★ 私儀、甚だ多用にて ★

第二十九章

★ 1 ★

 疲れた足を引きずるようにして、白壁町へと戻る。陽は落ちかけて、もう七つ半を回っていると思われた。

 薬品会は昨日の夕暮れで閉会し、本来ならすぐに片付けを始めなければならない国倫だったが。夕刻からは、田村と共に料亭で、京屋の主人やスポンサーとなった薬問屋の旦那方との酒宴に参加した。得意の社交辞令と洒落た会話で笑いを取って彼らを上機嫌にさせ、田村を苦笑させ、それからまた会場に戻って片付けの手伝いをした。
「源内さんは、もう休んでいいですよ。お疲れなのだから」
 純亭が体を気づかってくれたが、今まで酒宴に出ていたのにこのまま帰るわけにはいかない。それに、まだ、このざわざわした空気の中で、高揚感を味わっていたかった。
「大成功でしたね。おめでとうございます」
 純亭が、敬語で祝福を述べた。
 照れもあった。「まだここまでしか仕舞いしとらんか」と眉を上げてみせて、門下の者と共に深夜まで物品を箱詰め作業した。送り返す物は丁寧に紙や布に包み、必要なら藁を詰め、元の箱に入れる。その箱は中継所ごとに置き場所を分ける。事前に作っておいた礼状も添える。煩雑な作業に、時々、ふっと瞼がくっつく。
「おっと!」と首を振り、国倫は作業を続けた。
 ・・・が、何度目かには瞼はもう瞑ったままになり、いつのまにか眠っていたらしい。畳に突っ伏して眠る肩に、純亭の羽織がかけられていた。
 もう誰も居ない。とうに陽は高かった。顔に陽が当たって暑くて目覚めたようなものだ。
荷物は皆が片付けてしまい、二十畳の座敷は畳だけが向こうまで広がっていた。東西の知を究めた物品はとうに無い。昨日の余韻は何ひとつ残っていなかった。・・・寂しくも切ない風景だ。
 終わってしまった。何カ月も心血注いだ物産会が。
時を操るからくりがあるなら、昨日の朝に戻りたい心持ちだった。
「おや、平賀先生。お目覚めですか?」
 女中が気付いた。このまま畳に伏し続けるわけにもいかず。遅い朝飯を馳走になり、こうして今、白壁町へと戻るところだった。

「あら。おかえり」
 大家宅前を通ると、必然、声をかけられた。
「東都薬品会の成功、おめでとう」
 春信はいつも居る。出かけることは殆ど無い。
 疲れているので「おう」と手だけ挨拶して素通りしようとするが、「いい酒があるわよ。源内ちゃんの為に買っておいたの。お祝いに奢るわ」などと言われる。
 お邪魔すると、春信は珍しく仕事中だったらしく、絵の具や絵筆を手際よく片付けていた。板張りの部屋にまだ乾かぬ春画が広がる。
「枕絵の仕事かいに?」
「これなら、アタシみたいな無名絵師にも仕事が来るのよ」
 なにを言うちょる、と思う。あまりバリバリとは仕事をしたくないくせに。
 春信は盃でなく、湯飲みを二つ持って来た。大酒飲みの絵師は、盃で飲むのを面倒がるのだ。「お疲れ様」と国倫の湯飲みに酒を注ぐと、自分の分は手酌で満たした。
「あーあ、終わってもうたよ、何もかも」
 疲労のせいかぐびりと飲み干す気になれず、国倫は嘗めるように酒を啜った。そして小さく溜息をついた。高松藩を辞めてから、頼恭のことを考えないようにして薬品会の準備に没頭してきた。多忙であり、充実し張りのある日々だった。大丈夫だと思った。この分なら、そう痛みも無く忘れられる、と。
 木村に会った時、頼恭も一緒かと、脈が沸騰しそうだった。まだあんなに動揺するなどと。自分は愚かな男だ。
「じじいが隠居するみたいなこと言ってないでよ」
「そげなひどかことぬかしおって。・・・なんやら、肩の力が全部抜けてもうたんじゃ。きばり過ぎたのかもしれんのう」
「なんか、燃え尽きて灰になった炭だわね」
 春信の声には呆れと憤りが混じっていた。だが、国倫は苦笑して「そうじゃな」と、素直に肯定した。
「そんなじいさんみたいな源内ちゃんは、キライよっ。いつも元気で、目ぇキラキラさせて、いろんなことが楽しそうでさ。側にいるとアタシもつられて楽しくなる。そんな方がいいよ」
 そうかぁ、わしは他人にはそう見えちょるのかぁと思った。あまり順風とは言えぬ人生だと思うが、確かに自分は楽しんでいる。つらいことも、苦しいことも含め。
 春信は褒めたわけでなく少し怒っているのだが、こんな風に言ってもらえたのは嬉しかった。
「わしが元気になったら、おんしはまたわしを好いてくれるかいね?」
「え?そりゃあ」
「そしたら、さしてくれるけん?」
「もーう、おまえさんは!すぐそんな話になるんだから!」
 春信は、国倫の頬を両手で左右に引っ張った。
「いたた、痛いぞ」
「でもまあ、いつもの源内ちゃんに戻ったみたいね」
「・・・まだ、やらにゃならんことは、たんとあるけん」
『そうですよ!やっと、物類品隲の続きにかかれます!』
 酒を飲む時に、鳩渓が口を挿むのは珍しいことだった。
「やっと、今までの、おめめキラキラの源内ちゃんに戻ったね」
「ほいじゃ、させてくれるか?」
「ばーか。またつねるよ」
 春信は、国倫の茶碗に酒を継ぎ足した。国倫は今度は躊躇せず、それをごくりと呑み干した。旨い酒だった。

