★ 私儀、甚だ多用にて ★

第二十三章

★ 1 ★

 高松藩博物図譜作成は、鳩渓が何人いても足りないような大仕事だった。図譜を立体化するというアイデアのせいで、画工だけでなく、小間物職人も必要としたし、それらの作業の指示や確認は膨大な仕事だ。
 鳩渓は、自分を頂点としたプロジェクトチームを作り上げた。画工も職人も、讃岐では足りず、大坂からも何人も雇った。藩内の本草学者も傘下に置き、本草学者部・画工部・職人部とグループ分けし、それぞれに責任者を設けた。もちろん画工のリーダーは文柳だ。そのグループの中も魚・鳥・植物と分けてそれぞれにも班長を作り、仕事を分担させた。
 図譜を立体的にするだけでなく本物に近くする為に、鳩渓は様々なアイデアを惜しみなく出した。画工達の作品を輪郭通りに切り取って別紙に貼り付けるのだが、厚みを似せるように中に何枚か紙を入れたり、別の色の紙を入れて透ける効果を出したり、元になる絵も薄紙に描かせたりした。
 特に魚は、鱗に貝殻や雲母など光沢のある素材をふんだんに取り入れた。最初の頃は、どこに何を使うかというのは鳩渓が指示したが、慣れると文柳でも指定できるようになった。
 リーダーが判断できないことや、新しい取り組みの時だけ、鳩渓がアドバイスすればよい。このシステムが軌道に乗り、やっと鳩渓は一息つくことができた。

 気付くともう木々の葉は落ち、冬になっていた。薬園では甘蔗も収穫されて、城内も年末準備の色が濃い。
 木村に「正月には帰省するのか?」と尋ねられ、鳩渓は「はあ。さあ」と曖昧な返事をする。讃岐に帰ってからも、まだ家に顔を出していなかった。多忙を理由にしていたが、大人の女になった里与や、里与の産んだ子供達に会うのが怖かったのだ。
 実家にも桃源達友人にも、源内が藩に復帰したことや高松に戻っていることは、手紙で知らせてある。志度に顔出ししないことを、里与夫婦は多忙や遠慮くらいに思っているにしても、桃源はそうでないかもしれない。別れ際の情事を気にしているかもしれなかった。
 やはり、一度は帰省せねばなるまい。
 どうせ、図譜のスタッフにも年末年始には休みを与える。仕事は進まない。鳩渓一人が城に残っても仕方ないのだ。

 皆が城を退いたのを機に、鳩渓も志度へ戻ることにした。大坂で買っておいた京の酒や髪飾りの土産を纏め、頼恭と木村へ挨拶してから部屋に戻ると、部屋に酒の匂いが充満していた。
 酒を入れた陶器が割れて、畳に染みを作っていた。慌てて簪を確認する。透かし模様の鼈甲細工が無残に割れていた。
「・・・。」
 子供じみた、くだらない嫌がらせだ。相手にして腹を立てるのも馬鹿らしい。だが、家族宛の土産を台無しにするなど、人としても最低だと鳩渓は唇を噛んだ。

 源内は元々歩くのが早い男だが、怒っている時の鳩渓の足取りは馬並だった。昼過ぎには志度へ着いてしまった。
 もうひと呼吸整える距離で、平賀家の門が見えるだろう。道を外れて海を見て気持ちを鎮めてから行こうか、家に入る時には李山か国倫に代わってもらおうかなどと考えていた。
「おじちゃん、止めとって!」
 緩い坂をコロコロと赤い手鞠が転がって来た。鳩渓は草鞋の足を出すと、鞠を声の方へ蹴り返した。
「すみゃせんでー」と、あどけない声で礼を述べる童女。まだ走る足取りもおぼつかない。鞠を追ってきたせいか、ぱさぱさと髪が扇形に広がる。利発できかんそうな切れ長の目は、里与が幼女の頃にそっくりだ。
 鳩渓の心に、暖かい想いが、水が染みるように広がっていった。
 なんだ、大丈夫だ。
 心配していた、ナーバスな感情は沸いてこなかった。
「おかあか、ばばは家にいますか?源内が来たと言ってくれませんか」
 用事を言いつかった姪っ子は、重大な任務を果たそうと唇をきゅっと結び、強く頷いた。そして、鞠を抱きしめたまま、素早く門の中へ飛び込んで行った。
 酒浸しにされた荷物の中には、京の鞠もあった。再び、荷物を駄目にされたことを口惜しく思った。

