★ 私儀、甚だ多用にて ★
第二十七章
★ 1 ★
秋も深まり、白壁町の源内邸では火鉢の炭の量も多くなる。
江戸は寒いと思う。乾燥した風が路地に吹きすさぶ。安普請の借家はすきま風にガタガタと桟を鳴らす。来客の玄白が思わず短い首をすぼめた。
「すまんのう、寒い家で。せめてもっと奥へ入りんしゃい」
国倫の言葉に、「はい」と玄白はずりずりと居場所をずらした。国倫は、玄白が持ち込んだ薬草を次々に鼻に近づけながら香りを嗅ぎ、行灯に透かし、質を確かめる。
「おう、玄白さんが買うた値段は妥当なもんじゃの。一級品じゃなかろうが、正しい薬草じゃ」
「ありがとうございます」
玄白はぺこりと頭を下げ、袂から紙包みの金子を取り出した。浪人になった源内は、薬草や鉱物の鑑定で生計を立てていた。
「玄白さんから金なぞ取れんよ」
国倫は苦笑して包みを押し戻す。金持ちの医者や薬問屋から、謝礼はたっぷりいただける。そして、実際の仕事は、薬の見立てというのは少ない。鑑賞用の石や庭園用の珍しい樹木を鑑定する事が殆どだった。『平賀鳩渓の見立てである』というのは一種のブランドになった。江戸での本草学者としての源内の名声は、そこまで高くなっていた。
「しかし、友人だからと言って。私は仕事としてお願いしたのだし」と、生真面目な玄白は、再び金子をこちらへと押す。国倫はちょっと彼をからかいたくなる。
「何なら、薬屋にはわしが『上方でなら半額で買える粗悪品じゃ』と言うちゃろうか?慌てて半額にしてくれるけん」
「馬鹿言わないでくださいっ!」
玄白は語気も荒く腰を浮かす。色白の顔が怒りで上気し、こめかみにも皺が寄る。その素直な反応がおかしくて、国倫はまたにこりと笑った。
「わしへの鑑定料が浮いた分、患者に薬を安く分けてやりぃ」
からかわれたのに気付き、玄白も「あ、はい。では、遠慮なく」とすごすごと金子を引っ込めた。
「アサリの汁、飲まんかね?」
「は?」
脈絡なくアサリが出てきて、玄白は聞き返す。茶や酒でなく、味噌汁とは。
「去年の火事の時に助けた坊主が、最近アサリ売りの手伝いの仕事を始めたんじゃ。で、時々、礼代りにアサリを持って来る。こっちは独りもんで料理もせんし、長屋に配っておったが、味噌汁を作ってわざわざ持って来てくれる女房もおるんじゃ」
「ああ、あの小網町の子供?」
「よう知っとるのう」
「純亭から十ぺんも聞きました」
「純亭から?」
国倫は怪訝そうに首を傾げた。彼はあの火事跡には居合わせなかった。同行したのは田村の長男の元長だ。
「純亭は元長さんから百ぺんも聞いたそうです」
「なるほど」と国倫は照れくさそうに鼻の下を擦った。元長があの事件を吹聴してまわったのを知っていたからだ。
去年の神田旅籠町の火事は、大川も越えて本所まで広がった。紺屋町の田村の自宅も、日本橋の玄白の医院も被害に遭った大火事だ。国倫は、鎮火後に田村一門の薬園を案じて本所を見舞った。その途中、道端に倒れる十二、三歳の少年を見かけたのだ。少年は瀕死の状態だった。
国倫は薬園で人を呼んで取って返す。その際に、一緒に飛び出したのが元長だった。国倫が百花街の朝鮮人参を少年に与えると、息を吹き返した。
『元長が見たのは、着物は焼け焦げ、全身煤と泥にまみれた、乞食と見紛うばかりの子だったそうです。右頬は火傷でただれ、髪は焦げて縮れ、両足にも火傷がありました。息をしていなくて、もう助かるまいと思ったそうです。
元長が触れるのもためらうようなその子に、源内さんは、懐からおたね人参を取り出すと、自分でかみ砕いて柔らかくしたものを口うつしで与えたんです』
玄白は、純亭の言葉を詳細に思い出す事ができた。純亭はまるで自分の手柄のように、源内の美談を何度も玄白に聞かせた。
少年は半刻ほどで正気を取り戻し、さらに人参を煎じたものを飲むと、自力で立ち上がれるほどになった。田村家では着替えと供を与えて、小網町まで送り返したという出来事だった。
「たんと有るけん、遠慮せんでええよ」
礼を述べて玄白が椀をすすると・・・。
