★ 私儀、甚だ多用にて ★

第二十章

★ 1 ★

 夜遅くまで京屋で物産の片付けを行った国倫は、他の門下生同様その夜は田村邸へと泊まった。
 座敷では、皆で疲労の興奮を軽い酒で和らげた。たいした酔いではなかったが、国倫は「ああ、うっとおしい髪じゃ」と首を振ると、儒者頭を解いた。鬢付油で束になった毛先が頬にまとわり付く。まるで忘れたい思い出のように。くすぐったくて、痛がゆい。
 気を取り直して、手早く雑に紐で一括りした。
「一日しかもちませんでしたね。もったいないなあ」と、純亭が苦笑した。
 源内の内で李山も皮肉っぽく『ふふん』と鼻で笑った。
『頼恭から老けたと言われて気にしてるんだろう』
『別にわしは・・・。それに、老けていて当然じゃ、七年ぶりじゃけん』
 国倫は多く盃を開けたが、望むような酔いは得られなかった。頭も心も覚醒したまま床に入った。当然深い眠りは得られず、波の音がどこからか聞こえて来るような淡い浅い睡眠だった。あの波音は、懐かしい瀬戸内の飛沫。高松城の庭から臨める海の音だ。
 明けても気分は重いままで。国倫が鳩渓を小突いて舵を取らせた。頼恭と顔を合わせたくなかった。面倒なことは鳩渓の仕事。鳩渓もどこかでそれを心得ていた。だが、二日酔いで頭は重い。
 今日は物産の梱包や返送の手続きをするのだが、朝食の席で藍水から「平賀くんはいいぞ。目黒へ呼ばれているからな」と仕事を免除された。
「ですが・・・」
「昨日、散々頼まれたからな。顔だけは出しといてくれよ」
「・・・。はあ」
 
 今朝は紐を結び直して茶筅髷を整え、昨日と同じ一張羅の羽織を羽織った。
「いってらっしゃい」と玄関で純亭に声をかけられ、ぺこりと礼をする。
「行って来ます」
「どうしたんです?改まって」
「いえ・・・。帰って来られないかもしれないと思って」
 鳩渓の危機感に国倫はどきりと背筋を伸ばす。李山も何も言わないものの、似た感覚は抱いているのだろう。国倫の恋が、こんな風に現在をも未来をも妨げるとは思ってみなかった。
『気にしないでください。わたしも、国倫さんの恋は認めたのです。わたしたちは一蓮托生、覚悟していますから』
「ああ、目黒は遠いですからね。お泊まりかもしれないと、田村先生に伝えておきますね」
 純亭は、きつく結ばれた鳩渓の唇にも気づかず、笑顔で送り出した。
 人目の多い薬品会では斬り捨てられることはなかったが、下屋敷ではわからない。そこは頼恭こそがルールだろう。
 いざとなったら土下座もしよう、草履の土も嘗めよう、命乞いの手段は選ばないと決めていた。まだ、やりたいこと、やらねばならないことは山ほどある。

 旅人が日本橋を出発して一泊目が品川の宿というペースである。健脚の源内でも下屋敷へ着くのは午の刻を過ぎた。
 門の足軽に名を告げると、「木村様が二度も確認に来ました。平賀はまだ来ないかと」と苦笑された。
「ひょうたん池でお待ちですよ」
 敷地内は回廊庭園になっていて、置き石の道を素直に行けば池へ出ると言う。
 上屋敷は藩主の家族や高位の者が居住し、中屋敷は隠居した縁者が住む。だが、下屋敷は中心地を外れた田舎に有ることが多く、藩主の別荘の意味合いが強かった。凝った庭を楽しんだり、趣味の茶室を建てたりするのだ。頼恭は薬草園を作っているらしい。