「兄上!」
「義兄上!」
 転がるように玄関に飛び出して来た里与と権太夫夫婦は、それでもまだまだ若く、少女と少年の面影を残していた。里与はさらにひょろりと背が伸びて、夫と身長が変わらない。背には赤子を負うが、まるで妹の子守でもしているように見えた。目を見開いても、まだ細い目だ。自分の少年の頃の顔だと、可笑しくなった。権太夫も張りのある頬がまだふっくらとしていて、若い。考えてみれば、二人とも、自分が頼恭に出会った頃の年齢なのだ。押しつけてしまった物の重さを、ずしりと感じた。
「お忙しいのはわかるが、やっとお帰りになられたんやか。首を長くしちょりました」
「桃源さんも文江さんも、義兄上が正月には帰るかとそわそわしとりました。今、遣いを出しましたけん」
 この家はもう権太夫達のものだ。だが家を捨てた源内が訪れても、暖かく迎えてくれるのはありがたかった。もっと早く顔を出せばよかった。
 いや、こんな風に、心が揺れる事なく里与を見られるとは、思ってもいなかったのだ。
『そうかね?わしは、わかっとったぞ。何となく、そんな気がしとった』
 国倫が、あまり愉快そうな風でなく呟いた。鳩渓はその口調に引っ掛かりを感じたものの、妹夫婦や母に引っ張られるように座敷に上がり、酒を出されすぐに国倫と交代したせわしなさの中、深く考える余裕もなかった。
 国倫の方も、久々に会った桃源との間に重しがあっただろうが、桃源と文江の狂喜乱舞の抱擁の歓待に、吹き飛んでしまったようだった。
「志度に帰る時は、錦を飾ってと思っとったが。恥ずかしい事じゃ」
「何を言うか。江戸での活躍は讃岐にも届いとるで。しかも、博物好きなお殿様の、一番のお気に入りだそうじゃの。わしらも鼻が高いやわ」
 平賀家は、源内が居た時より、裕福になっていた。もともと農家としては貧乏な家ではないが、源内がこの地を去る前に興した焼物事業が成功していたのだ。武家である平賀の家がおおっぴらに商売をするのは見栄えが悪いので、庭の敷地を陶工に貸す形で大きな収入を得ていた。最初に源内が指示したデザインは、世界地図やオランダ語のアベシ(ABC)などの西洋風だったが、それとは別に唐風のものも焼くようになり、そちらの方が売れているのだそうだ。販売ルートには桃源も一役買い、大坂で取引されていた。
「わしが居んようになってからの方が、この家はいいようじゃの」
 皮肉っぽく笑う国倫に、「そげんことあるか」と桃源が大袈裟に怒ってみせた。
「江戸で著名な学者、平賀源内殿の実家であること。その誇りで、母上様も妹御達も頑張って来たんじゃけん。必死に家を守って来たんじゃよ」
 桃源の言葉は悪い気はしないが、複雑な気持ちだった。自分は江戸でそれほどのことはやっていない。まだまだだという想いの方が強かった。薬品会も、さらに大規模にして、薬だけでない珍しい物産の展示会に発展させたかった。執筆中の『物類品隲』も、高松藩の図譜の為に途中になっていた。田村先生のところの唐人参作りも、成功しているのに知名度が低い。広く知って貰わなければ、皆は無理して輸入物の高価な人参の方を買ってしまうのだ。
 やりっ放しの、中途半端。自分の仕事は、何一つ完成していなかった。

