★ 私儀、甚だ多用にて ★
第四十七章
★ 1 ★
「お晩です〜!」
杉田家の玄関で誰か呼ぶ。まだ少年の声のようだ。
「あ、私が出るよ」と、玄白は身重の妻を気づかって立ち上がった。
「師走のお忙しいところを、失礼いたします〜。平賀の使いの者ですが、玄白先生の奥方様はいらっしゃいますか〜?」
よく通る大きな声だ。藩邸内の長屋は狭い。三軒先まで聞こえそうな声だった。杉田宅は二間しかない長屋で、廊下に出れば玄関の使いも姿が見えた。
でかい。玄白はその巨体に何度もまばたきをした。声の幼さに騙されたが、使いは戸を全部隠すほどの長身で体格もよかった。下げた提灯が妙に小さく見えた。
「源内さんのお使いですか?」
「はい。下男の福助と申します」
ニコニコと屈託なく笑う。ふっくらした右頬にえくぼができる。顔だけ見れば十二、三歳とわかる。愛嬌のある可愛らしい少年だった。
「奥方様に、玄白先生へとお渡し願いたいものがありまして。・・・あのう。奥方様ですか?」
ふざけているのか、馬鹿にされているのか。
「私が玄白です。私が女性に見えますか」
玄白は真意が計れぬまま、憮然とした口調になる。
「失礼しました。源内先生のところの奥様は男なので」
福助は大真面目で答えた。
玄白はどこをどう突っ込んでいいかわからず、面倒くさくなって「私への届け物ですか?」と話を先に進めた。李山か国倫に恋人でもできて、一緒に暮らしているのだろう。
玄白は一枚の絵を受け取る。それは面相筆で丁寧に描かれた獅子の絵だった。宋紫石のものとは違う。もっと精密で、もっとヨンストンの本物の絵に近い。
「これはみごとだ」
「この絵師が今、うちにいます。先生は、腑分け図の絵師にいかがかと。試しに描かせてみたいので、腑分け図をお借りできないか、とのことです」
源内は、凄い絵師を見つけたようだ。ここまで描ける絵師なら、紫石と遜色がない。
「まだ時刻も早い。私も会いに行きます。本を、今取って来ますので」
玄白は、ターヘルアナトミアを風呂敷に包んで抱えると、家を飛び出した。
新大橋から神田大和町へは、福助の歩調に合わせて小走りになりつつ半刻ほどで着いた。本は途中から福助が抱えてくれたが、それでも、冬なのに額を汗が流れた。大和町の平賀宅へ行くのは初めてで、福助に遅れぬように必死だった。いや、一言「もう少しゆっくりと」と言えば彼は歩を緩めただろう。福助は下男といえ言葉使いは品があり、教育が行き届いた印象があった。早く歩いたのは玄白の意志・・・『解体新書』の絵師が見つかるかもしれない、その想いが気持ちを急かしたからだ。
大和町の家は、以前の長屋より少し小ぎれいで大きかった。肩で息する玄白を待たずに、福助が「せんせーい、帰りました!」と玄関から声をかける。戸も障子も震えるほどの大きな声だった。座敷には珍しく誰も客がおらず、奥座敷は襖から明かりが洩れる。
「おう。ご苦労。玄白殿は、何と?」と、奥座敷の襖が細く開いて、畳の近くから寝乱れた髪の源内が首だけ出した。李山なのか?だが、印象が違う。玄白には今夜の源内は特定できなかった。
「お連れしました」と福助が答えるのと、源内が玄関先の客を見つけるのは同時だった。すぐに襖は閉じられ、閉じたままの隣室から「今、仕度する。上がって待っていてもらえ」と声が聞こえた。綺麗な江戸言葉だ。これは李山なのだとやっと納得する。
まだ六つを少し過ぎた時刻で、就寝するような時間ではない。その『男の奥方』とよろしくやっていたのかもしれない。
玄白が、福助の入れた茶をすすっていると、「待たせてすまん。まさか玄白殿ご本人がいらっしゃるとは思わず」と、李山が着物の衿を直しながら襖を開けた。
「こちらこそ、すみません。お取込みのところを」
嫌味っぽい言い方になり、はっとして「あ、決して、そういう意味では」と付け足し、却って余計なことを言ったと下を向いた。
