★ 私儀、甚だ多用にて ★
第二十一章
★ 1 ★
目黒へは、十日に一度ほどの割合で出かけた。田村のところの仕事も有り、かつて純亭とも盛り上がった「自分たちのどどねうす」・・・本草図鑑の準備もコツコツと進めていた国倫だった。
目黒の庭園で草木を調べる仕事は楽しいし、陸奥や奥羽の植物に触れるのは勉強になる。だが、目黒は遠く、そう頻繁に行くことはできない。
普段は日暮れに下屋敷を退出して、湯島の宿舎へ戻るのが面倒になると田村邸へ泊めてもらった。直進距離なら宿舎までは近いのだが、なにせ江戸城をぐるりと迂回しなくちゃならないのだ。
時々、頼恭が下屋敷に来ていることもある。そうすると、仕事ははかどらない。
鳩渓が、湿気や日照りを見て草木の植え替えを庭師に指示していると、前の土に自分以外の影が覆いかぶさった。そろそろ金色懸かってきた秋の日差しに、細長い輪郭がぼやける。
「国倫」と、低い声が呼ぶ。
自分は国倫ではないが、一応「はい」と返事しておく。だが返事はしたものの「少しお待ちを」と断り、そのまま庭師に指示を続けた。庭師の方が驚いて固まっている。藩主より庭師への対応を優先しているのだから。
「わかりましたか?」
庭師は頷くが、藩主の方をちらちらと盗み見て上の空だ。たぶん半分も聞いてない。
「わからなくなったら、遠慮なくまた尋ねてください。うろ覚えのまま、違った処置をされた方が問題が大きくなりますから」
庭師はうんうんと大きく頷くと、とっととその場から逃げ出す。藩主が不服そうに口を尖らしているのだから、居心地がいいわけはないだろう。
「で、何ですか、頼恭様」
鳩渓は、わざとゆっくりと振り返る。どうせ、茶の湯や香合わせや陶芸などの遊びの誘いなのだ。見ると、今日は腕に蹴鞠を抱えていた。
「ちょっと付き合え」
「わたしは遊びにここへ来ているわけではありません」
「ここは俺の気晴らしをする為の屋敷なのでな。ここに勤める者は、それに準じるのが礼儀だろう?」
「・・・。」
鳩渓は不承不承、国倫に舵を渡す。この前、『では、ここの薬草園も殿の気晴らしですか?』と反論したら、頼恭が何か言う前に国倫と李山にはがい締めにされて舵を奪われ、あとで散々叱られた。頼恭自身は苦笑しただけで、特に咎め立てはなかったのだが。
鳩渓にしてみれば、不愉快な話だ。田村の仕事の合間を縫って、こんな遠くまで作業しに来てやっているのに。
体の自由を貰った国倫は嬉々として「長崎では、蛮国の蹴鞠を教わり申した。頼恭様にもお教えしようと思っとった」と袴をまくった。
ここの草木の整理など、平賀源内なら五回も通えば終わってしまう仕事だ。頼恭はそれを承知していて、引き延ばしたいのだ。
引き延ばしの理由は色々だった。江戸の高松藩では源内の名声が高まるのを見て、なんとか自藩へ呼び戻せないかという声があがっていた。もちろん、一度自分から辞めた男であるという反対の声もある。波紋を広げてまで彼を再仕官させる価値があるかと問われれば、頼恭はもちろん有ると答える。もう砂糖や人参を作らせるつもりはなかった。薬品会での企画力や実務能力。藩の中枢として活躍するには十分の才能だ。藩主の一存で、反対を無視して再仕官させることは簡単だった。
一番の問題は、平賀に再仕官の意志が無いことだ。
ブレーンとして頼恭の側にということになれば、江戸暮らしというわけにはいかない。平賀は江戸で学びたくて藩を辞めた男。よほど魅力的な条件が無い限り、江戸を捨てて讃岐へは戻っては来まい。
讃岐高松藩は閉鎖的であり、平賀の取り立てには不満を持つ者も多いだろう。平賀の性格にも問題があった。良く言えば素直で純粋な学者バカで、ものおじしない彼は人に下手に出るということがない。
「蛮国の蹴鞠は、鞠を取り合うんじゃ。敵の陣地に入れた方の勝ち。合戦のようじゃろ?」
