★ 私儀、甚だ多用にて ★
第三十一章
★ 1 ★
龍助は、本丸から帰宅した父に改まった口調で部屋へ呼ばれた。障子を開け、堅い表情で座す。父の顔色から、何か重大な事を申し渡されるのがわかった。
父の意行も、床の間を背に正座したまま、唇を動かそうとしつつ、一瞬のためらいが見えた。
何だ? 龍助は意識を集中した。
『こんな苦労をこの子に強いていいのか?家重様付の小姓などと。他にもっと龍助の利発さを生かせる場があろうものを・・・』
頭の中に父の声が響いた。
そうか、吉宗様の長子・家重様付を命じられるのか。家重様は巧く言葉を話せず、何を言っているかよく聞き取れないらしい。確かに厄介そうな仕事だった。そして家重様は、その言葉の不自由さから、跡継ぎとしては不適当であろうという噂もあった。龍助に課せられるのは、苦労だけが多く、報いの無さそうな役職である。だが、龍助はその思いは顔に出さず、神妙に父の言葉を待っていた。
父は、まず、にっこりと笑ってみせて、「おまえに、たいへん光栄なお話があったのだが」と、心にも無い言葉から語り始める。
『この子は、察しもよく、賢い。母の話では、他人への気配りができる、思いやりのある子だと言う。きっと、家重様付となっても、悪いことにはならないだろう』
父の、祈りにも似た想いを、龍助は耳の奥で噛みしめる。
別に自分は、察しがいいわけでも、気配りに優れた子というわけではない。父も母も、欲目で見ている。
他の者には、心の声を聞くという能力は無いらしい。そのことに気付いてから、龍助は自分の力が人に知られぬように注意を払った。皆は心を見透かされるのを嫌う。人は龍助に近寄らなくなってしまうことだろう。当然、父母にも知られぬようにしていた。
龍助は、元服して意次という名に変わり、家重付小姓となった。
家重は体にも軽い障害があった。手足を巧く動かすことができず、機敏に動くことはできなかった。言葉は、幼児語のように殆ど聞き取れないし、筆談もままならない。彼は将軍の跡取りという何の望みでも叶いそうな地位に居ながら、水一杯欲するのに難儀していた。
家重は既に二十四歳。人と接するのを嫌い、側室も持たない。正室の比宮培子は昨年流産が元で没した。家重は、流産も『体の不自由な私の種のせいか』と、更に心の傷を増やしていた。将軍の子と聞いて華々しく嫁いだのであろうに、こんな体の不自由な男であり、死んだ妻に済まなくて仕方なかった。
家重は酒に溺れるいけない飲み方をした。意次が叱りを承知で盃を取り上げる事もしばしばだった。彼は悲しみを癒す為に酒を飲み、酔うことでさらに悲しみの深みに嵌まった。
家重は、聡明で、そして心の優しい男だった。意次はそれにすぐに気付いた。家重に酒を酌する時、その悲哀の大きさに同調してしまい、自分も胸が一杯になることがあった。家重の方がそれに気付き、涙をためる十六歳の意次に苦笑してみせた。
家重は、自分に仕える者達が、言葉を理解できずにおろおろしたり苛付いたりする様を見ると、自分が情けなくて、ついまた酒を重ねた。やがて意次は、盃を取り上げるのでなく、側でただ佇むようになる。家重の心に寄り添うようにして、同じ痛みを感じながら。時間を重ね、家重の飲み方が穏やかに変わっていった。
意次も、いつでも誰の心でも読めるわけではないので、家重の言葉が聞き取れない事もあった。だが、健康な者でも、訛りがひどい田舎者の喋りは聞き取れないし、江戸の早口も聞き取りにくい時がある。それは、恥じることではないのだ。聞き取れなければ、聞き返せばいい。発音しにくい言葉ならば、言い換えて話せばいい。家重は、堂々としていればいいのだ。意次は事あるごとに家重にそう告げ、実際に聞き取れなかった時は臆せずもう一度尋ねた。意次が貫いた『聞き取れない言葉を発しても恥じる必要は無い』という接し方は、次第に家重に自信を与えて行った。
