★ 私儀、甚だ多用にて ★
第二十八章
★ 1 ★
冬を越し春が逝き、薬品会が近づいて来る。
初夏の日差しが照りつける季節になると、国倫の心はざわざわと期待と興奮で騒いだ。
今まで草木中心だった薬品会だが、今回は鉱物も多く取り扱う事に決めた。昨年の芒硝の経緯は、幕府が鉱物開発に乗り出している証拠だ。これからは、鉱物だ。
そして、田村門下以外の知人・友人にも出品の声をかけた。数回の薬品会や長崎屋での活躍、また本草の見立ての仕事などでも国倫は顔が広くなっていた。
毎回薬品会は注目度が高いが、今回の規模は特別だ。きっと、十年は語られると国倫は自負していた。それに参加したとなれば、今まで無名だった医師や学者も知名度が上がる。
「私などが」と気後れしていた玄白も、国倫の強い勧めでテレビン油など数点出品した。
この頃の国倫は多忙を極めたが、田村邸から帰り白壁町の大家宅で軽く飲むのが楽しみになっていた。
春信との会話は面白い。彼は頭の回転が早く、鼓のようにすぐに気の利いた返事がかえって来る。
彼が桃源の名を知っていたのにも驚かされた。桃源からの手紙を春信が預かってくれたことがあり、春信はこの俳人の存在を知っていた。故郷の親友・渡辺桃源は、俳句に関して西ではそこそこ有名な男だ。俳句の会は全国にネットワークを持っていて、今回の薬品会の集荷も桃源の顔の広さを頼った部分もある。
春信の部屋には、絵とは直接関係なさそうな、俳句和歌や戯作の本が本箱に入り切らずに平積みされている。彼の師匠は見立て絵が得意だったので、春信もかなり和歌や俳句の本を読んだそうだ。
「渡辺桃源の一派に、変な句を詠むヤツがいない?」
春信は床に横座りして盃を嘗めながら、その『変な句』を思い出したのかクスクスと肩を揺らした。国倫は嫌な予感に盃の手を止めて、言葉を待つ。
「桃源さんって源内ちゃんと友達なぐらいだし、一派に医者や学者が多いの?なんか一人、普通の草木じゃなくて薬草の名前を入れたり、『磁石』とか『世界』とか風情の無い言葉を入れる俳人がいてさあ」
「・・・。」
「なにげにちらっと知識をひけらかすのよね。その子供っぽさがおかしくて。しかも、俳句は下手っぴなのよ〜」
国倫は心で『わしの俳句が下手っぴで、何かおんしに迷惑かけとるかぁ?』と悪態つくと、一気に盃を煽った。春信が、『李山』の俳句まで知っていたとは。絶対、自分だと知られないようにしなくては。
春信のとのやり取りはいつも面白可笑しい。頼恭と離れた寂しさや藩で受けた痛みも、少しずつ和らいでいった。
そして、国倫よりも落ち込みの激しかった鳩渓も、薬品会が近づくにつれ元気を取り戻しつつあった。
鳩渓は本草に関わっている時が一番生き生きしている。作業が深夜に及ぶと田村邸に泊まり込みする事も増えた。そんな時も鳩渓は朝も日の出になると起き出し、物品の整理作業の続きを行った。藍水から「あまり根を詰めるなよ。当日は平賀くんが頼りなんだ、今倒れたらどうする」と釘を刺されたが、鳩渓の高揚感は止まらず、寝るのも惜しい心持ちなのだった。
そして、宝暦十二年閏四月。
前日の夜遅くまで、田村一門は京屋で物品展示の準備を行っていた。出品数千三百という今回の規模は空前絶後である。今までの会は二百前後であった。展示品を効率よく並べるのはもちろんだが、物品の関連付けや出展者への配慮も必要だった。高名な学者や、取りまとめしてくれた医者の物品は、それなりの位置に展示せねばならない。門下の者達は事務作業は苦手だ。こんな時、国倫の段取りの巧さが物を言った。
作業が終わると、二人ほど京屋に残し、それぞれが深夜の帰宅となった。国倫も白壁町へと帰った。四つ(十時)を過ぎていたので、町内へ入る木戸も閉められていた。大家がすぐに気付き、「源内ちゃん、おかえり〜」と木戸を開けてくれた。
「すまんのう、遅うに」
夜は気候がまだ肌寒く、春信は木綿の女物の袷に群青色の振袖を肩にかけていた。その袖が風でひらひらと踊っていた。
「そっちこそ、毎日大変ね。いよいよ明日ね」
国倫は提灯を持つ腕を下げ、笑顔だけで応えた。灯に照らされた顔は疲れが隠せなかった。
「これ、健康のお守りよ」
