★ 私儀、甚だ多用にて ★
第四十一章
★ 1 ★
春も終わる頃、商館長らが長崎へ帰って来た。
ストレスのせいか、商館長は躁鬱に陥り、外科医の方は疲れで寝込んだ。アルメノーは鬱の時は挨拶もろくにせず全く喋らなかったが、躁状態の時はわざわざ李山を呼んで一緒に絵を描こうと誘った。以前は購入を勧めた油彩の道具あれこれも、気前よくくれたり貸したりした。
彼が手本として引っ張り出して来た絵画は、今回の参府で売れ残った人物画だった。何かの物語の場面だろうか、そう若くない男女がにやにやと笑い、男は巾着から小銭でも出そうとしているようだ。人物は胸から上しか描いていない。日本では、掛け軸の絵でも擦り絵でも、人物は全身を描く。肖像画も座した全身を描く。西洋のこれは面白い構図だと思った。人物の顔が大きくなるので、活き活きした表情が印象に残る。
李山が女を、アルメノーが男の方を描くことにした。女嫌いの李山の方から、女を描きたいと申し出た。
本の挿絵で西洋の女の姿は見たことはあるが、彩色の絵はまるでそこに居るようだ。出島には船乗りしか来ないから、李山も阿蘭陀人を男しか見たことがない。男の服は、商館長のような身分の高い者や船乗りの人足なども目の当たりにし、詳細を知ることができた。だが、女については、挿絵から、裾が広がった着物を着ているぐらいの知識しかなかった。
絵で描くことで、西洋の女の着物や飾りを覚えることができるだろう。ただ目で見るだけと描くのでは、細部の認識度が違うのだ。李山はボロ布で巻いた木炭を握り、アルメノーが用意してくれたキャンバスに下絵を写して行った。
髪は、日本の女と同じで高く結っている。だが、阿蘭陀人の麦穂のような色の髪はふわふわと綿のように柔らかそうだ。島田髷のような髪に、色々飾りを差していた。最初はたくさんの玉かんざしかと思ったが、これは玉を連ねた飾りのようだ。数珠のようなものだろうか。西洋の女は、これを首にかけることも多いそうだ。そういえば、吉雄の奥方がしていたのを思い出す。
目新しかったのは、細長い布で髪を縛って飾っていたことだ。湯屋の帰りに洗い髪を布で縛る女はいるが、飾りとして施すのは新鮮だった。西洋の髪飾りを工夫して売れば、商売になるかもしれない。
胸元は、夜鷹女郎のようにだらしなく開いている。だが、聞けば、胸を開けていても遊女でない場合が多いそうだ。
胸元には、帆立貝のヒモ(外套膜)みたいな飾りがびらびらとくっついている。どのような布で(だいたい布なのか?)どんな質感なのか見当もつかない。わからない物は筆にも迷いが出る。
李山が珍しく苦戦しているのを見て、アルメノーが提案した。この通りに描かなくても、着物の地布と続きでひらひらさせればよいだろうとのこと。そこまで通訳した後、幸左衛門は声をひそめた。ここからは大通詞の素の言葉だ。「胸元の黄金(こがね)の飾りは、描かない方がいいですよ。描くと、完成した絵を平賀殿が持ち出せなくなります」
「あ、そうか」と李山は手を止めた。『十』の文字に似た金の飾りは、キリシタンのものだ。
出島に出入りすると、キリシタンのものは自然と知るようになる。幕府は、日本人に広めさえしなければ、彼らが信仰する自由を認めていた。また、幸左衛門のところには、キリシタンの教典もあった。これは奉行所から許可されたもので、内容を知らなければ規制することができないからだ。
胸元に十字架がないと、随分と寂しい肖像になる。李山は首に例の数珠飾りを足した。