その年の暮れ、まだ若い父の意行が亡くなった。少年である意次の肩に家督がのしかかる。尊敬する父の死という悲しみと引換えに、意次は六百石を相続した。
聞こうとしなければ心の声は耳に入っては来ないのだが、若い意次の相続に不安そうな母や家来の表情に、ついつい心を読んでしまう。良い事はないとわかっていながらその誘惑に勝てず、そして自分に対する不信感や妬み僻みの言葉に押しつぶされそうになった。
喪が明けて登城した意次に、家重は酒を満たした盃をすうっと押して寄こした。彼は喋らない。意次は深く頭を垂れ、盃を受けた。家重の手が、暖かく肩に置かれた。彼は喋らない。だが、十分だった。心を読む必要は無かった。
言葉より大切なものがある。意次は、家重にそれを教わったと思う。助けられたのは、意次の方だったかもしれない。
「田沼様。田村藍水様と・・・平賀様が、火浣布の納品に」
小姓の声で、意次は過去から現実へと引き戻された。城での仕事を終えて自宅へ戻ると、会見を求める者達が列をなしている。
『心の声が聞こえる』というのは重い枷のようなものだ。政治家として利用もできるが、苦く痛い想いを味わう事の方が多い。誰かの売り込み話を聞く時も、政策上の言い訳を聞く時も。美辞麗句の奥で意次へ投げかける侮蔑の言葉や、都合のいい言葉の裏で積み重ねられた嘘。楽しい事など、有りはしない。これで人間を好きでいられたら奇跡だ。
小犬や鳥や。言葉の明瞭でなかった亡き家重様や。流暢に話さぬ者の方が意次には誠実に思えた。
「田村と・・・平賀、か?」
「はい。平賀様も、どうしてもご一緒に会見したいとのことで。よろしいですか?」
「まあ、いいだろう」
普段なら、田村の供は待たせておいて本人としか会わない。が、今日は皮肉な想いからちょっと食指が動いた。平賀が訪れたのは初めてだ。
頭が切れ、口が巧く、長崎屋でもハッタリをかますのが得意という噂だ。芒硝の発見など、田村を経由して何度かやり取りはしていたし、薬品会で姿も見かけたことはある。どんな腹黒い男なのか、どれほどみごとな嘘をついてくれるのか、楽しみでさえあった。
平賀が作った火浣布試作品の香敷。たぶんあれが、いっぱいいっぱいだったはずだ。過去にも、加工のできた国は世界でただ一国で、今はその秘儀も途絶え、もうどこも作れない物だ。清国の大使が求めた九尺の馬掛けなど、完成するわけはない。さて、平賀はどんな言い訳を考えて来たことやら。
平賀は、反物一尺ほどの火浣布を二枚、意次へと差し出した。
「長さは足りませんが、火浣布自体が貴重なものです。お納め下さい」
高松藩の出と聞いたが、早口できれいな江戸弁で発音した。湯島の薬品会で見た時より目が鋭くきつい。会見で緊張しているせいなのか。しかし、彼に堅さは見えない。
意次は「うむ」ともったいぶって火浣布を受け取り、平賀の声を聞こうと耳を澄ました。
『清の大使だって、作れないのがわかっているから注文してきたのだ。初めから買うつもりなどあるものか。それを素直に受注してしまう幕府も幕府だ』
意次は平賀の辛辣なモノローグににやりと笑う。平賀は事情は察していて、だが、『できない』とは言えずに受けた意地っぱりだ。
しかし、その後に平賀の口から出た言葉に、意次は息を止めた。
「清のお役人も、作れない事がわかっていてのご注文でしょう。初めから輸入するつもりなど無く、断わる言い訳と思います。それを鵜呑みにして注文を受けてきた長崎奉行は、いかがなものでしょう」
意次が呆れて口をぽかんと開ける間に、彼は、藍水に「こら、平賀!」と制された。
「も、申し訳ありません。讃岐の田舎者ですので、口の利き方を知りません」
意次は、「ははは」と声に出して笑うと、「田村。平賀の言う内容は真実で、表現方法だけに非がある、おまえの言い方だとそうなるが?」と、皮肉っぽく目を細めた。
