★ 私儀、甚だ多用にて ★
第二十五章
★ 1 ★
玄白の診療が終わった時刻を見計らって、鳩渓と純亭は日本橋の療養所を訪ねた。誘い合わせ、久しぶりに桂川邸へと出かける約束だ。
玄白の医院は火災で移転していた。
彼も長崎屋に行きたかっただろうが、昼間は待っている患者があった。それに、薬草や家財道具も火事の被害に遭い、実家から借金をしたそうだ。休みなく働かねばならなかったのだろう。
いや、正直言って、甫三が誘ったのは純亭止まりだ。友人の友人の友人の・・・と誘っていたら、長崎屋がどんなに広くても足りない。
三人で夕暮れの道を築地へ向かいながら、玄白は小声でずっと文句を言っていた。
「鳩渓さんも、帰っているなら帰っているで、声をかけてくれればいいものを。だいたい、江戸に戻ったら一番に私に会いに来るとか何とか言ってませんでした?」
長崎屋に誘って欲しかったとは、一言も言わなかった。自分は弱小藩の下っ端の藩医でしかない、薬品会の田村一門でもない。甫三の選考基準から洩れたのは仕方ないと考えているようだった。
ただ、長崎屋に行けないせいで、友との再会が遅れたのはとても悔しいのだ。
「お帰りは参府の、夏頃と思っていました。まさか帰っているとは」
籠もった声で愚痴を言う玄白に他意は無いと思うが、痛いところをつかれたと鳩渓は苦笑した。そろそろ、皆にも告げねばならないだろう。
「辞めましたから。高松藩」
「えーっ!」と叫んだのは、純亭の方が先だった。
「ウソでしょう?なんで、今まで黙っていたんです?!」
「藍水先生には言いましたよ。純亭が尋ねなかったものだから・・・」
「そんな言い訳、ずるいですよう」と、純亭がぷうっと頬を膨らませた。
「辞めたって・・・。せっかくいい条件で復帰なさったのに」
玄白は小さな目を精一杯大きく見開いた。
「まあ、色々有って」と、鳩渓は言葉を濁した。その色々まで告げる気は無かった。
商館長達一行は、今頃は小田原か駿河か。長崎屋で受けた刺激は、少しだけ鳩渓を立ち直らせた。
「おや?お顔をどうなさいました?怪我、ですよね?」
どきりと、鳩渓は顎を手で覆った。玄白は目敏い。今まで誰も気付かなかったのに。
「転んで少し酷く痛めました。跡は残るようです」
純亭は「浪人となったからには、源内さんを召し抱えたいと希望する藩も多いでしょうね」と、傷のことには頓着しないようだった。話題が辞職のことに戻り、鳩渓はほっとする。
「わたしはもう、仕官するつもりはありませんよ」
「またまた〜。だって、どうやって暮らして行くのですかぁ」
生活する為の金くらいなら困ることはない。薬屋や医者に本草のアドバイスをして指導料を取ることや、塾講師としての口、今の平賀源内なら飢え死にしない程度には稼げると思えた。それに、実家には自分が発案し指導した焼物の収入が入っている。その分を仕送りして貰ってもバチは当たらないと思う。だが、勉強に必要な書籍や薬草の購入や、『物類品隲』の刊行は暫く我慢しなくてはなるまい。
藩に復帰したのは、本を出してやるという言葉に釣られたからだ。辞職して惜しいと思ったのは、本のことだけだった。
頼恭とのことは・・・考えないようにしていた。暇(いとま)も告げずに消えたことで、あのひとを悲しませたに違いない。同情でも戯れでもなく、紛れもなく国倫を愛してくれた。鳩渓も李山も含めた『平賀源内』を、大切に扱ってくれた。裏切ったのはいつもこちらの方だ。今回で二度目。許して貰おうとは思っていないが、頼恭の憂いを思うとつらかった。
桂川邸へ着くと、甫三はまだ城から戻っていなかった。
「最近忙しいらしく、父はいつも帰りは夜になります。先に座敷へいらして寛いでいてください。千賀さん親子もいらしていますし」
小吉は十一歳になっていた。父親譲りの聡明そうな美しい顔立ちで、年齢より大人びて見えた。
『あと一、二年だな』と李山が下卑たことを言うのを鳩渓が咎めた。
座敷で千賀親子は既に酒を飲みながら、甫三の持つ舶来の物品をあれこれ称して楽しんでいた。甫三も千賀も、今回の長崎屋で阿蘭陀人から何か購入したようだ。