 鳩渓は門番に礼を言って通用門をくぐり、中へ入った。緑の匂いでむせそうになる。ここら辺りは下屋敷や土地の大きな寺が多くて江戸とは思えぬほど緑も豊富だったが、敷地内はもう別の世界だった。
 真夏の濃い空を隠すように、頭上に高い樹木が覆いかぶさる。何本も何本も重なり合って、大きな葉が天然の屋根を作っていた。空と樹と自分との距離感が無くなり、軽い目眩を感じて思わず目を閉じた。
 土の湿った匂いと苔の匂いがない交ぜになって鼻孔をくすぐる。蝉の声がいたるところから聞こえ、一方は大きくなり背後のものは小さくなり、音がうねり出す。まるで音がしていないように真っ白になる。
 讃岐の山に立ち戻ったようだ。心が急いて歩を早める。このまま歩き続けると志度の海辺に出そうで恐くなる。どこかで讃岐へ繋がってしまったのではないのか?

 幹が二股に分かれた大きな松を越えたあたりで、緑の匂いが突然藻の生臭さに変わった。ひょうたん池と言うくらいだから、細長い池が途中でくびれているのだろう。朱の橋が見え隠れして、すぐに人影も目に入った。
 作務衣姿の男が二人。よろけ格子の手拭いを頭に被って日除けにしている方が頼恭だろう。鳩渓の緊張が一気にほぐれる。まったく、だから昨日も中間になど間違われるのだ。偉ぶらず、体裁を気にしない頼恭の有り様に、思わず笑みが洩れた。
『代わってやれよ』と、李山が中から声をかけた。
『べ、別にわしは・・・』
 手拭いの白と藍のコントラストがハレーションを起こす。中に居る国倫が慌てて辞退したが、鳩渓は静かに国倫に舵を渡した。
 二人とも、帯刀している風もない。心配していた、いきなり斬りつけられる、などということもなさそうだった。
「お待たせしたかのう?」とおずおずと国倫が声をかけるのと、季明が振り返るのはほぼ同時だった。砂利の音で来客に気づいていたようだ。頼恭は後ろ手に手を組んで池のむこうを見たままだった。
「薬品会で疲れているところ、すまない」と、木村が詫びを入れた。
「いいや、そげん事」
 疲れた顔をしているとしたら、昨夜ろくに眠れなかったせいだ。
「頼恭様は北の藩から色々苗や種を貰ってここで育てているのだが、その整理を手伝って欲しい」
「はあ・・・。しかしわしも、湯島での勉強と田村先生のところの仕事で」
「うそをつけ」と、初めて頼恭が声を発した。その低音に国倫はビクッと肩を上げた。頼恭は水面を見つめたままだ。
「林家の授業など、殆ど受けていないのだろう」
「・・・。」
「毎日とは言わん。都合が着く時だけ来て、作業を進めて欲しい。報酬も出す」
「・・・。」
 それはかなり条件のいいバイトだ。
「どこかの藩にとっくに仕官していると思っていた。まだ浪人の身分だそうだな。実家からの仕送りに頼っているとか」
「・・・。大坂と京都で医者の助手をしとった頃の蓄えも有りますけん」
 憮然として、国倫が上目使いで言い返す。
 同情されているのだろうか。生活費を援助してやろうというつもりか。
 だが、北から来た本草の整理というのに心が惹かれた。薬品会で集められるのは採取して乾燥した植物である。土の上で育っているそれらが、ここに有るのだ。根の張り方、水の吸い方、日当たりによる育ち方、生きた形での本草に触れることができる。北国を回らなくても多くの草木と接することのできる好機だった。
「夕方になったら切り上げていい。木村に声をかけてくれ、一日の報酬を渡す」
 国倫が断るという選択肢を、頼恭は考えてもいないようだ。よろけ格子の手拭いは振り返らない。どんな表情をしているのか、国倫に計ることはできなかった。