爪先や甲で蹴り分けるやり方を体を使って説明しながら、藩主への敬語は消え落ちている。頼恭にとって彼のタメ口は不快ではなく、かえって心が近い証拠だと微笑ましく思うが、そう感じない者の方が多いはずだ。
考えを巡らせながら鞠を扱う頼恭が、誤ってそらすと、国倫は「なんじゃ、なんじゃ」と屈託のない少年のように笑う。頼恭が弱い笑みを返すと、「もう疲れたんか?自分で誘っておいて」と偉そうに手を腰に当てた。
困ったように眉根を上げる頼恭の表情を見て、国倫はさらにまた笑顔になる。頼恭も、この青年の好意の裏側に保身や出世欲が少しでもあったら敏感に察知しただろう。
「蛮国の蹴鞠はあまり気に入らんかったですか?長崎で"ふつぼーる"のことを聞いた時、真っ先に思うたに。頼恭様にお教えしたら喜ぶじゃろうって」
もう成人であるこの男が、それでもまだまだ可愛らしくて、頼恭は彼の頬の汗に触れる。触れられた国倫ははっと赤くなり、そして抱きすくめられるのを待って息を止めた。
頼恭と下屋敷で出会うと、どうしても泊まりになる。有明行灯の灯に目を細め、国倫は朝の早さを恨んでもう一度頼恭の背に頬を寄せた。
「どうした?もう行くのか?」
「はい。朝一番に発たんと、田村先生のところに着くのが遅れるけん」
こうして閨を共にできるのは、あと何度だろう。もうすぐ頼恭が讃岐へ帰る時期だった。
「田村の仕事は楽しいか?」
「そりゃあ。いくら勉強しても足りないくらいじゃ。それに、先生のところにはどどにうすがあって、いつでも見せて貰えるけん」
「おまえも凄いと思うか、あの本」
頷く代りに、国倫は微笑した。あれを凄いと思わない本草学者はいない。
「俺が、讃岐であんなのを作ると言ったら・・・おまえ、手伝ってくれないか?」
国倫はえっと小さな声を洩らし、その後の言葉を失った。資本のある頼恭なら可能な話だ。それを手伝える。たぶんかなりの部分を任せてくれるつもりだろう。自分で図鑑を編纂できるのだ。
だが・・・。『讃岐で』と、頼恭は言った。頼恭が告げたいのは、まさにそのことなのだと推測できた。
国倫は髪に頼恭の吐息を感じながら、考えを巡らす。故郷へは、確固たる名声を得る迄は帰りたくないと思っていたのだが・・・。そして、江戸へ出たのが三十歳だった自分は他の江戸の学者よりスタートがかなり遅れている。一年以上もまた江戸を離れるのはかなりのマイナスのはずだ。高松藩には自分のことを忌み嫌う者も多い。そのことも気持ちを暗くさせた。
「考えてみるけん。田村先生にも相談せんといかんし」
それはただの時間かせぎの言葉だった。平賀が讃岐へ帰ると言えば、田村は反対はしないだろう。国倫はまだ暗い部屋で素早く身繕いを済ますと、下屋敷を立ち去った。
讃岐へ戻る。考えたこともなかった。田村邸へ歩を進めながら、国倫の心臓は動揺でトクトクと音を立てて鳴る。
心を乱したのは国倫だけではなかった。もう十分大人になった里与に会う。鳩渓は『絶対わたしは行きませんから!』と首を振り、膝をかかえた。
『行くとなれば、鳩渓を置いていくわけにはいかないのだがな』
皮肉っぽく李山が呟いた。
★ 2 ★
「最近、源内さんが忙しくて、つまらないです。桂川さんのところにも連れて行ってくれないし〜」
田村邸で乾燥させた薬草の仕分けをしつつ、純亭が愚痴を言う。鳩渓は讃岐への誘いのことで頭がいっぱいで、指先は動くが純亭への気配りに欠ける。
「わたしが居なくちゃ行けないなんて、子供じゃないんですから。玄白さんと二人でいらっしゃればいいじゃないですか」
正論である分、純亭は傷つく。純亭の『源内さんと一緒だから楽しい』という気持ちは無視されている。
「わかりましたっ。子供じゃありませんからね!」
純亭の語調が強くなり、「休憩しよう〜っと」とぷいと部屋を出て行った。
