★ 私儀、甚だ多用にて ★
第四十六章
★ 1 ★
乾きで咽が痛むので目覚めた。隣の部屋からわっと花火の音に似た笑い声が聞こえた。明らかに酔いが混じっている。きっと巧い肴でも持ち込んで、うちの酒を飲んでいるのだ。
李山は怒りに駆られて襖を開けた。
「貴様ら。人が具合悪くて寝てる時ぐらい、静かにしろっ」
火鉢を囲んで和やかに談笑していたらしい皆は、ぴたりと話すのを止めた。座敷にはよい蜜柑の香りが漂う。畳に食べた後の滓が山積みになっていた。
道有が台所へ出て、薬罐から白湯を湯飲みに移し、襦袢姿で襖に仁王立ちりの李山に渡した。
「咽が乾いているでしょう」
李山は憮然とした表情のまま「すまん」と受け取り、ごくごくと飲み干した。
「うちで戴いた紀州蜜柑をお持ちしましたが。平賀さんは、具合が直ったらですね」
まるで母のように諭し、「でももう熱は下がったみたいですね」と、ぺたりと額へ手を当てた。
「蜜柑くさい。汁の付いた手で触るな」
李山は軽く手を振り払う。「俺も医学の心得はある。熱が引いたのはわかる」
最近、道有が女房気取りで世話をやく。それが鬱陶しかった。彼には色々と恩は受けている。寝たこともある。しかし、道有の想いに応えれば応えるほど嘘になるのだ。李山は必要以上に冷淡に振る舞った。
秋田から帰り、その報酬でゆとりが出た源内は、やっと千賀邸を出た。神田大和町に家を借りると、また人が集まり始めた。源内サロン復活であった。
帰った頃には秩父も既に雪で埋まり、出向く事はできなかった(内心ほっとする)。来年の結城座の浄瑠璃を書き上げると、もう師走になった。
江戸に戻って最初に聞いたのは、川名林助が亡くなったことだ。どこかから帰ると必ず誰かの訃報を聞く。
「源内先生、まあ、座ったらどうです」
大田南畝が腰を浮かして席を開ける。今日の面子も、大田に道有に森島中良に司馬江漢。集う仲間が世代替わりしている。道有も中良も、自分の友の息子達だ。前野良沢邸に出入りする江漢からは、めでたい話も聞いた。玄白の奥方が妊娠中という。逝く者がいれば、産まれようとする者もある。
「飲みますか?」と、中良が徳利を掲げた。
「いや。まだ本調子ではないな。酒を飲みたいとは思えん。もう暫く寝ている」
李山は、襖の框に掛かったままで答えた。
今頃秋田の疲れが出たのかもしれない。いや、それとも引っ越しの疲れか。源内は昨日から発熱して寝込んでいた。
「我々も帰りませんか?つどっていると、どうしても騒がしくなります」
道有が立ち上がった。「そうだな」「そうしよう」と、皆も続く。
「いや、うるさくせんのなら、別に構わんのだ」
「いいえ、お元気になられたらまた来ますよ」
病人特有の人恋しい気持ちがあったのか、引き止める気持ちが働いた。が、皆は次々に玄関を抜けて行った。道有が蜜柑の屑を片付けてから最後に戸を出た。「きちんと戸締りなさってくださいね」とまた気を配る。
李山は戸に心張り棒を施すと、寒さにぶるっと肩を震わせ、急いで奥座敷の寝床へと戻った。
道有はもともと人の世話をやくのが好きな男なのだろう。だが、このままでは誤解も招くし、田沼意次の義父を下働きのように使うわけにもいかない。きちんと下男を雇うべきだ。今は金銭の余裕もできた。
窓の外は薄明るい。微かに障子が茜に染まる、まだ夕刻だった。昼間ぐっすりと眠ったせいか、熱が下がったせいか、床に付いてもすぐには眠れない。床の間から、掛け軸の龍の目がこちらを睨み付けるように見えた。久保田藩主からの賜り物だった。
義敦の作風は概ね上品で、龍のような荒いものより花鳥風月の方が合うだろう。しかしそれでも、これは達者な絵だ。雷鳴の中を笑うように駈ける龍は、怖気さえ感じせる。淡い闇の中から赤い目が光る。『武助は渡さん』と笑う。
江戸に戻ってから、何度か久保田藩留守居役が訪ねて来た。銅山での処理でわからないことを質問しに来たのだが、『それくらい、自分らで判断しろ!』と言いたいものばかりだった。それでも年間のコンサルタント料も貰っているので無下にはできない。
