★ 私儀、甚だ多用にて ★
第二十四章
★ 1 ★
「そんなこと、本人に聞け、本人に!」
掻巻布団にくるまり、火鉢に当ったまま朝からずうっとこうしていた鳩渓の耳に、早口でまくしたてる大きな声が飛び込んで来た。藍水の声だ。
「そんな」と、声を抑えたお内儀。「・・・でも、うちは狭いですし」
平賀さんはいつまでここに居候するおつもりですか、と夫に問うたようだった。こんな話が本人に丸聞こえになるぐらいだ、確かに田村家は狭いのだ。田村夫妻は、聞こえよがしにそんな話をする人達ではない。まあ、藍水の声はかなり大きいのも確かだが。
去年、田村邸は火事に遭った。全焼は免れたが、半倒壊の家を修復し、部屋数が減った。子供達も増えたり大きくなったりで、今は書生も置いていないくらいだ。
「空いた借家の情報には気をつけているが、何せなあ」
ため息までも襖越しにはっきり聞こえるほど、肺活量の多い師であった。鳩渓は、綿入れを頭からすっぽりかぶって背を丸くする。
藍水は、空き室の事を尋ねるにも、人を選んでいるのだと思う。平賀が帰って来て家を探しているとなれば、知り合いであれば「どうして?」と聞かれるだろう。
家探しなど、本来は鳩渓本人がやることだ。迷惑をかけていると思う。だが、外を出歩いて知人に会いたくなかった。江戸に戻る時も、田村家に着くのが夜になるよう品川の宿を出るのに時間を測った。
志度にも戻らずに一目散に江戸へと逃げて来た。桃源には、「せっかく力を揮える機会だったものを」と意見されるだろう。母も妹も嘆くだろう。何より、「なぜ?」と問われるのが怖かった。誰の顔も見たくなかった。
草鞋を何足も潰してひたすら歩きながら、それでも鳩渓は途中でさすがに国倫を気づかって尋ねた。
『頼恭さまに、ご挨拶無しで、本当によかったですか?もうお会いできないかもしれませんよ?』
国倫は『あんひとに会うんが、一等おとましいが』と吐き捨てるように言う。国倫にしてみれば、では引き返すことができるのか?と問い詰めたい気分だった。『大丈夫』と言って欲しくて、自分が安心したくて、言葉にしたに過ぎないのだ。
曇り空から小雪もちらつきそうな街道を、爪先も心も凍てつかせながら歩を進めた。小石の痛みが足裏から直接心を襲うようだった。遠く臨む枯れ木の枝は鋭利に空を射て、この身にも突き刺さりそうに感じた。
『その気も無いもんが、形だけ気い使われても腹が立つだけじゃけん』
『そんな言い方!わたしは』
『おんしが、頼恭さまに会いたいだけじゃろう』
李山の『お前ら、いい加減にしろ!』と云う怒声で、口論は終いになった。二人の薄墨色の哀しみに似た怒り(又は怒りの衣を被った哀しみ)は、塊となって喉につかえ、そのまま腹へと戻された。
『こんな時に、仲間割れしててどうするっ』
鳩渓も、李山が怒るのは尤もだと思う。三人で助け合い、励まし合って行かねばならぬ時だった。
ーー『おんしが、頼恭さまに会いたいだけじゃろう』ーー、国倫の言葉の真意も、その時はよく飲み込めなかった。
江戸では、薬品会以来顔が広くなった気分でいたが。結局、頼る場所はここしか無く。藍水の好意に甘え、この三畳の部屋で引き籠もり生活をしていた。
「平賀くん」と、襖越しに藍水が呼んだ。
「純亭が来ている。お前が帰ったこと、告げていいか?」
「・・・。」
言葉が出て来ず、押し黙ったままになった。このまま、火鉢を抱え込んで日々を過ごすわけにはいかない。鳩渓もそれはわかっているのだが、唇が乾いて張り付き、動かなかった。
「わかった。その気になったら、すぐに言えよ。きっとみんな、おまえに会いたがっている」
その時、座敷から飛び出し、ぱたぱたと廊下を走る足音が聞こえた。
「先生、源内さんがおいでなのですか!? 今、『平賀』と呼ぶ声が」
藍水のでかい声が、座敷の純亭まで聞こえてしまったようだった。
部屋の前で「源内さんが帰って来たのですか?」と藍水に尋ねている。鳩渓は慌てて、手近にあった丈尺でつっかえ棒をした。