「冷たいですよ?」
「貰ったんは一刻も前じゃけん。薪が湿気て竈が使えん。うちでは温め直せん」
当然、飯も無い。だが、出されてしまったので、玄白は冷えた味噌汁をコクリと飲み込む。
「純亭が思うような、綺麗事とはちゃうがね」
国倫はぽつりと言い訳すると、歯に染みるような汁をゴクゴクと飲み干した。
この少年は、元々火傷はたいしたことがなかった。体力がひどく消耗していただけだ。即効性のある朝鮮人参なら何とかできる。国倫が特別すぐれた治療を施したわけではない。
そして、少年が元気になれば、田村の百花街人参の効力を証明することができる。国倫の頭の中には、素早くそんな計算が蠢いた。輸入の朝鮮人参を高く売ろうとする薬問屋たちが、和人参は効かないというデマを流していた。そのことに、国倫は腹を立てていたところだった。
国倫が江戸を離れている間に、元気になった少年はこの件を多くの人に話して回ったようで(そして元長も)、そのせいというわけでもなかろうが、今は和人参もきちんと効くと認識されている。
してやったり、だ。
が、国倫の口の中で、アサリの身はいつまでも噛み切れずに音を立てた。最初は、計算は無かった。純粋に少年を助けたいと思った。どのあたりから、打算が働き出したのだろう。
自分の性格にうんざりし、国倫はふうと深いため息をついた。
★ 2 ★
窓だけでなく、戸の辺りもがさごそと木枯らしが音を鳴らした。が、その音を、ずっと、風だと無視していたら、「ちょっとー!いい加減に開けてよっ。アタシの細い腕に何させんのよ!」という春信の声が響いた。
国倫は慌てて引き戸を開ける。春信が木箱を抱えて立っていた。
座敷から訪れた人物を覗き込んだ玄白は、『えっ?』と目を細めた。
女性?・・・源内のところに訪れる、親しげな女性がいたとは!
人物は藍色の振袖を纏っていた。が、髪は斬髪に近く、やっとそれが男、しかも結構年配である事に気付く。
「帰ったんなら、一声かけてよ!ここんとこ、源内ちゃん宛ての荷物が、頻繁に届くんだからねっ」
そろそろ、来年の物産会用の荷も届き始めた。昼間は田村のところに出てしまうので、春信が預かってくれる事が多かった。
「おお、すまんのう」と、国倫が木箱を受け取る。行李程度の大きさで国倫にはそう重くも感じられないが、細腕の春信には負担だったかもしれない。
「あら、ご来客?騒がしくて御免なさぁい。アタシ、大家の」
「穂積次郎兵衛どのじゃ」
「きーっ、その名前はやめてって言ってるでしょ!
絵師の鈴木春信っていうの。・・・よ・ろ・し・く!」
春信のペースにたじたじになりつつ、玄白も名乗って挨拶を交わす。
春信は玄白をじろじろと容赦なく眺めると、「ちょっと、玄白ちゃん、立ってみて?」と人差指をくいくいっと上げた。
『玄白、“ちゃん”?』
思わぬ敬称にうろたえつつ、言われるがままにその場に立ち上がった。春信はその横に並んで、「ふうん」と真正面から玄白の顔を直視した。
「な、な、なんですかっ?」
「ねえねえ、この人、アタシより小さいよね?」と、春信は国倫を振り返り、自信たっぷりに尋ねる。
国倫は木箱を開いて中身を取り出しながら、ついでに二人を一瞥し、「いいや。おんしの方が、拳ひとつ低いけん」と正直に返す。
「・・・あら、そ。ちぇっ、江戸でやっとアタシより小さい男が居たと思ったのに!」
「・・・。」
玄白は呆気に取られ、この失礼な態度に怒る気も失せて立ち尽くした。
「東都薬品会用の物産ですか?」
気を取り直して、玄白が国倫に尋ねた。国倫は、箱の中身の鉱物や乾燥した草を床に広げ、腕を組んであぐらをかいたまま、考え込んでいた。何か気になる物産が入っていたようだ。
「いや、薬品会用とはちゃう。伊豆からの荷じゃ」
源内が著名になったので、全国の本草蒐集家達が、源内へ「物品収集の協力」を申し出るようになった。伊豆の鎮(しずめ)惣七もその一人だった。
伊豆は温泉地であり、貴重な鉱物が出る筈で、田村一門にも気になる場所だ。国倫は鎮の力を借りて、人を派遣して伊豆で珍しい物品を集めさせ、定期的に送らせていたのだ。
