★ 私儀、甚だ多用にて ★

第二十六章

★ 1 ★

 五月、今日も雨ということで、源内も純亭も田村邸で勉強ということになった。薬園勤めも人参の手入れも休みだった。
 表向きは白壁町で一人暮らしを始めた源内ではあるが、起きて身支度を整えたら田村邸へ出向き、夜に白壁町へ帰る生活だ。自宅へは寝に帰るだけ。殆ど田村のところに詰めている。薬園の仕事も忙しい上に、来年の薬品会の準備もある。今度は本草の展示でなく、『物産会』・・・鉱物、動物など多岐に渡る物を予定していた。前回までとは比べ物にならないほど、大規模な展覧会になるだろう。
 朝食・夕食は田村家でいただく事が多く、昼は薬園へ出向けば流しの蕎麦でも食うか、握り飯を持たせてくれるかで、心配していた食事の方は何とかなっていた。あまりに竈を使わないので、薪も炭も湿気たかもしれない。
 多忙にしているのは、よけいなことを考えたくないせいもあった。藩からは何も言って来ない。源内の身分はまだ高松藩士であった。
 せっかちな筆使いで、鳩渓は去年の薬品会の出席者名簿を整理していた。今回も出品者を広く募らねばならない。それの準備である。
「私が源内さんと懇意と知って、藩が勧誘しろとうるさいんです。特に長崎屋に行った後ぐらいから。
 でも、小浜藩なんて十万石ですし、とても勧められないですよぅ」
 純亭は、人名をカードにして、藩ごとや地域ごとに並べ替える。だが、単純作業が退屈なのか、喋ってばかりで仕事は進まない。
 鳩渓は純亭の言葉に苦笑しながら慎重に答えた。
「高松藩だって十二万石です。そう変わりません。
 わたしは、もうどこにも仕官したくないのです。それにまだ、辞職のお許しもいただいていない身ですから」
 純亭にだけでない。甫三からも、長崎屋以来、源内を高松藩から引き抜こうと画策する藩が幾つかある話を聞いていた。彼らは辞職願を提出中なのは知らない筈だが、それでも欲しているようだった。
 頼恭以外の殿様に仕えたいとは思わない。それは鳩渓だけの考えではなく、国倫ももちろんそうだし、李山だって同じだと思う。あんな人は二人といない。だったらもう、仕官などしないと決めた。
 
「今から来年四月の薬品会の準備だなんて。鬼が笑いますよ、源内さん〜」
 作業に飽きているものだから、純亭はさかんにケチを付ける。
「早めに皆さんにお知らせすれば、それだけ気にしていただける期間が長いです。良い物品を持って参加していただけますよ?」
 今までは出品者は身近な者が多く、直接届けて貰う事が多かった。大坂の旭山一門のような遠方からの参加もあったが、知人であるのでひとまとめにして送って貰えた。
 今回は、全く未知の人々にも広く物品を集っている。但し直接全員とやり取りするにはこちらも膨大な時間を費やさねばならない。地方ごとに友人知人の中継地点を設け、そこで集めて送って貰う方式にした。近場の者は持参できるし、中継地点への送料は着払いにしたのだが、江戸より近い分安く上がる。中継役は、讃岐や上方の知人もいるが、過去の薬品会で懇意になった学者や、俳諧グループの知人等にも頼んだ。源内はもう俳句からは手を引いたのだが、俳句の会は全国レベルでネットワークを持っている。讃岐でそこそこの知名度のある桃源には俳諧の知人も多く、その親友・李山に協力を申し出てくれる者も少なくはなかった。