★ 2 ★

 季明に薬草園の敷地へと案内された。植えられた草木には記憶に曖昧なものや資料の必要なものは無かった。頭の中にはかなりの種類の本草が記憶されている。名前と産地(いただいた藩名)を確認して書き記す簡単な作業だった。幾つか名称が違っていたものも修正し、指定された区画の植物は一刻ほどで終えた。真夏のことで、陽はまだ明るい。
 紙包みの一分金を渡された後、季明から念を押された。
「寮の高松藩の者たちは、今回の平賀への依頼のことは知らない。参府中の者もだ」
 国倫は頷く。藩の者には喋るなということだ。勝手に退役した源内に仕事を頼んだなどと知れると、お互いに風当たりが強そうだ。
「今宵は屋敷に食事と酒くらいは用意してある。戴いて帰るといい」
「結構じゃ。湯島までは遠いけん、門限に間に合わんし。一服したら帰りますけん」
「そうか」と、季明は特に引き止めもしなかった。
「あ、そうそう、城内は禁煙だからな」
「えーっ!そないえらいこと!」
「江戸は火事が多いしな。火を出すと大事になる。それに、ここの下屋敷だと山火事もどきになるぞ」
「・・・ったく。好かんのう」と、国倫は唇を尖らして髪を掻き上げると、「ほんだら」と一礼して季明の前を去った。

『ここらへんで、いいかのう』
 薬草園から少し歩いて、灌木が囲んだ一畳ほどの隠れ家を見つけた。国倫は長い手足を器用にたたんで灌木へ入り込み、狭いスペースに腰を降ろすと煙管に火を付けた。
 仕事をさせて一服も無しというのは、あんまりだ。作業の際に竹筒に麦湯ももらっていたので、火種は水をかけてきちんと消すことができる。季明は細かい事にうるさすぎる。
 深く煙を吸い込むと、昨日からの疲労が溶けていくようだ。気負って目黒まで来たが、自分の日々がそう大きく変わるものでもない。とりあえず、斬られなかっただけ、もうけもんだ。
 白い煙が、昇天していく。自分の恋のように。怒っていないということは、どうでもよかったということだ。裏切って江戸へ出たという『負い目』は、ただの『自惚れ』だったと思い知らされた。色々な出来事があっさりと白紙に戻る。何も無かったかのように。

