★ 私儀、甚だ多用にて ★
第二十二章
★ 1 ★
参勤交代は藩の規模によって同行の人数も決められていたので、安く済ませるには、早い移動等で宿泊費を倹約したり食費を詰めたりするしかない。このことにどこの藩も知恵を絞る。そして、気の短い頼恭は早急に高松へ戻りたがり、高松藩は特に強行軍となる。
早いスピードで移動する集団に遅れぬように、源内は足にマメを作った。昼間は海沿いの村や海岸で貝の収集や整理の仕事に勤め、夜までに藩の宿へと追いつくというハードなスケジュールをこなした。
浜辺の村で一泊すれば楽な行程でも、夕餉の酒の席に源内がいないと頼恭は機嫌が悪くなる。今、博物学が楽しくて仕方ない頼恭は、源内以外にも数人の学者を集い、酒を飲み交わしながら学問の話をするのを好んだ。源内の仕事の進み具合を尋ねるのも、喜びのようだった。
同席の学者達は江戸から戻る者なので、源内の名声は十分承知していた。退役した男を頼恭の希望で再度仕官させたのは驚きだったが、納得もしていた。酒の席で披露される源内の博識や機知に魅了される者も多かった。何より、早朝に海辺へ出かけ、夕方に殿のお相手を勤めてから、深夜まで収集物を整理し研究している姿も目の当たりにしていたのだ。
だが、他の侍・役人達はそうは思っていなかった。
貝収集の作業は国倫も李山も手出しせず、殆どを鳩渓が行っていた。ある日、宿に戻るのが遅くなった。走り戻り、何とか夕餉に間に合いそうだと、ほっとして井戸の水で汗を流していると、そこそこ身分の高そうな藩士が布を差し出した。
「ありがとうございます」と、鳩渓は素直に礼を述べて受け取り、それが手拭いでなく下帯(褌)であることに気付き、体を堅くした。
「ケツで今の地位を得たおんしじゃ。有り難くこれでツラを拭きんしゃい」
潔癖な鳩渓がきっと相手を見据え睨み付ける。
「なんじゃ。やるか?」と男は二本差しに手をかけた。参勤交代の宿内で刃物沙汰の喧嘩などしたら、この男も簡単な処分では済まない。剣を抜くつもりなどあるまい。ただの脅しだ。
「この下帯はあなたのものですか。ご病気をお持ちのようですね。わたしには外科の友人も多い。内密に紹介しましょうか?」
ただのハッタリだったが、図星だったのか、男はかっと顔を赤くすると鳩渓から布をひったくった。悪態をついて行ってしまった。
「やれやれ」と、鳩渓は苦笑した。帰路で国倫が頼恭と閨を共にしたのは一度だけだが、それでももう皆に知れてしまったのだろうか。いや、たぶん、むこうも確信のないただの嫌がらせだろう。下級の者が異例の出世をしたのは、色仕掛けに違いないという思い込みが働いているのだ。むさ苦しい集団の中にいると、自分の容姿は目立つらしい。鈍い鳩渓でも、やっと自分の見栄え(みばえ)について気付き始めたようだった。
風呂で下着を隠されたこともあった。着物と共に風呂敷に包んでおいたのだが、白の晒木綿の下帯は見当たらず、遊女の襦袢のような赤い柄物の布が代りに入っていた。
『絹物ですね。トクしたかも』
宿の風呂には五、六人の者がいて、悪戯をした者がこの中にいるかはわからなかったが、鳩渓が臆せず真紅の花柄を腹に締めるのを、全員が仰天して見ていた。
『鳩渓、おんし、強くなったのう』と、国倫が内で笑った。
「いちいち、こんなことで落ち込んでいられませんから」
『すまんの、わしのせいで』
「この嫌がらせは、出世のせいです。あなたの恋のせいじゃない」
何年たっても、高松藩の古くさい気風は変わらないだろう。一年我慢すればいいことだ。とっとと頼恭の図譜を完成させて、江戸へ戻ろう。
