★ 私儀、甚だ多用にて ★

第三十二章

★ 1 ★

 鳩渓は行李に袷の着物を有りったけの三枚も詰め込み、「寒かったら二枚重ねて着ればいいでしょうか。それとも、綿入れを調達して持って行った方がいいでしょうか?」と声に出した。
 ここは白壁町の平賀宅。部屋には平賀しかいない。誰に問うているのかといえば、国倫と李山にだろう。
『真冬とちゃうちゅうに』
『まだ九月だぞ?なんで綿入れがいるんだ?』
 国倫も李山も呆れて、言い方が冷淡になる。
「だって、中津川は山の中ですから。寒いですよ。秋の中頃に、池に氷が張るそうです」
『むこうに常駐などせんぞ!俺は山の中は嫌いだ』
『どうせ冬場は金山は休山するけん。寒くなれば江戸に戻るんじゃ、冬もんは要らんじゃろう』
 心配性の鳩渓に、行李から二枚の着物を出させた。険しい山道を行くことになる。背中の荷物はできる限り軽い方がいい。

 火浣布の材料探しで蛇紋岩を求めた時、両神山あたりをうろうろとした。岩盤には近くに金山が有る兆候が見つかり、近隣の村人の話を聞くと、中津川は昔大規模な金山があったが水抜きがうまくいかず、閉山になったという。今から百年以上昔の話だ。
 五十年前にも、二十年前にも。夢をもう一度と金山を再開発した者もいたが、双方とも水抜き工事に失敗した。
『では、水抜きさえ巧くできれば、金山は復活するのか?』
 が、その時は火浣布製作で忙しく、余計なことを考えている暇は無かった。

 平賀が秩父のへんを徘徊したのを知る田沼意次が、中津川金山の再開発について打診してきた。平賀は本草学者であり、陶器をやったので少し土に詳しいだけで、金には素人である。それを承知での打診だった。
背を押したのは田沼だが、プロジェクトは平賀のものだった。事業をスタートさせるあれこれを仕切ること。スポンサー探しを含めた資金の調達、スケジュールの組み立て、役人への許可申請などの事務作業、現地の労働者を集める人事業務。そして、水抜き工事を成功させる技術力。これだけ雑多なことを手際よく効率よくやれる人物は、今の日本にそう多くない。
金の掘り出しのハウツーについては、幕府が金子(プロの鉱山師)を紹介してくれた。吉田理兵衛は老中・松平康福に仕えた一流の山師だ。ギャラも一流だった。幕府は紹介はしてくれても彼の賃金を払ってくれるわけではない。

去年の夏に開山の申請を提出し、今年の夏にやっと役人が検分に来た。幕府の仕事などこんなものだ。開山までのやりとりには火浣布で活躍した中島家に再度世話になった。そしてこの九月、いよいよ中津川の桃久保金山が再操業を始めるのだ。