 ガサリと小枝を踏む音に、はっと振り返る。
「やっぱりお前か。煙が見えたんでな」
 灌木の葉の間から、頼恭の目が覗いていた。額にはまだ手拭いを被っていた。
「屋敷は煙草は禁止だ。木村に見つかると怒鳴られるぞ」
 まるで自分も怒鳴られたことがあるような言い方だった。
「内緒にしとっててや」と、国倫は慌てて火を消そうと竹筒を取り出す。
「いや、消すな。黙っててやるから、俺にも一服吸わせろ」
「・・・。」
 頼恭は、灌木の枝を分けて入り込み、国倫の横でしゃがんだ。ザワザワと夏草が鳴った。
「アレはあるのか?」
 昔、高松で調合してあげた葉のことを言っているらしい。
「いんや。わしも止めましたけん」
「そうか。まあ、その方がいいな。阿片は体に悪いしな」
 国倫はその場で飛び上がる思いだった。
「・・・ご存じじゃったんか?」
「おまえ。俺のこと、馬鹿にしてるだろ」
「いえ、まさか、そげんこと。じゃが、あの煙草を阿片と気づく人はそうはおらんじゃろう」
「まあ、実を言うと、気づいたのはだいぶ後だ」と、頼恭は高らかな声で笑ってみせた。
 国倫から煙管を受け取り、深く吸い込む。この椿の柄の煙管のことは、もう忘れているかもしれない。吐き出す息で、頬に垂れた手拭いが揺れた。相変わらず、表情は影になる。何を考えているのだろう、この人は。
「その頬被り、似合いすぎて怖いわ。昨日の受付の者が、頼恭様を中間と間違っとりました」
「はは、そうか」と、また屈託なく笑うと、厚い唇から煙を吐いた。国倫は気を効かせて掌で次の刻みを丸める。
 怒っていないのか。恨んでいないのか。許してくれたのか。それとも、どうでもいい軽い出来事だったのか。もう忘れてしまったのか。問いが国倫の中をぐるぐると渦を巻いて。紐が絡んで動きが取れない。足がもつれて、罠に掛かった鳥のような心持ちだった。唇が乾いて張り付く。国倫は唇をきつく噛んだ。指が、うまく煙草の葉を丸めることができず、不格好な塊になった。
「終わったよな?」と問う頼恭に、「いや、まだ火種は生きとります」と、掠れた声で掌を差し出した。
「移しかえますけん、ここへ落としてください」
 新しい葉に火を移動させ、火皿に落とした。
 頼恭は旨そうに煙を吐いた後、空いた片手で手拭いを払い退けた。既に灰色になった髪と、頬から顎への鋭角なラインがあらわになる。国倫はこの輪郭が好きだったと思い出す。頼恭はずっと自分の草履の爪先を見ていた。
「訊ねたのは・・・俺とお前のことだったんだがな」
 独り言のように呟くと、にが笑いを見せた。
「え?」
「終わったことだと思っていた。ずっと、そう思っていた」
 わざわざ言葉にするということは、違うということなのだろうか。
「あの時、自分に言い聞かせた。おまえは、長崎帰りの意気揚々とした、輝く未来を持つ若者だ。才能もある。地位のある年寄りが利用されたからと言って、腹を立てるのもみっともないことだ。俺のような者は利用される為に有るのだ」
 その言葉は国倫の心を締めつけた。
「そげんこと!」
 いや、国倫に反論する資格は無い。
『頼恭様は、そのようなお考えじゃったか』
 国倫は肩を落とした。
「お前を責めてるわけじゃないさ。若い奴は年寄りを踏み越えて行くものだ。そうでなくてはいかん。
 だが、今もわからない。おまえの一挙一動、あれが芝居だったとは思えない。いや、芝居だったとしたら・・・むごいことをするやつだ」
 頼恭は国倫の方を一度も見ずに、そのまま煙管へと視線を上げた。言葉を発することなく、ただ羅宇を静かに見つめている。朱色の椿。言及しないだけで、この煙管のことも覚えているのだ。言葉にしないのは、頼恭のプライドだ。
 国倫は今まで理解していなかった。頼恭が生身の人間で、喜怒哀楽のある、普通の、自分と同じ、感情のある者だということ。頼恭の痛みが自分の傷として初めて伝わって来た。
「芝居で無い分、もっと人でなしじゃ。学びとうて。江戸へ出とうて。自分の欲の為に愛する人を裏切り申した。
 心変わりと罵られたらそうかもしれん。長崎へ行って頼恭様より心惹かれるものができてしもうた。
 フレイヘイト(vrijheid)。通詞は『自由』と訳しておった。手足の枷を外した『自由』と同じ言葉じゃが、意味は違う。何にも属しないで自分で考えて行動する生き方のことじゃ」
「それで退役したというのか」
「許していただけるとは思っておらん。昨日も今日も、会うたら斬られるかもしれんと覚悟しとったけん」
「馬鹿。そんな野蛮なことをするか」
 初めて頼恭がかすかに笑った。が、真顔の国倫を見て、冗談でなく本気の覚悟だったと承知したようで、彼も口を一文字に結んだ。
「恋敵が西洋の思想では、とてもかなわんな」
 これは冗談なのだろう、言ったあとに頼恭は再び顔をほころばす。そしてやわらかい表情のままで、愚痴をこぼすような口調で続けた。
「だが、せめて、一言挨拶をして去って欲しかったぞ」
 反射的に国倫は膝を整えようと腰を浮かせた。が、頼恭は肩をどん!と押して国倫に尻餅を付かせた。
「うわっ」
「よせよせ、こんな狭い場所で土下座なんてするなよ。
 許したわけではない。だが、もう何年も前のことだ。おまえは有能で、俺は仕事を頼みたい。・・・それだけだ」
「あの時は、一目でも会うたら、もう、高松を出られんけん」
「だから。もう、いい」
「・・・。」
「だから、泣くな!」
 頼恭に言われるまで、自分でも気づかなかった。まばたきすると目尻から涙が溢れた。手で乱暴に頬を拭った。転ばせられた時に手に付いた土が、顔を汚していた。
「ほら。いい大人が泥など付けてみっともない」と、頼恭はさっきの手拭いを懐中から取り出し、国倫の顔に放って寄越した。髪の匂いがまだ残っていた。
「左の頬。ホクロの下のところだ」
「あ・・・、はい」ぬくもりもまだ残る。
「そういう顔をするなっ」
「え?」
「腹が立つ。いちいち、そういう顔をするな」
「・・・。」
 それは、好きだと言われているのと同じ気がした。国倫は戸惑って頼恭を見つめる。頼恭は怒ったように顔をそむけ、借りた煙管を投げ返した。葉は完全に燃え尽きていて、灰が散らばり国倫の羽織に斑点を作った。
「わしも、まだ好きじゃけん、頼恭様のこと」
「おまえ、馬鹿じゃないのかっ。今さらそんなこと言われて、誰が信じるかっ。
 だいたい、そういうことを、真顔で照れ一つなく、よく言えるなっ」
「なんしょんな。そない言われても。
 今日び江戸で評判の俊才を馬鹿馬鹿お言いになるのは、頼恭様ぐらいじゃ」
「しょってるな。俊才とはおまえのことか?」
 頼恭の節の目立つ人差し指が、国倫の鼻の頭をぽんと叩いた。思わず二人、同時に吹き出した。かつて、身分を越えてよく諍いをした。その当時の気分が戻った感じがしたからだ。
 頼恭の手がそのまま国倫の頬に触れた。
「終わったと思っていたんだが」と、頼恭は困惑したように眉を下げた。
「わしもじゃけん」
「しょうがないな」と頼恭が呟いて、最後の言葉の息が国倫の唇をおおった。
 夏の日差しは和らいで、もう夕暮れに近い時刻になっていた。いつの間にか蝉の声はヒグラシに変わり、空は茜の雲が点在していた。