完成した下絵を見て、アルメノーが笑った。通詞が「平賀さんに顔がそっくりだと言って笑っていますよ」と、そう言って彼も笑いをこらえた口ぶりだ。通詞も似ていると思ったのだろう。鳩渓も国倫もそう感じていた。実は李山も薄々気付いていた。
『李山は自分大好きじゃからのう』と、国倫がからかう。
原画は、目尻も下がり、唇も笑みを浮かべた優しい女の絵だ。だが李山の下絵は、眉も目も口もきりりと男性的で、顎や首の線が強い。
『少なくとも、おなごには見えんけん』
アルメノーは、この下絵の強い表情を生かすために、髪の色を黒に、着物も情熱的な色に変更することを勧めた。
日本画の筆は馬、狸、イタチなどの毛を使う。油彩の筆は、猪に似た西洋の動物の毛だという。たぶん『豚』のことだろう。この動物は出島で食用に飼われ、李山も食したことがある。だが、筆を触ったところ、日本の筆の毛とそう変わらない。形は、筆の先が鋏で切ったように直線になっている。また、筆でなくヘラで絵の具を塗り付ける手法もある。まるで壁塗りの職人のようだ。
絵の具は、鉱物を粉末にしたものに薬品を混ぜて練る。色を作る時は、出来上がった絵の具を板の上で混ぜる。また、描いたその上に重ね、複雑な色を表現する。顔料同士を混ぜても、思った色にはならないそうだ。
「ベレインブラーウ。珍しい顔料があるな」
「これは高いから、使うなら少しにしろと言っていますよ」
「ケチな男だ。・・・これは訳すなよ」
李山は、着物の衿の裏側部分にこの色を乗せた。髪飾りの青には藍を用いた。
ベレインブラーウ(プルシアン・ブルー)は、『物類品隲』にも載せた青い顔料だ。今まで日本で使用された青は、露草か藍だった。露草の退色はひどく、数年で元の青は失われる。藍も色落ちする。だが、この阿蘭陀の青は、いつまでも鮮やかさを保つという。
油彩は、乾くのを待って描き、また乾くのを待って塗り重ねという具合なので、絵が完成した夏の終わりには、新たな商館長を乗せた船が着いた。アルメノーは一年の勤めを終え、阿蘭陀へ帰って行った。長い船での生活で、彼はまた絵を描くのだろうか。
そして、国倫が待ちかねた新しい阿蘭陀人がやって来た。商館長アレント・ウィレム・フェイト。医者と書記はそのまま在職だった。いきなり全員が代わると職務が滞るからだろう。
仕事にある程度慣れた頃を見計らい、幸左衛門にどどねうすの翻訳作業を再開してもらった。だが残念ながら、今年の商館長もそう本草には詳しくなかった。
フェイトは、江戸参府の時には知識の宝庫と期待されることは聞いていて、事前に調べ物をしたり日本に資料も持ち込んだりもした。だがそれは天文や産業についてだった。本草についても需要があるのなら、医師にその心得がある者を選ぶよう、会社にかけあってみると言ってくれたが。だがそれが叶うのは何年も先だろう。翻訳については、もう今回は万策尽きた。滞在資金も心もとない。長崎を去る時が来たのだ。
★ 2 ★
江戸へ戻るには旅費が足りなかった。源内は志度の実家へと寄ることにした。羊毛で羅紗を織る実験も途中だった。
まず小豆島で文柳に会った。
座敷の畳の上に広げられた数枚の完成図は、やはり李山の気に入る出来ではなかった。彼なりに工夫して西洋画の影や厚みを出そうとしたが、指導者が側にいないと出来は期待できないものだ。李山はため息をついて苦い茶をすすった。丸い窓から覗く空はもう秋の色で、暑かった季節は忘れ去られようとしている。
「申し訳ない」
李山の表情から、絵が満足いくものでないと悟った文柳は、頭を垂れた。
「いや、俺の指導不足だ。文柳殿の力量はよく知っているつもりだ。