どうも、質問の答えを貰うことより、源内と連絡を密に取る事が目的のようだ。一度、老中だか側用人だかの娘との縁談を持って来た。江戸に居るのだから平賀源内が衆道なのはよく知っている筈なのだが。秋田は、源内との関係をしっかりと繋いでおきたくてたまらないのだ。
木枯らしに戸が軋む音だと聞き流していると、どんどん!と戸を叩く音に変わった。誰か来たらしい。
「たのもー。御免くだせい!平賀せんせは、おられねだか!」
また久保田藩の奴らだ。臥せっていることだし、聞こえないふりをしてしまおう。李山は布団の上で体の向きを変えた。
『待て・・・。今の声は・・・』
まさかと思いつつ、李山は慌てて飛び起きた。
自分でも馬鹿なことを期待していると思った。藩主の義敦が絶対に江戸には出さないと宣言したのだ。そいつが、戸の外に居る筈もないのに。
「今、開ける!」
心張り棒を外す手に力が入らない。可笑しいほどうろたえていた。やっと戸を開けると、冷たい風が中へ入り込んだ。
「武助・・・」
秋田での蘭画の弟子が、江戸の神田の長屋に笑顔で立っていた。距離と時間、過去と現在が混乱し、ぐらりと目眩を感じた。
「銅山方産物吟味役を仰せづかり、江戸さ参りますた。まだ、絵さ教えでぐだせ?」
★ 2 ★
李山は武助を招き入れると、くしゃみをした。
「まあ、そこへ座れ。蜜柑、食うか?酒がいいか」
言いながら、襦袢に羽織だけをはおった。
「せんせ、もうお休みだったがんす?おいとますます」
「いや!大丈夫だ!」
思わず声が大きくなり、自分でも驚く。内で国倫がクスリと笑う。鳩渓は、珍しいこんな李山の様子を、不思議そうに眺めていた。
『国倫は嫌な奴だ。今、笑いやがった』
むっとしながらも、徳利と茶碗を側に置き、李山も火鉢の脇に座った。
「眠っていたわけではない。とにかく事情を聞かせてくれ」
「今日、藩の上屋敷さ着いたがんす。旅の汚れ落とすたらすぐ、いつばんに平賀せんせに会いに来ただよ。
わす、平賀せんせ付きの江戸勤務さなったがんす。殿に、せんせからもっど絵を教わって来(こ)っで」
武助は、李山に注がれた酒を一口で飲み干した。李山は判然としない。あれだけ武助を手放すのを嫌った義敦が、何故?
「春には、殿も参府で江戸さ来(く)。そん時、もっど殿に蘭画さご指南できるよう、頑張らねば」
「おまえ、藩主殿に、蘭画の手ほどきをしたのか?」
武助の茶碗へ再び酒を満たし、李山は手酌で少し注いだ酒を含んだ。まだ、あまり旨いとは感じない。全快はしていない証拠だ。武助は旨そうにまたごくりと喉を動かす。
「んだ。殿は、もうびっぐらしてたがんす。ちっと影付けるだけで、物さ浮き上がっで見える。色さ暗ぐすと、物が遠ぐさ見える。
わすもせんせとおなずに言っでみただ、供えもつ描いでみなせって。したども、『真上から』言うのさ間違えで『真横がら』言うてもうで。殿はさっど描いでしもだ。わすも気付かねで、二重丸さ見えんだで、おかすいなあ、なんでだべか、首傾げおっだ。殿が真上からでねかとおっしゃっで。大笑いでがんす」
武助は、その時のことを思い出したのか、楽しそうにくくっと笑った。
「随分と藩主と仲良しなんだな」
思わず声に険がこもる。
『李山。それ、妬いとるんとちゃうか』と国倫にからかわれ、李山は『馬鹿言うなっ』と更にいらいらして指で火鉢の縁をとんとんと叩く。
「なるほど、義敦殿も蘭画を学びたくなったのか。それで、武助にも、もっと、ということで江戸に出したわけだ。
藩主が直接俺に習いに来るわけにはいかんからな。まあ、頼まれても教えてやらんが」
「なすて?殿は巧いでがんす」
「知っている。雲龍画を戴いた。お遊びでないのはよくわかる。
俺は手法の説明はするが、絵師並の絵が描けるわけではない。それでもおまえは納得して付いて来てくれた。だが、藩主に教えるにはそうはいかん。周りが怒り出すだろうさ。
武助が教える方が無難だ」
半分は本音で半分は言い訳だった。アイツに教えてやるもんか、という意地悪心が働いただけだ。
李山が差し出す酌を、武助は茶碗を伏せて断わった。
「もう今日はここでは飲まね。せんせに、おねげしてことがあっただ」
「なんだ?遠慮なく言ってみろ」
「吉原さ連れでっでおくんね?江戸さ来たばかりで、一人では気後れすがらよ」
ぶっと李山は酒を吹いた。
