★ 私儀、甚だ多用にて ★

第四十八章

★ 1 ★

 安永三年の一月には、江戸結城座にて福内鬼外の五作目の浄瑠璃『前太平記古跡鑑』が上演された。これもなかなか評判のよい芝居で、連日の大入りだそうだ。いや、江戸者達は、何でもいいのかもしれない。どんな芝居でも、喜んで見に行く。着飾り、弁当を奮発し、夜明け前からそわそわと出かける。そういうお祭り騒ぎが楽しいんだろう。
 国倫もそろそろ浄瑠璃に飽きて、最初の作品上演の感動は薄れつつある。しかし、脚本の執筆はかなりの生活の助けとなる。当分は続けるつもりだった。

 昼は李山が武助に蘭画の指導をし、武助が出かけた夕方から鳩渓が福助に読み書きを教えた。玄白の家が落ち着くとすぐに武助の仕事は再開され、また新大橋に通い始めたのだ。鳩渓は、武助が居る時に舵を長時間握り続ける自信は無い。李山と自分はあまりに性格がかけ離れていた。武助に不審感を与えてしまうだろう。だから自分が舵を取って福助に教えるのも武助が不在の時だけにしておいた。
 その夜は四つを過ぎても武助は帰らず、ずっと鳩渓が前へ出ていた。食事も二人で済ませ、しんとした寒さに障子紙も凍えるようだった。
「寒いですね。お燗でもつけましょう」
 福助が笑顔で立ち上がろうとするのを、「あ、いいです」と引き止める。鳩渓は下戸だ。国倫も李山も一人で居る時は殆ど酒は飲まないが、この寒さに福助も気を効かせたのだろう。
「武助さんは、また、岡場所でしょうか」
 福助は溜息をつく。玄白のところで仕事をして、そのまま花街へ行って朝帰りということが時々あった。福助はまだ少年であり、彼の前では武助がどこへ行って来たかを口にした覚えは無いのだが。武助本人が告げるのか、近所の者達から聞くのか。
「武助は朝まで帰らないかもしれませんね。福助はもう寝てしまっていいですよ」
「はい」と、福助はいい返事をして、竈の火が消えたのを確かめ、戸に心張り棒を施した。福助は台所の土間の横に二畳の畳を敷いて寝起きしていた。
 明日は、李山が、武助を浄瑠璃に連れて行く約束をしていた。江戸が初めての武助に、芝居を楽しませてやるつもりで、茶屋から桟敷を予約し、酒宴も準備していた。だがこの分では、彼は帰って来ないだろう。芝居は明け六つには始まる。七つには仕度を始めなくては間に合わない。女性などは真夜中の八つ頃から髪を結い念入りに化粧を始めるらしい。芝居見物とはそういうものだ。
『鳩渓。福助を代りに連れて行こう』と、中で、李山が提案した。国倫もそうしたいと思っていたようで、頷く。
 有り難い事に人気の芝居だそうで、明日をキャンセルすると一月以上待たされる。人から話を振られて作者がまだ見ていませんでは、格好がつかない。だが一人で行くのもつまらない。
「福助。明日、浄瑠璃に付き合いませんか?」
「え。えーーーっ!連れて行ってもらえるんですか!」
 福助の大きな体が歓喜で飛び上がった。満面の笑顔に頬の肉が上がり、目がますます細くなる。
「あ、でも・・・着物も持っていませんし」
 福助は接ぎの当たった木綿の袷の着たきり雀で、しかも羽織も袴も持っていなかった。接ぎの着物では桟敷席でも茶屋でも惨めな思いをする。
「背格好は、わたしと同じくらいだと思うのですが」
 厳密には、福助の方がやや背は低く、体の幅は広い。だが、鳩渓の着物を着られないことはなさそうだ。鳩渓は立ち上がり、行李から着替えを引っ張り出した。試しに福助に羽織らせてみる。
 着物の裾は長くて床を擦るが、袴を履くのに帯の上にはしょるので問題はない。身幅が足りないのも、袴を履けば、はだけても気にならないだろう。袴の裾も少し長いが、腹の上で紐を締めてみた。体格がいいので巧く高い位置で止まった。
「よく似合いますよ。明日は付き合ってくれますか?」
 満面の笑顔だった福助の顔は見る見る歪み、眉がしかめられ、唇が曲がった。糸のような目尻から、玉の涙が溢れた。
「なぜ平賀先生は、罪人の子の私にそこまで・・・」
 鳩渓ははっと福助の顔を見た。今まで明るく元気に振る舞って、そんな影を見せたこともなかった少年だが。彼の心には常に負い目や罪悪感があり、苦しんでいたのだ。
「別に福助が罪人のわけじゃなし。あなたはいい子でよく働いてくれる。関係ないですよ。
 それに芝居のことは、これはわたしのわがままです。あなたを代役で付き合わせるのだから。泣いて感謝されるほど、親切をしてるわけじゃありませんよ?」
 鳩渓は人の裏や本音を詮索するのは得意ではなかった。素直で単純な人間には安堵する。李山や国倫の友人としてこの家に集う人々は、皮肉や戯言ばかり喋ってあまり本当のことは言わない。鳩渓は福助といるとほっとした。
 