「なに、いいさ。終わったところだし」と李山が平然と言うと、玄白はかぁーっと首まで赤くなった。李山はくくっと笑い「結婚なさっても、玄白殿は相変わらずウブだな」と、煙管の先で本多髷の根元を掻いた。毛先が出ていた髪は撫でつけられ、整えられていた。
本多はもう少し若い男に流行る髷だが、源内は顔立ちが整う分若く見え、よく似合った。李山が体を使うようになってから、彼は着物や髪型の流行を追うようになった。
「下男を置かれたのですね」
玄白は、汗を拭き拭き話題を変えた。
「ああ、福助か。道有が伝馬町で看取った囚人の息子だそうだ。遺言で長屋に見に行き、子供が一人で暮らしていたので引き取ったそうだが、真面目な働き者と聞いてこちらに譲って貰った。鳩渓が読み書きを教えている」
「鳩渓さんが?」
それで、きちんとした言葉使いをしていたのかと納得がいった。鳩渓のことだ、丁寧にわかりやすく、そして優しく暖かく教えていることだろう。
「そういえば、おかげで国倫もだいぶ元気になったぞ。秋田では殆ど彼が表に立った」
「そうですか。それはよかった」
李山はもう国倫に舵を握らせないと怒っていた。玄白が国倫を庇って、李山を更に怒らせてしまった。そのことはずっと気になっていた。
やはり、李山の印象が違う。違和感がある。以前は、こんな風に親切に、わざわざ情報を教えてくれる人ではなかったと思う。もっと斬れるような空気をまとい、付き合いの長い玄白でも、恐くて構えてしまう事の多い相手だったが。
「李山さんが、奥方を貰ったと福助さんが言っていましたが?」
恐々と、気になっていたことを聞いてみる。李山は「まさか」と微かに笑った。
「少し前から、絵師の居候が居るがな。ヨンストンの獅子を見ただろう?
確か俺は、秋田で面白いものがあったら結婚祝いにすると言ったな。腑分け図など描いたことはないだろうが、きっと巧いと思う」
「・・・秋田で」
源内の秋田での成功は江戸でも評判になっていた。久保田藩の増収は、源内の仕事のおかげで年に二十万両と言われている。銅山に南蛮吹きを伝えただけでなく、陶器事業も起こし、銀山検分も済まし、精錬所の立ち上げも行い。おまけに腑分け図の絵師まで獲得して来るとは。玄白はその能力に畏怖の眼差しを向けた。
「たあへるを持参しました」
玄白が包みを解く。
「早速描かせてみるか。
武助! こっちへ来い」
襖から出てきたのは、まだ少年かと思うような繊細で美しい男だった。だが月代の肌を見れば、元服して何年もたつ成人であることは知れる。だいたい、玄白は士分の者だとは思っていなかったので驚いた。
「武助・・・小田野直武でがんす。先生の、銅山方産物吟味役だす」
「久保田藩の方、ですか」
「正式には角館・北家の家来だそうだが、久保田の殿様の絵画指南役だ。殿様の先生だから、秋田一巧い絵師だな」
李山が説明を補足する。まるで保護者のように。
「絵の先生が、銅山方なんとかですか」
うさんくさい話だ。これだけの美形だと、李山が単に恋人を呼び寄せたのではないのかと疑りたくなる。しかし先刻見せられた獅子の絵は、形の捉え方や影の付け方などは以前見たヨンストンの挿絵と瓜二つだ。紫石もあの獅子を描いたし、江漢も決して動物の絵は下手ではない。が、あそこまで蘭書の挿絵の雰囲気と似ていた絵は初めて見た。
「どれさ描けばいいがんす?」
「あ、まず、この髑髏を描いて見てください。何日後に取りに来ればいいですか」
武助はターヘルの挿絵を一瞥し、「気持つ悪い絵だべな」と眉を顰めた後、「あすたには出来とるがんす」といとも簡単に答えた。
「あ、明日ですか?でも、こんなに線も多くて細かい絵なのですよ?それに、武助さんは腑分け図を描くのは初めてでしょう」
「武助は手が早いのだよ」と、李山が自分のことのように誇らしげに告げた。