どこの神社でも見た事の無い小袋だった。が、柄に見覚えがあったのは、以前春信が着ていた着物のハギレだったからだ。
「アタシが縫ったんだよーん。手先が器用だから結構うまいでしょ?」
「おんしが?」
あれほど指や手を傷める事を気にしていたのに、自ら針を持ったというのか。
「そんなのより、中身を見てよ、中身!」
促されて、提灯の柄を春信に託し、もどかしく袋を開く。細かく折りたたまれた紙は市販の刷り絵ほどの大きさがあった。全部開くと、それは春信が描いた絵、それも笑い絵だった。
「あんなぁ」
呆れて国倫は眉を下げて笑った。
「ね。元気になるお守りでしょ」
春画は戦国時代にはお守りとして武将が鎧に入れた。今も旅に出る時にお守りとして携えたりもする。が、「お守り、お守り」と言い訳しているだけで、別の目的に使うのは明らかなのだが。
「ありがとなあ。じゃが、元気になりすぎると眠れんぞ?危険な絵じゃ」と国倫が冗談で返すと、「アタシの絵が良過ぎたかしらん?でも、そんなバカ言ってる余裕があれば、明日も大丈夫そうね」と、春信がどん!と背中を叩いた。
★ 2 ★
閏四月十日。
朝からその日はよく晴れていた。薬品会は明け六つという早い時刻から開催された。物品を観察する会なので蝋燭の明かりの下では無理が有り、日が暮れると閉会になる。それで始まりも早いのだ。
今回受付は門の若い者らが勤め、国倫は藍水や梨春らと共に解説要員として会場に居た。質問された事に即座に的確に応え、またもっと詳しい者を呼びにやる仕事だ。と言っても、ここの仕事の目的は「顔つなぎ」、来訪者と挨拶を交わし懇意になることだ(と国倫は割り切っていた)。
どこかの藩の学者が三人、ざっと嘗めるように会場を見て回っていた。千三百のうち、全部が稀少とは言わないが、ただ見ればいいというその様子に国倫は苦笑する。彼らの北の言葉は唇が重く聞き取りにくいものの、『藩命で仕方なく来た』『これを見たと言えば地元でハクが付く』と小声で言い合い、物産には興味もないようだった。国倫とすれ違い会釈をしたので、こちらも丁寧に礼を返す。たぶん今日の客の半分は、こんなだろう。
だが、残りの半分は、時間をかけじっくりと観察し、鋭い質問を投げかけて来る。市井の学者であろうと、下位の藩医であろうと、そういう相手には国倫も知識を惜しまず伝えた。
今回、田村門で注目していた物品の一つに『石綿』がある。
竹取の翁の伝承では赫夜(かぐや)が火鼠の皮衣を求める。燃えない布。それには燃えない糸が必要だ。つまり、燃えない材質で、糸に縒れ、織る事ができる物を探せばいい。
石綿は白っぽい繊維質の鉱物である。武蔵国那珂郡の中島利兵衛の出品だった。
不燃の布を織ることができれば、江戸の火事の被害も最小限にできるかもしれない。讃岐の田舎から出てきた国倫には、江戸の火事の惨状は衝撃的だった。本所の田村の薬園を見舞う際に、焼け落ちた家屋の間を辿った記憶はまだ生々しい。材木と紙と、そして人の焦げた臭いに目眩がした。人参を与えた少年の、肌のケロイドの痛ましさは、今思い出しても切なくなる。・・・『燃えない布』には、高い研究価値が有ると思えた。
高額な薬と化す本草や美しい色の奇石に混じったそれは、展示品としては地味だった。だが、桂川甫三をはじめ数人の学者が目に止め、詳しく聞きただした。甫三は一流の医師だが学者としても先端に居た。藩の役人で殖産に携わる者も何人か問うて来た。その中には高松藩の木村も居た。
「平賀、元気そうだな」
木村の姿に驚き、深々とお辞儀をしながら、国倫は一瞬で動脈が沸騰したかと思った。顔を上げると慌てて周りを見回した。
「私だけだよ。今、殿は江戸にはおらんし」
困ったように片方の眉を上げ、木村は笑ってみせた。ああそうだったと、国倫はため息をつくが、動悸は収まらない。
「おまえが藩を去る時、薬品会は覗くと言っておいたが、私の事なぞ忘れていたんだろう」
「いえ、そんな」と頭を振りつつ、そう言えばと記憶を辿った。
「あの石綿の出品者とは懇意なのか?」
「中島氏は今回初めての参加じゃけん、面識は無いです」
「今日はいらっしゃる?」
「いえ」
「ふうん」と曖昧な返事をし、木村はそれ以上は石綿については触れなかった。重要と悟られたくないのだと国倫は気付いた。