★ 3 ★

 うつらうつらと目覚めの兆しを感じ始める。目覚めたくない。・・・楽しい夢を見た。いい夢過ぎて、悲しくなるような。現実と向き合うのがつらくなるような夢を。
 だが、国倫はふと気づいて鼻を鳴らす。寮の部屋にはいつもの汗臭さと息苦しさは無く、微かな伽羅の香りがしている。
 薄目を開けると明るいので、寝過ごしたかと飛び起きた。
「どうした?」
 低くくぐもる頼恭の声。隣に懐かしい男が居た。
 蚊帳の外には有明行灯が幾つも灯されていた。もう陽が高いと勘違いしたのは、この明るさのせいだ。まだ夜は明けたばかりのようだ。
 それでも、そろそろ発たねば紺屋町の田村邸に着くのが遅くなる。
「ああ。いい夢じゃったから二度寝して寝坊したんかと思うた。行灯の明かりじゃった」
「俺の横で『いい夢』を見るとはいい根性だな」と、頼恭は拗ねたふりをして背中を向けた。
「ちゃうけん」と笑い混じりに説明すると、「伽羅の香りを覚えたとは。おまえ、だいぶ遊んだな」と更に突っ込まれた。高価な伽羅を焚けるのは、高位の者か花街の太夫クラスだ。
「本草の仕事で見ただけじゃ」
「よく言う。閨を共にすればわかる。江戸か京都で随分金を使ったろう」
 頼恭の指摘に、国倫は赤面する。明けてから夜のあれこれを言われるのは照れくさいものだ。確かに七年前と違って抱かれるままではなかった国倫だが。
「京都では・・・薬屋の接待で・・・。わしにそんな余分な金があるわけないじゃろう」
 花街で蔭子と散々遊んだのは李山だった。だが、共有する体は、色々と覚えるもののようだ。そういう頼恭も、藩主のくせに抱かれることに抵抗もなかった。きっと少年の頃から美しい男だったろう。江戸生まれの部屋住み三男坊が、誘惑に遭わなかったわけがない。
 そう、雲の上の者ではないのだ。そっと頼恭の二の腕に触れてみる。こんなに温かく、脈も打っている。国倫と同じように傷つくし、悲しみもするのだ。
「なんだ?」
「いえ」と苦笑して、「そろそろ帰るけん」
「なあ、国倫」
「何じゃ?」
「俺が高松へ帰る時・・・。いや、何でもない。
 気をつけて帰れ。駕籠を使っていいぞ」
 国倫はぺこりと頭を下げると、素早く身繕いして蚊帳を出た。蚊帳が室内を少し暗くしていたようで、国倫が思ったほど早朝ではないらしい。
 駕籠は築地辺りまで借り、そこからは歩いた。国倫の足なら歩く方が早い。