 四馬の車に乗らずんば故郷に帰らじとは、英雄の魂。
 暫く下手医者の下にかがみ、針たて坊主と伍をなして、郷に帰りたるは、是か非か。

 国倫が秋の高松帰省の時に詠んだ句に添えられた短文の一部だ。鳩渓には、国倫がそう野心家には思えないので、こんな皮肉っぽい言い回しが不思議だった。
『古郷へもいまだ木綿の袷かな』
 錦を飾れず、いまだに木綿を身にまとっていると言って恥じるのだ。
 ナイーブな国倫の照れ、とも感じられた。まあ鳩渓も、あれだけ悲愴な決意で藩を辞して故郷を出た経緯を考えると、のこのこ讃岐へ帰って実家で飯をくらっている場合じゃないとは思うのだ。
『国倫さん。三が日が過ぎたら、とっとと城へ帰って仕事の続きをしましょう』
 李山も、そして国倫も、同じ想いであった。

★ 2 ★

 実家での数日間は、城内で緊張を強いられて暮らしていた事を鳩渓に気付かせた。短い間だったが、安心して食事をして睡眠も取れた。とにかく、食事に小石が混じっていないのはありがたいと思った。
 城に戻るや否や、現実に引き戻された。

 文柳が怪我の為に寝込んでいた。
 まだ城内は人手が薄い状態だった。医師も少なく、鳩渓も治療を手伝った。
 一日前に小豆島から帰った文柳だが、港から城に戻る路で暴漢に襲われたと言う。二人に棍棒のような物で殴られたのだ。右腕をかばって額を切り、背中には打撲傷を負った。
 手持ちの路銀も奪われたが、たいした金額ではなかったそうだ。身なりも質素な画工である。物取りが目的とは思えなかった。相手は漁師崩れか人足のような成りだったそうだ。
「・・・すみません」
「平賀先生が謝ることじゃないけん。
 幸い、腕は無事じゃ。わしは負けんでて」
 文柳も、ただの物取りでなく、図譜制作への嫌がらせだというのは察しているようだった。『降りる』と言われても仕方ないと諦めていたが、負けず嫌いの文柳は、この仕事から引くことはなかった。

 消沈して部屋に戻る。襖を開けると、部屋が荒らされ、本草の資料が破り散らかされていた。畳の上に、白い椿が落ちたように、丸められた紙が点在していた。
 図譜の完成したものや貴重な本草資料は、木村に預けてある。ここにあるのはたいしたものではないが、それでもいい気分ではなかった。
 木村に相談しても、証拠も無いことであるし、どうにもできないと言われた。そして、文柳が襲われたことで、数名の画工と職人が辞めた。

 陽も照らぬ寒い日の夕暮れ、鳩渓は一人部屋で膝を抱えて煙管をふかした。正月に桃源から貰った一包みの阿片は医療用だったが、今は刻み煙草に混ぜられ、鳩渓の哀しみを癒す。障子を開け放した冬の空へ、一筋の紫煙が立ち昇って行く。
 文柳は、額の傷の痛みが消えると即座にまた作業へと戻った。他の者も、身の危険を感じながら仕事をしているのだろう。
 このまま図譜を作り続ける事に、何か意味があるのだろうか。
 正直言って、この図譜に学術的な意義は薄い。本草学者にとって目新しい物は無く、ただ美しい鑑賞用の・・・大名の道楽の為の物だ。これは、平賀源内がやる仕事なのか?画工や職人の身を危険に曝してまで?
 自分が降りれば、職人達が襲われることはないだろうと思う。疎まれているのは源内なのだから。
 だがここで止めたら、嫌がらせに屈した事になる。