讃岐へ向かう道なのに、鳩渓の心は既に江戸にあった。
大坂からは分乗して船になる。この街で『浄貞五百介図』の写本を借りることができた鳩渓は、徹夜で写し取った。これはそのまま頼恭に渡さず、自分の分をもう一冊手写しする予定だ。門人となり学んだこともある旭山へも挨拶に出向いた。薬品会での出品でも世話になった。礼にうかがわないわけにはいかない。
この時、坪井屋吉衛門という男の噂を聞いた。北堀江の造酒屋のぼんぼんだが、本草学者でもある。鳩渓より若いこの青年が、妙な形式で石や貝の標本を作っているらしい。まだ製作途中のようだが、旭山のところでも名前を聞いた。
『木村蒹葭堂』という別名にピンと来た。江戸でも、俳諧仲間や本草学者の間で時々聞く名だった。甫三が桂川邸でやっているようなことを、大坂でもやっている。文人や学者や絵師のサロンである。
彼が製作中だという貝の標本と石の標本は、頼恭が作りたい図譜とニュアンスが似ている気がした。貝を納める箱は、漆塗りの重箱を製作予定だと言う。「変わった石や貝を収集」と聞いたが、その「変わった」の視点が「美しい物」であった。田村一門の「稀少なもの」「医学の役にたつもの」という考えとは少し違うようだ。
頼恭の図鑑は、一線を画したい。自分が関わる以上、大名の道楽では終わらせたくなかった。
仕事が評価されること、それが唯一、藩士の苛めを緩和する材料となるだろう。
高松に戻っても、多忙であると思われた。帰国したらすぐに図譜の準備にかかるよう言われていた。小豆島へ飛んで、雪渓の弟子・三木文柳という絵師にも会わねばならない。領内の採薬行の頭取役を勤めることも決まっていた。
忙しく立ち回っていれば、きっと、厭な事は気にしないで済む。鳩渓は自分にそう言い聞かせた。
同僚や先輩の嫉妬や僻みは、自分が優秀である証だと思うことにしよう。妬みは恥ずべき心情であり、彼らは卑しき者達である。
繊細で傷つきやすい鳩渓は、心にバリアを張る。
それが、傍目には傲慢で高飛車な物言いに聞こえ、他の者を見下す態度に見えることに、まだ子供の残る鳩渓は気づかない。
きりきりときつく締め過ぎた琴の弦が、軽い衝撃でびしりと切れるように。軋みはもう始まっていたのかもしれない。
★ 2 ★
高松へ戻ると、源内は部屋を与えられ、薬坊主格という役職も与えられた。切米銀十枚四人扶持という給料は、以前から考えると破格の出世だった。
藩内は、数日の間、居残った役人と江戸帰りの役人との申し渡しで慌ただしい。頑丈そうな頼恭も旅の疲れが出たのか、軽い夏風邪で臥せっていた。
図譜の製作は殆ど全権を任されたが、何をするにも許可だけは得る必要があった。木村季明が一番多忙であるらしく、全く掴まらない。
鳩渓は珍しく先へ進むのを諦め、数日は懐かしい讃岐の空気を楽しむことにした。だが、部屋でゆっくり過ごす気にはなれず、結局は城内の薬園を見回る為に草履を引っかけた。草木と居た方が落ち着く。日差しを避ける為に、髷に手拭いを被った。かつての仕事の進み具合を見てみたい気持ちもあった。
玉藻城(高松城)は海に面しており、高台にある分さらに日差しもきつい。薬園に着くまでに、汗で着物が背に張り付いた。腕をまくって肩をあらわにすると、紐で襷掛けをした。
薬園は、両に整然と草木が植え分けられ、きちんと置き石の道ができていた。まるで道楽趣味の庭園のようだ。頼恭が頻繁に見学に来るのだろう。
