★ 私儀、甚だ多用にて ★

第四十章

★ 1 ★

 どどねうすの翻訳作業が始まった。

 このぶ厚い図鑑を全訳するつもりはない。一番必要なのは、日本に今まで紹介されていない本草、次いで日本では育たぬもの、採れぬものだ。だが、どれがその一番必要な種類なのかも、国倫には見極めることはできない。まずは、幸左衛門の横にぴたりと付いて、彼が読み上げる本草名を書きとめていく仕事から始まった。
 三千頁ほどもある本であり、内容は規範により分けられ並べられている筈だが、その規則性もわからぬまま、次々と書き綴る。三、四十個のうちに一個は幸左衛門が知る本草名であり、その和名を告げた。それを朱で書き添えた。国倫が聞き覚えのある阿蘭陀語の名も有り、それも書きとめる。
 単調で煩雑な作業だ。半刻も綴り続けると国倫は音を上げた。
『鳩渓。交代じゃ』
『ええ〜っ!普段はわたしのことなんて、ほったらかしのくせに。こんな時だけ』
 古女房のような愚痴を垂れながら、鳩渓が体を代わった。飽きっぽい国倫にはこの作業は向かない。それに比べて鳩渓は、こつこつと同じ仕事を続けても苦にならない。
 巻紙が一巻無くなった頃、今夜の作業は終わりにした。幸左衛門の方も、一刻ずっと本草の名を読み上げ続けた。茶を全部飲み干し、「喉がヒリヒリします」とため息をついた。
「申し訳ないです。わたしが阿蘭陀語を読めればいいのですが」と、鳩渓も手首を振ったり腕を揉んだりした。
「以前試みた時の草稿を、お預かりしていいですか?今夜家で目を通したいので」
「このあとまだやるおつもりですか?」
 あきれながらも、幸左衛門は十枚程度の書き付けを手渡す。
 草稿の枚数から、早々に諦めたことが知れる。だが、無いよりはマシだ。
「では、お借りします」
 まだどうなるか知れぬ不安な気持ちは、集中して作業をした高揚感で掻き消されていた。何とかなる。いや、何とかしよう。
 鳩渓は唇を噛みしめつつ、吉雄家を後にした。

 長屋は隣家と背中合わせで、生活の音は筒抜けだ。だが九つを過ぎた時刻には、木の葉の落ちる音さえも聞こえなくなった。鳩渓が草稿をめくる音だけが、障子に吸い込まれていく。
 幸左衛門がわけがわからなかったと言ったのは、本草の基本を知らないからだ。「のこぎり」と書かれたのは葉の周囲の形状のことだろう。「葉は一枚だけ」というのは単葉のことと思われた。「種に種がある」というのは、実(果肉)の中に種(核)があるということか。
 十枚の原稿は、そう無駄にはならないだろう。幸左衛門が意味もわからず書き付けても、きっと自分ならそれなりに理解できるだろうと安堵した。
 鳩渓は、小鳥の音に驚き顔を上げる。障子がうっすら明るくなっていた。夢中で草稿を調べて、夜が明けてしまったのだ。
 たぶん鳩渓は、こうして一人で黙々と学問をする時に一番幸せを感じる。今日は出島へ出かけるのは休んでもいいかとも思う。充実した気持ちで、布団に横になった。

 名称の一覧表は、挿絵があり且つ日本にもあるものは、鳩渓がすらすらと朱で和名を記した。阿蘭陀産については、出島で商館長のアルメノーや外科医のイカリアスに少しずつ訊ね、情報を増やした。
 不明点をまとめておき、出島へ行く時に質問する。すぐに答えてくれる時もあれば、手持ちの本で調べてみると言われる時もあった。そういうものは彼らにも手におえぬ事柄で、答えは得られぬことが殆どだ。不明部分は、四角で囲うなどして先へ進んだ。
 幸左衛門の話によると、時々は本草学に詳しい者が商館長や外科医として派遣されるそうだ。仕事の傍ら、本草を採取したり観察したりするという。
「今年は、運が悪かったかもしれませんね」
 そう言われると、鳩渓の気持ちは沈み込んだ。他の年に来れば、もっとさくさくと進んだのかもしれない。
『国倫さんが、せっかちなんですよ。幸左衛門さんに手紙などで様子を訊ねてから来ればいいものを』
 言われて国倫も、面倒な仕事を押し付けた手前、反論はしない。ただ、出かける時機は、『今だった』と思っている。去年でもない。来年になれば醒めている。今決心したからこそ、きちんと今長崎に居るのだ。
 