 明日からは、体を鳩渓に任せ、物類品隲の原稿書きに集中してもらおう。宋紫石に絵の続きも頼まねばならない。
『国倫さん!あまり呑まないで下さいよ!わたしは二日酔いはイヤですから』
 女房のような鳩渓の小言もいつも通りでまた心地よく、国倫は酔いに落ちていった。

★ 2 ★

 連作の絵を納め、版元から少しまとまった金子(きんす)を得た春信は、鰻の蒲焼(冬場の鰻は脂が乗って旨い)と熱燗を買い求め、腕に抱えていた。滅多に外出しない春信は、寒いのが苦手だ(当然暑いのも苦手だが)。
女物の袷を二枚重ねるが、それでも凍えるほどだ。こんなに冬の日に、往来を行く人々が多いのに呆れる。早朝は、川べりの乞食など事切れたのではと思うほどの寒さだった。
蒲焼の包みと大徳利を行火のようにきゅうと胸に抱いて暖を取る。これは源内先生への差し入れだ。あの先生は、正月も故郷に帰らず、難しい本の執筆を続けていた。高松藩の浪人だそうだが、西の言葉が混じるので江戸屋敷勤めではなく、讃岐の人間だろうと予想は出来た。確かめたことは無いが。
江戸の町人は、生まれや経歴を尋ねない。そんなことでは人柄ははかれない。自分が接して人を判断し、友達になったり仕事を任せたりする。懇意になれば、自然に身の上話も出るようになる。大家として記載すべき最低限のこと以外は、こちらから聞くのはルール違反だ。
先生は、秋頃から田村藍水のところへも殆ど出向かず、家に籠もって黙々と原稿をまとめている。本草や石を見る小銭稼ぎも、今は休んでいた。

 春信邸のすぐ裏手、棟割長屋まで行かぬ隣家が、源内の借家だった。
部屋を覗いた。火鉢の火が消えているのか、戸を開けるとしんと冷えた空気が頬を襲った。外の方が暖かいくらいだ。
「源内ちゃん?」
 不在なのか?蕎麦でも食らいに出かけたのかもれない。だが、蒲焼は無駄になっても、酒は呑むだろう。帰るまで中で待とうと、勝手に三和土を上がって奥へと入った。
 畳に、源内がうつ伏せに倒れていた。
「源内ちゃん!」
 悲鳴に似た声が出た。部屋にはいつから火の気がないのか、壁も障子も霜が降りそうな寒さだ。外では凍え死ぬ者もいる季節だった。
 伏せた姿勢のまま、源内が片手を挙げた。生きてはいるようだ。手首が曲がり、春信を『近くへ』と呼んでいるように見えた。
「どうしたの?具合悪いの?お医者を呼んで来るね!」
「炭が買えなくて・・・寒かったので。畳に伏して暖まっていただけです・・・」
「え?」
「こうしていると、少しは暖かです」
「何やってんのよっ!人騒がせなやつねっ!」と、春信は源内の胸ぐらを掴んだ。
「うわっ。起きると寒いです〜」

 春信からもらい炭をして、やがて部屋は少しは暖かくなった。陽も当たり始め、先生はやっと人心地付く。煙管を取って、炭から刻みに火を付けた。
 赤い、女持ちの綺麗な煙管が似合う。描けば絵も達者だろうと思わせる、すらりと細い手と華奢な指だ。
「鰻は冷めちゃったかな。食べるでしょ?」
「すみません。何から何まで」
「書き損じの紙やいらない家具をバラした木材を、火鉢に放り込まれなくてよかったわよ」
「それ、火事になりますよ」
「だからよ!」
「しませんよ、いくら寒くてもそんなこと」
 火事の悲惨さを思ったのか、源内はぶるっと肩を震わせた。