 福助が自分の煙管を剥き出しで帯に差し込むのを見て、鳩渓は、それではあまりに粗野で、中間か人足のようだと注意をした。
「煙草入れを持っていないのですよね。買いに行く時間は無いし、作ってしまいましょうか」
 端切れで作ってもいいが、桟敷や茶屋で使うには相応しくなかった。金糸銀糸の華やかな布か、反対に黒や茶の地味な舶来の皮がお洒落とされた。鳩渓が持つものは鹿革に型押しした印伝だ。
 鳩渓は、紙で代用して金の絵の具で飾ろうかと手持ちの擦り絵を引っ張り出す。錦絵は質のいい厚い紙を使用するので、数日なら煙草入れとして誤魔化せる。中に春信のきめ出しのものが混じっていて、その手触りにアイデアを見つけ、「あ、そうだ」と鳩渓は声を出した。
「福助。欄間は外せますか?」といたずらっぽく瞳を輝かせる。座敷と奥座敷を仕切る欄間は、小菊をモチーフにした透かし彫りだ。
 鳩渓は、外した欄間の板を台にして、不要な擦り絵を押し付けた。春信の絵はさすがに惜しくて、春重の作品の風景部分を使った。掌でこすり、花のキワは指でしっかりなぞって輪郭を出す。その後、福助の煙管の長さに合わせて紙を切り、錦絵の側を裏にして糊付けして煙草入れの体裁を整えた。淡い琥珀色の表面に小菊のオウトツが表れる。それに絵の具で細かく色を付け、小菊の花弁と葉脈には金の絵の具を施すと立派な代物になった。
「朝までには絵の具も乾くでしょう。明日はこれを持って行くといいですよ」
「うわあ。何から何まで。
 これはとてもお洒落ですね。江戸中、誰も持っていません。これを見せびらかしたくて、たくさん煙草を吸ってしまいそうです」
 福助ははしゃいで、頬を紅潮させた。

★ 2 ★

『前太平記古跡鑑』は平将門が没落してからの物語である。『前太平記』は元々は今から八十年程前に出版された読み物で、平将門と藤原純友の反乱であるとか、源頼光と四天王の茨木退治であるとかが盛り込まれた娯楽作品だ。保元の乱前までが語られる。鬼外の浄瑠璃は、その戯作を下敷きにしていた。
 茶屋や桟敷で酒を飲むので、芝居に行く時には国倫が代わった。茶屋には主人が挨拶に来たり結城座の座長が挨拶に来たりで、社交性のある国倫の方が向いていた。鳩渓は福助を連れて行く役を国倫に取られて機嫌が悪かったが、料理や芝居を味わう福助の笑顔を見ているうちに、気持ちも収まった。福助が楽しければ、誰と一緒でもいいと思えた。
 国倫の方は、茶屋や一座の者、桟敷の周りの客達が、福助の煙管入れに注目することに驚いていた。皆は紙だと気付かず、皮にどうやってここまで鮮やかな色を付けたか不思議がった。阿蘭陀か唐のものだと思い込む者もいた。どこで買ったのか、幾らで買ったか等を何人にも尋ねられた。この型押しの紙は商売になるかもと、国倫の頭は回り始めていた。
 鳩渓は昔から、ただの半紙に絵を描いて、姉様人形を折ったりするのが好きだった。懐かしく思い出す。横に頼恭が居るのに、折り紙に夢中で適当な返事を返していた鳩渓の様子を。
 いつの間にか、頼恭の死の哀しみが薄れていることに気付く。甘く切ない想い出だけが残る。こうして日々は流れていくのだろうか。