 実は一つだけ、幸運もあった。商館長アルメノーが、源内に西洋画を伝授してくれるという。李山が見よう見まねで楊枝に墨をつけて描いたデッサン画をアルメノーに見せて、手法を細かく質問した。説明が面倒だったのか、退屈だからなのか、本格的に教えてやるから一緒に絵を描こうという。
 ありがたいことだ。西洋画の画材や道具も見ることができる。
 
 李山が描いたのは、買うことに決めたライレッセという本の挿絵だ。説明に絵が多く使われ、しかもその絵がわかりやすいので気に入った本だった。絵の手法というより「決まり事」について書かれた本だそうだ。人物を描いた図では西洋の身分制度や対人関係の約束も知ることができ、建物や風景もふんだんに描かれている。絵の勉強の本としてだけでなく、阿蘭陀の習慣やきまりなどを知る手がかりになる。
 見れば見るほど、西洋の絵は日本の絵と違う。
 日本の絵は、一本線の強弱や柔剛、細さ太さで色々なことを表わす。西洋の挿絵は細いたくさんの線がつらなる。それが丸みや奥行きになる。建物の線を斜めに描く奥行きの出し方もある。人物を描く時にも、鼻の横や目の下、髪がかる額にも影が落ちる。
 挿絵の線は、細いだけでなく、太さが均一だ。細筆でも太さを同じに保つのは難しい。李山は、楊枝に布を巻いて握りやすい太さにし、風景の絵を写し取った。細い線も見本と同じように入れた。薄墨でぼかすより鋭利な印象になり、李山はそれが気に入った。だが、壁や屋根をわざと傾けて奥行きを出すのが巧くいかない。たぶん算術的な約束があるのだろう。

 挿絵は白と黒なので細い線で影を描くが、色彩のある絵では、高いところを明るく、影は黒くなくて地色を暗くする。日本画ではしない手法だ。
 アルメノーは『油彩』を教えるという。そういう絵の具があるのだそうだ。布に不透明顔料で描き、保存が効く。日本でも掛け軸などの絵は絹に膠入りの絵の具で描くが、そんな感じだろうか。
 練習でまず茶器を描かされた。本来は木に白い麻布を張ったものを使うが、練習なので、草紙大の端切れを屑材木の簡易枠に止めてあった。それに木炭で下書きを描いた。麻布の粗さに木炭の粒子がこぼれて戸惑ったが、もっと軽く触れることですぐに調子を掴んだ。端切れはただの麻布でなく、何か薬品が塗ってあるようだ。
「ヒラガ、****」と、アルメノーが名を呼んだので、李山は顔を上げた。商館長は肩をすくめて片目を瞑った。幸左衛門が訳してくれた。
「『平賀さん、上手だ。私より巧い。いやになる』と言っていますよ」 
「日本の絵でも木炭は使うからな」
 絵の具は、粉を溶液(油のようだった)で溶いて粘度を出し、板に盛ってそこから筆に取る。重ね塗りをするのがよいそうだ。だが、乾くのに数日かかるので、一度塗った上からすぐに塗ってはいけない。
 乾かし、重ね、乾かし、重ね。手間のかかることだ。それでも、小さな絵なので十日もあれば完成した。
 アルメノーが作り笑顔で絵を誉め、さかんに何か話しかける。
「平賀さん、巧いので、もう少し大作を描いてみないかって。材料は安く譲ると言っています」
「結局、商品の売り込みか」
 今度は李山が苦笑した。阿蘭陀人達がよくやる、肩を上げる格好を真似て、「考えておく」とだけ言った。
 
  ★ 2 ★

 正月にも志度には帰らず、鳩渓は年末も正月もこつこつと翻訳の作業に取り組んでいた。
 李山の油彩と違って、こちらは遅々として進まない。いや、進まないどころか、ある程度の草稿が貯まるとぴたりと止まってしまった。
 植物学の専門用語は、商館長や外科医でも知らない言葉だらけだった。阿蘭陀人が知らない阿蘭陀語など、通詞もお手上げだ。今の状態で、鳩渓達がこの本から何か知れる術は、もう、ない。
 まとまった原稿は五十枚ほどだった。刊行したら草紙一冊分程度にしかならない。三千頁ある本の中で、鳩渓と幸左衛門が理解できたのは、たったそれだけだった。
「あとは、次に来る商館長が本草学に詳しい人であることを祈るしかないですよ」
 幸左衛門はとっくに匙を投げていた。
 鳩渓は首を振った。
『又は、田沼様が開国をするか規制を緩くするかして、阿蘭陀人の本草学者がたくさん日本に来ること、でしょうか』
それは、遠い将来はともかく、数年のうちには叶えられそうにはない。幸左衛門の言葉の方が現実的だ。どどねうすの翻訳に関しては、もう出来ることはなくなった。
 