「源内さん!源内さん!」
名を連呼しながら、ガタガタと襖を開けようとする。
「すみません、どなたにも会いたくないのです」
消え入りそうな声で、哀願した。純亭の勢いに物差しも折れそうで、鳩渓は必死に框を抑えた。「そっとしといてやれよ」という藍水の囁き(これもたぶん本人は小声で言ったつもり)も無視され、純亭は「源内さん!」と襖を叩いた。襖紙も破れんばかりの勢いである。
「開けてくださいよ!」
襖は音を立てて揺れた。まだ友人に会う勇気は無かった。だが、純亭は諦めず、声を張り上げた。
「江戸に、阿蘭陀商館長様達が来ています。学者に会見が許されます」
えっと、襖を抑える鳩渓の手が緩んだ。
長崎で、大通詞の幸左衛門がそんな話をしていた。長崎屋という薬問屋が阿蘭陀人の常宿であり、学者が訪問して直接会って質問ができるということだった。
「明日、数名が昆陽先生の紹介で入れるそうです。田村先生も私も行けることになりました。源内さんも、一緒にいかが」
純亭が全部を言い切らないうちに、鳩渓は丈尺を外して襖を開けた。勢いが付きすぎて、人差し指の爪が少し欠けた。
「連れて行って下さい、わたしも!」
頭から被っていた掻巻布団が、どさりと畳の上に落ちた。
「源内さんが丁度江戸にいてよかったです。一緒だと心強いです。ね、先生?」
無邪気に笑う純亭に、藍水も「う。うん、まあな」と曖昧に返答する。
「源内さん、まだそんな真冬みたいな様子でいたんですか?外はもう、結構暖かいですよ?」
くしゃりと足元に重なる掻巻に目をやり、純亭が呆れた声を出した。
暦はもう弥生を迎えていた。江戸の時間は、早く過ぎる。膝を抱えている暇など無い筈だった。凍っていた鳩渓の時計が動き出す。
高松を去ったのはただの逃避ではない、江戸でやりたいことがあるのではないのか。
鳩渓は、しゃがんで掻巻を拾い上げ、たたんで整えた。
「本当ですね。もう春ですよね」
やっと笑顔になった。
★ 2 ★
日本橋本石町三丁目の長崎屋は、大きな薬問屋だ。だいたいこの辺は商家でも富豪が多く、隣の二丁目は豪華な店構えの呉服問屋が看板を並べている。
鳩渓は田村邸に純亭が訪れるのを待って、藍水に付いて本石町を訪れた。
「大きな旗みてえな布が掛けてあるだろ?あの建物が長崎屋だよ」
東インド会社の印の描かれた、船の帆のような布。あれが、長崎屋に阿蘭陀人が来ている証なのだそうだ。
長崎屋の敷地は広く、薬問屋の店舗は正面の一階だけで裏口から入る大きな建物が阿蘭陀人参府用の宿泊施設になっていた。喧騒から離れているはずの裏通りだが、人声の多さに三人は顔を見合わせた。
裏木戸の周りを二十名ほどの町人が取り囲んでいた。背伸びして中を覗き込もうとする者、飛び上がって見る者、小柄な連れを肩車する者。尻っぱしょりの若者ばかりかと思えば、分別ありげなご隠居の姿も見える。
「賑やかだと思ったら、野次馬か」と藍水が笑う。
「私も、子供の頃、やったことありますよ。覗こうとして、ぴょんぴょん飛び上がりました」
純亭の告白に、鳩渓も頬が緩んだ。家屋は裏木戸から遠く、飛び上がって阿蘭陀人が見えるわけもないのだが。
微笑んだら、肩の力が抜けた。少し緊張していたようだ。
遅れて甫三が昆陽と共に到着し、鳩渓を見て驚いて眉を上げた。
「江戸へお戻りでしたか!頼恭様の御用事でですか?」
「いえ。私事です」
鳩渓が睫毛を伏せると、甫三はそれ以上尋ねなかった。察しのいい男なので何か気付いたのだろうが、ここで言及するべきでないと考えたのだろう。
田村一門は昆陽に今回の礼を述べる。鳩渓は桂川邸で何度か会っているが、挨拶程度の言葉しか交わしたことはない。あの場に居たのは国倫だったが、社交的な彼でも、昆陽先生の前では堅くなっていたのだ。年配であり、生真面目そうなこの学者の前で、軽薄な言葉を吐いて軽蔑されたくなかったのかもしれない。高松で甘蔗を作っていた者にとって、甘薯栽培の成功者である昆陽は一目置く存在だ。