「うわっ。め、滅相もありません!」
藍水は頭を畳に擦り付けるが、当の平賀の方は平然としている。こんな場で、心の声と口から出る言葉に掛け値の無い男は初めて見た。素直だからではない。才能への自信から、余計な世辞やぼかした言い方を拒絶している。彼の率直さは、傲慢さに似た自信から来るものだった。
『世間で言う、この男の広げる大風呂敷は。嘘でもハッタリでも無い。本気でできると信じ、発言しているのだ』
もう一度、精神を集中し、平賀の心を覗こうと試みた。だが、怒濤のような言葉の洪水に飲み込まれ、軽い目眩がした。言葉の流れる速さと量の多さに、どの想いも読み取ることはできなかった。今をときめく田沼意次に謝罪の会見をしつつ、この男の頭の中はもう次のことを矢継ぎ早に考えているらしい。
だいたい、これが一人分の思考の量とは驚きだった。まるで、性格の違う人間が数人同居しているように、想いの色相がバラバラで、それらが複雑に絡み合っていた。
「火浣布の件は、承知した。
また、何かあったら平賀に仕事を頼みたいが。よいか?」
『ちっ。面倒くさい』という舌打ちだけは、はっきりと聞こえた。いや、小さな舌打ちだが確かに現実にも声に出して、藍水に肘打ちを食らっていた。
『俺の興味がある事柄なら、受けてもいいがな』
「私の専門分野であれば、お受けいたしますが」
「多才な平賀に、専門でない分野などあるのか?」
『おだてに乗る俺じゃないぞ』
「おだてに乗る平賀ではありませぬ」
意次は下を向いて笑いを噛み殺した。面白い。面白過ぎる、この男。
学問に秀でただけなら、平賀と同じ位の学者もいるかもしれない。だが、この男は、ただの学者ではない。どうも学者達とは頭の構造や物の考え方が違う。この駒を上手く使うことができるだろうか。自分に、使いこなす力量があるだろうか。
李山は、田村と帰る道すがら、次は鉱山開発だろうかと考えていた。政治家である田沼は、輸出による金・銀の放出に頭を痛めている筈だ。国が富む為には国内の殖産、しかし狭い日本では限度がある。
山登りは嫌いだった。火浣布を編む工夫を施すのは自分の役割だとは思うが、蛇紋岩探しは体の中に居て見ていただけでも退屈だった。
『俺は鳩渓や国倫とは違う』
あまり田沼とは関わりたくないと思う李山であった。
その後、二度ほど藍水を通して依頼があった。金山に関してとだけ言われたが、返事をしなかった。藍水と梨春が本を出す準備の手伝いや、以前集めた貝の資料の編纂に多忙だったのだ。
★ 2 ★
「野菜売りにおだてられて買い過ぎちまってね」と、長屋の女房は気安く平賀邸にお裾分けを置いて行く。
「おお、すまんのう」
「息子の腹下しを治してくれたお礼だよ。ほら、旬の胡瓜だ。河童先生も胡瓜はお好きかい?」
鉄漿(かね)の口許から溢れる猥雑な冗談に国倫は笑って頭を掻きつつ、礼を述べて野菜の籠を受け取った。国倫の戯作が町人にも広く読まれたせいも有り、李山の頻繁な蔭間茶屋通いのせいも有り。「衆道といえば平賀先生」という図式が、いつの間にか出来上がっていた。お陰で、お節介な学者や商人からの縁談は全く無くなり、やれやれだった。
野菜の籠を抱え、春信の家を訪れる。彼は昼間から酒をくらって大の字に手足を広げて鼾をかいていた。額にも鼻の下にも玉の汗をかいている。
大の字になっても小さい男だ。浅葱色の振袖の裾が捲れ、脛毛の足が丸見えだった。
「なんやら、蚊の標本みたいじゃの」
声に、春信の瞳がぱちりと開いた。
「失礼な奴ねえ」
「胡瓜をもろうた。一緒に食わんか」
「食べる、食べる!」
袂を腕に一巻きすると、小猿のようにくるりと起き上がった。
胡瓜を洗った桶は、水を入れたまま縁台へ置かれた。二人は並んで桶へ足を入れた。
「ああ、冷たくて気持ちいい。目が醒めるわ」
