。情に流されることはないのだ。

★ 2 ★

『木村季明ほか一名』のことは、数日国倫の頭を離れなかった。
 木村とは脱藩後も交流があった。依頼されて方位磁石を作ったこともある。だから、源内が会主と聞いて顔を出すつもりだったかもしれない。
 だが、『ほか一名』は、いったいどういうつもりで申し込んだのだろう。
いや、頼恭とは限らない。『頼恭』というのは、李山がそう言っただけのことだ。藩の学者を連れて来て源内に引き合わせようとしているだけかもしれない。
 そんなことを、ぐだぐだと何日も考えていた。

「平賀さん。客が来ている」
 寮の同室の者が部屋へ呼びに来た。国倫は田村邸での仕事を終えて帰宅しており、部屋で一息ついているところだった。
「酔っぱらいです。中へ入れないで下さいよ」
 若いルームメイトは吐き捨てるように告げた。
 酔客? 誰だか予測がつかなくて、国倫は慌てて玄関へ向かった。玄白ではないだろう。純亭? 元長? まさか藍水先生? それとも。
「甫三! どうしたん?」
 玄関に佇むのは桂川甫三だった。外はまだ暮れたばかりで、空には一分の明るさが残っている。
「土産です。あなたに」と、腕に抱えた西瓜を国倫に押しつけた。
「"鉄カブト"やないか。土産じゃと?」
 泥酔というほどでないが、甫三の瞼は瞳にかかり、息も酒くさい。言葉も、ろれつが回っていないようだ。黒い西瓜はずしりと国倫の腕に重みを与えた。半分は甫三の体重かもしれない。足元もあやしく、国倫に寄りかかる格好になっている。
「今日、六人集まったら西瓜を切って食べようって話になって。結局切れませんでした。あなたを待ちながら酒を飲んだら、こんなに酔っぱらってしまいました」
「・・・。」
「ずっと、遊びに来てくれませんね」
「お、おう、すまん。薬品会の準備で忙しくてのう」
 甫三の言葉に他意は無いと思う。わかっているのに、国倫はどぎまぎした。甫三はそんな国倫の態度に気付きもせず、ぽわぁんとした口調で言葉を続ける。
「そうですよね。お忙しいのですよね。これは差し入れです。田村さんとこの皆さんでどうぞ」
「すまんの。明日早速いただくけん」
 国倫が黒光りする西瓜を床に置く。そう大きな物ではないが、重いに決まっている。これを築地の自宅から抱えて持って来たのか。
「平賀さん、髪・・・」
 背を曲げた国倫の茶筅髷に、甫三が手を伸ばした。どきりと国倫は首をすくめた。
「会主ですから、薬品会の時はきちんと結った方がいいですよ」
 甫三の指が櫛のように髪をなぞった。細くて長い指。国倫の眼前を透けるような白い腕がゆっくりと通りすぎる。甫三の香が薫った。国倫は視線をそらし、「浪人じゃし、いいやいいやでそのままにしておった」と言い訳した。声が掠れた。
「当日までに、きちんと儒者頭を結っておくけん。このままじゃと、先生にも注意されるのう」
「私も見学しに行きます。準備、がんばってください。では」と、甫三は頭を深々と下げ・・・深すぎないか? 国倫は慌てて体を支える。
「駕籠を拾えるところまで、一緒に行くけん」
 国倫は抱きかかえるようにして甫三と歩き、神田辺りで流しの駕籠を見つけた。駕籠を呼ぶのに片手を挙げようとすると、甫三が腕を握って遮った。
「嫌です。今、駕籠に乗ると気持ちが悪くなります」
 甫三の指が熱く二の腕に食い込む。国倫は諦めて腕を降ろした。
「しょうもない。じゃあ築地までしゃんしゃん歩きんさい。ほれ、しっかり立って」
 甫三は指を離そうとはしなかった。路の柳が風に舞い、甫三の額にかかる髪が国倫の頬をくすぐる。誘っている。今夜は間違いない。
 国倫の脈が早くなる。この男と恋に落ちれば、頼恭のことを忘れられるだろうか。
 いや、と国倫は首を振った。玄丈の時はどうだ。自分はあの男を傷つけた。もう、少しは大人になった。寂しいからといって、好いてくれる人に自堕落に甘えるほど、自分は弱くはない筈だ。
「なんや、しっかりしとるやないか。駕籠に乗っても大事なさそうじゃ。気分が悪くなったら駕籠かきに声をかけて停めてもらえ」
 国倫は指を振り切ると、駕籠かきへと「おおい!」と手を振った。
 結局駕籠に押し込められた甫三は、「ひどい!平賀さんの人でなし!」と罵りながら帰って行った。
 国倫は駕籠を見送りほっと安堵の息をつくと、湯島へと元来た道を戻る。甫三を抱えて歩いて、汗で背中に着物が張り付いていた。甫三が握った二の腕にそっと触れる。そこだけが妙に熱い気がした。