 いきなり、部屋の襖が開いた。三人。藩士の身なりだが、目から下を黒い布で覆って顔を隠していた。只事では無い。危険を感じた鳩渓は立ち上がり、逃げようと窓へ駆け寄った。一人が素早く障子を締めて鳩渓を突き飛ばした。
「な・・・」
 一人が手拭いらしき布を鳩渓の顔に掛けて口を押さえつけた。
「江戸へ居な」
 彼らが初めて言葉を発した。
 鳩渓は、布ごと男の手に噛みついた。小さな叫びと共に手は退けられたが、すぐに何か堅い物で顔を殴られ、痛みで口が効けなくなった。唇に血を感じた。顎か頬が切れて流血しているのだ。左右の腕が抑えられた。左手が不自然な方法に曲げられ、悲鳴を挙げそうになった所に口に布を押し込められた。
「とっとと江戸へ居な」
 刀が鞘ごと振り降ろされ、腹を打った。鞘は更に脛を打った。
 目の端に閃光が走り、一人が刀を抜いたのがわかった。殺されると思った瞬間、布を裂く音がした。着物を斬られたようだった。
「この体で頼恭様をたぶらかしたきに」
 脇腹を蹴られて体を横転させられた際、左腕に激痛が走った。折れているかもしれない。その痛みで他の部分の痛みには鈍感になった。
 斬られた布は袴の紐だった。自分を犯してなぶり者にする気かもしれない。
『舵を離せ!こいつらは脅迫しに来ただけ。命までは取らん。気絶してしまえば楽になれる』
 李山の声が聞こえた。国倫は阿片酔いで蹲っていた。
『このまま凌辱されるくらいなら、舌を噛みます!』
『バカヤロウ、俺達にはまだやるべきことがあるだろうっ!』
 李山に腕を掴まれ、鳩渓は舵を手放した。意識が暗転し、そのまま気を失った。

「平賀」と小さく呼ぶ声と、左腕の痛みを意識した。
 左頬が吊るのは、血が乾いて張り付いているせいだ。
 声は、忍んだ様子で耳元で囁かれる。生きているのかどうかわからず、恐々と呼びかけているといった調子だった。
鳩渓はゆっくりと目をあける。木村の顔が見えた。両方、きちんと瞼が開く。目に痛みは無い。目を潰されてはいないようだ。
「木村さま・・・」
 喋ると脇腹が痛み、顔が歪んだ。だが喉に血が逆流することもなく、五臓六腑は無事に思えた。静かに息を吸って、吐き出してみる。血の味はしない。
 李山が言った通り、確かに命に別状はなさそうだ。体を蹂躪された感覚も無い。気を失った者を弄んでも、脅迫としては効果が無いからだろうか。李山の判断は的確だ。
「頼恭様のご用で呼びに来たところだ。今、医者を呼んで来てやる」
 木村の顔色は蒼白だった。正視するのが辛いほど、自分は酷い様子なのだろう。
「お待ちを」
 木村は羽織を着ていなかった。自分の腰から膝にかけられているのが、彼の羽織だと思われた。袴も下帯も解かれていたのだろう。着物と襦袢も斬られていた。鳩渓は悔しさに涙ぐんだが、泣いてはいけないと自戒した。泣けば脇腹は痛むはずだ。
「重傷は左腕と顎だけです。自分で治療しますので、言う物を藩医から貰ってください。晒を、一握りの短い物と、二尺程の長い物の二種類。添え木。あと、何でもいいので血止めの薬草を」
「し、しかし」
「この姿を、誰かに見せたくはありません」
「・・・。わかった」
 木村は静かに出て行った。
 体を起こすのが恐くて、鳩渓はそのままで天井の梁を見つめ続けた。木目の濃淡と不規則な楕円が鳩渓を狂気へと誘いかけた。魔の節目へ迷い込みそうな気がした。
『代われ、鳩渓。おまえには無理だ』
 李山が、舵を握って堅くなった指を、一本ずつほどきにかかった。鳩渓は抵抗しなかった。もうそんな気力は残っていなかった。
 阿片から醒めた国倫は、まだ膝を抱えて座っていた。鳩渓は、そっと、隣に腰を降ろす。
 国倫の唇は動かなかったが、『すまん』と言っているのがわかった。
『もう、こげなとこは御免じゃ。江戸に帰るけん』
『図譜は?頼恭様のことは?』
 驚きに目を見開いて尋ねると、国倫は頭を腕で覆って激しく振った。
『わしらは、帰って来るべきやなかった。
 もう藩勤めも讃岐もこりごりじゃ。
 ここは、わしらの場所や無い』