 一月中旬から商館長達は参府へと出かける。長崎奉行所の役人らも大勢付き添い、出島側からも人足や料理人も伴う百名を越える大所帯だという。幕府への贈答品や大名への輸出品の荷物が膨大で、荷運びの人足がとにかく多い。
 正月が明けた頃から、出島も奉行所も準備で大忙しとなった。今年は幸左衛門は江戸へ出ないが、それでも仕事は山のようで、もう鳩渓の手伝いもできない状態になった。
 商館長ももちろん多忙で、李山に油彩の手ほどきをしている暇はない。
 阿蘭陀人らが江戸から戻るまでの三カ月間、鳩渓も李山も手持ち無沙汰なので、とりあえず志度へ帰ることにした。

 江戸の擦り絵や長崎のびいどろ玉かんざしを土産に、故郷へ戻った。実家では帰省を喜んでくれたし、決して邪険にされることはない。だが居心地がいい筈もない。十五歳も年下の当主は常に源内を特別扱いして奉り、母も妹も以前のように気安くは語りかけて来なかった。二度目に讃岐を出てから十年たっていた。
 里与は肥えて老け、以前の清楚さは失われていた。子を何人も産み、そろそろ三十路といういい年増ぶりだ。
 家は子供達が常に走り回り、どれが甥や姪で、どれが賄いや下女の子供なのか、国倫らにもわからぬ有様だった。決して狭い家ではないのだが、手足を伸ばせる感じがしない。焼物の責任者である脇田舜民に獅子図と世界図の図案を示して新たな指示を与えると、そそくさと久保桑閑と渡辺桃源のところへ挨拶に出かけた。
 桑閑は息子の久安に藩医の仕事を継がせ、自分は隠居していた。彼は江戸の話を驚いたり笑ったりしつつ楽しんで聞いてくれた。二日も引き止められた。
去年の秋には、『神霊矢口渡』を大坂の竹本座に見物に行ってくれたのだそうだ。鳩渓が驚くと、「久安に聞くところでは、高松藩の者もだいぶ見たようだぞ。なにせ話題の芝居だからな」と笑う。
 国倫は、竹本座には、桃源や文江らの俳句仲間、それから平賀家の権太夫と里与も招待した(母は足腰が弱って行けなかった)。だが高松藩士らが見ていたとは考えてもみなかった。福内鬼外が平賀であることを知らないのだろう。上方や讃岐での平賀源内など、江戸の半分も有名でないだと思う。

 桑閑から金子(きんす)を融通してもらい、桃源のところでも融資を受け、あとは小豆島で文柳の絵の上がりを見て帰ろうと家で仕度を済ます。すると、権太夫が「僅かですが」と懐紙に包んだ小判を寄こした。
「焼物の評判がいいのは、いつも義兄上の意匠のおかげです。うちの畑の作物が良いのも、元々は義兄上のおかげですし。本当なら、この平賀家全部が義兄上のものなのです。どうぞ遠慮なさらず、いつでも帰って来てください」
 洟垂れ小僧だった幼い従兄弟が、立派な口を利くようになった。国倫は苦笑すると一礼して受け取った。
 小豆島では、新しく得たライレッセの本やアルメノーからの知識を文柳に与えた。数枚の絵が完成していたが、やはり近くで指示したわけではなく、李山が想像した出来ではなかった。影の付け方を丹念に教え、報酬の一部を置くと、大坂経由で長崎へ戻った。