ただし、絵は、これで仕舞いにしよう。翻訳の目処がたたんのでは、絵を描いてもらっても無駄になるかもしれん」
報酬もまだ未払いだった。約束の半額を支払い、残りは待ってもらうことにした。
絵師に、その場限りの、西洋画風の本草を描かせる方法ではなく、きちんと基本のできた西洋画の絵師を育てなくてはいけないかもしれない。それには、今回長崎で買ったライレッセの本と、商館長から教わった西洋画技法が役に立つだろう。残り少ない持ち金で、長崎では輸入顔料も買った。
若くて好奇心があって、絵が達者で素直で。そして江戸に住んでいること。該当しそうな青年が、一人、心に居た。だがどうも『素直』にはほど遠いが。
春信の死後、峻はどうしているのだろうか。
本来ならゆっくり文柳と語り、油彩の手法なども披露したいところだが、夕暮れまでに船で志度に渡らねばならない。李山は「では、そろそろ」と、荷物をまとめ始めた。受け取った絵を丸めて筒に入れる為、大きさを揃えて整える。
「ご実家へ帰られるのか?それとも高松へいらっしゃるか?」
「いや。志度へ帰るが」
文柳は不思議なことを聞く。
「高松藩などもう用は無い。浪人の身分だ」
去った時の怪我の痛みと心のつらさが蘇り、李山は顔をしかめた。二度と高松になど行きたいとは思わない。顔を合わせたくない輩ばかりだ。
「もしや、ご存じないのですか?」
文柳ははっと目を見開き、すぐに目をそらした。李山の体を悪寒が走った。何が起こったか瞬時に推測できた。それは『死』だ。内では、国倫も鳩渓も息を止めた。彼らも、察した。
「・・・殿が?」
「江戸で体調を崩され、臥せったらそのまま。七月のことだったそうです」
くらりと目眩がした。そんなに前の出来事か。今で知らずにいたなんて。
体の中では国倫が悲愴な怒声で吼え、暴れた。拳で床を激しく叩いた。止めようとした鳩渓を突き飛ばし、叫んだ。
『うそじゃ!うそじゃ!うそじゃっ!』
国倫は両腕で頭を抱えると、そのまま床に突っ伏した。慟哭の振動が、転がされた鳩渓にも床から伝わって来た。
『あのひとが死ぬなんて。あんなに強くておおらかなひとが・・・』
鳩渓も茫然として、立ち上がるすべを忘れた。
俺たちは、何も知らず、のうのうと長崎でご遊学か。李山も唇を噛む。
『確かめるけん!高松へ行って、まことかどうか』
国倫が力任せに体の舵を握った。
『馬鹿、よせ。もう保護してくれる者はおらん。今度こそ殺されるぞ』
『それならそれでええ。今ならまだ一緒に逝ける』
国倫は子供のように泣きじゃくりながら、体で舵を抱きしめた。李山が腕を解こうとしても、頑として動こうとしない。
パシン!と頬を平手する高い音が響いた。鳩渓だった。
『いい加減になさいっ!しっかりしてくださいっ!見苦しい!
・・・悲しいのは、あなただけではないですっ』
国倫が絶句し、打たれた頬に手を宛てた隙に、李山が腹を殴り、気絶させた。早まって自害でもされたらたまらない。とにかく舵は国倫から離さねばなるまい。
「あ、平賀さんっ!」
文柳の目の前で、大柄な体が畳に崩れ落ちた。体は気を失っていた。文柳が助け起こすと、薄く目を開けた。
「・・・すまん。目眩がした」
「いいえ、いいえ。私の方こそ、配慮のない知らせ方をしてしまいました。
お床を用意しますので、今日はうちで休んでいかれなさい」
文柳の好意に甘えることにした。一日たてば国倫の心も落ち着くだろう。李山自身も、体も心もきりきりと悲鳴を挙げ、怪我でも病気でもないのにどこもかしこも痛んだ。李山は再び瞼を閉じた。