 ぱたぱたと小走りの足音が聞こえ、李山は深くため息をついた。木村の物ではない。そして、その足音には聞き覚えがあった。
「平賀さん、平賀さん、平賀さんっ!」
 殆ど泣きそうな声で、玄丈が薬箱を抱えて飛び込んで来た。
 木村が告げたわけではないのだと思う。動揺した木村の様子と、欲しいと言った物と、先日の文柳の怪我のことと。玄丈ならすぐに気付いてしまうだろう。仕方ない。
 後から追いついた木村が、「すまん」と頭を下げた。
「平賀さん、まず顎の怪我を治療をします。エンジュとオトギリソウと両方持って来ました」
 玄丈はせわしなく報告し、指示を仰ぐ。李山は、かつて彼を疎ましく思ったことを、まるで懐かしい事のように感傷的に思い出していた。
「オトギリソウは毒素も強い。エンジュの方がいい」
「はい、わかりました」
 玄丈は濡れた布で李山の頬の周りを拭いた。水で溶けた血が、再び生臭く匂った。小さな晒布を液に漬け込み、顎にぺたりと貼り付ける。粉末の槐花か槐角を水に解いた物だろう。布が触れると傷はまたずきずきと痛みを増した。
 次に左腕に触れて、肘の下に添え木を敷いた。
「折れてはいないようです。筋を痛めただけだと思います」
「そうか。不幸中の幸いだな」と、李山は自嘲気味に言った。
「今、布団を敷きますね。・・・寒いでしょう。窓も締めましょう」
 見ると、障子が開いていた。
「木村殿が開けたのか?」
 暴漢達は真っ先に障子を締めた。
「いや。そいつらは窓から逃げたのだろう。私は誰ともすれ違っていない。足跡が残っているはずだ、調べさせよう」
「・・・無かったことにしてくれないか」
「平賀?」
「俺が藩を去ればいいことだ。公にされたくない」
「しかし!」
「俺がいなくても、図譜はきちんと出来上がる。やり方は指導してある。後は俺でなくても大丈夫だ。
 もっと早く決めるべきだった。文柳殿が怪我をする前に」
「このまま泣き寝入りするつもりなのか。こんなに・・・酷い目に遭って」
「調べれば、実行犯は掴まえられるかもしれん。だが、そいつらはトカゲの尾だろう。
 脅されて江戸へ逃げ帰るわけではない。つまらん意地を張っても仕方ない。
 この藩は、俺が才能を揮えるほど大人じゃない、それだけだ」
「・・・。」
 木村は絶句した。『こちらで藩には見切りをつけた』と、李山は言っているのだ。
「・・・。すまぬ」
 木村はうつむいて詫びた。恥じたのかもしれない。
「だが・・・頼恭様のことはどうするのだ?今度も、何も言わずに行ってしまうのか?あの時の頼恭様の嘆きをおまえは」
「俺はもう、青年ですらない。潮時だろう?」
 李山だけが、冷静に先を見据えていた。国倫はいつまでもぬくぬくと頼恭の腕の中に居る歳ではないし、頼恭ももう飛び立たせてやらねばならないはずだ。愛しているからと言って、いつまでもだらだらと甘えた恋愛を続けていいものでもない。
 何より、一国の藩主が下級藩士を寵愛していては、藩の軋轢を産むのだ。このままでは頼恭の為にもならないだろう。
「平賀、しかし、頼恭様は」
 木村が李山に詰め寄ろうとするのを、玄丈が遮った。
「怪我人です、少し休ませてあげてください。話は、もう少し回復してからに。
 布団へ運ぶのを手伝って下さい」
「布団に移るくらいなら、歩けるぞ」
 立ち上がろうとした李山は、脛も打たれたことを思い知らされた。
「くそ。玄丈、後で湿布も頼む」
 右手だけで、木村が掛けてくれた羽織を腰に巻いた。着物の裾は乱切りにされ、短冊のようで見苦しかった。紐が斬られて落ちた袴の布が、足首にまとわり付いた。しがらみのように。だが、断固として振り払えば、断ち切れない縁は無い。
 もう、今度こそ、おしまいにしよう。おしまいにしてくれ。知らず、李山は国倫と鳩渓に向かってそう呼びかけていた。

 一人で立って歩ける程に回復した頃、部屋から、源内と、少しの荷物が消えた。
 彼はもう藩に戻ることは無かった。




第24章へつづく

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