 雨の中を本丸へ出かけていた藍水が帰宅した。小石川の人参状況の報告だった。
「人に会わねえように、急いで帰って来たぜ。平賀くんを引き抜きたい藩の奴らが、うるさくてかなわん」
 蛇の目の雫を軒先で払い、藍水が奥方に不平を語った。例によって声がでかくて、ここまで聞こえた。
 奥方が何か返すと「え、長崎から荷物?」と、また大声の返事が聞こえる。
 鳩渓と純亭も驚いて顔を見合わせた。
 長崎通詞の吉雄から、田村宛に荷物が届いていたのだ。
「先生、何か頼んでいました?」
 部屋に入って来た藍水に、純亭はお預けをくらった子のような目で尋ねる。
「さあ?」と師は首を傾げた。藍水がバリバリと包みをほどくと、中から西洋の図譜が現れた。
 添付された手紙を藍水は怪訝な顔で読み始めたが、「ああ!」と納得し、「平賀くんに渡してくれってさ」
 長崎屋でバウエルが約束した図譜だそうだ。
「うわーーーっ。すっかり忘れていましたよ。本当に贈ってくれたのですね!」
 スヴェールツ『紅毛花譜』。吉雄耕牛からの書簡にはそう記されていた。
「早くめくってください!」と純亭も叫んだ。
 鳩渓は頷き、震える指で丁寧に、それでも急く想いは隠せず、図鑑のページをめくっていった。
「アヤメ、ですね。これはイチヂクでしょうか。なんて美しい色でしょう。こんなに細かく刷れるなんて・・・」
 画は百種類ほども有り、挿絵に近かったころいとぼくすに比べると「一枚絵」として成立していた。美しい画集のようだ。
 手紙には、百年以上も昔の図譜だと書いてあった。阿蘭陀では、古い本なので価値はそう高くないらしい。耕牛はバウエルの口調でそんな感じがすると書いてあったが、鳩渓自身も長崎屋でのバウエルの態度で、ころいとぼつくに比べ、こちらは彼も手放していいものなのだろうという見当はついていた。だが、洋書を貰えたのは大いなる喜びである。彼らから「輸入」という形で購入したら、目の玉が飛び出るほどの値段であることだろう。
「わたしの長屋に保管するのは不安ですし、皆さんにも見て欲しいです。暫くこちらへ置かせていただいていいですか」
 一門の者が自由に見られるようにしたかった。藍水がどどねうすをそうしてくれたように。
「おう、願ってもねえことだ。悪いな。だが、自宅に置けるようになったら、遠慮なく持って帰れよ。これはおめえのモンだ」
「よろしくお願いします。
 あ、でも・・・。一日、持って帰っていいですか」
「ほーう、抱いて寝るのか?」と、藍水はがははと笑った。
 それも、確かに有る。一晩大切に愛でたいと思った。一枚ずつ、ゆっくりと、詳細に眺めたかった。
 しかしそれだけでなく、絵師である大家に見せてやりたいと思ったのだ。既に春信とは何度か盃を交わし、親しくなっていた。

★ 2 ★

 濡れぬよう大切に本を布にくるみ、抱きかかえて、久々にまだ明るい時間に帰宅した。
 軒先でしゃがんで煙管をくゆらす長屋の亭主が、通りすぎる鳩渓の、傘の中を覗き込むように首を曲げた。
「おう、かーちゃん、あれが新しく来た学者様かい?」
 室内に向かって問いかけるが、当然鳩渓にも丸聞こえである。
 声は数軒先にまで響き渡り、雨で仕事に行けぬ亭主共が何人も窓から顔を覗かせる。鳩渓は急ぎ足になり慌てて自宅の戸を開けた。
 白壁町は名前の通り壁を塗る左官職人が多く住む。普段昼間は男のいない町だ。鳩渓も越した時に近所に挨拶はしたものの、会ったのは女房ばかりだった。だが、雨のせいで今の時期は人口密度が高い。

 春信宅を訪れると、部屋の模様替えの真っ最中・・・というわけではなく、雨漏りに対処すべく家具を移動しているところだった。
「あら、源内ちゃん、いいところへ!この箪笥、運んでくれなーい?」
「あ、はい」
 鳩渓は気軽に答え、片側を持って、反対側を春信が持ち上げるのを待っていると。
「源内ちゃんに頼んだのよ。アタシは力仕事はしないの。絵師が手を痛めたら大変でしょ」
「・・・。」
 そう重い箪笥ではなかったので、鳩渓一人で抱え、指定の場所に運んでやった。春信は箪笥のあった場所に器を置いて水滴を受けた。
「大工のヤツ、『雨が止んだら伺います』ですって。雨が降ってるから、困ってるんじゃないねえ。まったくもう」
「これぐらいの雨漏りなら、天井裏から木片でも打ちつければ止まるでしょう」
「誰が打つのよ?アタシは絵師なんだから!木槌で指でも痛めたら」
「・・・わかりました。わたしが修繕します」
 段梯子を壁に立てかけて天井板を一枚抜いて、そこから肩から上を出す。黴と埃の臭いにむせ返った。燭台を倒さぬように置いて、雨が垂れている場所を見つける。あとは木片を隙間ができぬようきつく打ちつけて完成だった。
 下に降りると、「おおきに〜」と春信が濡れ手ぬぐいを差し出した。
「応急処置です。晴れたらきちんとした大工を頼んで下さい」
 手だけ拭いて返すと、春信が鳩渓の頬の煤や髪の蜘蛛の糸をぬぐい取った。
「お礼に一杯おごるわよ」
 その言葉で、鳩渓が国倫と入れ替わる。国倫も、この不思議な大家と接するのが好きだった。
「おおきに」と、国倫もふざけて上方の言葉を真似た。