 楽しかったと連呼する福助を連れて、夕方に帰宅した。武助は先に帰っていて、今寝て起きた風情で座敷に座っていた。
「平賀せんせ。勝手にわたすの絵の具、使いますたね」
 睨む眼の、右の目頭に目脂がついている。鬢もほつれ、美男子も台無しだ。
「あ、すまん。だが、わざわざ吉原まで断わりに行くのも野暮だと思ったんでな」
 体を入れ替わった李山は、辛辣に切り返す。江戸言葉をまだ自由に使えぬ武助は、即座に反論ができず、口の中だけでもごもごと何か文句を言っていた。
「貴様の代りに、福助に芝居を付き合って貰った。今朝結城座へ行く約束も、貴様は忘れていたのだろう」
 李山に責められても武助は謝るそぶりも見せず、まだ眠そうな目を擦りながら福助に向かって「腹さ減った」と暗に飯を作れと命じた。
「おめさは、わたすが腹さ減らして死にそうな時に、せんせと芝居見物でがんすか。随分と綺麗なべべさ着せて貰ったがんすな」
「す、すみません。着替えたらすぐに飯を炊きます。あ、その前に屋台で何か買って来ます」
 福助は気の毒なくらいうろたえ、慌てて羽織を脱いだ。
「よせ、福助。おまえは、武助の使用人ではない。食いたきゃ自分で買いに行けばいいことだ。初めての人ごみで疲れただろう、今日はもう休んでいいぞ」
 李山がことさら武助に冷淡だったのは、福助の素直さの半分でもこの青年にあればという苛立ちのせいだった。
「武助はそろそろ玄白殿のところへ行く時刻のはず。少し早めに出て、蕎麦でも食ってから行けばいい」
 武助はその言葉を聞くと唇をきっと結んで立ち上がり、画材を脇に抱えて黙って家を出て行った。
「あっ、武助さん!」
 福助が呼び止めても、振り向きもしなかった。
「先生・・・。私は、行かない方がよかったかもしれません。武助さんに悪いことをしました」
「何を言う」と、李山は福助の肩をぽんと叩いた。「武助も大人げない奴だ」
「喧嘩、しないでください」
「別に喧嘩というほどのことでは」
「お願いです、仲違いせず、いつも仲良くしていてください。家族が喧嘩しているのは、私は悲しいです」
 そういえば、福助の父は、妻を殺して囚われたのだと聞く。李山は言葉に詰まり、小さな声で「そうだな。すまん」と謝罪した。

 その夜も武助は帰らず、腹いせの気晴らしにまた花街へでも泊まったようだった。福助は早朝から出かけて疲れたようで、台所の横の寝床からは深い寝息が聞こえていた。
 李山は、夜具に包まれ、闇の中で天井を見つめる。何故、武助とこうもうまくいかないのだろう。自分が的外れの事を諫めているとは思えないのだが、彼はことごとく反発する。そしてそのあと心情を語らない。武助はいつも口をつぐんでしまうのだ。・・・心を開いてくれていないのかもしれない。

 翌朝、玄白の使いが手紙を届けた。武助が無断で休んだが体調でも悪いのかという内容で、李山は手紙をきつく握った。あいつは、家を出てそのまま岡場所へ行ったのだ。
 玄白は融通の効かない真面目な男だ。仕事を怠けて遊里へ行ったなど知れれば、武助の人間性を疑うだろう。仕事を断わられる危険もある。この本は後世に残り、絵師の武助の名をも永遠にすると李山は踏んでいた。最後までやり遂げさせてやりたい。
 李山は、使者に武助病気の為という返信を持たせた。玄白に嘘をつくことに罪悪感を持ったが、このあと二人が気まずくなると仕事もやりづらかろう。仕方ないと割り切った。

 武助は昼には帰って来た。鳩渓が座敷に文机を運んで、福助に実語教を読ませている最中だった。
「どこへ行っていたのですか」と問い詰める鳩渓に、返事もせずに草履を脱ぐと、さっさと奥座敷へと入ってしまった。
 体をすぐに交代した李山が、「玄白殿のところを休んだな?」と声を荒らげて、追って襖を開けた。武助は、床の間に竜の掛け軸の前に佇んでいた。竜の目が李山を睨んだようで、一瞬足が竦んだ。竜が武助を抱え込むように見えたのか、武助が竜に魅入られて動けぬように見えたのか。ぼうっと淡く窪んだ床の間の闇は、そこの空間に入り込むことを躊躇させた。
「玄白せんせが言いづげたがんすか」
 振り返った武助に、障子越しの弱い光が当たる。夜を徹して遊んだのか、顔にやつれが目立った。彫りの深い顔立ちが光で強調され、皮膚の下の骨を想像させた。
「失礼な言い方はよせ。病気ではないかと心配されて、文を寄こしたのだ」
「あの・・・」と、福助が背後からおずおずと声をかけた。
「ご飯を召し上がりませんか。武助さんは、お腹がお空きでは。朝のサヨリも味噌汁も温め直しました」
「・・・そうだな。武助、飯を食え」
 李山は、これ以上武助を責めるのをやめた。福助はきっと両親の生前、こうして間に割ってやきもきしていたのだろう。