「では、明日、取りに伺います。完成した絵を、良沢殿や淳庵と見てから決めさせてください。
もし描いていただくことになったら、うちに通えますか。腑分け図の内容について、判別しづらい線など私が近くで指示した方がいいと思うので。私が仕事から帰宅する頃から五つ位まで作業していただければと。
報酬については、これも良沢殿らと相談して」
自分でも、『もう武助殿に決めている口ぶりだな』と気付いた。良沢にあの獅子の図を見せれば十分に納得する筈だが、念には念だ。江漢のように、他の絵は達者でも腑分け図は苦手だった者もいる。
玄白は「では、明日」と立ち上がった。長居をして、家を空けるのも心配だ。杉田家の下女は通いなので、夜は妻一人である。藩邸内の長屋で治安はいいが、妻は妊娠中だ。そう若くもない女でもあり、大事があってはいけない。
「木戸まで、送ろうか。・・・国倫が」
李山は最後は小声で玄白にだけ聞こえるように言って、席を立った。玄白は「え?」と聞き返す。聞こえなかったわけではない。だが、李山らしくなくて信じられなかった。
玄白は動揺した。でも、ここで否と言えば、また国倫が遠くなる。掠れた声で「ありがとうございます」とだけ答えた。
提灯を下げて先に玄関を開けた男は、もう入れ替わっている。少し右肩が下がる後ろ姿。背もやや猫背になる。
「国倫さん」
玄白が声をかけると、肩ごしに振り返って頬をゆるめた。「かなわんのう。背中だけでわしとわかるんか」
長屋の細い路地に、大股の下駄の音が響く。
玄白はうつむき、「いえ、李山さんに言われたからですよ」と嘘をついた。
「ずっと、詫びと礼を言わんとと思うとった。やっと話せた」
「秋田でのご活躍、うかがいました。お元気になられて、よかったです」
「玄白さんのお陰じゃけん」
「前に私が余計な口出しをして、李山さんを怒らせてしまいました。気になっていました。こうしてまたご活躍の姿を見ると、嬉しいです」
「ははは、今は李山は菩薩になっとるで。老いらくの恋の最中じゃけん」
玄白も釣られて笑った。国倫の内では、きっと李山が抗議して怒鳴っていることだろう。それを想像しても笑みが出た。
「あんな柔らかい雰囲気の李山さんは、初めて見ました。お幸せそうです」
言ってから、李山もこれを聞いていることに気付き、しまったと思う。国倫は「李山が照れとるけん。おもっしょいぞ」とくすくすと笑う。が、ふと真顔になり、「まあ、衆道の恋は、実の成ることはない。一生は続かんのじゃ」と爪先に視線を落とした。もう木戸まで来てしまった。国倫は蝶番の音を軋ませ、門を開けた。
「わかっていても、惚れてしまう。堅実な玄白さんから見りゃあ、ほっこ(阿呆)やと思うじゃろ?」
「いえ、そんな」
「お子は、いつ生まれなさる?」
「来年の春・・・弥生か卯月辺りかと思います」
「そうかあ。楽しみじゃのう。羨ましいの」
国倫は目を細め、提灯を手渡すと木戸から見送った。玄白は一礼し、ゆっくりと歩き出す。まだ下駄の音がしないので、見送ってくれているのかもしれない。玄白は緊張でぎくしゃくしつつ、振り返らずに路地を曲がった。
★ 2 ★
翌日、玄白は仕事の後に絵とターヘルを取りに訪れた。心はもうこの武助に頼もうと決めていたが、上がった絵を見て確信した。そのまま絵を持って良沢邸へ赴き、皆に見せて賛同を得た。良沢には、平賀家の食客であることは敢えては告げなかった。揉めて胃が痛くなるのはもう御免だ。
年明けから、武助に杉田宅へ来て描いて貰うことに決まった。
朝まで描いていた武助は玄白が来た時にはまだ寝ていたが、帰りの挨拶が終わり戸が閉まるのを待っていたようにごそごそと起き、座敷へと這い出して来た。
玄白はもう大和町の路地を曲がったかという頃合いだが、武助は憚ってか小声で李山に尋ねた。