鳩渓は、部屋の隅、文机に無造作に置かれたどどねうすに目をやる。高価な物なのだが、門人が自由に閲覧できるようにと、こうして置いておいてくれているのだ。先生は本箱に入れて紐でくくるなんてしない。知識の共有化。こういう気質は、藍水だけでなく甫三や昆陽にも感じた。高松藩の中には、この空気は決して、無い。
ぱらりと本をめくる。菫だろう、繊細で精密な線画は、名前の文字が読めなくても簡単に種類を当てることができた。
こんな図鑑を作りたい。鳩渓の心の声に、国倫も李山も頷く。
数日後、腹立ちまぎれに本当に玄白と二人で桂川邸を訪れた純亭は、甫三の口から意外な事を聞く。
「平賀さんは、そりゃあ忙しいでしょう」
ふふっと甫三は皮肉っぽく唇を歪める。
「目黒の往復は難儀なようです」
素直に玄白が庇うが、純亭は「目的の半分は恋人との逢瀬ですけどね」と混ぜ返した。
「讃岐はもっと遠いですよ」と、甫三は気持ち小声になって、視線を逸らす。思わせぶりなセリフに純亭も玄白も膝を乗り出した。
「平賀さんは、帰省するのですか?」
「知りません。ただ、来年に高松藩が帰る時、あのひとはどうするのかなあと思いまして」
玄白は眉をしかめた。言葉を濁しているが、甫三は何か知っているようだった。だが純亭は「えーっ、だって、源内さんは不定期に庭園の本草整理をしているだけでしょ。一緒に帰る必要無いでしょう!」と、帰省の可能性を否定した。幾分、いやだいぶ願望が入って判断を鈍らせている。
「正式に再仕官したという話は聞きませんが?」と玄白は探るような口調で尋ねた。
「そうですね、『正式に』は無いかもしれません。どうするんでしょうねえ」
「行きませんよ、だって、源内さんは江戸に出たくて藩をやめた人なんだもの!」
純亭はヒステリックに声高になる。
迷いのままに日々は流れ、年が明けても国倫ははっきりと答えを出すことができずにいた。
「まだ心は決まらんのか?」と何度目かの目黒で木村にせっつかれると、国倫は「すまんです」と俯いた。
「ぐずぐずと決めかねて、頼恭様はご立腹かね?」
「いや、そんなことはないが」と木村は苦笑した。
依頼の図鑑編纂の仕事はしたい。だが、讃岐へは戻りたくない。
「こちらに残って、頼恭様の指示で仕事をするんじゃあかんかいのう」
「殿は気が短い。平賀に質問した答えが早馬でも十日かかるだろう」
気が短くなくても、そんな効率の悪い仕事は無理だった。わかっている。自分は決定的に心を動かす何かを待っている。イエスかノーかを即決させる、強い何かを。
木村も何か迷っているように唇を結び、そして、軽い調子で新しい提案をした。
「帰省や再仕官のことはまず置いておいて、ここで薬園の整理をする仕事の続きとして、京都へ随行せんか?」
「京都じゃと?」
国倫は目をくるりと回す。木村は『笑顔に見せるために』笑顔を作った。
「殿はお上の用事でこの春に京都行きを仰せつかった。用事の内容については、おまえは知る必要は無いが。京への道中、本草の調査を依頼したい。
平賀は、薬品会で全国から集まった本草を目にしたわけだ。目黒での手伝いを受けたのも、殿の人脈で集まった日本中の本草に触れたかったからだろう?」
「・・・。はあ。まあ、そうじゃ」
京までの行程の本草調査は、自力でやろうと思えばかなりの旅費もかかる。人件費も必要だ。それを藩の負担でできる。
「旅に同行しつつ、調査を進めよとのことだ」
「そりゃもう決まってたこととちゃうか。依頼じゃのうて、命令じゃろう」
国倫は唇を噛んだ。木村が困ったように笑っている。笑顔が張り付いていた。
「いや、"平賀なら"断ることも許される命令だ」
「だったらわしは!讃岐に帰ることだって迷っちょるのに!」
「まあ待て」と木村が国倫の言葉を遮る。