甘蔗は一番日当たりのいい場所にあるに違いない。場所の見当はついた。被った手拭いの裾で額の汗をぬぐい、上へ進んで行く。
江戸の暑さはもっと湿気が多く、こんなにからりと気持ちよくなかった。草の息吹を感じながら、肩がじりじり焼ける感覚を楽しんだ。
時々目の前を通る風に、潮の香りが混じる。
鳩渓は、讃岐の海も風も木も好きだった。知らず、笑みが浮かんだ。
長身の鳩渓の頭をも隠す高い茎が、目を細めるほど遠くまで敷地を覆っていた。「成功の苗」は、鳩渓が居た頃の三倍にも増えているように見えた。豊かな葉がさわさわと揺れていた。
鳩渓は屈んで数本の幹に触れてみる。まだ季節が早いので華奢ではあるが、冬にはいい収穫が望めるだろう。
「誰だ?よその藩の間諜か?」
聞き覚えのある声に振り返る。鳩渓は静かに手拭いを外し、「お久しぶりです」と軽く黙礼をした。
「平賀さん・・・」
池田玄丈は、少し肥え、歳を経たのと陽に焼けたのとで男っぽい外見になっていた。弱々しさは消えて、もう責任と自信に満ちた大人の顔だった。
「藩にお戻りになったとの噂は聞きましたが。本当だったのですね」
見開いた丸い瞳に面影があった。懐かしい、幼さの残るしぐさだ。
「お恥ずかしいです」
「いいえ、いいえ。あなたがもう一度、藩の為に仕事をする気持ちになってくださったなんて、嬉しいことです。高松藩のどれだけの利益になることでしょう」
「さあ。今回は、殿の道楽の為に戻りました。藩にそう役に立つとも思えません。わたしは、私利でこの仕事を受けただけです」
率直に、そして真実を述べる。「はぁ」と、玄丈は眉を下げた。藩に破格の条件で復帰して、普通はこんな否定的なことは言わないだろう。相変わらずだと、困ったような顔で笑った。
「だいぶ甘蔗も育ちましたね。これなら、かなりの砂糖が採れているでしょう?」
玄丈は頷く。だが、今度は笑顔は無い。
「精製に問題があるのか、白い砂糖はまだできません。それに・・・この苗は、平賀さんが密輸入して植えたのが増えただけです。これだけ増えていることは上層部にも内緒なのです」
「成功していることを、報告していないのですか?」
「どう告げていいかわからなくて」と、玄丈は顔を覆う。
「それに、うちがこれだけの量の砂糖を輸出し出せば、薩摩だって妙に思うでしょう」
「・・・。」
なんと馬鹿正直な男であることか。鳩渓の唇は笑みの形になった。彼は実に良い同僚であったと思う。
『薩摩藩の者の命を助け、その礼に苗を貰ったとでも言えばいいだろう』
李山がすらすらと嘘の筋書きを述べる。
『そうじゃよ。お遍路周り中の薩摩藩士が倒れていたとでも言い訳しときんしゃい』
国倫も面白がって適当な事を言う。鳩渓は二人の調子の良さに呆れつつも、困っている玄丈が気の毒で、その案を教えた。あまり使って欲しくは無いと思いつつ。
「うわ。さすが平賀さんですね」
嫌味でなく本気で賞賛しているようだ。鳩渓はますます気が滅入った。
「お殿様の図譜製作、頑張ってくださいね」
少年のような爽やかさで、三十になろうかという玄丈が元同僚を励ました。自分は江戸へ出てだいぶ擦れたのかもしれない。玄丈の瞳に映る讃岐の空は澄んでいる。鳩渓は足元に視線を落とすと、苦笑して草履の爪先でとんとんと土を叩いた。
いい図譜を作ろう。
褒美や自分の名声の為でなく、藩の名が上がるような。
『高松藩は素晴らしい図譜を持っているらしいよ』『どれ、うちの藩も真似して作ろうか』、そんな風に博物学の気風が日本中に広まるような、質の高いものを作ろうと鳩渓は拳を握った。
★ 3 ★