「平賀せんせ。わす、来年からあの気持ち悪か絵さ、写さねばならねがんすか」
武助はあまり気が進まない様子だった。
「平賀せんせい。気持ちの悪い絵を。写さねばならないですか」
李山は、武助の秋田弁を江戸言葉へと言い直した。絵師は軽くため息をついた後に、「写さねばならねですか」と、最後だけを面倒そうに訂正した。それでも、訛りは微かに残った。
吉原は、久保田の花街に比べ、驚くほど華やかで美しい場所だった。遊女の美しさも着物の豪華さも雲泥の差だ。建物も龍宮城のようで、灯籠に花模様の蝋燭、飾り欄間や床の間、襖絵や障子の格子、絹布団の柔らかさ、部屋の造りや酒器や膳まで含めて夢の世界を作り上げていた。
そんな場所で、秋田弁を笑われたのは傷ついた。もちろん遊女はそんなことはしない。吉原の揚屋町・角町の大通りを闊歩する遊び人達が、何人も自分の言葉を振り返り、指さし、目で合図した。笑い声は聞こえずとも、笑いものにされているのは理解できた。
遊び慣れた南畝の案内でいい店で可愛い遊女と遊べたものの、遊女も店の者も実は田舎者の自分を馬鹿にしているのではないかと疑心暗鬼になった。そして帰りに南畝から、遊女らも『浅葱者』と田舎侍を影で笑うという嫌な話を聞いた。
翌日武助がブチブチと愚痴を垂れると李山は笑い、「いきなり吉原なんぞへ行くからだ。千住や板橋の女なら、北の言葉を馬鹿にはしないだろう」と言った後に、「まあ、俺も武助の言葉が時々聞き取れず困っている。江戸の言葉を教えてやろう」ということになった。勉強が嫌いな武助だが、花街でもてる為なら江戸言葉も進んで学ぼうとした。
「ターヘルの挿絵は、武助のいい勉強になる。仕事を頼まれなくても、借りて描かせようと思っていたくらいだ。
どうしても嫌なら断わってやるが。俺はやった方がいいと思うがな」
「なでだ? 他ん蘭書の挿絵ば写すでば・・・何故ですか? 他の蘭書の挿絵でも勉強にな・る・でしょ・・・う?」
途中、抑揚に気をつけながら、言葉がゆっくりになった。子供のように天を仰ぎながら言葉を探して喋る武助が可愛らしく、李山は笑みを洩らした。
「人の手や腕は、骨同士が組み合った場所で動く。ほら、触ってみろ」
李山は武助の右手を取って、自分の肩や肘、手首などに触れさせた。
「他の場所では曲がらん。時々枕絵で向こう脛辺りで足が曲がったり、二の腕の真ん中で折れてるのがあるが。あり得ん。見ていて気持ち悪いだろう?
腑分け図を描けば、体の仕組みを知ることができる。ライレッセの本は、人の動作が自然だった。阿蘭陀の絵師は骨の組み立ての仕組みを知っている」
「・・・。」
「納得したか?」
武助はコクリと頷いた。決して素直な性格とは言えない武助だが、絵に関してだけは例外だった。
歳が明け、武助は小浜藩中屋敷の杉田宅へと通うことになった。玄白が仕事から戻る七つ頃から五つ頃まで。少し早く着いて先に描き始めることもあった。
その日は、急患で帰宅が遅れるので待たずに先に帰るようにという玄白からの伝言が届いた。武助は「ちえっ」と子供のように唇を尖らし、道具を片付け始める。奥方が大きなお腹を屈して何度も「申し訳ありません」と謝る。
「奥様のせいでねがんす」
痩せた女のせいなのか、腹の大きさが目立つ。弥生頃が産み月と聞いたけれど、自分の女房の腹を思い出しても、来月にでも産まれそうな大きさだと思う。貧乏侍のうちとは食べ物が違うので、赤子の育ちも違うのだろうか。それに江戸は食べ物の種類も豊富で、しかも安い。これは武助には驚きだった。北の街は貧しくひもじい。
下女が「小田野様」と呼ぶ。見ると、桶に水を入れ過ぎたようで、重くて流しに上げられずにいた。下女は中年と呼ぶにはもう少し歳を取った女で、力も非力だった。
「すみませんが、この婆を手伝っていただけませぬか?」