「源内さーん!」
 純亭が明るく声をかけ、鳩渓の返事も待たずに座敷へ上がって来た。見ると玄白も一緒だ。
 鳩渓はまだ『せめて着物は二枚持ちましょうよ』と、行李の外へ出した着替えに未練があるようだった。南育ちの体は、野中村の中島家の寒さもこたえた。きっと今の季節だって朝夕は冷える筈だ。
「何してるんですか?もう衣替えの準備ですか?」
「いえ、そういうわけでは・・・」
 文士達と懇意になってから、純亭や玄白とは何となく疎遠になっていた。今月から中津川へ入ることも、まだ知らせていない。
「桂川さんと両国橋あたりへ遊びに行こうって話なのですが、源内さんも行くでしょう?」
「甫三さんが?珍しいですね、御用で忙しいあの人が」
「そろそろ、もっと忙しい御役に付きそうなので、今のうちに私達と気楽に遊びたいそうです」
 甫三が近々法眼になるだろうということだ。お父上が高齢で御役を辞退するか、病気等で臥せったということか。
「実は私の父も高齢で、来年か再来年には現職(藩医)を辞退するでしょう。私が跡を継ぐことになります」と、玄白がため息をついた。
「藩へのお勤めになれば、今の町医者のような自由も効きません。私も、皆さんとご一緒できる機会は激減するでしょう」
 玄白は、父親の遅い歳の子と聞いていた。父親は今年七十六歳のはずだ。
「うちの父も病気で臥せっています」
 純亭も言う。彼はまだ若いし、父親も高齢とは思えず、一時的な病気かもしれない。だが、純亭にも危機感は有るだろう。
 もうみんな、頬を紅潮させて学問の話に興じた少年・青年ではいられないということだ。大人になり、肩に責任がのしかかる年代になったのだ。
「わたしは行きませんよ。ちょっと忙しいもので」
 鳩渓は、感傷を押し退けるように淡々と言った。中津川行きの準備で大取込みなのは事実であるが、断わったのは別の理由だ。
甫三には『火浣布略説』の序を書いてもらった。火浣布は実用には至らなかった。彼に会わせる顔などあるはずもない。
「そうですか。・・・そのようですね」と、玄白は、鳩渓が旅の準備を詰め込む様に目を細めた。
彼らは、初めから期待していなかったようで、一応声はかけたという様子だった。
「いつもご多忙そうですが、お体に気をつけて」と簡単に引き下がり、帰って行った。立て付けの悪い戸が、彼らが去った後も暫くはガタガタと音を立てていた。そして、すぐに、部屋はしんと静まり返り、行李の着物を握った鳩渓の指は孤独に凍えた。
 
★ 2 ★

 江戸には、旅に出る人のイベント用としか思えぬ、日本橋からわずか二里のところに宿場町がある。京へ上るなら品川、北へ行くなら千住、西なら板橋又は内藤新宿。人々はここで、今から旅に出るのだという決意を新たにするのかもしれない。
だが、源内に、旅を楽しんでいる余裕などあるわけがなかった。健脚の源内は一日に幾つもの宿場をすっ飛ばして進む。それでも野中村までは二日かかった。ひと息つく間もなく、翌日は中島邸を夜明け前に出て、日暮れと争い、急ぎ足でやっと中津川に着く。
主人の利兵衛は高齢の為に自宅に残り、中津川・大滝村へは弟の利右衛門が同行した。普段は中島家の下男として働く二名が中間として付き添う。彼らは利兵衛と違い、今回の金山事業にも否定的だ。火浣布の時と同じだ。主人の利兵衛が家業以外に興じ、財産を食いつぶす事を嫌っていた。
 談笑しつつ登れるほど楽な道ではないのも確かだが、皆が苦虫を噛み潰してそれを百匹も飲み込んだような表情で、黙々と大滝村を目指した。切り立った崖が一行に覆いかぶさる。高くそびえる樹木で陽は翳り、足元は暗く、時々誰かがつまずいた。だが、支えあうお互いの顔も見えない。
 金は出るのか? その心配も、鳩渓の足を重くした。