千賀道隆は鳩渓より七、八歳年長と思われた。薬品会を見学に来たので、何度か挨拶は交わしたことがある。長崎屋でも見かけた。幕府の医官だが、派手な男だった。いつも趣味のよい着物をまとい、細工物の煙草入れや印籠を身につけて自慢していたが、それが不思議に嫌味に見えない人物であった。高価である事を自慢しているのでなく、珍品である事や、それを見極め入手した事を自慢しているのがわかるからだろうか。子供が玩具を得意がるのに似た様子も、反感を抱かせない理由かもしれない。
純亭とも顔見知りのはずなので、玄白だけ紹介しておく。
横に畏まって座る少年を紹介される。息子の道有は十四歳で最近元服したばかりだそうだ。若いが李山の好みではないようだ。
「平賀様の長崎屋でのご活躍、爽快でございました」と頬を染める。彼もあの場に居たらしい。人なつっこい、おおらかそうな少年だ。国倫の少年時代に印象が似ていたが、育ちが良い分優雅でおっとりして見えた。
道隆から酒を勧められ、李山と入れ替わる。最近では国倫の方が出無精になっている。国倫はまだ気持ちが沈んだままのようだ。
玄白も純亭も酒が入り、千賀親子と話が進んだ。
「私も見たかったです、平賀さんの活躍。もっと詳しく教えてください」
行けなかった玄白がせがみ、純亭と道隆が代わる代わるに説明を始めると、李山は「やめろ、気恥ずかしい」とそっぽを向いた。
酒の回った道隆と源内崇拝者の純亭の話はつくだけ尾ひれが付いて、まるで孔子がバウエルに説教でも説いたような話に出来上がっていた。
「おいおい」と李山はうんざりして、背を向けて盃を空けた。
と、畳に広げられたままの『臓志』が目に入った。李山らが訪れる前、千賀親子はこれを見ていたのだろう。
「純亭たちは、もうこれは見たのか?京都と大坂では、かなりの評判だったぞ」
談笑していた玄白達が、はっと言葉を止めた。純亭と二人同時に長いため息を付いた。
その様子を見て、道隆が肩を揺すって笑った。
「平賀殿、触れてはいけないことを」
「なんだ?」
「あなたは医師ではないから、中川殿らの『先を越された』という悔しさはわかりますまい。
数年前に山脇様が公に腑分けをした時も、こんなため息をついたことでしょう。特に、実際に作業し記録したのは、小浜藩の医師達。中川殿らはきっと歯噛みなさったでしょう」
「だが、こうして本になって、皆が知識を共有できる。よかったではないか」
李山のこういう考え方は、藩医や官医には通用しないらしい。
『馬鹿らしい見栄だ』と、李山は小声で吐き捨てる。
「今までの唐の『五臓六腑』説は否定された。どう考える?」
意地悪な視線で、純亭を嘗めるように眺めた。
「まだ反対例は山脇殿の一件だけです」
「数が多ければ正しいのか?」と、李山は鼻で笑う。うっと純亭は言葉に詰まって赤面した。
「お待たせしてしまって」
帰宅した甫三が現れて、緊迫していた部屋の空気が和らいだ。
仕事が忙しいせいか、甫三は土色の顔色をしていたが、客たちを見てにっこりと微笑んで見せた。
「千賀さんに平賀さんの家のことを相談するつもりでした。もう、お親しくなられたようですね。
いい借家をご存じないですか。安くて小綺麗で、田村先生のお宅とうちと目黒と、どこも近くて便利なところで」
「いや、甫三殿。目黒はいいんだ」と、李山が訂正する。
振り向いて一瞬李山の目を凝視した甫三だったが、顔色も変えずに「目黒は近くなくていいそうです」と、道隆へ訂正した。
甫三は、藩を辞めたことを察していたようだ。
「白壁町はどうだ?大家とは顔見知りだ、聞いてみてやろう」
「お手数かける」と李山も素直に礼を述べた。
「おや?千賀さんは、今日は道有殿とご一緒ではなかったのですか?」
甫三が部屋を見回す。確かに、先刻まで居た息子が見当たらない。
「ああそれなら、小吉殿の勉強を見てあげようと申しておりましたから・・・」
甫三の顔色が更に蒼白に変わった。道隆が全部言い切らないうちに、慌てて長男の部屋へ向かって飛び出して行った。
「へえ。あいつもあれできちんと父親なのだな」と李山が面白そうに呟く。「道有殿は衆道なのか」
「桂川殿のご子息に悪さはしませんよ。そこまで愚息じゃありません。ただ、綺麗で利発な小吉殿とお会いするのが楽しいだけのようです」
どうだか、と李山は眉を掻いた。まあよその家のことだ、口出しすることではない。