「正直言えば、野暮用で京都まで往復するのがつまらないんだろう。平賀を連れて行きたいだけだ。一月ばかりの外出だが、殿はおまえと離れたくないのだ」
木村の率直な物言いに、国倫は頬を赤くした。そう言われるのは嬉しいし、確かに頼恭の素直な気持ちかもしれないが。学者として仕えている国倫には複雑だった。
「そげんこと。わしは薬園整理の学者じゃ。側女でも愛人でもない」
「そう言うと思ったよ」と、木村はため息をついた。『だからあまり言いたくなかったんだ』と言いたそうな口ぶりだった。
「もちろん頼恭様は、今回の随行も、学者としてのおまえの為にという思いから勧めておられる。京都行きは近しい供だけ連れて行くので、参勤交代のような気詰まりも無い。
・・・考えておいてくれ」
冬の薬園は手入れする草木も少なく、目黒への回数も減らそうと思っていた矢先だった。
国倫の心は揺れた。
夕方に田村邸に戻ると、玄白と純亭に連れられて、甫三が来ていた。
四人で外で軽く飲むことになった。
「珍しいの、甫三殿が訪ねて来るっちゅうのは」と国倫が酌をすると、「暫くお会いできないかもしれませんし」と曖昧に笑う。
それが純亭には起爆剤になった。尋ねたくてうずうずしていたのだ。
「再仕官されて讃岐へ帰るというのは本当ですか?」
うっと国倫は言葉につまり、動揺して自分の盃の酒をこぼした。
「本当なのですね?」
「待ちなさい、純亭」
玄白が親友の性急さをいさめ、手拭いを国倫へ差し出す。
「すまんの」と苦笑した国倫は、「まだわからん。そういう話はいただいたが、返事はしちょらん」。
「行くのでしょう?あのかたの誘いなのでしょう?」
甫三までが、上目使いで恨みがましい視線で国倫を見上げる。
「・・・行かんよ、たぶん」
行くと他人に決めつけられると、『行かない』と言い張りたくなるものだ。
「本当ですか?」と甫三は瞳を見開いて迫る。純亭達も期待を込め、息を詰めて国倫の答えを待っている。国倫の喉は張り付いて痛む。
「・・・。」
「もし本当なら、私は平賀さんの頼み事を何か一つ無条件で引き受けます。書庫の本を一冊欲しいなんてのでもお受けしましょう。
もし嘘だったら、私の願い事を一つ聞いてくださいよ」
それは甫三にだいぶ分の悪い賭けに思えた。当の国倫が『行かない』と言っているのに。
「ええよ、別に」
国倫は愛想なく答えると、盃に残った酒を空けた。純亭は「よかった〜」と朗らかな声を発し、玄白でさえほっと肩の力を抜いた。
甫三だけが、盃に視線を落とし、悲しそうに微笑んでいた。
次に国倫が目黒へ行った時、木村から京都行きの話は出なかった。恐る恐る出かけた国倫は、いつその話が切り出されるか、気が気ではなかったのだが。その代り、『会薬譜』(薬品会を纏めた冊子)が数冊欲しいと言われた。
「今度来た時に持参するけん」
会を見学していない者でも出品リストを知りたがる人は多く、その為に多めに刷ってもらったのだ。
「出品物を中心にした図譜の原稿を整えているそうだな。いつか本の形にしたいのだろう?」
「え。・・・よくご存じで。田村先生からお聞きになったかね」
「いや。桂川くんからね。『物類品隲』という題名まで決まっているそうだな」
「・・・。」
だいぶ前に、酔いにまかせて一度だけ口を滑らせたような気がする。余裕のある家の学者なら、少し無理をすれば本は出せないことはない。だが浪人で無収入の国倫には非現実的な話だった。それを承知していた国倫自身が、楽しい夢を語っただけの話だ。そんなのをよく甫三が覚えていたものだ。
彼は柔らかく受け流す振りをしながら、国倫の言葉をいつも真剣に聞いていたのだ。甫三は強い想いがあっても表面には出さず、押しつけがましいところがない。育ちの良さから来るんだろう。反応がおっとりしているからと言って、国倫への好意が弱かったというわけではない。