国倫は嵐の海で波に揉まれていた。昼か夜かわからぬほど激しい雨が天空から叩きつけ、波という波が沸騰した泡のように周囲で炸裂した。
息ができない。吸えば海水を飲み込むだろう。もうどれぐらい息を止めていることか。
目に入る海水がヒリヒリと滲みて痛み、朦朧とした視界に時おり稲妻だけが走る。
こんなに苦しいなら。いっそ、稲妻に打たれたい。その方が楽になれる。いや、体を波にまかせてしまってもいい。
四方が闇の中で、国倫は目を醒ました。死んだのかと思ったが、そんなわけはない。今のが夢なのはわかっていた。自分で目を凝らすことはできなかった。目は李山が使っている。舵は彼が握っているらしい。暫くすると、闇の正体は、見知らぬ天井だと知れた。体を夜具が包んでいた。ここは文柳の家だろうか。
李山が操る体の方はだいぶ前から覚醒していて、ずっと天井を眺めていたようだ。
『気付いたか。殴って悪かったな』
『いや、わしこそ。取り乱してすまんかった』
国倫もだいぶ冷静さを取り戻した。わめき散らして、頼恭が戻るものでもない。
『わたしは謝りませんよ、頬を叩いたこと』
鳩渓は膝を抱え、こちらを振り向きもせずに言う。声が掠れていた。顔は見えずとも、泣き腫らした瞼で居ることは容易に想像がついた。
闇の天井から、しんしんと悲しみが降ってくる。三人の髪に、頬に、肩に、降り注ぐ。
李山は寝返りも打たずに、その静寂を見つめていた。頼恭の死だけでなく、国倫と鳩渓の哀しみも一緒に引き受け、ただ黙っていた。
李山は優しい言葉などをかける男ではない。自分らを甘えさせてくれることはない。だが、決して冷徹なわけでもないのだ。
「しばらくは俺が舵を握ろう。朝には、舟に乗れるか?」
李山は、声を出して二人に問うた。静けさの中、壁に声が反響する。二人は、李山に任せると頷いてみせた。
国倫が見た夢とは裏腹に、翌日は眩しいほどの晴天だった。
文柳と家人に深く礼を述べて三木家を発ち、海辺から漁師の小舟で志度へ向かった。きらきらと反射の眩しい水面、志度より西にある高松へと視線を馳せる。半島が重なる向こう、彼の地に玉藻城がある。
並んで海を見たことなど、終わってしまえば全て幻だったような。
もう、あのひとは、居ない。
★ 3 ★
「あにうえーーーっ!もうしわけないっ!
この権太夫、腹かっさばいてお詫びを!」
李山が実家に帰るや否や、義弟と里与が土間に土下座した。脇差しを帯から鞘ごと引き抜いたのを、李山が肩を蹴飛ばし転がせた。権太夫は三和土へと転がり落ちる。
「痛たた。義兄上、むごいですぅ」
「馬鹿野郎。それぐらいで痛がるなら、腹を斬るなどと言うな。
まったく、どいつもこいつも、軽々しく死ぬ死ぬと言いやがって」
李山は義弟を助けるというより、本気で腹がたって蹴飛ばしたらしい。
預けた羊十頭のうち、半分が病死していた。そして残りの半分も、皮膚の病気を起こしていると言う。
「死んだ羊は、一応毛は刈り取うておきましたけん」
李山は籠の中のそれを確認したが、毛も痩せて色が濁っているように思えた。
「よく気付いた。手数をかけたな。前回の分で足りなかったら、使わせてもらう」
権太夫の為にそう言ったが。李山は、前回分のみを使い、ひざ掛け程度の物でお茶を濁すしかないと考えていた。
羽織を織れれば田沼様に献上もできたのだろうが。
気候が合わなかった、草か、水か。環境か。それとも、始めから病気の素因のある羊を売りつけられたのか。どちらにしろ、もう一度試すには資金も無く機会も無い。江戸への路銀も無い有様だ。