道隆の紹介で部屋も見つかりそうだ。やっと田村邸から出ることができそうだった。
甫三もその後少し酒に付き合ったが、明日も御用が多忙らしい。謝罪して早めに部屋へ引き上げた。
「皆様はごゆっくり」と言われても、あるじが居ないのにそう遅くまで留まるわけにはいかず、五人とも早々に引き上げた。
千賀親子は駕籠で帰った。李山達は、久しぶりに三人でこうして築地から肩を並べて帰る。夜風になつかしい花の香りが混じっている気がした。
「桂川様がああも多忙では、もうこちらへお邪魔するのも悪いですね」
玄白が寂しそうに爪先を見つめた。
「派手なこの会を、玄白殿がそれほどに気に入っているとは知らなかったな」
「皆でざわざわと学問について話す、あの雰囲気が好きでしたよ」
玄白が、心底いとおしそうに語った。
田村邸でも門人が集う事が多いので、源内も純亭も桂川サロンをそう特別な場所とは感じていなかったが。田村門下でない玄白は、常によそ者であるという意識が付きまとっていたのかもしれない。甫三の屋敷は藩も門も関係無い。玄白には居心地がよかったのだろう。
『いつか広い家に住めたら、甫三殿のような場を作れたらいいですね』
鳩渓の言葉に、国倫が茶化す。
『ちょい待ちまい。居候じゃったのが、やっと長屋暮らしになっただけじゃろ。じょんならんわ。十年早いで』
★ 2 ★
春も終わりの晴天の日に、源内は田村邸から神田白壁町へと引っ越しした。
家具も無く、着物も無い。本と資料と原稿を行李に入れて風呂敷で包み、背負って運んだ。
純亭が先に行き、女を頼んで掃除を済ませておいてくれた。紺屋町からは歩いてすぐだった。国倫が聞いていた路地を曲がると、「源内さん、こっちですー」と純亭が軒下から腕を振った。
長屋の一画と言っても独立した一軒家であり、部屋数も二つ、小さな庭も有る。廊下を出た先に厠も有る。こざっぱりしたいい家だった。
古道具屋から買った、生活に最低限必要な物が届いていた。文机、行灯、火鉢に敷布団、湯飲みや茶碗も頼んだ。食器はどうせ酒を飲むのに使うだけではあろうが、一応は揃えたのだ。江戸での新生活の始まりだった。気持ちを新たにして臨むつもりだ。
片付けも、荷物が少ない分、そう時間はかからなかった。
「酒を買うてくる。引っ越し祝いに一杯行っきょる?」
純亭には酒を奢るつもりだったが、外で飲むより、新しい城で祝いたかった。
「いいですね。ご相伴に預かりますよ」
「肴も買って、ついでに大家にも挨拶して来るけん」
酒は買えたものの、店屋や屋台を探してうろうろ歩いていたら、藍水の家に戻ってしまった。
「あら。平賀さん、忘れ物ですか?」と、家の前で打ち水をしていたお内儀に見つかった。事情を説明したら「あら、いやだ」とおおらかに鉄漿(かね)を見せて笑った。
「あのあたりは長屋ばかりですものね。住み慣れれば物売りが来る時間帯もわかるのでしょうけれど。
鰺の焼いたのが有るから、持って行きません?」
真鰺の開きを紙に包んでくれた。香ばしい良いかおりがした。
徳利を二本と肴を抱え、元の道を帰る。源内の足なら、数を三百数えるうちに着いてしまう近さだ。
白壁町の道に面した一軒屋が、大家・穂積次郎兵衛宅と聞いていた。次郎兵衛は源内より三つ年長の三十七。姓があるのは、士分なのか実家が豪商なのか。千賀は「少し変わった男だが、悪い者ではない」と評していた。自分も散々変わり者と言われる。大家が変人だからと臆する国倫ではなかった。
「誰ぞ、おられるかね?」
障子戸越しに声をかける。横の窓が少し開いていて、部屋に人が居るのが見えた。家人は勉強家と見えて(学者なのか?)、壁には本箱が積まれ、畳にも本が散らばる。擦りたての墨が匂った。
居たのは、女児なのか元服前のご子息なのか、山吹色に朱の花が散る振袖が揺れていた。
「お父上はお出かけか?」
山吹の着物がくるりと反転し、こちらを向いた。女児ではなく少年、いやもう青年に近い。切れ長の目と細い鼻の、華奢で美しい顔立ちをしていた。髷は結わず、まるで二、三歳の童子のようなざんばらの髪をしていた。僧侶が剃髪を怠り一月たってしまったような髪だ。それは小柄な男の頭を余計に小ぶりに見せた。
「はぁ?お父上?」と、肩で笑った。声は、やや高いが大人のものだ。