 武助は確かに空腹だったようで、福助が用意した食事の匂いに誘われるように奥座敷から出てきた。膳の前に座り、挨拶も無しに飯をかっこんだ。香の物を噛み砕き、さやえんどうの味噌汁を音を立てて飲む。腹が減って機嫌が悪かったのかもと李山に思わせ、李山の尖った気分も幾分か和らいだ。
 サヨリの開きをほぐしていた武助の箸が止まった。いきなり箸を置いて、膝の上で拳を握り、うつむいた。
「武助さんは、お魚は苦手でしたか?」
 福助は気づかって尋ねるが、今までは食べていたのだから、そんなはずがないのは知っている。見ると武助の顔色は紙のように白く変わり、眉を寄せていた。
「武助、気分でも悪いか?」
「骨が・・・」
 骨が取りにくくて食べないとでも言うのか?いくら何でもそれは子供っぽい。それに、明らかに様子が変だった。
「福助、すまね。わたすは食べれねがんす」
「具合悪いなら、無理するな。床で休むか」
 李山は肩を抱いて武助を立たせ、福助に奥座敷へと布団を敷かせた。床に腰を降ろして夜具にくるまる武助の唇は紫に凍え、指先も氷のようだ。
「何か温まるもの・・・酒は飲めそうか?」
 こくんと頷くのを見て、李山は福助に燗をつけさせた。
「魚の骨が・・・人のに見えたがんす」
「人、の?」
 李山は尋ね返す。だが、即座に理解した。医者でない武助にとって、ターヘルの解剖図は刺激が強い。骨も臓物もそこに有るようにリアルであり、それを線一本一本そのままに写し取る武助の作業は、生理的につらいものなのだ。
「杉田せんせのところで絵さ描いてで、わたすの手さ骸骨に見えでぐる時があるがんす。自分のこの腹のなかに、にょろにょろすた蛇みたいなもんさ有るがと思うど・・・わっと腹さかっさばいて取り出したくなるがす。
 気晴らすに出かげでも、おなごの肩や腰の骨さ触れるど・・・骸骨さ抱いてるような気分でがんす・・・」
 武助は声を詰まらせた。李山は思わず夜具ごと武助を抱きしめた。
「すまなかった。おまえの気持ちを気遣ってやれずに、厳しいことばかり言った」
 武助がこれほど追い詰められていたのに、気付いてやれなかった。武助はあまり心を語らない。だが、様子がおかしい事で察するべきだった。
「玄白殿の仕事は、数日休ませてもらうといい。俺が頼んでみる」
「せんせは、暖かでがんす」
 武助は、子供のように頬を李山の首にぴたりと当てた。
「遊女の体は冷たかったか」
 こくりと、武助が頷く。整った鼻が李山の喉仏に触れた。武助はさらに唇を喉に寄せる。李山は苦笑してため息をついた。
 武助は誘っているのだ。朝まで遊女と居たのに、である。どう考えても精神状態が健全ではない。快楽に溺れて現実逃避したいだけだ。このままでは体を壊しかねない。
「熱燗を飲んで、暖かくして寝ることだな」
 武助は抗議しようと息を吸い込むが、その時襖が開いて福助が湯飲みに入れた酒を運んで来た。まるで間合いを計って待っていたようだった。
 熱すぎてすぐには飲めないようで、武助は少しずつ酒をすする。血の気のない白い指が、茶碗を包むうちに赤味を取り戻した。
「せんせも、飲んでたんせ」
 頬も薔薇色に戻った武助が、茶碗を差し出す。
「いや、俺はこれから玄白殿のところに行くのだ。真面目な話をしに行くのに、酒気を帯びるわけにはいかんだろう?」
 ぷくりと、武助の唇が尖って膨らんだ。武助は率直に不服を表わす。
「帰ったら付き合ってやるから。暖かくなったのなら、少し眠っておけ」
 李山は、後を福助に任せて家を出た。