「兄上、夫をあまり責めんでやって、いたァませ」と、里与はまた深く頭を下げた。だから、責めていないというのに。
「羊が喰おる草の量は、それゆーてもうたいへんな量やった。羊らの為に空けた狭い農地やなんかじゃ、たいがい足りゃせんて。うちの人が草を確保しおるんに、がいに苦労したこと。
しかも、羊らは時々柵を壊して逃げおって、平賀家の畑どころか、よそ様の作物まで荒らしたけん。
うちの収穫も半減じゃが、よそ様への賠償が痛く、蓄えは消えよった」
里与は目を潤ませて訴えた。兄がまた金の無心に来たことに気付いてもいたのだろう。
「そうか。済まないことだった。迷惑をかけたな」
「そななんっ!義兄上のなさることは、まんでこの国の為の研究。お役に立てなかったこと、口惜しゅう思うとります」
李山は苦笑してため息をついた。権太夫が本気で尊敬してくれるのがわかるだけに、負担でもあった。
「今は帰路の途中で、羊の為の負債を補う手持ちは無い。暫く待ってくれ」
「とんでもないけん。これは権太夫の失策。負債やなど。補うなど!」
義弟にそうそう甘えてばかりもいられない。今回の賠償金の出費は、納得で用立てて貰った金子(きんす)とは違う。今は無理だが、いつか必ず埋め合わせしなくてはなるまい。
ともかく、実家で旅費を借りることはできない。天草で見つけた良好な土を少し持ち帰ったので、焼物に試してみたかったが、これも無理だろう。今の平賀家は新しい焼物事業を始める財力はない。現在の唐風と蘭癖好みの低火度焼物で手一杯だった。
今回平賀家が借金をせずに済んだのは、桃源の骨折りがあったからと聞いた。志度へ出た常で、礼も兼ねて渡辺家へと挨拶に訪れた。
「よう来た、よう来た」という歓迎の言葉を吐く桃源以外は、渡辺家の家人らの頬に、ひきつったような笑いが張り付いていた。いつもここの家人は源内に冷たいが、今日は目配せも露骨で、お愛想の挨拶一つなかった。『また金を借りに来た』と毛嫌いされている。
桃源と盃を交わした後、家のことでの感謝を述べると、「よせよせ。ほんまの目的はこれじゃろう?」と懐紙に包んだ小山を畳に置いた。
「すまんな、いつも」
「そげな他人行儀な。長崎には二、三年おるんかと思うとったが、帰るっちゅうことは金が尽きたんじゃろう。おぬしのことじゃ、旅費など考えず、ぎりぎりまで居ったんじゃろうが」
さすがに旧知の親友だ。行動パターンは見抜かれている。
「まあ、それだけではないがな。秩父の鉄山のこともある。早急に始めたいのだ」
「金山とちゃうんか?」
「あれは終わった。今度は鉄だ」
「・・・。」
桃源は、明らかに戸惑った表情になった。弟分の事業テンポに付いていけないといった風情だ。
「今は実家も苦しいようだが、天草でいい陶土を見つけた。阿蘭陀風の意匠で新しい焼物を作れば売れると思っている。どうだ、乗らんか?」
「阿蘭陀風?今の物も、阿蘭陀風じゃろう?同じもん作うても」
桃源は眉根を寄せる。
「舜民に焼かせているのは、蘭癖に向けたのものだ。世界地図、阿蘭陀語のアベシ。阿蘭陀風というのとは違う。しかも絵柄だけで、物は皿や壺や香炉。阿蘭陀の物ではない。
俺が言っているのは、形も阿蘭陀の物。把手のつく茶器や壺で、絵柄も阿蘭陀物そっくりに描く。きっと売れるぞ?」
「うむ。今すぐにはあれじゃが、考えておくけん」
「早くしないと、誰かがやってしまう。こういうのは、早い者勝ちだ。
しかし・・・桃源の歳で、『もう冒険はできないので』と躊躇するならわかるが、『考えておく』とは。人生が何十年かわかっているのか?