結局、絵師の選択だけでなく、図譜に掲載する物品の選択さえも源内が任された。形態も自由、冊子数も自由、紙質も絵具も好きにしていいとのことだった。
信頼されているのか、やはりただの殿様の道楽なのか。鳩渓はため息をつく。
この制約の無さでは、単に恋人に仕事を与える為に仕事を作ったと思われても、仕方がない。ますます、きちんとしたものを作らねばと力こぶする鳩渓だ。
絵師は予定通り三木文柳に決めた。鳩渓自ら小豆島で文柳に会い、作品を見せてもらった。即決だった。江戸で雪渓に書いて貰った紹介状を渡し、玉藻城に住み込んで描いて貰うことにした。
文柳へ会いに出かけた帰り、舟に戻る途中の浜辺で、漁師の網にかかった大きな骨に遭遇する。
日焼けした漁師たちが、「なんちゅうもんや」「網がからむけん」と、文句を言いながら網から丁寧に外していた。
骨と言ってもそれはもう化石になり、艶があって表面も滑らかだ。頭蓋骨の一部だろうか、くるりとした丸みもある。海水に濡れて銀色に輝いていた。
「珍しいものが捕れましたね」と、鳩渓は覗き込む。
それは、以前師の田村が薬品会に出品した『スランカステン』に似ていた。解毒作用のある石だった。
田村は長崎で入手したそうだ。元々は印度産の化石の筈だ。しかし、日本に同じ生き物がいた可能性だってある。印度の海からここまで流れて埋まった可能性だってあるのだ。
漁師は取り出したそれを、「竜の骨に似ちょる。気味が悪いで」と砂の上へ放り投げた。
"似てる"って・・・。この漁師、竜を見たわけでもあるまいし。
「これ、わたしに売ってくれませんか?ちょっと調べてみたいので」
「おんし、学者さんかね。酒の一合分ぐらいはくれるんかね」
金でなく酒を単位にする漁師に鳩渓は笑った。
「いいでしょう」
スランカステンである確信は無かった。江戸へ帰る時に持ち帰って、田村に見て貰おうと思った。
小豆島で見つけたこの化石が、鳩渓に一冊の洋書をもたらすことになる。思えばその本を手に入れたことが、修羅の始まりだったのかもしれない。
頼恭が出した条件はたった一つだった。
『美しい図譜を作れ』。
頼恭が求めるものは理解できた。貝のコレクションと『浄貞五百介図』の写本はたいそう喜ばれた。博物学としての質の高さより、美術品としても楽しい、見栄えのいいものを欲しがっているように思えた。
博物学を究めたい鳩渓には、心から楽しい仕事とは言い難かったが。
だが、資金も人材も使い、思うままに作ることができる喜びは、鳩渓も国倫も李山も感じていた。
図譜に並べる物品は、当然美しい物でなくてはならない。
図譜は、花(植物)、魚、鳥の三種に分類することにした。
花はいい。どれも美しい。魚と鳥は何か案を考えねばならないだろう。紅鯛やインコなど、紹介するのは美しいものに限定されるかもしれない。又は、どの鳥どの魚も美麗に見える工夫が必要だった。
資料は豊富だった。頼恭は未整理の本草のコレクションを多量に持っていた。当然、これらを中心に編纂することになる。各地の図譜もだいぶ買い集めていたし、必要ならば『本物』の魚や草木も購入できるものは用意してもらえる約束だった。鳩渓が準備した下書きも質の高いものだ。『物類品隲』の雪渓の画さえも有った。
だが、このままでは、『物類品隲』とそう変化無い内容になってしまうだろう。
『物類品隲』。鳩渓は、多く刷ってたくさんに学者の手に渡って欲しいと思っていたし、多くの学者が有益に使用できる、実用的な物を想定していた。
では、頼恭の図譜は?