「うーん。芒硝。朴消。これはかなり怪しい。この石ん中にあるといいんじゃが」
芒硝は腎臓の薬で利尿を誘う。たいへん高価であり、しかも唐からの輸入に頼っている。朴消は芒硝を精製する前の、原料となる成分。国内で発見できれば、もう高い金を出して輸入しなくてもすむ。どれほど庶民が助かることか。
そして、瞬時に想像する。芒硝発見者として君臨する自分の名声を。・・・ぎゅっと、国倫は痛みを伴うほどに唇を噛んだ。あかん、あかん。こういうところが、わしの駄目なところじゃのう、と。
「芒硝が国内にあるわけは有りませんよ?」
きょとんと瞳を丸くする玄白に、国倫は、にかっと笑って見せた。
「そうじゃのう。有ったら、また、薬問屋に嫌われるの」
「お邪魔みたいですし、用も済んだので、私はおいとまします」
玄白は一礼し、土間へ降りて草履を履いた。
国倫のことは決して嫌いではないが、自分は鳩渓の友人であるという自覚があった。彼が出て来ない以上、用向きも終えたので長居する理由は無い。
「あら。まあ」
春信はふふんと鼻をならして唇の端を上げた。
「別にお邪魔じゃないわよ?何を勘繰ってるのぉ?アタシは衆道じゃないし、源内ちゃんとはただのお友達よ?
玄白ちゃんて、もしかして〜、源内ちゃんに惚れてるのぉ?」
「こらこら。失礼なコト言うなっちゅうに。
すまんのう、玄白さん。こやつに悪気は無いんじゃよ」
国倫も下駄を突っかけ、玄白を送って戸口まで出た。
春信に聞こえないよう、小声になる。
「鳩渓が引き籠もり中でのう。相手するのがわしですまんの」
「いえ、そんな。・・・何かあったのですか?」
九月から玄白は鳩渓と会っていなかった。いつも李山か国倫が表に出ていた。今夜依頼に訪れたのも、友と会いたい気持ちが無いとは言えなかった。
「私は、何かしたのでしょうか?鳩渓さんに嫌われるようなことを」
「うんにゃ。あいつは、自分が衆道だと気付いて、男友達と会うんが恐くなったんじゃろ」
「・・・え?」
『やめてくださいよっ!そんなことまで玄白さんに言うのはっ!』
源内の意識の中、鳩渓が力まかせに国倫を突き飛ばした。
『いたた、何するんじゃ』
『あなたに何がわかるんですっ!』
国倫が、倒れる拍子に鳩渓に舵を握らせた。無意識に鳩渓はそれを握った。
「あなたに何がわかるんです!」
それは実際の声となって、土間に響いた。
「え。あ、す、すみません」と、玄白はわけもわからず頭を下げ・・・「鳩渓さん?」と視線だけを上げた。
「あ・・・。玄白さんに言ったわけでは。
す、すみません、国倫に怒っただけです」
先刻とは、もう顔つきが違う。柔らかくて、気弱そうな、線の細い男。鳩渓がそこに居た。
玄白は静かに微笑んだ。「お久しぶりです」
「・・・こちらこそ。御無沙汰して、すみません」
「ねえ、鳩渓さん。大丈夫ですよ。私達は。私は」
玄白は自覚している。衆道の男に注目されるような美形ではない。女にだって相手にされない容姿だ。たとえ鳩渓が衆道だろうと、ぎくしゃくすることは無いだろう。自分が鳩渓の性愛の対象になるとは、とても思えない。
「まだ、友達でいてくださいますか?」
まるで十才の少年のように、鳩渓が問う。
玄白は苦笑し、頷いた。
荷にあった『怪しい』鉱物は、結果、後日精製したところ、朴消が検出された。この事を藍水に報告すると、藍水は幕府の田沼意次に告げた。
そして、源内は伊豆へ赴く。幕府から正式に伊豆芒硝御用を命じられたのだ。年末でも伊豆はまだやや温暖で、そう厳しい気候ではなかった。医療用として十分な芒硝が採取できたのは、伊豆の代官・江川氏の協力に依るところも大きかった。
芒硝の発見に、江戸の本草学者達は湧いた。だがその興奮は、源内が開催する宝暦十二年の東都薬品会の前触れに過ぎなかった。
第28章へつづく
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