「そうだ、平賀、平線儀を作れるか?」
「ええーっ、またかいのぅ!」
以前、船用方位磁石を依頼され、揺れに強い机上版を製作した。今度は平線儀か。これらはしくみ自体は簡単で、作っていて退屈なものだ。だが科学知識のない職人が作れるものでもない。
「謝礼ははずむぞ」
「浪人じゃけん、それには弱いですのう。薬品会が仕舞えば暇になるけん」
「別に急がん。今日が済んでも本の執筆で忙しいだろう?その合間でいい」
「出版の道が閉ざされたもんを、そう根詰めて纏める気にはならんて」
「ああ、そうか」と木村は破顔した。
「平賀はそんな風に思っていたか。悪かったな、きちんと伝えなくて。一度約束したことだ、頼恭様はおまえの本を出すのを止める等とは全く考えていないぞ?」
「・・・え?」
体の中で、鳩渓が国倫を突き飛ばして、舵を握った。
「木村様、それは本当ですか!」
『いたたた・・・。鳩渓は乱暴じゃけん』
「騙してどうする。資金のことは安心して励めばいい」
「あ、ありがとうございます!」
あまりに勢いよく頭を下げ、鳩渓は胸元の煙管入れにゴチンと額をぶつけた。
「そうか、この石綿の出品者は居られぬか」
もう一人、火鼠の皮衣に興味を持つ者が居て、鳩渓も木村も思わず声の方を振り向いた。藍水が不在で代わりに息子の元長が相手をしていた。四十半ばのやせ細った神経質そうな武士で、彼も殖産関係の役人に見えた。学者でも医師でもない。長身ではないが手がやたら長く、袖の擦れた質素な羽織は裄が足りていなかった。覗く手首も人の手でないようにすらりと長く痩せている。
鳩渓の方を見て黙礼したので、こちらも返す。細く鋭い目が鳩渓をしっかりと見据え、鳩渓はぞくりと悪寒がした。頭のいい男には二種類有る。聡明な者と頭が切れる者。この男は後者だと感じさせた。この男のまわりに漂う『怖さ』を鳩渓は肌で感じた。
男のひどく窪んだ眼窩や歯茎の出た口許は、霊長目の動物を連想させ、さらにシャレコウベを思い出させた。
男が元長と連れ立って去った後、木村が「猿か」と吐き捨てた。温和な彼のこんな言葉は珍しく、「あの方をご存じなのですか?」と尋ねてみた。
「平賀は面識が無かったのか。あれが田沼意次殿だよ」
「えっ」
田沼からは藍水経由で芒硝御用等の仕事を依頼された。田村門の仕事の中心は朝鮮人参の研究と育成だが、現在はそれの担当も田沼である。
『猿が、お前を狙っている』
最後に会った時に頼恭が確かそんなことを言った。
「平賀の禄仕拝辞願がまだ宙に浮いていた頃、幕府から打診があってな。江戸に居るおまえに仕事を頼みたいと。
田沼殿は事情は知らんわけだが、頼恭様は気分を害したようだ。
その後も平賀が任された衆鱗図の噂を聞き、一部献上しろと言って来た。あの猿は、おまえの仕事を確認したかったんだろう。少なくとも殿はそうお考えで、立腹していた。
まあ、頼恭様も、以前から、吉宗様に可愛がられた田沼家に軽く嫉妬を感じておられたようで。頼恭様にとって上様はあこがれのかただったしな。感情的な好き嫌いもあるのかもしれん」
「・・・。」
「私も、あの男は好きになれない。彼は、誰かを一時珍重しても、邪魔になるとトカゲの尾のように切りそうな、そんな匂いがする」
「木村様は、わたしも、田沼様の仕事をすれば、いつか尾のように切られると?」
「いや、その」と木村は口ごもった。言い過ぎたと感じたのかもしれない。
その時、「平賀!」と藍水の呼ぶ声がした。誰か客が解説を求めているようだ。
「では、失礼しますね」と鳩渓は木村に軽く挨拶をすると、背を向けた。
が、すぐに振り向き、にこりと笑ってみせた。
「わたしはトカゲの尾でなく頭です。頭を切ったらトカゲは死にますよ」
「そうだな。確かに」
木村は、すまんとでも言うように、頷いて片手を挙げた。
この日はあちこちで平賀平賀と名を呼ばれ、走り回った。鳩渓はこの後はもう現れず、ずっと国倫が表に出て人と接した。日が暮れる頃には、目の奥と足の裏が痛くなった。
平賀源内の、晴れがましい功績となる一日だった。
第29章へつづく
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