「殿の図譜製作の依頼。平賀が受けてくれれば、仕事の報酬とは別に、殿からの礼ということでその本の出版費用を出してくれるそうだ」
「えっ!」
国倫は思わず木村の胸元を掴んだ。内では鳩渓も李山も体を乗り出していた。
「嘘じゃろ、そんなうまい話!」
「ばかもん、おまえに嘘を言ってどうする。
・・・そうか。行くか」
木村は破顔して、羽織の前身頃から国倫の指をほどき取った。
「約束は絶対じゃな?讃岐へ帰ったものの、知らんやなんかと言わんよな?」
真顔で問い詰める国倫に、木村は「あのなあ」と呆れる。
「頼恭様がおっしゃったことだ。反故にされるとしたら、お上が反対した時ぐらいだろうよ」
薬品会の集大成となるだろう『物類品隲』は、純亭とも約束した図鑑だった。『ころいとぼつく』には遠く及ばないものの、本草学者に役立つ本となるだろう。
そして、何より、自分が初めて出す本となるのだ。
漠然と、江戸で名声をあげれば後ろ楯がつくことを期待はしていた。いつかは本も成したかった。だがこんなに早く、資金の援助が得られるとは思ってもいなかった。
「頼恭様に、よい返事を聞かせていいのだな?」
木村の言葉に強く頷く。あんなに『志度へ帰るのが厭だ』と強く言い張った鳩渓までもが、体の中で頷いているのがわかった。『きっと作業が忙しくて、実家に帰る暇なんてありませんよ』と、都合の言い理由で自分を納得させていた。
頼恭が讃岐で暮らす一年間、彼の図鑑作りを助ければいいのだ。参府の際にはまた江戸へ戻れるだろう。
国倫は、讃岐へ帰る事を承諾した数日後、甫三のもとを訪れた。
報告と・・・礼を言いたかった。甫三が木村に入れ知恵したに違いないのだ。国倫の背中を押す為に。
「いえ、私は・・・。たいしたことはしてません。あなたの力を高松藩が認めただけですよ」
懐かしい書斎で、甫三は一人、火鉢をかかえこむようにして酒を飲んでいた。客がいなかったせいか、そばちょこを使っていた。酒がそう強くない甫三だ。酔いたい気分でいたところなのだろう。
「盃が無いので」と、菓子皿の最後の一個を頬張ると、空になったそこへ国倫の為に酒をついだ。
「で、私のお願いなのですが」
いたずらっぽく、ふふと唇の端を上げる。
「約束じゃったな。わしが讃岐へ行かんと約束して・・・違えたら何でも言う事を聞くと言うた」
「あなたの本の序を書かせてください」
「・・・それは。しかし、田村先生を差し置いて」
「物類品隲で書かせろなんて言っていませんよ。近い将来、あなたの研究成果は、きっと何冊も本になるでしょう。その中の何かに協力させてください。
どんなお願いでも聞いてくださるのでしょう?」
国倫は頷いた。甫三は、江戸で初めて出来た肩を並べられる友人だった。純亭と玄白は一歩下がって憧憬で自分と接し、甫三のように踏み込んで来なかった。
「こちらから頭を下げて、甫三殿に序を書いていただかねばならないところじゃ。願いは、そんな事でよいんか?」
「あまり無理を言うと、困るくせに」
「そうじゃな」と国倫は笑顔になった。甫三は聡明で背筋の伸びた男だ。ずっと良い友でいたい人物だった。
「江戸は時間の流れが他の国とは違います。一年もたてばこの町はあなたのことを忘れるでしょう。薬品会の業績を無駄にしない為にも、必ず一年で帰ることです」
それは耳障りは良くないが、愛情のこもったありがたい忠告だった。
「甫三殿。感謝しょうるで」
甫三の細い指を、国倫の大きな手が包み込む。白くて冷たい指が強く握られて微かに朱に染まった。
「あ、その前に、京都も行くのでしょう?いいなあ、恋人との京都旅行なんて」
「あのなあ」と国倫は呆れる。江戸城内での甫三の情報網は相当のものらしい。しかも、故意に歪ませているのか、いびつな情報だ。