 春信には、時々とても自然に上方の言葉が混じる。だが、上方出身と考えるにはあまりに綺麗な江戸言葉であり、一時期あちらに住んでいただけかもしれない。
 彼は自分の経歴については語らない男だった。いや、国倫だって自分の過去はベラベラとは話さないし、そんなもんだろう。
 近所の女性達は一風変わった大家に興味津々のようで、色々な噂は国倫の耳にも届いていた。
 元は役者であった。元は僧侶であった。どちらも、小柄で美しいところから出た噂だと思えた。蔭子だったか、寺で春を売る小坊主ということなのだ。だが、国倫は、春信の物腰や教養の高さから、良い家の出だと踏んでいた。部屋には俳諧の本や唐の書籍が高く積まれる。
 誤解を助長するのは、春信の振袖姿だろう。そのまま蔭間茶屋へ上がれそうな格好で町内を闊歩している。売れない絵師は、呉服屋で新品を誂えることはできない。古着で成人の着物は大きすぎる。直してくれる女手もない。もちろん、針で指を傷つけると嫌なので、自分で直すことはない。で、元服前の少年の古着を身にまとうことになる。
「せめて、袖くらいは切ったらどうじゃ?田村先生のお内儀に頼んじゃろか?」
 そう言って国倫が盃を空にする。春信はむっとして「いーのよ。おせっかいねえ」とそっぽを向いた。
「春信さん、実は、気に入っちょるんやろ?」
 国倫が指摘すると、「ふふん」と鼻で笑ってくるりと袖を腕に巻き付け、新たに酒を継いだ。その表情は肯定のようだ。
 男物の地味な着物は綺麗でないから嫌いなのだろう。かつて、幼かった里与も新しい晴着を喜び、袖をひらひらと躍らせた。この男、長い袖が動く美しさが好きなのかもしれない。

「そうじゃ。今日は、おんしに見せよう思おて、おもっしょい本を持って来たで」
 国倫が包みをほどくと、「なに?なに?永寿堂の枕絵?」と覗き込む。
「はあ、しょうもないことゆうちょる。スヴェールツの『紅毛花譜』ちゅう図譜じゃ」
 国倫が本をめくると、春信も「うっそーっ!」と身を乗り出した。
「なんて綺麗なのっ!どうしてこんなたくさんの色で刷れるの!なにこれーっ!本物を切って貼ったみたい!
 やっぱ阿蘭陀はすごいわっ。とんでもないわね」
 春信の浅黒い頬も上気して紅に染まっている。
「可愛い花。これは阿蘭陀の花なのね。日本には無いわよね?」
 椿の葉のような形だが、これが花びらのようだ。開花しているのに「開いて」いない、壺のような摩訶不思議な形。
 ちゅりぱ(Tulipa)と言っただろうか。長崎の商館長のところで鉢植えを見た。
「おんし、これでも、本草はつまらんゆうかね?」
「・・・だめよっ!ぜったーいダメ。アタシは描かないから」
「いや、そういうつもりとちゃう」と、国倫は笑った。
「おんしが、草木の絵はつまらんちゅうから」
「え?ああ、そうかぁ。ごめん。悪いコト言ったわね。
 アタシが『刷り絵なんぞつまらん!』って言われたら、ひっぱたいてたわ」
「言わんといて、よかった」
「なによ、きーっ!そう思ってるわけ!?」