 江戸へ戻らず長崎へ停まったのは、「このままでは帰れない」という意地があったからだ。どどねうすの翻訳は一割しか進んでいない。これでは田沼に会わす顔がない。江戸の『平賀源内』というブランドにも傷がつく。・・・こんなことを考えている自体、自分はもう学者ではないのかもと寂しく思った。が、前へは進まねばなるまい。
 暇に明かして、長崎近郊から足を伸ばして、鉄や銀の鉱物資源を探索した。残念ながら目ぼしい山はなかったが、天草で陶器にいい土を見つけた。これがこのまま捨て置かれるのは惜しく、『陶器工夫書』と題した書類を、幕府の天草代官宛てに提出した。
 きっと無視されるのだろう。だが、放っておけなかったのだ。
 これだけの良質の土があるものを。唐物の陶器など輸入せずともよいものを。
 悲観的未来を予想して口惜しく思いつつ、だがこれが国倫の・・・平賀源内のスタイルなのだと痛感した。日本に有るのに、なぜ輸入に頼る。工夫せず、開発せず。それが悔しい。それが原動力となる。若き日から、それがバネになっていたことを思い出した。
 そうだ、江戸への見栄や田沼への恩義ではない。自分が必要と思うことをして、それで帰ろう。国倫はそう誓った。

 決めたら、行動力のある国倫は早かった。天草から長崎へ戻ると、まず、出島で次の船出までの暇を持て余す商人達と接触した。
 中に織物商人がいて、西洋の敷物や上着などは、日本と同じ、糸を紡いで織る手法で作られたことを教えてくれた。材質が違うだけなのだ。それらは獣・・・羊の毛で織るそうだ。しかも、絹は蚕の命を奪うが、羊は毛を刈るだけなので、何度も刈り取れるのだと言う。羊の毛を紡いで織れれば、阿蘭陀の羅紗を織ることができる。
 羊十頭は、唐人屋敷への需要を見込んで阿蘭陀人が持ち込んだが、買い手がいなかった。国倫は安く交渉し羊を買うと、再度志度へと戻った。この羊を育て、羅紗を織るのだ。
 カピタンから羅紗の上着を羽織らせてもらったことのある国倫は、これがとても暖かで軽いことを知っていた。志度の地で羊を繁殖させ、羅紗事業を興そうと考えた。
 温暖な讃岐に育った自分は、秩父の秋には凍えた。北の地方は更に寒いのだろう。例えば蝦夷は。
 蝦夷は鉱物の宝庫だ。田沼があの地に目を付けたのは当然だ。江戸から行く役人達は寒さで動けなくなるかもしれぬ。暖かくて軽い着物、これはきっと必要になる。
 平賀家の空いている畑に羊を放ち、まずは一度丸刈りにする。だがこの毛だけでは一人分の羽織にも足りないので、半年ほど後にまた収穫に来ることにした。とりあえずあと半年ほどは長崎にいようと思っている。商館長らの交替を待てば、翻訳の仕事の事情も変わるかもしれなかった。

 その頃、江戸では。後世に残る事業が始められようとしていた。
 それはまず長崎屋で、純亭改め淳庵(父が亡くなり家督と名前を継いで淳庵となった)が手にした蘭書がきっかけだった。
 一昨年玄白が写したヘーステルの外科書は、淳庵も見ていた。阿蘭陀人は、医師らの表情を見て『これは売れる』と踏んだのか、源内が通詞に助言したせいなのか、去年も数冊の医学書を持ってきた。だが殆どが文字で構成されたそれらの医学書は、阿蘭陀語を訳せない自分らがどうこうできる本ではなかった。
 今年は事情が違っていた。淳庵は、これはという医学書を二冊見つけた。見つけたらもう抱えて手を離さなかった。
 一冊は大きな図譜が多く載った本で、腑分けして明らかにされた体の中身やら、腕や足の筋やらが克明に描かれていた。源内が持つ本草や獣の図鑑と同じ手法の印刷、細い線の一本一本がはっきりとわかる美しい絵だ。
 もう一冊は題名に『かすぱる』の文字が読めた。淳庵は少し阿蘭陀語を習ったので、簡単な単語なら読めるものもあった。日本の阿蘭陀外科は、百年以上前に来日したカスパルを元とする。この本はカスパル流の医学書ということだろうか。こちらは図はそう多くないものの、それでも器具や腑分けの挿絵は含まれていた。
藩医の仕事で来られない玄白から、代りに本を物色することを頼まれた。約束なので、まずは玄白に声をかけることにしようと思った。玄白とは同じ小浜藩の医師同士、どちらが買っても、惜しまず本を見せ合えばいい。
玄白が買わなければ、自分が買おうと決意した。金額は息を飲むほど高価だったが、かつて、源内が家財道具を売ってまで蘭書を入手した情熱を目の当たりにした。きっと、何とかなるものだ。
 今年の大通詞は名村勝左衛門。彼に『うちの藩にこれらの本を買う医師がいると思う』と告げた。
「いや、中川殿、その二冊は予約が入っているそうですよ」
「えっ。よ、予約ですか!?」
 淳庵はがっかりと肩を落とした。しかし、自分は初日の朝一番に、真っ先に本を物色したのだが。
「一体、どなたが」
 顔見知りなら、後日見せて貰えるだろうか。親しい学者ならいいのだが。
「ええと」と名村は書類を捲った。
「長崎で、吉雄さん経由で平賀さんに頼まれています。小浜藩の杉田医師が買うと思うから、一番に見せてやってほしいと」
「えっ。えーーっ! 私は小浜藩の医師です。見せたかったのはその杉田にですっ」
 あまりのことに、淳庵の声はうわずった。源内の心配りに胸がいっぱいになった。