 江戸の火事の被害を何とかしたい。火鼠の皮衣。
『ダメです、今は。本の方に集中しなければ』
 蒲焼を頬張りながら、鳩渓は心で首を横に振る。世間の東都薬品会の記憶が新しいうちに、本を出版しなくてはならない。家に籠もってからは、志度からの仕送りに頼っていた。
「故郷からの金子が届いたら、炭と鰻の代金はお返ししますから」
 むこうも年末年始の物入りで、送金が遅れているのだろうと思う。
「何言ってんのよ、水臭い。大家にとって、店子は子供みたいなもんよ。腹が減ってたら食わせてやるぐらい、当然。っちゅーか、金が無いのにアタシに頼ってくれなかったって、どーゆーことっ?」
 春信は、どん!と、空になった湯飲みで畳を叩いた。彼は自分で勝手に湯飲みを出して、手酌で呑み始めていた。
「す、すみません〜」
「ま、アタシも、さっき金が入ったんでね。昨日泣きつかれてもスカンピンだったけどね」
「理兵衛さんのところのお仕事ですか?」
「まーね」
 春信は、このあたりの家主である岡本理兵衛の依頼で仕事をしていた。理兵衛は出版業者であり、貸本屋でもあった。春信は、理兵衛のところの挿絵や枕絵を描いているのか、単に彼を経由して仕事を斡旋されているのか。鳩渓は理兵衛の本を手にしたことはないので、よく知らなかった。が、理兵衛のところの本が、世間で「やわらかい」とされている位の知識はあった。
 絵の仕事はあまりしたくないらしい春信だが、大家をさせて貰っている義理があり、家主の依頼を断れないようだった。
「理兵衛ちゃんがね、何か書いてみないかって言ってたわよ」
「・・・は?」
「ほら、源内ちゃん、前に餅が木になるの何のっていう文章を見せてくれたじゃない?」
「・・・ああ」
 国倫が書いた雑文『木に餅の生弁』のことだ。葛西で餅の生えた木があると騒ぎになったことがある。それは単なる樹木の病気だ。だがそれに関して国倫は面白おかしく茶化し、世間への風刺も交えた滑稽文を書いた。
「その話をしたら、理兵衛ちゃんが、おまいさんに何か書かないかって。少しだけど金にはなるよ」
 鳩渓は目をぱちくりとまばたきした。あの、国倫の戯れごと文が、金になる?
「今ね、板元は面白い書き手を夢中で探してんだよ。源内ちゃんは、学者として知名度があるし、その人が戯作を書けば話題性もあるだろ?」
「・・・そうですか。考えておきます。ただ、今は、本草の本のことで頭がいっぱいで」
 でも、国倫は、話も面白いし、楽しい戯作を書くかもしれない。それに、彼は書くことが好きだと思う。自分が本草に関わることが好きなように。国倫があの餅が云々を書いていた時の心踊る気分は、隣で鳩渓も味わった。
「今書いているものが終わったら・・・。たぶん、色良い返事が、きっと、できると思います」
「やったー!」と、春信が鳩渓に抱きついた。「うわ」と鳩渓は驚き、箸と蒲焼の切れ端を畳に落っことした。
「よかった、実は、斡旋料も含めて今回少し色を付けてもらってたの〜。ありがとう、源内ちゃん!」
「・・・あのねえ」と、鳩渓は呆れて眉を下げた後、箸で鰻を拾い、そのまま口へ入れた。
「つまり、わたしは恩を売ったわけですね。戯作を書いたら・・・」
 きっと、国倫なら、こう言う。
「させてくださいね〜」
「もーう!」
 春信はけらけらと笑うと、バチン!と鳩渓の膝を叩いた。
 国倫は春信の拒絶をいつも間に受けているが、鳩渓にはまんざらでも無いように映っていた。国倫は失恋の傷がまだ深く、春信の好意を見て見ない振りしているのかもしれない。
 年上だが、春信は可愛いと思う。次の国倫の恋人が彼でも、鳩渓はそれでもいいかなと思う。

 やがて、暖かい季節になり、鳩渓は完成原稿を板元の須原屋へ入稿した。紫石の絵画も同時期に上がり、李山が多少の手直しをして入稿、夏には刊行の運びとなった。『物類品隲』は六巻にも及ぶ、物産会の集大成であった。また、実用性も考え、朝鮮人参栽培法や甘蔗栽培法も添えた。本草学者・平賀鳩渓の今までの実績を網羅した本になる予定だった。
 そして、ほっと一息付くと。刊行までのそわそわする間。今度は国倫が筆を取った。
 戯作者・風来山人の登場であった。




第30章へつづく

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