 文机の上には、落書きのような下絵が散乱していた。
 達者な絵だった。薄墨は正確に手足を伸ばす女を描き出している。しゃがむ、投げる、小石を蹴る、歩きながら振り向く。腕の曲がり具合、体の重心、どれも本物の人のようだ。
 国倫が(いや、鳩渓も李山も)売り物の版画絵が苦手なのは、変な方向に腕や足が曲がって、気持ち悪さを感じるからだ。見ていて「痛い」。痛みを伴う方向に腕が曲がっている。なのににこにこ笑っている女の絵は、吐きそうになる。猫の尾や蛸の足ではあるまいし、好き勝手な場所で腕や足が曲がってたまるかと思う。絶対骨折しているぞと思う。
「仕事中じゃったんか?すまんのう。すぐおいとまするけん」
「仕事なんか無いわよ〜。ただ描いてただけ」
「仕事の無い絵師っちゅうのは嘘じゃよな?こんだけ達者じゃに」
 長屋の人々から聞くには、春信はかれこれここに五年ほど居る。絵師の仕事を殆どしていないのは、大家の仕事が忙しくて、というわけでもなさそうだ。
「一度、絵師は辞めたの。十年前、師匠が死んだ時に。もう、いいかなと思って。
 源内ちゃんと初めて会った時は見栄張ってああ言ったけど、絵は遊びで描いて、時々納品する程度」
『もう、いいかなと思って』というセリフが、国倫の琴線に触れて、哀しくも心騒がす音色を奏でた。
『もう、仕官はしたくない』。
 その想いは、大切な何かを抱きかかえ、膝をかかえてうずくまる図に似ていた。

★ 3 ★

 夏場はずっと来年の薬品会準備をして過ごした。準備作業は確かにたくさんあったが、他にすることがなかったのも確かだ。
 藍水を通して、幕府の学者や役人が何人も、非公式に「平賀は浪人ではないのか」という問い合わせをしてきていた。
 辞職が認められるまでは、他の藩から依頼される簡単な手伝いさえ受けるわけにはいかなかった。収入は絶たれ、再び志度からの仕送りに頼る毎日だった。
 飼い殺しのような重い日々だ。あっけらかんと晴れた真夏の青さが恨めしかった。

 九月、やっと辞職願が受理されるという。国倫は小石川御門の上屋敷へと呼び出され、書類を渡された。
 高松を飛び出した時に書いた禄仕拝辞願は「我儘に一出精仕り度く存じ候」と理由付けしたが、木村に却下された。木村が命じた書き直し文は「これからは医師として修行を積むつもりであること。師である医師が老齢で時間の猶予がないこと」というような内容で、「どこのどなたの辞職願いか?」と苦笑する理由付けだった。だが、この内容で受理された。不可解なことだ。全く、藩勤めは自分の性に合わない事だったと、今さらながらに思った。
 係の役人から読み渡された書類の、最後に「但し他へ仕官の儀はお構い遊ばせ候」と有り、国倫は数度瞬きを繰り返した。
 辞職の際にこんな処置があったのは徳川の世の初めと聞いている。非常に珍しい事だと思う。唐突で、意外な気がした。でもまあ、これで他の藩からうるさく誘われる事もないだろう。・・・国倫にしてみれば、その程度の事であった。
 役人は『ざまあみろ』というようににやりと笑ったが、源内がショックを受けた様子もないので、拍子抜けした。だがすぐに、『こやつ、文の意味がわからぬと見える。本当は阿呆なのだ』と自分を納得させた。
どこにも属さない人生、それを想像できない人々が居る。いつの世もそれが多数決で勝る。役人は、これで生意気な天狗の人生もおしまいさと溜飲を下げた。