 その本を借りて、夕方には小浜藩中屋敷の杉田宅へと駆け付けた。仕事で疲れた様子で帰宅した玄白だったが、その本をめくった途端に目に力が戻った。リアルな腑分け図は、手術の現場に居るような気持ちになった。しかも、見慣れた五臓六腑の図と、あからさまに違う。
「もう一冊は、『カスパリュース・アナトミア』という題です」と、淳庵は表紙を開いてみせる。玄白に読める筈も無いのだが。
「カスパル。カスパル流外科の祖ですね。・・・欲しいです、確かに。しかし・・・」
 問題は金額だ。
「この本は玄白さんに優先権があるんですが、玄白さんが買わないなら、私が買います」
 優先権?怪訝な顔をした玄白に、淳庵が、源内の心遣いを説明する。
「あのひとが、そんなことを」
 玄白は、ぎゅっと本を抱きしめた。
「藩に、お金を借りられるかどうか、無心してみます。ちょっと待っていてください」
 玄白は二冊の本を風呂敷に包むと、藩邸へと走り出した。

 御算用の役人を通すより、先に上の者に説明した方が早い。玄白は、御前組頭役の岡新左衛門へと相談に言った。彼は優秀な学者でもあり、殿・酒井忠貫様の書の勉強の師であった。藩の書物の購入なども取り仕切っている。玄白と同世代で、話しやすいこともあった。
 医学書を買いたいので藩に借金をしたいとの申し出に、岡は「その本は役に立つのですか?」と眉を顰める。前例では、藩士に前借りが許されるのはせいぜい扶持の半年分だ。あまりに金額が大きすぎる。
「はい。必ず、役に立つ本です。いいえ、役に立ててみせます」
 おとなしい玄白が珍しく強い調子で言うので、岡は目をしばたかせた。側にいた倉小左衛門に、視線だけで『どうだろう?』と訊ねてみる。
「杉田殿は真面目な男です。医者としても熱心でよく働く。彼がその本を無駄にすることはないでしょう」
 倉も殿の学問のお相手を勤める秀才である。倉の言葉に玄白は「ありがとうございます」と深く頭を垂れる。岡も、倉に言われるまでもなく、玄白の性格はよく知っていた。
「そうですね。で、どうでしょう、金の前借りでなく、医学知識の前借りというのでは」
「・・・はい?」
「藩で、その本を杉田殿に買い与えると言うことです。その本から得た知識を、少しずつ藩に還元して行ってください」
「・・・。」
 岡は、これらの医学書を藩で買ってくれると言ったのだ。
「あっ。あっ、ありがとうございますっ!」
 玄白は再び、畳に頭をこすり付けるほど深く頭を下げた。

 風呂敷を抱きかかえつつ自宅へ戻り、淳庵に報告する。
「うわっ、よかったですね。ぜひ、私にも見せてくださいよ」
「もちろんです」
「腑分けの本、長崎屋で他の医師が先に見ていたら、きっと欲しがったでしょう。源内さんに感謝ですね」
「・・・そうですね」
 玄白は、畳に置いた医学書を、愛でるように撫でた。
「源内さんが帰ってきたら、仲直りしてくださいよ」
 淳庵の言葉にぎくりと手が止まった。
「な、なにをそんな」と慌てて否定しようとするが、唇が巧く動かず、頭の中では言葉も組み立てられなかった。
 淳庵は特に気にした様子も無く続けた。「源内さんが、助平な本を書いたり、浄瑠璃を書いたりしても、学者としての本質は変わらないでしょう? 玄白さんは堅すぎますよ」
「・・・。」
 淳庵は、玄白の疎遠をそう解釈しているようだ。こっそりと、安堵する。
 あの夜のことを許せるかと言えば、玄白には難しかった。だが、許せないのに、もう昔のように仲良くできないのが、ただ悲しかった。



第41章へつづく

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