「わしはそげん腹は空いとらん。半分こでええか?」
ぱきんと音を立てて割り、一本の胡瓜を分け合う。春信の足は小さく、桶の中できゅっと指を縮める様は彼の絵そっくりだ。
春信が昼間からふてて酒を食らっているには理由があった。苦労して成功した多色刷りだが、板元に『こんな金がかかるもんは作れねえ』と断わられてしまったのだ。刷りたきゃ、自分で費用を出しな。そう言われ、版木で業者をぶっ叩いて帰って来たそうだ。
火浣布も、研究を続けられればいつかは九尺の布も織れた筈だ。だが、輸出事業が御破算になり、中島家からはこの先の援助も断わられた。研究としての意義はある。だが、もう続けるのは無理だった。
金持ちになりたいなどとは思ったことは無いが、凄い事ができるのにその資金が無い、その歯がゆさに国倫も気持ちのやり場をなくす。腹いせに、がぶりと大きな音を立てて胡瓜を齧る。
春信が版木を板元に見せた以上、この工夫は早々に人に知れるだろう。そして、金のある者が一番に刷って売り出す。
刷りに成功した春信の、目尻から落ちた嬉し涙を。あれを無に帰したくない。悔し涙にさせたくなかった。・・・国倫は、ぎゅっと春信の肩を抱いた。
「源内ちゃん?」
後ろ楯が欲しい。誰か、資金を持った者。春信の多色刷りに金を出してくれる金持ちを見つけたい。
「春信。わしと暦の会に出んか?」
最近、金持ちの好事家や文化人の間で、大小の暦の会というサロンが開かれていた。一年の大の月を表示した絵暦の、面白い案を自慢して皆に配布するのだが、主旨は要するにインテリ達の飲み会である。国倫は平秩ら文士友達に誘われていたが、今まではそんな遊びに興じる気になれず、放っておいた。大名も豪商も集うという派手な会だそうだ。春信の多色刷りのスポンサーを探すには、いい場だろう。
春信のついたため息は深かった。「そうね」と、ぽつりと言った。国倫は頷き、彼の頬を引き寄せた。
春信の描く少年も少女も、絵師に瓜二つだ。華奢で清楚で線が細い。その絵の細いうなじに、小さな足に魅せられた者は、目の前に在る生身に触れたくなっても不思議ではない。国倫がそうであったように。
水の中で、国倫の足の裏が、春信の甲に重なった。春信はもう一方の足を、国倫の足にぴたりと付けた。桶に小さな波が立った。
二人で初めて出かけた大小暦の会で、春信の幾枚かの刷り絵が、暦の会の主催者である大名・大久保巨川の目に止まった。著名な俳人でもある彼の名は、国倫も知っていた。
その日の春信は生成りの地味な小袖を着ていたが、品の良い美しさがさらに引き立っていた。巨川は知性溢れる上流の武士で、春信より少し年長に見えた。宴が進み、国倫は気を効かせて、平秩と先に大久保の屋敷を去った。
「四つには、わしが大家殿の代りに白壁町の木戸を締めといちゃる」、そう言い残して。
春信は十日たっても大久保の屋敷から戻らなかった。そして十日後の暦の会では、色鮮やかな春信の暦が、出席者達に配られたそうだ。
国倫は、留守を守る春信宅で、平秩からその一枚を渡された。大久保が紹介した文人だろうか、伯制という記名があった。その者の案の暦に、春信が作画した作品で、干された浴衣に大の月が記されている。小粋な女が浴衣を干しつつ、突然の風に裾が捲れる。下駄の片方が脱げ、春信らしい小足のきゅっと曲げた指が色っぽく描かれていた。平秩が渡したのはそれ一枚だが、大久保は暦とは別に、見立て絵のシリーズを個人的に春信に依頼し、構図を詰めている最中とのことだった。
さらに数日たって、籠が白壁町に止まった。降り立った春信は、男物の羽織袴姿だった。透ける淡い若草色の着物は、涼しげな風貌の春信によく似合っていた。大久保に誂えてもらったのだろうか。
「ただいま」と、道具箱を抱え、戸を開けた。窓辺に国倫が居たのを知っていたようで、玄関から、「ありがとう。長く開けちゃってごめんね」と声が聞こえた。