 飯田橋の上屋敷を出て、これで高松藩とも縁が切れたと、ほっとした気持ちで帰途についた。小石川御門を抜けて神田川沿にのろのろと歩く。水戸様の城壁が切れた辺りで、呼び止める声がして振り向く。
「木村様・・・」
「ここでは上屋敷の見張りから丸見えだな」と、木村は路地へと導き入れた。供は二人いるものの、源内を追って慌てて出て来た風で、袴の後ろの裾が上がったままだ。軽く息が切れている。
「正式に辞職が受理されましたけん。長いこと、お世話になりましたのう」
 殊勝に国倫が頭を下げる。
「うん」と、木村はまず頷く。当然知っていた事であろう。
「元気そうで何よりだ。城から消えた時は心配したが、長崎屋での活躍も聞いた。とにかく無事でよかった。・・・顔は、傷が残ってしまったな」
 はっと国倫は顎の傷を抑えた。木村は、あの事件以来、ずっと源内のことを気にしてくれていたのだ。
「いや実は、平賀が江戸に居る話を聞くまで、殺されて密かに処分された可能性も考え、気が気ではなかった」
「・・・。」
 確かに、奴らが口を塞ごうと考えてもおかしくなかったのだ。布で顔を半分隠していたと言え、声も聞かれている。また会えばすぐにわかるだろう。
 始末して城から居なくなっても、「またですか」と知らん顔で済む。実際、こうしてふらりと藩を飛び出してしまう男なのだから。
 排除する為の嫌がらせだった。いっそ亡き者にしてしまえと考えたかもしれない。もしかしたら、あのまま藩にいたら殺されていたのかもしれない。
 その考えに行き当たり、背筋が凍った。
「ご心配かけて、すまんです」
「言うな」と、木村が国倫の肩に手を置いた。暖かい手だった。長く、国倫に好意的に接してくれた。苦労が多いのか、木村は少し痩せたように思えた。
「頼恭様はご立腹じゃろうね」
 二度までも寵愛を裏切って逃げたのだ。しかも、頼恭が楽しみにしていた図譜の仕事も途中で放り出した。
「殿は、平賀の出奔のわけもお察しである。あの頃、私に平賀の安否を気づかうよう促されたのも殿でおられた。だから異変に気付いてすぐに駆け付けることができた」
「頼恭様が・・・」
「下屋敷に居らっしゃるぞ。最後にお会いして来たらどうだ?」
「しかし、今さら、どのツラ下げて」
 もう二度と会わない筈の人だ。だが、国倫の胸は高鳴り、心が乱れた。
「図譜の画工と細工師が下屋敷に来ている。平賀に指示を仰ぎたいところがあるそうだ。図譜作りの引き継ぎくらいしておけ。薬園の引き継ぎもあるだろう」
「・・・。」
「最後に、きちんと、お別れを申し上げてもバチは当たらん。
 そうして差し上げてくれ。殿の為に。頼む」
 木村に頭を下げられ、国倫は慌てた。
「行きます、行きますけん、頭ば上げてしまいんしゃい」
「かたじけない」と、木村はまた一礼した。

 国倫は、木村が呼んだ早駕籠で目黒へと向かう。予定していなかった再会に、頭の中を文章にならない言葉が舞う。動揺しながらも、文字がどこか嬉しげに躍っている。
『国倫。鳩渓と代われ』
 李山の冷たい声に、国倫はえっと体を堅くした。
『前みたいに、またヨリが戻るとかなわん。鳩渓が出ろ』
『そんなこと、がいにあり得んけん!冗談よしんしゃい!』
 もう、心は頼恭のことで一杯になっていた。頼恭に会える。姿を見ることができる。それ以上のことなど望んでもいなかった。
『李山さん、それは残酷ですよ。もう国倫さんの心は、会える喜びで満ちていたではないですか。それを・・・。最後に国倫さんと会わせてやってくださいよ!』
『鳩渓が嫌なら、俺が出る。知らんぞ、どうなっても。俺は、頼恭に藩への批判を散々浴びせてやるぞ。藩の僻みっぽい愚かな性質のせいで、俺は浪人になるんだ』
 李山なら本当にやるだろう。頼恭がどんなに傷つこうが、彼ならお構いなしだ。
わかりましたと、鳩渓は渋々国倫から舵を受け取る。国倫は『喜んじょるくせに、そげな気乗りせんフリやめちょり!』と捨てゼリフを残し、鳩渓と目を合わせずに立ち去った。
『国倫さん、そんな!』
 いや、哀しみをただ鳩渓に八つ当たりしただけだ。今は捨てておこう。
『李山さんは、慈悲の無いかたです』
『そんなことは昔からわかってるだろう。今度こそ、国倫とあいつを、完全に切れさせるんだ。だらだらと続けるのは、国倫の為にならん』
 李山はいつも正論だ。鳩渓はため息を飲み込んで、駕籠から外の様子を眺めた。赤坂御用地を迂回し、そろそろ麻布へ通りかかる。もうすぐ目黒へ着くだろう。