男は素早く戸を開けた。長身の国倫の、胸までしか背が無い。江戸の男は体が華奢な者が多いが、それにしたって女か子供のように小さいと思う。着物はやはり振袖だった。帯なのか腰紐なのかわからぬ鮮やかな蒼い布で胴を無造作に縛ってあった。細い腰だ。男は首をぎゅっと上へ向けると言った。
「アタシが大家よ」
「・・・おんしが次郎兵衛殿か?」
影の多い室内から陽の当たる路地へ出ると、男がそう若くないことが知れる。肌は色黒でキメは確かに男のものだ。顎と唇の周りには薄く無精髭まであった。
「あぁ、その名前、やめてっ」と、男は手を額に置いて大袈裟に憂いでみせた。
「春信って呼んで。
絵師なのよ、一応。鈴木春信って言うの。全然売れてないけどね。大家の収入で食ってるってコト」
『変わっている』という道隆の言葉に納得がいった。
だが、絵師。これは都合がいいかもしれない。『物類品隲』の絵を何枚か楠本雪渓に描いてもらったが、それは玄白の隣人で、打合せに便利なせいもあった。火事のせいで越した雪渓に続きを頼むより、この大家に頼めばもっと楽だ。いや、しかし、売れていないと言った。下手なのか?少し近づきになって、様子を見てから話を持ちかけてみようと、国倫は瞬時に頭を巡らす。
「今日からこっちゃにお世話んなる、平賀じゃけん」
ぺこりと頭を下げる。下げるが、まだ大家の顔の方が下にあった。
「なんか、いい匂いがするわね?」
くんくんと小犬のように、形のいい鼻を動かす。
「鰺の焼いたんを貰って来ょった」
「ううん。酒よ、酒。アンタ、酒持ってるでしょ?」
「ああ」と苦笑した国倫は、「大家の次郎兵衛殿にも、一本お持ちしたけん」
「だーかーら、その名前はやめてってば!
酒って、どれ?・・・やりぃ、下りもの(京もの)じゃない」
剃ったのかと思うほど薄い眉を下げて、大家は初めて笑顔になった。幼い造りの顔がさらに童顔に見えた。大家はかなりの酒好きのようだ。
「これから、ささやかに友と引っ越し祝いじゃ。ご一緒にいかがじゃろか?」
「あー、行く行く。ちょっと待ってて」と二つ返事で奥へ引っ込み、赤い華美な花柄の風呂敷(風呂敷なのか?)を肩に引っかけて来た。
「おう、純亭、待たせてすまんかったのう」
国倫が戻ると、純亭は廊下でうたた寝をしていた。昼になると暖かというより汗ばむような気温になってきた。
「どなたですか、そちらの派手なビラビラした・・・」
待たされて純亭は機嫌が悪く、つい毒舌を吐く。
「大家の次郎兵・・・」ゴツンと脛を蹴飛ばされた。
「春信殿じゃ。一緒に飲もうっちゅうことになった」
「大家さん?あ、失礼しました」
「平賀さん、アンタ、酌の為に蔭子を呼んだと思われたみたいよ?」
春信は肘で国倫の脇腹をつついて、おかしそうに笑ってみせた。
「・・・源内さんの以前からお知り合いですか?」
あまりに春信が親しげな様子なので、純亭が怪訝に思うのは無理もない。
「いぃや。今おうたばかりじゃよ」
「さ、飲も?飲も?」
春信は部屋に勝手に入り、勝手に湯飲みを選んで床へ置いた。
杯を重ねると、春信はさらによく喋った。
「ふうん。平賀さんは本草が専門なのね。千賀の友達だって聞いたから、お医者かと思ってたわ」
「私は医者ですよ」と純亭が口を挿むと、「アンタの話は聞いてないわヨ!」と手厳しい。
「本草学者の奴らって、草花の絵ばかり描いて、何が面白いのかしら」
「別に面白いから描くわけじゃないでしょう。記録として必要だからでしょう?ね?」
春信に邪険にされてむっとした純亭が、国倫を味方につけようとする。
「いやー、おもっしょいぞ?おもっしょいから描き続けた。童ん時の、それが最初じゃよ」
それに関しては鳩渓も同じ想いだった。草木の細かいこんな違いあんな違いは、描いていると気付くことが多く、楽しかったのだ。
「アンタ、変人ね」
「・・・。」春信に言われたくないと思ったが、相手は大家であるし、国倫は黙っていた。
「アタシは人を描く方がいいなあ。綺麗な着物や可愛い娘や若衆。そういうのを描いてるのが一番楽しいなあ」
「おんし、草木を描くのは嫌いかの」
「嫌いじゃないけど、つまんない。
あー、アンタ、アタシを仕事に引き込もうとしたでしょ?だから酒になんて誘ったんでしょ!