声はいつもの春信で、だが戸口から現れた男姿の大家は、見知らぬ人物に見えた。
「おかえり。・・・おめでとう」
「うん」
春信は、子供のように唇を噛んで頷いた。
「七五三みたいでしょ?」と笑うと、羽織と袴を脱ぎすて衣桁にかけ、着流しに戻った。そして、道具箱を開いて、仕事の続きを始める準備にかかった。
「仕事の邪魔してはいかんのうで、居ぬで」
春信はまた「うん」とだけ答えた。国倫へは振り返らず、絵筆や絵の具を床に並べて行く。男の着物でも、肩は細く、腰も華奢だった。
「ごめんね。源内ちゃん」
「否。・・・あの会に誘ったのはわしじゃけん。仕掛けたのは、わしじゃ。意に沿わんかったら、すまんかった」
「まさか」と、春信は苦笑して振り返った。「あんたが背を押してくれなかったら、アタシは今でも版木を抱いたまま酒くらってた。誰かが先に出した色刷りを、腹立ちまぎれにくしゃくしゃに握り潰しながら」
「春信・・・」
「後悔なんてしてないよ。アタシだって子供じゃない。
でもまあ、ちょっと悔しいかもね。金を出すからって、当り前のように帯を解かれるのは。アタシは今まで、仕事の為に誰かと寝たことは無かったから。江戸へ戻ってから、それで怒らせた人がいて、あんまり仕事が無かったけど、それはそれで構わなかったんだ」
春信ほど達者な絵師が、なぜ埋もれているのか不思議だった。しかし、それも絵師としては珍しい縛りだ。美貌でなければ、そんな迫害には遭わずに済んだのだろうに。
巨川はさもしい人物には見えなかった。知性の高い、気品のある旗本だった。春信を欲したのは金を出したからではなかろう。春信に魅せられたせいだ。春信の絵の少年に恋をしたように、そっくりな春信にも惹かれただけだ。
だが、恋人を取られた国倫が、恋敵を弁護してやる義務はない。それほどお人好しではなかった。
「絵師としても人としても、アタシは一年間、巨川の貸し切りだよ。あいつが積んだ金子の山を見たら、必死で描かなきゃって思うもん。
アタシは根っからの貧乏性みたいだ。こんないい着物を惜しげも無く作ってくれてさ。目の玉が飛び出るよな高い料理や酒を振る舞ってくれて。綺麗なみごとな器だったよ。
絹の寝床で、まるでどこかのお姫様みたいに、まるでアタシが淡雪か蜉蝣かであるみたいに。あんなに優しく大切に抱かれたら。もう誰かにアタシを触れさせては、申し訳ないと思う」
春信は、睫毛の縁に溜まった水滴を指でぬぐうと顔を覆った。国倫は『やれやれ』と深く息をつくと、春信の頭を撫でて「もう、わかったけん。泣くな」となだめた。
これはもう、国倫への謝罪でさえ無い。巨川への想いを国倫に訥々と語っているだけだ。
にが笑いするしかなかった。
数日ぶりに家に戻ると、土間に手紙が届いていた。床に散らかった本や着物を蹴散らしながら文机へ向かう。
手紙は藍水からで、田沼様から三度目の依頼があったようだった。今回はもう少し具体的に、秩父の金山について相談がある旨が記されていた。
火浣布で蛇紋岩を探しに秩父へ行った時、水抜きができずに閉山になった中津川の金山の噂は聞いた。幕府から勧めを受けた仕事であれば、商人からの資金調達は期待できる。
あんなに巧い絵師が、こんな長屋で何しちょるんじゃ。世間へ打って出ようとしない春信に、人ごとながらヤキモキしていた。・・・その言葉を、今、そのまま自分に返そうと思う。
本気で幕府と関わるのは面倒なことだし、金山に取りかかると資金は膨大になる。失敗は許されない。だが、平賀源内、そろそろ勝負をしかけてもいいのではないか。
国倫はごくりと唾を飲み込み、鳩渓と李山にも尋ねる。
『いいんじゃないですか?やってみましょう』
『こっちの後ろ楯は、ケツも安心だしな』と李山が露骨なことを言い、『もう!李山さんは!』と鳩渓に叱られていた。
第32章へつづく
表紙に戻る