源内は大滝村の豪農・幸島(さしま)家の敷地に事前に家屋を建てていた。幸島邸の母屋は広く大きいが、同居して世話になるにはお互いが気詰まりなのは、中島家で嫌というほど味わったからだ。聞かなくてもいい家人からの愚痴なども耳に入る。
また、幸島家の人々に聞かれたくない話もあった。たとえば、着いて食事の前に盃を交わした直後に利右衛門が発した「金は出るのでしょうか?」などという、不安げな問いなどは。
 利右衛門の無粋さに、李山も腹の奥でむっとしつつ、「出るだろう。だから俺たちはここへ来たのだ」とだけ告げた。ただし、その量はわからないが。
 鳩渓も国倫も、田沼の思惑には気付いていた。金は出ればそれに越したことはない。だが、出なければ出ないで、奴にはそれでいいのだ。『この国には、もう、金の出る山は無いのだ』、その既成事実ができ、天下の平賀源内の失敗がその広告塔となる。江戸にほど近いこの中津川金山なら、十分に八百八町で話題になる。
日本にもう新たな金山がないと皆が認識すれば、幕府は(田沼は)、様々な新しい政策を打って出られる。
 例えば、貨幣の再構築。例えば・・・阿蘭陀以外との貿易!
 利右衛門の心配は尤もなのだ。過去、かなりの繁栄を究めた金山だというのはわかっている。百年も、なぜ、放っておかれたのか。水抜き工事は、簡単ではないがそう困難というわけでもない。百年の間に工事を失敗した二名も、一度失敗したきり諦めているのが妙だった。そこまで着手したら、もう二度三度、水抜き工事をやり直してもおかしくない。そして、その二名は、よそ者であった。地元の人間が乗り出さなかったのは、何故なのか。
 利右衛門もその点が不安のようだった。地元民は、もう、掘り尽くされたことを知っているのではないか?
『トカゲの尾、か』
 田沼の蛇に似た細い目を思い出す。
 もちろん、金が出てくれればそれでいい。だが、源内は、いかに金山操業を安く上げるかにも知恵を絞った。損は最小限に済まさねばならない。志度の実家と桃源からの仕送り、千賀からの融資、中島家の資金、実は内密に田沼からも資金を融通されていた。田沼から中津川をどうにかしてくれと紙に包まれた小判を押し出されたら、乗らないわけにはいかなかった。

 日々、桃久保鉱山に源内が出向く必要はない。幸島家の座敷で報告を待ち、トラブルがあった時だけ駆け付ければいいわけだが、せっかちのせいもあり、室内でじっと待ってなどいられなかった。それに、なるべく労働者達の前に姿を表わし、せめてリーダーと話を交わすよう務めようと思っていた。高松の薬園の仕事では、実際に地を耕し水をやる者達と親しくすることで、連絡が密になった。足袋に土のかからぬ高みで腕組みして見ていては、仕事はうまくいかないものだ。
洞坑の中に入ると、空気の冷たさにぞくりとする。鳩渓は『やっぱり冬の仕度が必要だったじゃないですか』とばかりに、手拭いを首に巻き付けて寒気をしのいだ。ここは運搬の為の坑道だ。百年前に既に周囲に板を巡らせて通路が作られたようだった。板はすべて朽ちていたので新たに張り替えたが、板の向こうからは土と黴とがひんやりと匂った。
奥へ進むと、時々、運搬の係の者が天秤棒に桶を吊り下げて通る。この桶の砂利には金が含まれている。天秤棒を担いで走りつつ鳩渓に軽く礼をした労働者は、褌一つの裸体だった。手拭いは汗が目に入らぬように頭に巻かれていた。運動量の多い彼らは、この涼しさでも肌に汗をかいていた。
「ご苦労様です」と鳩渓が深く礼をすると、男は驚いた表情で立ち止まり、再度礼を返し、照れた顔ですぐにまた走り出した。

搬送路は、所々に下へと伸びる道がある。最下層の坑夫が採掘した石片はそのままの状態で桶で上げられ、一度切羽作業場へ集められる。石を崩す者、崩された石を笊で掬う者(この時点で金を含む砂利が選別される)、それをさらに別の桶に詰めて、天秤棒で坑道の外へ運ぶ者。集められた坑夫達は熟練していて、作業も分業化されて滞りなかった。
幕府から紹介された吉田理兵衛は、頭も切れ仕事もできた。鳩渓の十歳ほど年長で、寡黙だが必要に応じてきちんと喋る男だった。金山のシステムを要領よく源内に教授し、坑夫の掟も説いた。今も坑道の先頭に立って坑夫らの指示に声を枯らしていた。吉田の甲高い声が穴蔵に反響し、音が巻き、どこから声がしているのかよくわからないぐらいだ。
「あ、平賀様。こんな奥までご苦労様です」
 人の気配に気付き、吉田の方が先に挨拶した。着物の裾を端折った草鞋履きという格好で、さすがに肩は抜いていないが袖を上まで捲くりあげていた。
「吉田殿こそ、ご苦労様です。・・・出てますか?」
「砂金程度はそこそこ出ています。金脈には当たりませんが、まだ半月ですから」
 吉田は『売れっ子』の鉱山師であり、開山ひと月程でヤマが軌道に乗ればここは引き上げる。それまでに結果が出ればいいと鳩渓は願った。まあ、それまでに金脈に当たらなくても、その先は計画通りに新たに掘っていけばいい。掘り進めるルートは、既に吉田と一緒に練ってあった。
 坑夫達にもねぎらいの言葉をかけ、鳩渓は立ち去る。吉田は田沼の思惑を知っているのか知らないのか。ポーカーフェイスの表情からは読み取れない。