武助は困ったように眉を顰める。
「わすは藩主の絵指南でがんす。手さ傷つけねように、力仕事は禁止でがんす」
十二歳で角館の若様の絵指南になった時から、剣の稽古さえ禁止された。
「ばあや、それぐらい、私が手伝いますよ」
気安く奥方が土間へ降りて行く。
「いえいえ、奥様は身重でございますから」
「妊婦も少し動いた方が、赤ちゃんにもよいのですって。
ほら、よいしょっと」
女二人は何とか桶を流しへと持ち上げた。この妻は普段から大きな腹を抱えてよく働いた。
「申すわけねがんす」
「いいんですよ。大切な絵師様の手にお怪我でもさせたら、私も申し訳がたちません」
奥方はお多福の細い瞳を更に細めて微笑んでみせた。
武助がその時の事を李山に相談した。深刻なものでなく、布団の中で冷えた足の裏を李山の腿にぺたりと付けて暖を取りながら、日常の報告のような感じだった。
「わすは、手伝ってやった方がよがったべかな」
ふと気を抜くと秋田弁が出て、李山にじろりと睨まれる。
「私は手伝った方がよかったでしょうか」
だが、意識して喋れば、訛りも抜けた言葉が出てくるようになった。
「難しい問題だな。もし手伝ってお前が手を傷めれば、お前は後悔する。手伝わなくて女中が怪我でもしたら、やはりいい気持ちはしない。どちらがお前にとって許せることなのか、選ばなくてはならない」
乾いた口調でそう言うと、李山はごろりと寝返りを打つ。掻巻布団が動いて武助は暖を奪われ、慌てて引っ張り取り戻した。
暫く腕に布団を抱え、武助は黙って考え込んでいた。彼は、今まであまり物を深く考えずに生きて来たようだ。侮蔑で言うのではない。生まれつきの絵師である武助は、目で見て感じた事が全てだったろう。言葉や理屈は必要なかったのだ。ここへ来てから「頭さ使い過ぎて痛ぐなる」とむくれる事もあった。
李山は玄白の家のことにあまり口出ししたくないが、彼は女中がいることで万全と甘んじて、奥方が反対に女中を助けたりしていることをご存じないのだろう。男はそこまで気が回らないものだ。
「明日にでも、玄白殿に事情を話してあげるとよいかもしれぬ」
下男を雇うか、若くて力仕事もできる女中に替えるか、奥方に注意を促すか。玄白自身が判断するだろう。武助も「んだ」とその案に頷き、李山の胸に頬を埋めた。
しかし、数日後。それらの心配は現実となった。
随分早い時刻に武助が帰宅した。今日も、玄白が仕事で遅いからと帰されたのかと思ったが、顔色が蒼白で様子がおかしかった。
「どうしました?」
夕食の準備をしていた福助も、気づかって尋ねる。体調が悪くて帰って来たように見えた。
「水さ一杯」と、福助に水を汲ませてごくごくと飲み干す。
「玄白殿にお子が産まれがんした」
李山も顔を上げた。それは、あまりにも早い。
「奥方が昼に倒れで、女医者さ呼んでのご出産でがんす。奥方は命に別状さねが、お子の方はまだ助かるかわかんねそうで。立て込んどったで、行ったら帰されますた」
「・・・。」
まだ睦月だ。産み月に二か月も足りない。
『李山。玄白さんとこへ、いこ』と、国倫が懇願する。
今、玄白はどうしているのだ。どんな気持ちで、妻と子の側に居るのか。
『行っても邪魔だろう。客が行くとわさわさして、奥方にも子供にもよくない』と、李山が反対するが、鳩渓が『でも、居てもたってもいられません。力づけに行ってあげましょうよ』と賛同してくれて、国倫が舵を取った。
「新大橋へ行って来るけん」
福助と武助に言い残し、足早に家を出た。
玄白の家は藩邸の中屋敷内なので今まで敷居が高かった。だが、そんなことも言っていられない。門番に杉田家の場所を聞いて、また小走りになる。
妙に歩き難いと思ったら、慌てたので武助の草履を履いていた。足の裏半分がはみ出し、足袋の踵が土に摩れ黒ずんでいる。鼻緒がきりきりと甲を締めるが構わず進んだ。