門の役人に名を告げ、木戸から長い路を通って家屋へと向かう。竹垣の小道は細く、人が並んで歩くと羽織を引っかけそうな狭さだ。役人は先に立ち玄関まで導く。玄関からは今度は別の役人が廊下を案内した。
鳩渓は素早く目だけを動かし、玄関の飾りや廊下の造りを確認する。長崎屋は大きな家だが、決して華美ではない。街道の旅籠でも、もっと立派な建物はたくさんある。通された大広間は襖絵も掛け物も平凡で、畳縁(たたみべり)も安価な布に見えた。畳は黄色く焼けていた。
意外な地味さに驚くが、鳩渓は、商館長はただの商人であることを思い出した。しかも、「のれん分け」のあるじに過ぎない。商館長の参府のあれこれを仕切る長崎奉行所は、商人だから格の高い高級宿である必要はないと判断したのかもしれない。
商館長は阿蘭陀の殿様から国の代表としてのお墨付きを貰って来日しているらしいが、商人が将軍様と謁見するのだから、不思議なしきたりだと鳩渓は思った。三井越後屋や伊勢屋が謁見するようなものだ。
座敷には既に大勢の学者が集まっていた。
「会見は昼からですよね。随分早くから皆さんお集まりなのですね」
鳩渓ののんびりした口調に、甫三が不思議そうに眉を歪ませた。
「だって、通詞も来ているのですよ。カピタンと話す前に、通詞から色々聞けるじゃないですか。平賀さんなら、真っ先に通詞を見つけて貪欲にお話しなさると思ってました。
平賀さん、高松へ戻ってお人柄が変わりましたね」
ひやりと背中が冷たくなった。確かに甫三とは国倫が接する事が多かった。だが、今まで人格の違いを指摘した者などいなかったのに。
『国倫さん。代わった方が良さそうですよ?』
鳩渓は、甫三の聡明さを畏れた。引き籠もり度は国倫が一番強く、最近は滅多に外へ出てこない。だがここは渋々国倫が舵を取った。
「通詞とお話しするのも順番待ちなのです。今年いらした大通詞は医学に精通する吉雄耕牛様です。平賀さんも確か面識がお有りですよね?
私も是非、吉雄様にお話を伺わないと」
大広間には、通詞達に質問する学者達の輪ができていた。甫三はひらりと羽織を翻し、目指す輪へと向かう。
吉雄耕牛。幸左衛門のことか?
懐かしさから、国倫も甫三の後を追った。
「源内さんっ。置いていかないでくださいっ」
純亭も慌てて付いて来た。子供のように国倫の袖を掴みかねない、心細そうな声だった。藍水と昆陽は長崎の役人と何か話し込んでいた。
外科手術のハウツーでも聞かれたのか、身振りを交えて熱心に説明していた通詞が、純亭の声ではっと顔を上げた。きょろきょろと周りを見渡し、国倫と目が合った。少し肥え、額に皺ができるようになった幸左衛門が、目尻にも皺を作って破顔した。
「平賀どの!」
呼ばれ、国倫はぺこりと軽く頭を下げた。周りに質問者が囲っており、自分が割り込んで話すのは気が引けた。
『平賀?』『あの、薬品会の平賀先生か?』『田村一門の?』
ざわざわと、波のような囁きが広がる。田村一門が開催した薬品会は四回。四年の間に平賀源内の名は江戸の学者達の中でかなり有名になっていたのだ。
三回目の会主を一度勤めただけの源内だが、藍水が、初回の時から「これは平賀の案」「平賀が殆どを仕切った」と、自分の名を出してくれたおかげだった。弟子の業績は自分の物と考える師が多い中、藍水門下でなければ今の自分の知名度は無かった。藍水の気風は、江戸だからなのか、師の性格によるのか。少なくても高松藩ではこれはあり得ない。国倫は師に感謝した。
「平賀どの、久しぶりです!」
幸左衛門の方が、輪を割ってこちらへと近づいて来た。
「十年ぶりくらいになりますよね?ご活躍の噂は聞いていますよ」
厳密には八年ぶりだった。あの頃長崎で新しい物を毎日見聞きして、わくわくしていた気持ちが胸に甦った。坂の上から照りつけた強い日差しのように、日々が眩しくきらめいていた。
長崎から帰り、最初に高松藩を出た時、頼恭の事は一度諦めたのだ。江戸へ出たかった。学びたくてたまらなかった。