「肉筆で、一点物の図譜ではいけませんか?」
木村に声かける鳩渓の響きは、質問ではなく許しを請うものだった。
掛け軸の鳥や花のような図鑑。たぶんそれが、藩主である頼恭が喜ぶものだろう。肉筆であればフルカラーが可能であるが、版画ではせいぜい二色三色。いくら文柳が達者でも、美しさにも限界がある。
『物類品隲』は説明文を多くし、日本での名前だけでなく阿蘭陀名・唐名、特徴や薬用効果なども載せる予定だった。反対に、頼恭の図譜は文を無くして画集のようにしようと思った。
「うん。殿には報告しておく。たぶん、その方が喜ばれるだろう」と、木村もゴーサインを出した。
鳩渓はにっこりと微笑む。だんだん、楽しくなってくる。文柳の力量なら、鱗の一つ一つの違い、羽の色の微妙な違いも筆がきちんと表現するだろう。
鳩渓は、毎日、文柳の仕事場にほぼ付きっ切りで、その鱗の色味の詳細、羽一枚の色合いに指示を出してダメ出しもした。
「細かいお方やのう。そんなんお言いなら、ご自分でお描きんしゃい〜」
文柳は雪渓と同じ世代、鳩渓より一回りも年配なのだが、鳩渓が厳しい口調で告げる注文にも苦笑しつつ応じた。
「無茶お言いや」と口を尖らせても、「できない」と言うことは無かった。彼は相当の負けず嫌いのようだった。
文柳の仕事ぶりは美しい図譜になることを確信させた。
それでも、鳩渓の中にはまだ漠然とした物足りなさが残っていた。
ただ美しい画集のような図鑑を残すだけなら、他の博物学者にもできる。一点ものである特色をもっと生かせないものか。
大坂の蒹葭堂とは目指す方向が違う。だが、美しくなくてはならない。
鳩渓は考えに浸りながら、自室で貝の整理の続きをしていた。頼恭への仕事は終わったが、収穫の時はきちんと検証する時間もないので、かなり余分に持って来た。提出分や資料としては重複分は不要なのだが、珍しい物も多く残っている。時間を見て、それの分類を続けていた。既に六笊の貝を分け終えていた。
まずは形で分け、その後に色で分類する。色が違っても同じ種であることも多く、難儀な仕事だ。下働きに任せられないのが悩みだった。
桃色の珊瑚片は美しいが、もう幾つもあるので不要。だが細工物の材料として売れる。・・・右から二番目の箱。
屑貝でも、貝殻の成分は肥料になるので砕いて土に混ぜる。・・・一番左の大きな箱。いや待て、今のはクロヒメガキだが「黒く」なくて貴重かもしれない。あれ、どこへ埋もれてしまったのだろう。大きな箱の屑貝の中を漁る。・・・こんなことをやっているのでなかなか作業も進まなくて、焦燥感だけがつのった。
襖が開き人が入って来ても、夢中で作業をしている鳩渓は気付かない。『やれやれ』と訪問者が深い溜息をついてみても、振り向きもしない。
作務衣の腕が、ゆっくり鳩渓の腰に回った。そこで初めて「えっ?」と後ろを見た。
「やっと気付いてくれたか。冷たい男だ」
頼恭が後ろから抱きしめ、首筋に唇を付けた。驚いた鳩渓は、抱えた貝の箱を取り落とした。
「あーーーーっ!」
中身の半分は、落ちる際に畳に並んだ他の箱にぶちまかれた。まだ全部が床に落ちた方がマシだった。
「・・・。せっかく分けたのに」
鳩渓は頼恭の手を乱暴に振り払う。恨みがましい目で藩主を睨んだ。
城内を歩いても目立たないよう作務衣姿でいるってことは、きっと邪な考えでこの部屋へ来たのだ。人が仕事してるって時に。
国倫は舵を譲って欲しそうだったが、知らん顔した。図譜製作の作業中は鳩渓が指揮を摂る約束になっている。
「拾うの、手伝ってくださいよっ!」
『おいおい』と、李山までが呆れて眉を下げていた。鳩渓は、殿様に、畳に落ちた貝を拾えと怒っているのだ。
「・・・。わかった」
叱られた頼恭は、素直に畳にしゃがみこむ。肩が動いて、再び大きな溜息をついたのが知れた。
鳩渓も隣に並んで、屑貝を拾い始める。小さいものは、摘むよりも人差し指の先に貼り付けると効率がいい。頼恭もそれを見て真似た。