★ 3 ★

「名前が無い?そんな筈は無い」
「引き札(招待状)は?」
「申込みはしたが、来ていない」
「それですと、お受けしてない可能性が・・・」
「藍水殿に直接告げたのだ、よく調べてくれ」
「あ、は、はい!」
 受付で見学者のチェックをする純亭は、身なりの高そうな侍の強い口調に、慌てて前のページを順繰りに捲った。源内は出品物の説明に呼ばれ、一刻受付を純亭が交代していた。
「高松藩の木村様ですよね?おかしいなあ・・・」
 薬品会の当日は入道雲が空に掛かる晴天で、会場になった料亭京屋の軒先は、手元が影で黒く翳るほどだった。
 高松藩ということは、源内の知人かもしれない。上司だった人だろうか。粗相があったら源内に恥をかかすかもしれない。純亭の指は焦りで、紙を一枚ずつでなく重ねて捲ってしまい、また戻し、くしゃりと皺を作る。額に汗が吹き出て来た。
 木村は四十を少し過ぎたくらいの品のいい役人風の侍だった。中間と呼ぶにはもう少し身分の高そうな供を連れていた。
 供は体格のいい年配の男で、羽織も無く野袴姿だった。『源内さんが見たら身を乗り出すかも』と純亭が思うほどの精悍で端正な顔立ちで、『もしかして木村様の恋人?ってことは木村様は衆道?ってことは源内さんの元恋人?うわーーーっ!』と、純亭の妄想も限りなく広がり、紙を捲る指も更に手際が悪くなる。
「やはり、お名前は見当たりません・・・。すみません」

 玄白も見学に訪れた。受付では、純亭が何やら慌てている様子だ。
「どうしました?」
 殆ど泣きそうに眉を下げて、「実は・・・」と純亭が次第を説明する。
「純亭は受付を離れない方がいいでしょう。私が平賀さんを呼んで来ます」
 玄白が草履を脱いで廊下に上がろうとした所へ、談笑しながら源内と藍水がこちらに向かって来た。
「おお、玄白さん。よういらっしゃった。病院の方は?」
「一刻だけ閉めて来ました。それより、受付の純亭が・・・」
 玄白が説明する前に純亭が気づいて、子供が母でも呼ぶように「源内さぁぁぁん!」と叫んだ。
 視線を動かした国倫は、その先の野袴の男を認めた。
「うわっ!」
 思わず悲鳴をあげて勢いよく後ずさる。ぶつかって足を踏まれた藍水が「なんだよ!いてぇな」と怒声を飛ばした。
「あ、す、すまんです」
「普段動じない平賀くんが、なんて狼狽ぶりだよ」と、面白いものを見るように横目で見た。「来るの、知ってたんだろ?」
「引き札が届かんければ、いらっしゃるこっちゃはないと・・・」と、国倫はうつむいた。
「なんだ、平賀くんが握り潰したのかよ。しょうがねえな。俺が口頭で受けたんだよ、入れないわけにいくか」
「あ・・・はあ、そうですのう。すまんです」
 図体のでかい国倫が、消え入りそうな声で答えた。

 藍水が受付で木村と応対して、二人を店内へ招き入れた。国倫は廊下に膝を付いて平伏した。結いたての儒者頭の前髪が乱れて床を擦った。
「よせよせ、俺たちはただの見学者だ」
 懐かしい低い声が頭上に響いた。切なさでつんと鼻が痛んで息が苦しくなった。国倫は顔を上げることができない。
「御無沙汰しておりますっ」
 やっとのことで、声を絞り出した。
「江戸での活躍は、色々聞いている。天狗小僧も立派になったものだ」
「お、恐れ入ります」
「・・・いい加減、顔を上げろよ」
 これは命令だろうか。
 声が近かった。頼恭が膝を屈めてこちらに近づいたのだ。
 不在の時に勝手に脱藩したことを、この場で罵られても仕方ないと覚悟していた。頬を打たれ、最悪の場合は斬り付けられるだろう。自分は藩主を裏切って江戸へ出たのだ。
 恐々と、視線だけを上げる。しゃがんだ姿勢で至近距離で国倫を見下ろす藩主と目が合った。目尻に皺の増えたその男は、髪も半分ほど白く変わっている。だが、それがかえって落ち着いた知的な色気を与えていた。
 歳を経て、さらにいいオトコになった。国倫に、壮年になったらこんな男になりたいと思わせるような。
「おまえ・・・」
 頼恭はくすりと笑った。
『えっ?』
 人差指が、とん、と国倫の鼻を打った。
「おやじくさくなったな」
 頼恭の背後でぷぷっと季明が吹き出したのが見えた。国倫は脱力して肩を落とした後、すぐに憤慨で頬を膨らませた。
『なっ、なんじゃっ! 当たり前じゃろっ! わしはもう三十二じゃっ! いつまでも十九じゃないぞっ!』
「俺は今、下屋敷に薬園を作っている。おまえの手を借りたい事がある。暇になったらちょっと顔を出せ」
「あ、は、はい、明日にでも」
 再度国倫が伏した間に、二人は廊下の先、会場の座敷へと入って行った。床の軋みが消えたので、国倫はやっと顔を上げた。
 国倫の頭は混乱していた。頼恭が腹を立てなかったわけはないのだ。公の場だから遠慮しただけで、明日下屋敷へ行ったら打たれる可能性もあった。それとも、なにせ六年も前のこと。怒りは薄れたのかもしれない。いや、初めから、国倫のことになど重きを置いていなかったというのか。