自分は今もまた、江戸に居る。それも、和阿蘭陀人と会見できる「選ばれた学者」として。
間違っていない。自分が江戸に戻ったことは。ここが、自分の場所なのだ。もう、腹を括ろう。この街の者になろう。
今年の商館長はハイスフォールン、副商館長はヤン・カランス。医師はバウエルと言った。
会見は午の刻を遅れて始まり、夕暮れにまで及んだ。最初は、床の間に阿蘭陀人らと通詞が構えていた。学者達は整然と畳の上に並んで座り、幕府や藩の代表の学者達が順番に質問をしたり、カピタン達が国から持参した物品を紹介したり(時には宣伝したり)という具合だ。
そのうち、天文学者や医者との質問分野が分かれてくる。また、バウエルが医師達に見本を見せる際には近くに寄らせるなど、だんだん列が崩れ、フランクに質問ができる雰囲気になっていった。
幸左衛門は一般開業医など及ばないほど知識を蓄えていた。言葉は澱みが無く、医師からの質問も内容を彼が問い返すことはない。全てを理解して通訳しているようだ。時々助手としてバウエルの実演を手伝ったりもした。
「あの耕牛様の外科知識と技術は相当なものですよね。彼は長崎に居て、いつも阿蘭陀医師に教えを乞うことができる。羨ましいことです」
甫三のため息に、国倫が「法眼の家系のおんしでも、羨ましく思うんかね?」と、質問というより感想のように問うた。
甫三は去年、奥医師に出世していた。法眼への道は決まったようなものだ。
「不思議なことをおっしゃいますね。私は長崎へ行けない。御用が忙しくて無理です。行ったことのあるあなたが、憎らしいくらい羨ましいですよ?」
一瞬、甫三の目がきつく光った気がした。が、すぐにいつもの柔らかな表情に変わり、ふふっと笑顔になった。
カピタンやバウエルは美麗な阿蘭陀製の花瓶や絵皿を座敷へ運ばせ、学者達に勧めているようだった。が、高価であるし、純粋に学問の為に集まった学者達が興味を示す物ではなかった。
なるほど、と国倫は理解した。長時間日本の学者の為に質問に答えてくれるのは、当然幕府からの命令もあるが、阿蘭陀製品の宣伝の為でもあるのだ。だが、商品の選択を間違っている。この界隈に住む豪商達ならこぞって買うかもしれないが、学者達が皿など欲しがるわけがない。
からくり関係も、紹介された時計や携帯用望遠鏡は国倫は長崎で見たことがあり、そう珍しくは思えなかった。
『わしがカピタンなら、何をここで売ったら儲かるじゃろうか?いや、わしは、何を出されたら欲しいと思う?』
バウエルが、碁石位の白い化石を頭上に上げて、皆に見せた。耕牛が説明する。
「これは毒を取る石だそうです。印度にしか無い物で、阿蘭陀でも貴重で大変高価です。
購入する者がいれば、バウエル殿が使用法を説明するそうです」
国倫は、藍水と顔を見合わせた。この石は『スランカステン』と思われた。藍水が薬品会に出品している。
しかし、印度にしか無いなどと。自分は、小豆島で漁師の網にかかったところを見つけ、売ってもらった。藍水が持つ物と比較してみて、同じ物なのもわかっている。
いくらだと質問する医師が居た。その金貨の枚数に、皆が悲鳴に似たため息をついた。
「ちっと待っとっていたァ!」
興奮したのでバリバリ讃岐弁になった。耕牛が面食らい、「何と言ったのですか?」と、今日初めて質問者に問い返した。
「あ、いや。その石は『スランカステン』ちゃうちゅうな?竜の骨だっちゅう言い伝えの有るもんじゃけん。印度にしかないと言うたが、わしは国内で見つけたけん」
驚いた表情で、耕牛がバウエルに告げる。二人の会話が何度か往復していたところを見ると、通訳しただけでなく、『あの男は誰だ?』のような質問に耕牛が答えたように思えた。
「スランゲンステーン。そうです、よくご存じですねと、バウエル殿はおっしゃっています。
ただ、バウエル殿も、日本にあるとは信じ難いそうです。似ているだけではないかと。