安普請の長屋が並ぶ、聞いた家はこの辺りかときょろきょろしていると、一軒から淳庵が出てきた。
「源内さんが見えたので」
「すまんの」
玄関を入ると、土間に玄白本人も座り込み、甫周や良沢までも居た。良沢はちらりと国倫へ視線を動かすと、「私はこれで」と立ち上がり、「あ、では私も」と甫周も続いた。確かに、狭い玄関に男五人が膝付き合わすのはたまらない。
玄白が礼を述べに立ち上がるのを良沢が制して、素早く帰って行った。
「奥の間では登恵さんが休んでいて、女中が付いています。もう一間は赤子が居て、嫁いださえさんがご自分の乳母を連れて来て見ていてくれています」
淳庵が説明した。それで玄白までが部屋から追い出されているのだ。
「こげな時、男は邪魔なだけじゃのう」
国倫はため息をついて、玄白の様子を顧みた。彼は壁に背を付けて座ったまま、消沈した様子で目を伏せている。
「奥方は大事ないそうじゃが」と、淳庵に確認する。
「はい。養生なされば問題ないとのことで」
「そうか。よかった」
玄白の母は、彼の出産が元で亡くなった。彼は自分のせいで母が死んだのだと、ずっと気に病んで育ったのだ。奥方が無事で何よりだった。
「お子の方も、最初は息をしていませんでしたが、処置中には産声も挙げました。三日目を越せば、何とかなるだろうとのことです」
「三日、か」
玄白にとって、つらい三日間になりそうだ。
「玄白さん、あんま思い詰めずに」と国倫が肩に触れると、玄白の瞳からこらえていた涙が溢れた。
「あ、す、すみません」と手の甲でぬぐい、だが涙は止まらない。頬を流れ落ちる。玄白は歯を食いしばって声を立てずに肩を震わせた。隣の部屋に泣くのを知られたくないようだった。
「ちっと、外へ出たれ?」
顎で戸外を差して、玄白を外へ誘った。
家から出ると玄白が先に立って歩き、長屋が並ぶ中に赤い幟の立つ小さな稲荷の前で止まった。
「寒いのにすみません。気を使わせてしまって。家の者には、私が気弱になって泣くのを聞かせたくなかったので」
玄白は、奥方には『きっと大丈夫だから』『安心して休みなさい』と言ってあるのだろう。確かに玄白が泣いては不安になる。
「登恵には、健康で五体満足だと言ってあります。登恵が弱っているので、回復するまで乳母を頼んだ、と」
産まれて暫く呼吸していなかったということは、この後無事に育ったとしても障害が残る可能性が高い。
「武助さんに忠告していただいたのに。明日から下男を頼む事になっていました。遅すぎました。私がもっと早く気付いていれば」
「自分を責めてはあかんよ」
「そうですよ。赤子は、無事に産まれれば幸運、育てばもうけもんって言われるくらいですから。こういうものなのです」
既に父親である淳庵は、現実的な言葉で玄白を慰める。淳庵も先輩の誰かにそう諭されたのだろう。
「ありがとうございます。だいぶ落ち着きました。私がしっかりしないと」
やっと玄白の顔に人の色が戻った。腹をくくったという強い表情だった。先刻室内で壁にもたれていた男より、少しだけ逞しく見えた。
国倫が帰宅すると、武助は出かけてしまっていた。玄白の奥方のことで、彼なりに負い目を感じているかもと気遣い、淳庵の酒の誘いを断わって帰ったのだが。
福助が味噌汁を暖め直しながら、あっけらかんとした口調で「千住へ行きました」と告げる。一人で吉原へ行くのはまだ気後れがあるのだ。それにしても、何かつらいことがあると女遊びに逃げる性癖は何とかならぬものか。
玄白の長子は、無事に三日という峠を乗り越えた。家族も友人も一応は安堵した。しかし健康で産まれた子に比べ、幾つもハンデを負うこととなる。
玄白の心労はこの先長い。
第48章へつづく
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