親切そうに誘うと思ったら!腹黒い男ねえ。ああ、いやらしい!」
「一人でよう喋るのぉ」
候補の絵師は半刻で却下になってしまった。仕方ない、地の利は悪くても、今まで通りに雪渓に依頼しよう。ただ、浪人になった今は、すぐに雪渓に頼む金銭的余裕は無い。
「酔ったのか、普段からこういう人なのか、よくわかりませんね」と純亭は淡々と感想を述べ、手酌で飲み続けた。
「酔ってないわよっ!」と春信は怒って立ち上がった。が、ふらりとよろけ、小さな足が湯飲みを蹴った。
「酔っちょる!」「酔ってます!」と、二人に同時に指さされる。
「送っちゃろーか?」と言う国倫に、「やーよ。アンタ、衆道でしょ。独り暮らしの美男を送ろうなんて、また下心あるんでしょ!」と春信は国倫を睨むと、肩かけをぐるりと巻いて下駄を履いた。
「何をしょっちょる。自分で『美男』言いおったで。・・・おんし、その歳で独り身なんか?」
だいたい、独り暮らしというのも今聞いた。
国倫も本気で酔いを心配したわけではない。家は数軒先という近さであり、しかも春信は酔い慣れている。いつも酔っぱらっている人間は、蛇行して歩いても、自分のうねり加減も心得ているものだ。
「"その歳"で悪かったわねえ。女なんて嫌いよっ!あ、だからってアタシは衆道じゃないわよ。男もだいっきらいーっ!」
女も男も嫌いだと叫ぶ。だが、人を描くのが好きだと言う。
「おもっしょいな、おんし」
「あ痛っ」
表の戸板に一回額をぶつけて、春信は帰って行った。そう量を飲んだわけではないが、小柄である分、酒は少量で回るのかもしれない。安上がりで羨ましいことだ。
「なんか・・・変わった人でしたね」
純亭は春信のペースに掻き回され、飲んでも酔いが来なかった風だ。
国倫は、楽しそうな友達ができて、機嫌良く酔っていた。高松を出て以来、こんな気分になるのは久しぶりのことだった。
藍水の家に、辞職願いの書き直し命令が届いたのは、数日前だった。
志度の実家に送られ、江戸に転送され、行き場が無いその手紙は一度江戸の上屋敷に届けられという紆余曲折があり、命令の日付からかなりの日数が立っていた。
どうりで、辞職許可の書類も来ないわけだ。
辞職の理由をもっと具体的にということだったが。
『まことの理由を赤裸々に書いたとて、よけいに却下じゃろう』
馬鹿らしくなったが、さっさと立場をはっきりさせて楽になりたい気持ちが強かった。
素直に、添えられた木村の忠告文に従って、すぐに再提出した。
浪人・平賀源内。早くそう名乗りたい。
純亭も帰った部屋で、食器等を簡単に片付け、文机に向かう。
蝋燭ではなく、油を燃やす行灯は暗く、細かい作業に向かない。高松から持って来た本草の原稿をほどき、抜けが無い事だけを確かめた。
夕方になると、近所の職人達も帰宅し、障子越しの外の道も話し声が増えて、賑やかになった。
この場から、新しい生活が始まる。
第26章へつづく
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