お持ちならば、確認したいとおっしゃっています。もし本物なら、壺でも時計でも取り替えようと言ってます」
国倫は嘲笑に似た笑みで唇を歪ました。
「壺などいらんよ。くださるんなら、阿蘭陀の図譜がええ。
・・・どどにうすの、『ころいとぼつく』のような」
通訳の言葉を聞く前から、国倫の口からドドネウスだのコロイトブックだのの名が出て、バウエルはまばたきを頻繁にしていた。バウエルは早口で耕牛に何か告げた。
「コロイトブックはあまりに高価なので無理ですが、他の図譜なら長崎に有るので送ってくれるそうですよ」
耕牛も笑みを噛み殺していた。バウエルは、ヒラガにごまかしや言い訳が効かなさそうだと判断したのだろう。国倫は、耕牛に笑いかけた。
翌日、国倫は自分の竜骨を持参した。三木文柳を訪ねた時に漁師から買った物だ。国倫の物は成猫が丸くなった時ほどの大きさがある。
竜の骨との説もあるが、国倫は何か大きな生物・・・象や鯨等の頭蓋骨(の一部)の化石ではないかと思っていた。
国倫は、バウエルにスランカステンを渡し、石だと言った彼に『骨』であることを告げた。
バウエルはこれを確かにスランカステンだと認め、印度にしか無いと公言した事も詫びた。図譜を贈る約束を大勢の前でした。
居合わせた学者達は、この一連の騒動を驚いた心持ちで眺めた。甫三も昆陽も同様だった。今まで、阿蘭陀人から受ける教えに反駁した者などいなかったのだ。皆、鵜呑みにして、納得していた。常に阿蘭陀人が正しく、知識も豊富だと思い込んでいた。
熱気に溢れる時間を過ごした国倫一行は、夕暮れの道を田村邸へと戻った。長崎屋の薬問屋の方も店じまいした時刻で、向かいの他の大店も閉店し、道の野次馬も消え、静けさが戻っていた。
春の宵は風に草の香りが混じる。風はふわりとあたたかだが、上気した頬にはほどよい心地よさだった。
「平賀さ〜ん、私も一緒に帰ります〜」
駕籠を返した甫三が小走りに追いつき、国倫の腕を取った。甫三も酔ったように白い頬を紅色にしていた。
「平賀さんの活躍、爽快でしたよ」
「別に活躍などしとらんよ。阿蘭陀医師の間違いを教えてやっただけじゃけん。だいたい、腹の立つ事よ。わしが京物の大徳利一本で買ったのと同じ物に、あんなにふっかけおって。わしらも知識をもっと増やさんと、阿蘭陀商人にぼったくられるで」
純亭も藍水も一緒に吹き出した。偉そうな源内の物言いが戻って来た。だいぶ元気が回復したようだと、二人頷きあった。
「だいたい、一緒に帰るっちゅうて。甫三は築地じゃろう。反対方向じゃろうに」
「あれ?目黒ではないのですか?下屋敷に滞在かと思っていました」
うっと国倫が言葉に詰まった。
その時、頬をぴりりと揺らす程に、大きく鐘が鳴った。
「うわっ、何じゃ」
捨て鐘三つの後、菫色の空にゆっくりと鐘が響く。暮れ六の鐘だった。
「長崎屋のすぐ裏に、時の鐘があるんですよ。屋敷の中でも、七つの時も八つの時も大音響で響いてたじゃないですか。気付かなかったのですか?」
会見の内容に夢中で、耳に入って来なかったようだ。それほど集中して阿蘭陀人達の話を聞いていたのかと思う。
三つ、四つと、鐘が響く間に、国倫は素早く唇を動かして『田村先生んちにおる。藩は辞めたけん』と告げた。
「えっ?何ですか?聞こえないですよ」
「いつまで付いて来るんな?」
「いいじゃないか、平賀。桂川君もうちでメシ食っていけばいい」
藍水が甫三の味方についた。
「平賀さんは、田村様のお宅に居るのですか?」
「おう。こんな大きな男が家に居ると邪魔でしょうがねえよ。桂川君は顔が広いし、どこか安い借家の空きを知らないか?」
「・・・。」
怪訝な表情で、甫三は国倫を振り仰いだ。何か聞かれるのを避ける為に、国倫は先へとさっさと歩き始めた。
五つ、六つと、鐘の音も遠くなる。まだ到底、胸の痛みは癒えない。
第25章へつづく
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