 鳩渓は、採取した幾ばかりかの砂金を懐紙に包み手紙に同封し、故郷へと送った。
 これで安心するのか、苦笑するだけか。妹婿や桃源の表情も想像はつかなかった。

★ 3 ★

 三カ月もすると山には霜が降り雪も降り出す。桃久保は春までは休山である。
 砂金だけはぼろぼろと採取できるものの未だ大金脈には当たらず、この先の不安を残してのシーズンオフであった。
 鳩渓も江戸の白壁町へ戻り、年を越す準備にかかる。医者の持つ薬草を見定め、富豪が持ち込んだ石を鑑定し、依頼された戯作を書き上げ(国倫が、だが)、金を作って自分の借金だけは辛うじて返した。今年も志度へは帰れそうになかった。
 平秩ら文士の友人にやんやの喝采で迎えられたのは『長枕褥合戦』だった。尼将軍・北条政子を主人公に、権力を笑い政治家を笑い性を笑い飛ばした過激な戯作であった。だが、過激なだけで卑猥ではない。卑猥な言葉が乱立しても内容は風刺であり、笑いと風刺の為の猥雑な用語であった。これを読んで、どこをどう間違っても猥雑な気分にはなれまい。
 生真面目な鳩渓だが、国倫の書いたこの戯作はいやらしいとは思えず、面白いとさえ思った。それでも、玄白が目を三角にして怒る様が浮かび、気が重かった。
 田村や息子の元長、純亭などは、呆れた顔でため息をつく程度だろうが、玄白は本を握って駆け込んで来かねない。まあ、本が出た頃には鳩渓は江戸にはいないのだが。
 雪が解ければまた山へ入る。
春には版元に原稿を渡し、また長崎屋で阿蘭陀人と会見して『虫譜』を購入すると、ばたばたと山へ籠もる準備に荷造りが始まった。長崎屋では玄白らとゆっくり話す暇もなく、近況報告も鳩渓はあまり詳しく告げる気になれず、早々に立ち去った。
春信邸には今では数人の弟子が住みつき、工房としてフル回転していた。
宋紫石のところで見た弟子の少年が、いつの間にかこちらに鞍替えしていた。少年と言っても顔の長い老けた男で、愛想も可愛げもない。
「アタシが引き抜いたんじゃないわよ。アタシの絵の方が好きだって言って、あいつが勝手にこっちへ来たの。草木の絵より、美女の絵の方が楽しいってさ」と、春信はけらけらと笑っていた。工房でのその少年は、唇を硬く結んで黙々と筆を動かしていた。結局は、背景の草木を描かされていた。
 本屋・貸本屋には春信の吾妻錦絵が並び、行商も一番人気の春信の絵を多く持った。江戸絵師で、春信は今一番の旬であった。巨川とまだ続いているのかは知らない。だが忙しそうな春信とは、もう酒を飲む機会もないかもしれないと寂しく思った。

長崎屋の会見が終わると数日後に中津川へと発った。幸島家敷地の邸宅が面白いわけもないが、江戸にいても何か落ち着かないのだ。
しょうもない戯作が本屋に並ぶのは夏頃だろうか。金山の金は・・・たぶん、出ないのだろう。中島利右兵衛がヒステリックに噛みつくであろうことは容易に予想でき、登山も気が重かった。