 憮然としたまま受付へ戻り、純亭に「騒がせてすまん。代わる」と告げた。玄白もまだそこに停まっていた。
「かなり上のお役人に見えましたが」
 心配そうに眉を寄せる玄白の問いに、「まあなあ」と曖昧に答えた。敷物を譲った純亭が、「立派な身なりの方が元恋人かと思ってましたが、野袴の方ですか」と余計な事を言って、国倫に「子供の口出しすることでないけん」とじろりと睨まれた。
「こんなときは子供扱いですか。言っときますけど、三人の中じゃ私だけが所帯持ち・・・大人なんですけどね」
「黙っとき」
 国倫は矢立の筆を取って、ぺたりと墨を純亭の頬に塗り付けた。
「あーっ!源内さんのやることの方が、よっぽど子供っぽいじゃないですか!」
「いいかげんにしてくださいっ」と、来客の玄白の方が叱った。
「受付で、みっともない。いらした見学者も、入るに入れないでしょう」
「・・・すみません」「すまん」
 二人は素直に謝った。どうも玄白に叱られると、母親にでも言われた心持ちになるのだ。二人はそれぞれ髷や眉毛をポリポリと掻く。
「純亭のその顔は拭かんとのう。手拭いを濡らして来るけん。もう少し受付を頼む」
 国倫はそう言って場を離れた。そして、半刻も席を外した。問題の二人が帰りに受付を通り、それをどこかで見ていたかのように、その直後に戻って来た。
「両国橋にでも濡らしに行ってたんですかね?」
 純亭に厭味を言われ、「ふん。江戸川までじゃよ」と開き直ると、濡れ手拭いでゴシゴシと純亭の頬を擦った。
「痛い。痛いですよぅ!」
「墨が乾いてしもうた」
「当たり前です、なかなか帰って来ないんだもの」
「黙れっちゅうに。また書くぞ」
 制止役の玄白はすでに中へ入ってしまい、この場にいない。
「自分の恋愛のいざこざを、人に当らないでください」
「どれがいざこざじゃ! それに別に当っておらん。おんしが、ごちゃごちゃぬかすけん」
「・・・随分と仲がおよろしいですね。入っていいですか?」
 受付の横、国倫の背後に甫三が立っていた。暫く、気づいてくれるのを待っていたようだが、痺れを斬らして声をかけたらしい。
「あ・・・すまん。ようこそお越しに」
 国倫は軽く咳払いすると、名簿を繰りにかかった。
「先日は、西瓜をありがとうございました」と、純亭は笑顔で律儀に礼を述べる。
「いいえ」と、にっこりと甫三も笑みを返す。
「平賀さんが薄情なおかげで、田村門下の皆様の腹に入った西瓜です。お礼は平賀さんに」
「え?」と、純亭はきょとんとして国倫を振り返る。国倫の方は、すでに名簿に甫三の名は見つけたが、まだ探す振りをして下を向いたままだ。
「では、ゆっくり拝見させていただきます」
 甫三は優雅に頭を下げると、京屋の中へ入って行った。

 国倫は、名簿から目を上げて後ろ姿を見送る。不思議なことに、甫三を見てももう心は揺れなかった。
 畏れ、そしてどこか期待もしていた頼恭との再会。この心の振り幅が、甫三への淡い想いをどこかへ消し去ってしまった。頼恭に会って一瞬で気づいた。自分が誰を本当に好きなのかを。
 そっと鼻の頭を撫でてみる。頼恭が指で触れた時のことを反芻すると心は乱れて、けれど心踊るのも確かだった。
 甫三は気づいていたのだろう、国倫の憧れに。恋はたいてい同時に堕ちるものだ。国倫は踏み越えることができなかった。だが、それでよかったと思う。
 甫三と居る時のときめきも息苦しさも、みんな楽しかった。だが、終わったのだ。
「なんか、源内さんも色々大変そうですね」
「西瓜を食えたんじゃから、いいじゃろ?」
 無愛想に答え、国倫は名簿の甫三の名に線を引いた。墨を含んだ筆は速すぎるほど紙の上を滑り、黒い線が容赦なく名前の上に走った。
 明日は目黒の下屋敷へ顔を出せねばなるまい。
 ため息と共に宙を見上げた国倫の目に、ぽかりと夏の雲が一つ飛び込んで来た。きっと明日も暑い日だろう。




第20章へつづく

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