「馬鹿か、お前。俺にそんなことを頼むな!芳町や二丁町なら幾らでも連れてってやるが。吉原なんぞ、糞くらえだ。あんな女くさい場所!」
「せんせ、衆道だったがんすなあ。吉原さ行ったことねべか?」
「あるよ。江戸に居りゃあ一度や二度。接待で酒を飲みに、な。だが、女が色気を振りまくあの場所の空気を吸うと、反吐が出そうになる」
「反吐さ出ても死ぬわけでね。わすはもう、吉原さ連れて行て貰うづもりで、藩邸には今夜帰らね言ってあるがんす。楽しみにして来たがんす」
「あのなあ」
李山は頭を抱えた。藩邸から一番にここへ来たというのは、そういう理由か。まあ、武助らしいと言えば武助らしい。
「明日にしろ。明日なら、ここに誰かしら居る。嬉々として連れて行ってくれるさ」
「ほんさだべ?」
武助は笑顔になると、先刻返した茶碗をまた手に握り、こちらへと差し出した。
「んだば、もっと飲むがんす〜」
李山はまた苦笑し、酌をする。すっかり武助のペースに乗せられている。
「先刻、言っただな。殿の雲龍さ拝領すだど?」
「まあな。奥座敷の床の間に飾ってある」
「見たいがんす」
「ああ。こっちだ」と、李山は隣の部屋の襖を開ける。
武助は床の間の絵を直視すると、そのまま真っ直ぐ進んだ。人の布団をがしがしと踏みつけて行く。武助には足元も周りも見えていないのだ。近くまで行くと掛け軸の前に立ち尽くした。
「これは、殿のながでも、よぐ描けた奴でがんす。殿も気に入っでだ絵だぁ。わすも、殿が完成さすた時んこと、はっぎり覚えでるだ。殿もほんどに満足げに笑っで。
おどろいだ。これを手放すだだすか」
武助が振り向いた。少しも笑っていなかった。肩越しに龍の絵が覗いた。武助が肩に龍の顎を乗せているように見えた。
「おめさんは、よほど殿に好かれとるがんす」
声に棘が籠もり、唇がへの字の曲がった。肩の龍の目が赤く光った。
「さあ。この龍に、俺を見張らせているのかもしれんぞ?」
「見張る?」
武助はもう一度藩主の絵をまじまじと眺める。雷雲の間を泳ぐ龍の瞳は、鋭くこちらを見据える。稲光を浴び輝く鱗も角も、畏れを感じるから美しい。
「・・・まるで、殿の目が見でるよでがんす」
くるりと、今度振り向いた時の武助は微笑んでいた。口許が上がり、頬骨も上がり、確かに微笑んだ表情のはずだ。だが、李山には武助の目が、龍と同じように赤く燃えているように見えた。
武助は、ささと素早く李山の側に膝を揃えて座った。その時の李山は布団の上に胡座をかいていた。
「なんだ?」
「おめさんは、衆道がんす」
「うん。そうだが。なんだ、いきなり」
「なして、わすみてな綺麗なおとごを抱かねかっただすか?」
この質問に、李山はぐらりと体の均衡を崩して片手をついた。
「なっ。なんだと?」
「わすほどの美男、そうそ居ねだ。秋田でずっど一緒で、なして抱かねがった?」
「・・・。」
李山は茫然として、答えに窮した。武助は羽織の紐を解き、羽織を脱ぎ、袴の紐を解き、帯もほどく。
「わすが、田舎もんだからか?頭わりぃからか?江戸さもっと綺麗な男がいっぺえおるだか?」
「おまえ・・・義敦殿とは、閨を共にしていないのか」
これは李山への想いではない。そんなわけがない。武助は、決して自分に触れぬ義敦に苛立っているのだ。武助は勝手に肩から着物も抜く。
「殿には夜伽なぞしてねだす。下っぱのわすが、殿の絵の師範さするのは、そげに変だすか?」
なかなか武助の想いも複雑なようだ。殿の愛人だから絵の指南を任されたと噂されるのは嫌なくせに、義敦が美しい自分を欲しないのも不満に思う。
「師匠ど弟子さ契っではいけないがんすか?」
「そんなこともないが。おまえ・・・迫る相手が違うだろう」
李山は布団の上で後ずさりする。言いたいことがあれば、義敦に言え。・・・と言うわけにはいかんか。武助が下手に迫れば指南の任を解かれる可能性もある。
「おめさんのせいでは、ねだす。だども・・・龍が見とるがんす」
はっと、李山は床の間へ視線を移す。ぼんやりと暗い中にはっきりと見える。赤い瞳がこちらを見つめている。
「そうか。そうだな」
李山は、自分でも随分愚かな事をしているとわかっていた。だが、それでもいいと思うのが不思議だった。