おっと失礼。俺自身、ケツに火が付いている気がしてな。急いているのかもしれない。次は俺の番かもしれん、と」
「・・・。」
穏やかな桃源も、さすがに渋い顔で黙ってしまった。内で鳩渓はやきもきして成り行きを見守る。いつも辛辣な李山だが、恩人に対して今日は言葉が過ぎる。珍しく苛立っているようだった。
「ああ、そうだ。桃源は顔が広い。誰か、織殿を知らんか?例の羊の毛を羅紗に織ってくれるところを探している」
「おぬしの案は次から次へと」と、桃源は苦笑混じりに盃を空けた。
「のう、源内?」
桃源の声が改まる。
「おぬしを見ていると、心配になる。実は、里与殿も権太夫殿も、兄の行く末を気づかっておる。そろそろ大人になりんしゃい」
「大人?」
李山は皮肉っぽく唇の端を上げる。
「そうだな。桃源は『大人』なのだろうな。俺は愚かな子供かもしれん。
だが。桃源の敵は、その『知恵』だろう」
「すまぬ、気に触ったのか。ほんだけど、おのれの事業でこうも失敗続きでは、明日も知れんとちゃうか」
「うまく行かなかったのは、火浣布と金山だけだ!翻訳御用は先の可能性もある」
李山が声を荒らげた。桃源だけでなく、鳩渓や国倫さえも身構えた。が、すぐに李山は静かな押し殺した声で続けた。
「・・・鞠だって、落ちねば上がらないだろう?」
三人の中では、李山が一番プライドが高い。
ふうと長いため息をついた桃源は、困ったように眉を下げて尋ねた。
「もう仕官はせんのかいのう?」
「・・・。そういう話か」
李山は鼻で笑った。
「仕官は二度と御免だ」
「そうかて。生活の後ろ楯がのうては不安じゃろう。恩になった殿様も丁度亡くなったことじゃし、もう義理立てする必要もないじゃろう」
『・・・丁度、と?』
冷静な筈の李山が、一瞬、怒りで目を見開いた。
内では激怒した国倫が暴れて舵を取ろうとするのを、鳩渓が羽交い締めで制止した。国倫が体の自由を取ったら、膳を乱して桃源にも乱暴を働いたかもしれない。
李山はゆっくりと盃を裏にすると、先刻受け取った金子を懐から出し、また畳に置いた。
「もうこれ以上、桃源の酒は飲めぬ。金も借りるわけにはいかない。
桃源。『丁度』とは、『丁度よく死んだ』ということか?」
「あっ。いや、わしは」
「殿は、俺にとって大切な人だった。桃源、おまえと同じくらい、な。
・ ・・帰る」
「源内!」
「すまん!考えが足りんで!
おぬしが世話になったおかたじゃった。配慮に欠けておった。わしら郷士は殿様に会うたこともないけん、実感がなかったんじゃ」
桃源は平賀邸までの道をずっと付いて来て謝罪し続けた。李山は疎ましくなり「ああ、もう、わかった」と生返事した。
渡辺家へ行ったら飲んで朝帰りだと思っていた里与は、送ってきた(と思った)桃源が玄関で兄にさかんに頭を下げているので、「礼しに行ったんに、反対に謝らせて」と呆れていたが。
今まで仕官をしなかったのは、決して、『仕官御構い』の制約のせいではなかった。
あの御構いも、頼恭個人が、自分を田沼に渡したくなかったから発したものだ。頼恭が亡き今、もう効力はないだろう。だいたい、対田沼のみへの牽制で他藩は知らないらしく、仕官を呼びかけて来たところも多かった。
どこかの藩士となって、制約や規則に縛られて生きるのなど御免だった。桃源は後ろ楯がと言うが、たとえ幕臣になったとて、秩父金山や長崎遊学の費用を出してくれるとも思えない。僅かな扶持で行動を縛られ、やりたいことなど殆ど出来なくなる。
それに。あのひと以外を『殿』とは呼びたくない。これも本音だった。
翌朝、李山は大坂へと渡った。
桃源の金子を撥ねつけたので、江戸までの路銀を稼がねばならない。
大坂では、長崎で買った阿蘭陀渡りの珍品を金持ちに売ったり、本草の見立てをしたりで金を稼いだ。素人の絵だが、阿蘭陀絵の具で描いた絵ということで、李山が描いた肖像画も高価な値がついた。大きな仕事では、多田銀銅山の水抜き工事も請け負った。高槻藩の領地だがこの銀銅山は幕府直轄であり、田沼を経由した依頼だった。
春には、志度で生き残った四頭の羊の毛を刈ったものが、今までのストックと共に送られてきた。率先して作業してくれたのは桃源であった。既に落ち着きを取り戻して暮らしていた李山達は、桃源に心から感謝した。
大坂で織殿を見つけ、羊毛を縒って織ってもらった。着物や羽織には足りなかったが、肩や膝にかけるには十分だ。これは好事家に高く売れた。
六月、やっと資金が貯まり、江戸へ向かうことができた。江戸は地獄なのか、優しい街なのか。なぜ江戸に戻るのか、理由もわからなかった。
前へ進まねばならなかった。どこでも、今よりはマシな気がした。
第42章へつづく
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