「帰省する前に、また来てくれますよね?京都の土産を持って」
「なんじゃ。土産を買うて来い言う催促かいね」
「はい」と、甫三はふふふと笑う。
田村先生や同門の者にも、讃岐へ戻ることを告げた。皆、快く一年の休暇を受け入れてくれた。純亭は、目だけは『行かないと言ったのに』と恨みがましかったが、咎め立てはしなかった。玄白に釘を刺されていたのかもしれない。
「参勤交代の集団と一緒に帰省するのか?」
田村の声には心配そうな響きが籠もっていた。高松藩には源内を良く思っていない者が多いのを知っての言葉だった。
「頼恭様は讃岐へ戻る前に、幕府の仕事で京都へいらっしゃるようじゃ。わしには、行程の本草を研究しろとのご命令でのう。讃岐への帰国はその後じゃ。それも一応同行は命じられちょりますが・・・」
国倫の声にも、藩の者と行動するのは気が進まぬ重さが籠もっていた。だが、藩主の命では従わぬわけにはいかない。
★ 3 ★
京都の復路で源内は、頼恭から思わぬ依頼を受ける。
行程周辺の海辺での貝の収集と整理。貝を本草のように分類しろとのことだった。
海女を雇い貝を採らせ、地元蒐集家から珍しい物を買い取り、そして夜までには頼恭の宿へ追いつかねばならなかった。せっかちな頼恭は、それでなくても旅程が厳しい。大名ののんびりした旅路という感じではなかった。
この旅の途中、鎌倉で『浄貞五百介図』という貝の図譜の存在を知った。貝は、本草よりも整理が難儀な代物だった。同類・異種の見分けがとても難しいのだ。もしその本を入手できれば、研究のかなりの手助けになることだろう。だが、現物は既に失われていた。写本なら、大坂に有るかもしれないとのことだった。
大坂。讃岐へ帰国する時に探してみよう。
江戸へ戻り、狭い湯島の部屋で、ルームメイトに「生臭くて叶わん」と文句を言われながら貝の分類をする鳩渓は、京都行きは木村に嵌められたのかもと思った。
一旦研究作業を始めてしまうと、源内が夢中になってのめり込むことを知っていたのだ。本の出版に釣られ再仕官を受ける前の話だったが、この作業に熱中させて、讃岐での図譜作りにも取り込ませようとしたに違いなかった。
春になって目黒の仕事も忙しくなり、帰宅してからは貝の分類が深夜まで及んだ。初夏の参勤交代まで時間があまりなかった。同室の者は鳩渓を罵りながら、隣室に泊めてもらうようになった。
忙しいと、心が踊った。坂道を転がる石のように、停滞することなく動き続ける喜び。今、必死に何かやることがある。それは幸福なことだと感じた。仕官とか禄とか、そういうことじゃないのだ。
雨期が終わると、参勤交代が始まる。
まだ止まぬ雨の中を、国倫は田村家へと最後の顔出しに出かけた。一年で帰って来ることであるし、そう大袈裟でない型通りの別れを済ませた。
笑顔とジョークと雑談の緊張感のない送別で、かえって国倫はほっとしていた。田村一門らしいと言えばらしい。温かくて格式ばっていない。自分はここに席を置いて本当によかったと思った。
帰り際、玄関まで送った純亭が「玄白さんのところへは、もう行かれましたか?」と尋ねた。
「いや。この足で行くつもりじゃ」
玄白とは、夕方でないと話ができない。診療時間が過ぎないと、玄白と会うのは難しいからだ。それほど玄白の診療所は流行っていた。
「たった一年なんですけどね。なんか、あの人、気持ちが入ってしまってて」と、純亭は耳たぶを掻いている。
国倫が怪訝そうに言葉の続きを待つ。
「体の弱い玄白さんは、源内さんが讃岐にいる間に自分が死んだらどうしようって、本気で思っているみたいです」
「ああ〜」と、国倫は破顔した。玄白は、自分が明日にでも死ぬかもしれないという恐怖心を常に抱いている男だった。几帳面で片付け魔なのも、借金をしないのも、そういう思いからだろう。