 田村邸の前で掃き掃除をする純亭の姿が見えた。
「あ!源内さんっ!」
 箒を投げると、少年のようにこちらに向かって駈け出して来る。門前に玄白も座っていたようで、純亭の後ろから走って付いて来た。
「おはようございます。今朝は純亭が当番ですか?」
 今は舵は鳩渓が取っていた。国倫は一昨日昨日と色々あって、少し疲れたようだ。今は内の部屋でうとうとと膝を抱えている。
「おはようじゃないです!心配してたんです!」
「え、だって、純亭が言ったのじゃないですか、お泊まりだろうかって」
「・・・。そのあと、玄白さんに話したら、変だって言われて。それで気付きました。
 源内さんは藩主に内緒で退役したんですものね。会ったら斬られる可能性を覚悟してお出かけになったと、玄白さんが言うのです。だから、気が気でなかったです!」
「あ・・・。すみませんでした。でも、無事に帰って来ました」
 鈍足の玄白も息を切らしつつ辿り着いた。手には律儀に純亭が放った箒を握っている。
「ご無事で・・・何より・・・でした」
「玄白さんは、早朝から来ていて一緒に帰りを待ってたんです。そろそろ病院を開ける時刻で、行かねばならないところでした」
 玄白のまぶたは腫れて別人のような風体だった。寝ていないのか、心痛で泣き明かしたのか。純亭も鬢が乱れて疲れた表情をしていた。
 鳩渓は目頭が熱くなった。出かけに余計なことは言わなかったが、それで気づいた玄白の細やかさや、純亭の真っ直ぐな心配のしかたに、心から感謝した。
「心配させてしまいましたね。でも、何事もありませんでしたから。下屋敷の薬草園の仕事を頼まれただけです」
 鳩渓は、純亭の肩を抱き、次に玄白の肩を抱いた。
 はっと、玄白が顔を上げた。そして表情が険しくなる。
「・・・お香の匂いがするんですが」
「あ、ほんとだ。・・・伽羅ですね。蔭間茶屋でも寄ったんですか」
 純亭も、上目使いで睨みつける。
「そんなわけないでしょう。だいたい、そんな金がどこに」
 二人とも、なんだか女房みたいに鋭い。いや、鳩渓に女房がいたことはないので、世間の評判を聞いたにすぎないが。
 二人は物も言わずに鳩渓を見上げている。伽羅の弁明を待っている。
「・・・高松藩の男と、寄りが戻ったんです」
 消え入りそうな声で、鳩渓はやっと答えた。
「なんだよ!心配して損した!掃除の係は源内さんなんですよ。続きはやっといて下さいっ」
 純亭は玄白から箒をむしりとると、鳩渓の手に押しつけた。
「私はこれから家に帰って寝ますから!ああ、ばからしい」
 玄白も、白い顔を赤くして憤慨していた。
「よかったですねっ!お楽しみで朝帰りですか!
 私もこれから仕事ですのでっ」
 二人は走ったのと似た早さで、ずんずんと元来た道を戻って行った。怒っているので歩くのが早い。
 鳩渓の手に、竹箒だけが残った。
『そんなに伽羅くさいですか、わたし?』
 李山は笑って答えない。当の国倫はうとうとと幸せな眠りについていた。
「さて、掃除当番ですね」
 鳩渓はいつもと変わらず、門の端から丁寧に箒で塵を集めにかかった。今日もまだ暑い日になりそうだ。




第21章へつづく

表紙に戻る