鳩渓は黙々と拾い続ける。腹を立てているのは、頼恭にではないのだろう。触れられて反応している自分の体に対してなのか、原因を作った国倫に対してなのか。
「国倫。仕事熱心なのはいいが、あまり根を詰めるな。体に障るぞ」
「・・・。わたしの勤めは、いい図譜を作ることですから」
国倫の名で呼ばれることにさえ苛ついた。晩に国倫が頼恭の酒に付き合うだけで、下戸の鳩渓は翌朝頭が重かった。抱かれた翌日の寝不足とけだるさも鳩渓が引き受けるのだ。自分だけ損をしている気がした。
「わたしは本草学者です。遊女ではありません。昼間、わたしに触れるのはお控えくださいませんか」
言ってから、言いすぎたと思った。当然内では国倫と李山の叱る声も聞こえた。でも、言わずに居られなかったのだ。
頼恭は怒っただろう。打たれるかもしれない。打たれてもよかった。痛みで涙を零してしまいたかった。
「藩士の苛めは酷いのか」と、頼恭はそれだけ言った。予想していない言葉だった。
「え・・・。あ、いえ、その・・・」
鳩渓は口籠もる。草履を隠されたり、味噌汁に石が入っていたりは茶飯事だった。うんざりはするが、もう慣れてしまった。それより、頼恭が知っていたことに驚いた。
「木村はあれで、目敏い男なんでな。・・・すまんな」
自分の藩の閉鎖的な空気を謝罪しているのだろうか。それとも二人の関係をだろうか。後者なら、もう国倫に触れねばよいものを。
鳩渓は押し黙ったまま、数枚の薄い貝を指で動かすともなく動かしていた。手遊びのように並べた。小粒のクロツケガイでまなこの形を作ると、下に淡いブルーグレイの二枚貝を置いた。涙の粒が落ちるように、ひとつ、ふたつと置いた。
「国倫・・・」
哀れみと優しさがこもる暖かい声だった。呼ばれたのが、自分の名前でないことが少し悔しかった。
「わたしは殿に感謝していますよ。頼恭様はいい藩主です」
随分と意地悪を言ったのに、怒りもせずに、鳩渓の哀しみを(頼恭にとっては、国倫の、だが)黙って受け取ろうとしている。大抵のわがままが叶う地位にいるくせに、国倫の為にしょげたり落ち込んだり、時には得意になったり。国倫はどれだけこの男に愛されていることか。
クロツケガイの輪をカシャカシャと崩し、今度は桜貝を隙間無く並べて行った。
小粒で大きさ揃ったものを一列二列。思い立って魚の形にしてみた。
「・・・!!」
鳩渓の腕に鳥肌が立った。それはまるで鯛に見えた。薄紅色の貝が鱗のようだった。
「これだ!」と声に出た。頼恭が怪訝そうに顔を覗き込む。
鳩渓の頬はもう興奮で染まっていた。
「立体的で、標本のような図譜。誰もまだやっていません。図譜に質感を盛り込めれば、更に現物を確認しやすくなります」
「しかし、魚は腐るし、草木は萎れるぞ?」
「標本ではありません。本物は使いません。
紙や布を重ねたり、貝殻や雲母や糸を貼ったりするんですよ。
種によって丸い魚、平たい魚もいます。絵だけでは厚みは伝わりません。葉の堅い草、柔らかい草。花びらが肉厚の花、薄い花。一目でわかります」
鳩渓は満面の笑顔になって夢中で話しながら、頼恭の腕を取ってぶんぶんと振った。新しい遊びを考えついた童子のようだった。
頼恭は苦笑する。十二万石の藩主も形無しだ。
「ええと、あの・・・。そういう風に作ってもいいですか?」
鳩渓は、やっと、頼恭の反応を顧みようと手を止めた。
三度目の、そして一番深い溜息をついて、頼恭は「承諾する」と伝えた。
「ありがとうございます!」
この男が愛らしくて、頼恭は抱きしめる為に腕を伸ばすが、思い停まった。『昼間はわたしに触れないでください』だなど、まるで怪談の女房のようだ。その頼みの方は承諾するつもりはないけれど、せっかく明るさを取り戻したのだ、今はまた怒らせることもあるまい。
「さ、貝を拾う続きをしましょう」
鳩渓は、嬉々としてしゃがんで、畳の貝殻を拾い始めた。
「・・・。」
機嫌の直った本草学者は、まだ殿様に貝拾いをさせるつもりらしい。
第23章へつづく
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