国倫の恋を、鼻で笑っていた。鳩渓の許されぬ想いも愚かだと思った。だがまさか、自分がここでこんな場に遭うなどと。そして、それが・・・とても甘美で幸福だなどと、思ってみたこともなかった。
「アイツに見せつけてやるか。武助がこんなに可愛い男だと」
李山は、武助が自分で襦袢を解こうとする手を停めた。そのまま体ごと抱きしめ、静かに床へ導く。
「俺は、おまえをただの女の代りなんかにはしない」
龍よ。妬いて俺を獲って食うなら食え。
李山は武助の髪から足の指まで全てを愛でた。紙の上の龍よ、おまえには出来ぬだろう?と。
武助はこの若さで、男とも女ともどれだけ遊んでいるのだと李山を苦笑させた。触れれば響き、揺らせば美しい音を奏でた。彼は貪欲で傲慢で、そして素直だった。李山はその素直さを愛した。貪欲さに付け入った。今までどんな閨の相手も、ここまで武助を愛しはしなかっただろう。
抵抗し受け入れ、戸惑って受け入れ。かつてない高みまで昇って果てた後の武助は、「嘘だァ。こんだたごと。嘘さ決まっどる」と首を振った。
「どうも俺たちは、相性がいいようだぞ?」
李山がくすりと笑い、羽織を肩にかけてやると、こちらを睨みつけた。自分から誘惑してきたくせに、怒っている。体を(一瞬は心も)支配されたのが、悔しくてならないのだろう。
武助を可愛いと感じ、『愚かな』と首を振る。だが李山は嬉しそうに苦笑した。恋など、冷静すぎる自分に、できるはずもないとタカを括っていたのだが。
ああ、こうなのか。国倫も、鳩渓も。やはり馬鹿だ、あいつら。・・・そして俺も。
「藩邸に居ると、いじめられるだろう。俺も覚えがある。位が低いのに才能があって、藩主に認められた者は、たいていそんなものだ。
ここへ来て暮らせ。俺から藩に言ってやる。それなら、俺の空いた時間にいつも絵を教えられる」
「んだ」
短く答えると、武助は背を向けた。寝入った振りをしているようだが、彼はきっと闇の中で龍の絵を見つめているのだ。
朝起きると、熱はすっかり下がったようで。背に当たる堅い肩や温かな頬が李山を優しい気持ちにさせた。
だが、きちんと着物を着て髪を直した後は、お互い師匠と弟子だ。この日から、ヨンストンを間近に見せて、蘭画勉強の第二章が始まった。
武助は面相筆で獅子や駱駝を写した。細かい線や影もその通りに描き写すのは集中力のいる作業だ。けれど、江戸での暮らしは刺激が多すぎる。物売りが来る度に「あれは何でがんす?」と筆を置いて、窓から首を出す。通りを行く娘らを目で追って「着物も髪飾りも、あんなの角館では見たことねだ」と驚く。
絵師は好奇心が強いがいい。仕方ないと李山も苦笑してその度に説明を止める。ふわふわしたこの調子も、五日もすれば落ち着くだろう。
夕方。武助は直参の大田に連れられ、喜び勇んで吉原に出かけて行った。昨夜あれだけ派手に愛し合ったのに、元気な奴だと呆れて見送った。まあ、若いってことか。
「秋田で、絵のお弟子を取っていたのですね。綺麗な子だなあ」
何か言いたげに道有が茶を入れた。
「子供みたいな顔して、子持ちだそうだ」
「へええ。でもまあ、二十五なら、そうですかね」
「おまえは結婚しないのか。おまえも二十六だろう」
李山は先制攻撃をしかける。こっちが攻められる前に、眉を顰めるような話題を振ってやった。
「私はもう、娘も婿もいますから。娘が田沼様のお子を何人も産んで、一人をうちに分けてくれれば千賀家は安泰です」
道有は、今は獄医から御典医になっていた。以前より勤めは楽なので、表情が穏やかに変わった。千賀家は田沼の加護を受け、絶対的地位を保つ。
久保田藩へは、武助を平賀邸で預かる旨を伝え、届けを出した。特に咎められず許可され、却って留守居役から「小田野をよろしく頼みます」と頭を下げられた。
師走は何かとせわしないものだが、源内という男はだいだい何月でも走り回っている。今のように、家に籠もってひたすら武助に絵を教える毎日は、これまでになく静かで、穏やかだった。もうすぐ年も明ける。
第47章へつづく
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