彼は確かに子供の頃は病弱だったようだが、成人した今は、国倫と出会ってから臥せったことは無い。純亭の記憶でも、最後に大病で寝込んだのは少年の頃だった。
「本気で心配しているので、笑ったら怒られますから」
「そりゃ、笑ったら怒るじゃろ」
そう答えながら、国倫も笑っていたのだが。
杉田宅の隣家である楠本雪渓のところへ寄る用事もあった。既に『物類品隲』の為の画を幾点か依頼しており、完成した画を受け取るのと、国倫が江戸不在の間にも仕事は進めて欲しいのでその指示と。支払いの一部も済ませておきたかった。江戸住まいのうちに増えた本や日用品を売り払い、金を作った。
「暫く江戸を留守にしますけん」
薄い金子の包みを畳の上で滑らせると、雪渓は笑って「知らん顔で受け取っちまってもいいんだが、平賀銭無(ぜにない)から毟っちゃいけねえしな」と、差し戻した。
「なんじゃ、そりゃあ」
銭無と言われて反論のできない国倫ではあった。
「高松藩から、お代はいただいたんでね」
「え・・・」
藩では、絵師の代金まで面倒見てくれるつもりらしい。予想していなかったが、ありがたく受けておこうと思った。
「あっちへ帰って、藩の本を先に作るんだってな。こっちのは、先送りかね」
「いや、しゃんしゃん進めていいけん。今日もわしの下描きを持って来た。讃岐からも書状でお願いすると思う。わしが江戸へ戻る頃、原稿を完成させるつもりじゃ」
「藩の仕事もしながらかい。欲張りなおかただねえ」
雪渓とは、彼が玄白に雑談の折りに腱鞘炎や肩凝りを愚痴り、外科である玄白が国倫に相談したのが縁だった。国倫が蛮椒を素に作る湿布を教えた。彼は長崎で絵の勉強をして来たばかりで、国倫とは共通の知人も多く、話が合った。
「藩の本の絵師は、もうお決まりかい?」
雪渓は、自分の弟子が帰省して小豆島に居ることを告げた。高松からなら近い。
藩の方で候補を決めているかもしれず、国倫の一存では何とも言えないが、雪渓の弟子なら腕は確かだろう。
「杉田さんのところへは、これからかい?まあ、覚悟して行くんだね」
国倫が怪訝な表情で首を傾げると、雪渓は引出しから洗い立ての手拭いを数枚引っ掴んで「餞別だよ。無いと困るぞ」と押しつけた。
「あんたが帰省すると知って、やっこさん最近しめっぽくてね。あんな小さな目玉から、よくもあれほど水が出るもんだよ」
「・・・。」
診療時間を終えた隣の医院、訪れ慣れたその家の戸をそっと開ける。助手の若者が国倫を見て、少し躊躇した後、「杉田先生はお疲れなので」と来客を断った。
いつも優等生の態度を取る玄白は、再仕官のことにも国倫の恋愛にも決して言及しようとはせず、純亭が口を挿むのを咎める場面も多かった。
『でも、悲しいものは悲しいのです』、そんな声が聞こえる気がした。
「一年たったら、必ずここへ戻りよる。一番に玄白さんに会いにくるけん。そうお伝えくだされ」
よく通る国倫の声は、奥の玄白に届いただろうか。襖紙が震えた気がした。玄白の背が震えているような気がした。
国倫は江戸者ではないし、自分がたかだか一年いなくなるのを悲しんでくれる人がいるとは、思ってもいなかった。
まあ、殆どは、純亭の言うように『入っちゃった状態』なのかもしれない。生真面目な分、彼は何でも深刻になりすぎる。そこが愛すべきところでもあり、純亭達の失笑の的にされるのだ。
湯島の寮で一緒だった高松藩の生徒たちにも、一応別れは告げた。
ただ寝に帰るだけの、寒々しい建物。重すぎる門と、ささくれ立った引き戸、早く歩くと軋む床。
それでも、去る時はそれなりの想いが去来した。
もうここへ戻ることは無いのだ。
第22章へつづく
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