★ 4 ★

 薬園の引き継ぎに来たと言うと、門は普通に通してもらえた。本草の整理作業は終わっているので、薬園主任に書類を渡すだけである。季節による囲いや水やりを記入した冊子だった。
 その後、高松から来ていた文柳と打合せした。文柳が下屋敷に詰め、ここで江戸の絵師や細工師を集めて、もう一冊同じ本を作るのだという。幕府が、「面白い図譜を作っているらしいな。うちにも一冊よこせよ」と言って来たのだ。
「納期は一月なのです」
 文柳は泣きそうな声で訴えた。幕府も無茶を言うと思う。どれだけ煩雑で手間のかかる作業か考えもしないのだろう。
「全部を律儀に差し出す必要は無いでしょう。幕府だって、うちの図譜に何が載っているかは知りませんしね。
 派手で見栄えがする鯛やクラゲを入れて二十点ほど提出してみてはどうです?本編のように丁寧に鱗を貼って漆を塗る必要も有りません。立体になって、それらしく見えれば大丈夫ですよ。
 手間のかからない品目を選びましょう」
 鳩渓が、今までに作った図譜のリストから、取り敢えずの二十点を選び出す。
「流れ作業でなく、一点ずつ確実に仕上げて行ってください。年末に点数が足りない、間に合いそうもない場合は、高松の分を流用しましょう。あちらはまた作ればいい。幕府への納期は絶対でしょうから」
 エンボスや鱗貼り付けなどの細工作業の確認もしておく。
「わからなくなったら」、白壁町のわたしを呼び出してと言いそうになり、鳩渓は苦笑した。自分は今日で藩の仕事から離れる身だった。
「木村様にお尋ね下さい。的確な判断をなさると思います」
 実際にはもう困る事は無いと思われた。作業は凡例に則り、あとは手細工が続くだけだ。
「幕府には、人のものを横取りしたくてたまらん奴がいてな。困っている」
 背に浴びせられた声に、鳩渓は振り返る。頼恭が、柱に体をもたれて見下ろしていた。襖は今開いた気配が無かったので、先刻からそこに佇んでいたらしい。
 鳩渓は畳に顔を擦りつけるほどに深く深く頭を下げた。文柳も、藩主がぶらりと部屋を訪れたのに驚き、慌てて平伏する。
「この度は、禄仕拝辞願を受理してくださり、ありがとうございます。
 平賀源内、殿に、高松藩に、大変お世話になり申した」
「畏まるな。楽にしてくれ。
 国倫には、座敷に酒が用意してある。ささやかだが料理も有る」
「いえ、本来なら上屋敷だけお伺いするつもりでした。遅くなりますので、これでおいとまさせていただきます」
「また振られたか。おまえは、すぐに逃げるな」
「いえ、そんな」と鳩渓は抗議の目で顔を上げた。
「猿がおまえを狙っている」
 頼恭は、その場に直に胡座をかいた。
「はっ?」
 意味がわからず、鳩渓はぽかんと口を開けた。
「幕府の猿さ。なかなか切れ者で有名な男でな。幕府が図譜を欲したのも奴の差し金であろう。
 浪人になったおまえに、すぐに打診があるだろうよ。手伝いくらいはしてやれ」
 文柳が腰を浮かせ、「私は席を外しておきましょうか?」と尋ねる。
「いえ、いいです」「気が効くな」と、二人の声が重なった。当然文柳は頼恭に声をかけたのであり、鳩渓の意見は無視された。
 鳩渓はむっと唇を結んで、絵師が隣の部屋へ退くのを見送った。
「で、どなたなのです、猿とは」
 人払いするほどの内容なのか?
「今はまだお側衆の一人だが。足軽から大名になった男の息子だ」
「へえ。足軽から、ですか」
 だから『猿』なのか。しかし戦国時代でない泰平の世で、その出世は破格であった。よほどの手腕の持ち主なのだろう。
「先代も油断ならない男だった」
 頼恭はその親子を好いていないような口調だった。
「物産会の準備は進んでいるのか?」
 数日前に会ったばかりのような口調で、頼恭は源内の最近の仕事について尋ねた。そういえば、七年ぶりに京屋で出会った時もそうだった。昨日会ったように、笑って、鼻の頭を小突いた。
「はあ、ぼちぼちと。何せ今回は大規模な会ですので」
「俺も見学したいが、さすがに遠慮しておくよ。木村には様子を見に行かせるが、いいかな?」
「光栄でございます」