二年目になると、そう毎日源内が桃久保に顔を出しても気まずくなるので(金脈に当たらないせいもある)、邸宅で過ごすことが多くなった。
江戸で頼まれた広告文や他人の著作の序文などをこなしたり、長崎屋で入手した数冊の蘭書を勉強したり(解読できずとも見るだけで学ぶことは多かった)、今年は時間を持て余した。
今回初めて序文を書いてやった大田南畝というのは、若い幕臣で、白壁町の平賀邸の留守を守っている林助の友人だった。歳がだいぶ違うので、どういう友人かとも思うが(林助は両刀でかなり遊んでいる男だった)。冬の間に数度林助に会いに来て、源内にも愛想を振りまいていった。もともとは狂歌が得意で(と自分で言った)、今回初めて戯作を書いて出版するのだそうだ。
江戸詰めの藩士も幕臣も、時間が有り余って退屈している。最近は、町人文士だけでなく、武士がお役目の合間に執筆した戯作の刊行も目立ち始めていた。国倫のような浪人ではなく、藩や幕府の仕事を持った者が参入してきたのだ。
戯作の読者も意外にレベルが高く、教養の高い士分のもの書きの作品を楽しんでいるようだった。似たような書き手が多いと風来山人も埋もれてしまう。国倫もそろそろ次の事を考えねばなるまい。

金山の仕事で知己になった川越藩の秋元但馬守涼朝(すけとも)が出羽山形へ移り、その出羽での屋敷の普請を頼まれて図面を引く仕事もした。幸島家内の屋敷を安価にあげたことや、欄間の洋風なデザインが中津川でもかなりの話題になったのだ。金山は今のところ砂金が多く取れるのでひどい赤字ではないが、毎年高価な蘭書を購入していることを考えると、時間がある時にはせっせと稼がねばならなかった。
七月には、田沼が側用人に出世したという知らせが届けられた。

山の夏は短く、金脈に当たらないまま、また秋も終わろうとしていた。祈るか撤退するか、それ以外に鳩渓にできることはない。
久々に幸島家を訪れた利右兵衛は、思い詰めて歩いて来たのか、会うなりに鳩渓の胸ぐらを掴んだ。
「まだ金は出ないのか!話が違う!どうなっているのだ!」
 中島家に立て替えて貰った金は、去年の操業前に返し終えた。あとは、主人の利兵衛が納得の上で共同出資した金である。弟の利右兵衛がムキになって鳩渓を責めたてるのはお角違いというものだ。金脈に当たらないのは、鳩渓のせいではない。
 平賀源内が著名であるから。すべてが源内のせいになる。すべてを源内のせいにしようとしている。少なくても弟の利右兵衛と息子の丹治は。初老の利兵衛が、火浣布に、金山に賭けた夢を、理解していないのだ。
「去年も、利兵衛殿にはお話ししました。共同事業を降りるも続けるも、自由だと。兄上は今年度ご自身の意志で続けられたのです。
 来年度については、よくお考えの上、利兵衛殿から直接のお返事をいだきたい」
 おとないし鳩渓だが、感情的な利右兵衛のあれこれとは闘わねばならぬと思っていた。いや、正しい事しか認めない鳩渓にとって、利右兵衛の理不尽な怒りは、許せないと感じられもした。
『よせよせ。正しいことがいいこととは限らん』と李山は肩をすくめ、『そんな言い方で返せばこじれるだけじゃけん。もっと相手の気持ちを考えんしゃい』と国倫も口を挿む。
利兵衛は、山奥の豪農としてだけで一生を終えるには惜しい、頭のいい機知に富んだ人物だった。本人が一番それはわかっているだろう。だから、ほぼ人生の義務を果たした年齢になり、冒険をしたのだ。
『家族に、そんな想いを理解されん、利兵衛が気の毒じゃけん。おんしが弟と争うと、その分、野中村で待つ利兵衛に風当たりがつようなるぞ?』
 利兵衛は、老いるまで蔵番の役務を全うした、志度の自分だ。

きりきりと胃が傷むまま、桃久保は二度目の冬、二度目の休山を迎えた。
鳩渓は山を降り、江戸へと戻った。三度目の春があるかどうか。それはまだ鳩渓も決めかねていた。




第33章へつづく

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