 やっと笑顔を作ることができた。緊張していたのか、肩も首も痛んだ。と、頼恭の右手が鳩渓の頬に触れ、再び緊張を強いられた。
「顔に傷が残ったか」
 鳩渓は視線を逸らした。事件のことは頼恭に知られたくなかったと思う。
「たいした傷ではありません」
「綺麗な顔をしているのに、惜しい事だ。・・・申し訳ない。俺の不行き届きだ」
「頼恭様が謝る事ではございますまい。それにわたしはおなごでも役者でもありません。顎の傷一つ、何でもないことです」
 口調に怒りが混じった。頼恭から『綺麗』などと言われるのは、耐えられなかった。自分は色子ではない。成人した有能な学者であると自負している。頼恭には、機知と才能が愛されたのだと思いたかった。いや、『国倫が』、という話だが。
「だが・・・痛かったであろう?」
 情けの籠もったその言葉に、鳩渓は胸を突かれた。怒りで張っていた唇が緩んだ。離れなくてはならないことが、息苦しいほど切なかった。ほろりと涙が頬に落ちた。
「傷よりも。もうお仕えできぬことがつろうございます。わたしが申し出た事ですが。こうするより仕方ございませんでした」
 形式でなく、心から迸り出た言葉だった。
 ああ、そうだなと、頼恭も呟いた。
「仕方がない。・・・そう、仕方が無いのだ。俺もわかっている。このまま藩に居たら、おまえは才能を発揮すればするほど妬まれ、いつか恨み殺される。だから禄仕拝辞願を受理した。そうでなければ、おまえを手放しはしない。
 浪人として、どこの藩のどんな仕事をも受けていい。だが、他の男を『殿』と呼ぶな」
 ああそうかと、鳩渓は納得した。唐突だった最後の一文、仕官お構いは、頼恭のそんな想いが込められていたのだ。それは決して不快ではなく・・・。我が儘だとは思う、だがその強引さは頼恭らしかった。
『俺だけを一生愛し続けろ』、そう言っているのと同じだ。
 こくりと、鳩渓は頷く。
「もとより、わたしも・・・もうどこへも仕官はしないつもりでした。生涯、わたしの殿は頼恭様ひとりで御座います」
 これ以上話をしたら、泣いて乱れてしまいそうだった。
 深く辞し、退出の為に膝を揃えた。
「そろそろおいとまします。高松藩にも頼恭様にも、なみなみならぬお世話になりました。頼恭様に、どんなに感謝しても足りません」
「ああ、いい、もう。そんな形式ばった挨拶は。
 元気でいろよ」
 立ち上がる足が重たい。この部屋を出たら、もう、こんな風に会う事はないだろう。
 国倫に尋ねる。『代わりましょう?李山さんはわたしが何とかします』、しかし国倫は頑に首を振った。
 戸を開けて一礼し、廊下に出ようとして、立ちつくす。
「どうした?」
 声が背中にしみ入る。こうしてよく背中から声をかけられた。それも最後だ。よく響く低い声。温かみのある、頼り甲斐のある声だった。
 肩越しに頼恭を振り返り、会釈して、襖を閉じた。
 終わった。
 子どものように、廊下を泣きながら歩いた。手の甲で涙をぬぐいながら、玄関へと向かった。
 長い廊下の冷たさが足袋の爪先に痛かった。衣が板を擦る音が、鳩渓を責めているように聞こえた。今なら、なぜ国倫が鳩渓に意地悪を言ったかがわかる。
 自分も好きだったのだ、頼恭のことを。
 ずっと気付かずにいた。別れたこの瞬間まで。

『ありがとなあ。おんしのおかげで、冷静に綺麗に別れおったで。
 これでよかったんじゃよ』
 別れ際に乱れて見苦しいところを見せずにすんだ。国倫はもう諦めがついていた。精一杯愛したから、もういいのだと。
 頼恭が恋をしたのは鳩渓にかもしれない。だが、それももうどうでもいいこととなった。全て終わってしまったのだから。

 帰路は駕籠に乗らず、歩いて帰った。出た時は夕方だったが、とっぷりと日が暮れた。秋も深まって、星の白さが際立って来た。
 帰ったら、『三人で』呑もう。鳩渓も酒宴に入れてもらおう。今夜くらいは酔っぱらってもいいと思う。
 東の空で、頷くように星がまたたいた。




第27章へつづく

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