★ 3 ★

 藍水のところでおたね人参を少し売ってもらってから、玄白の家を訪れた。奥方への見舞品に玄白は恐縮したが、「俺の結婚祝いに貰ったんだ」と言っておいた。以前、玄白がそうして藍水から人参を貰って、自分に与えてくれたことがあったのだ。玄白もそれを覚えていて、微かに笑った。
 奥方はその後の経過は良く、時々は床から出て乳母の手伝いもするということだ。赤子も問題なく育っている。
 武助の体調不良のことを説明し、数日休みを貰いたい旨を告げる。玄白も心当たりがあったようで、「医者でない武助さんには、気持ちの悪い作業でしょうねえ」と肩を落とした。
「図譜はあと半分ほど残っています。今、武助さんに辞められるととても困ります」
 玄白は、武助が写した図譜を持ってきて、李山の前に広げて見せた。
「これは・・・。」
 李山は絶句した。骸骨があまりに活き活きとしていて、踊り出すのではないかと思われた。手足の筋を描いたものは、生きて生活している手足であるように見えた。手首足首の先に生身の人間が感じられるのだ。眼球の断面図は、ぎろりとこちらへと視線を変えそうだ。
「凄い絵でしょう?私が求めたのは正確さだけでしたが、絵としても魂のあるものです。
 正直、武助さん以外の絵師に頼む気持ちにはなれません。武助さんが降りて、後任の絵師に描いてもらったとしたら、見劣りしたものになります」
 李山も、武助に何とか続けさせたいと願っていた。だが、ここまで生々しい絵を描いている武助の、精神の負担はよくわかる。良い絵を描く為に深く深く潜り、潜り過ぎて藻に絡まれじたばたと暴れている。
「これを描くことが絵師としての得になることが納得できれば、我慢もできるのだろうがな」
 武助の絵への情熱は本物だ。あの自堕落で色好みの性格からは想像できないが。絵を描く時だけは真摯で誠実に変わる。
 数日休みを貰って色々と気分転換をさせてみると話し、李山は家へと戻った。結局それぐらいしか、方法はなさそうだ。

 玄関を開けると、福助の「やめてくださいよ〜」という泣きそうな声が奥座敷から聞こえた。体の大きい福助は声も大きい。隣近所に助けを求めるほどの事態ではないのだろうが、その半べその声には実感があった。武助に何か意地悪されているのだろう。
 李山がやれやれと襖を開ける。首に白粉と目尻に紅を施された福助が、武助から帯を引っ張られているところだった。
「先生!助けてくださいよぅ」
 武助は、遊女から少し化粧品を分けて貰ったらしい。福助に蔭子のような化粧をして、戯れてみようとしたのだろうが・・・。長身でしっかり筋肉がついた福助のその姿は、滑稽を越して不気味ですらあった。年齢的には福助が蔭間茶屋にいてもおかしくないが、こんな相撲取りのような少年に客がつくものか。
 李山の登場で武助は帯を離し、福助は勢い余ってごつんと柱に額をぶつけた。
「福助の方が力が強いだろう。さっさと逃げればいいものを」
「お武家様を突き飛ばしたり振り払ったりなど、できるわけないでしょう。それにもし手をお怪我でもされたら」
 ひと周りも年下の福助の方が、ずっと大人だ。
 武助は遊びを邪魔されてふてくされたように唇を曲げ、布団に潜ってしまった。
「玄白殿には、数日休みを貰った。ついでに、お前の描いたものを見せてもらった。
 だいぶ骨の組み立てがわかっただろう。画力も上がったのではないか?」
 疑い深そうに布団から目だけ出し、「そうでがんすか?」と問う。が、あの図譜もまんざら自信が無いわけでもないようだ。
 あれらの図譜で力量が上がった部分は、座図や佇む図でなく動きのある絵に顕著に現れる。
「武助は、笑い絵は描いたことはあるか」
「友に頼まれで、戯れにはよぐ描いたがんす」
「ならば、画力の違いに気付けるだろう。
ちょっと今、俺と福助が絡むから、その通りに描いてみろ」
「ええーーっ!」と悲鳴を挙げたのは福助の方だった。
「馬鹿、真似をするだけだ。力仕事でできたお前の筋肉が、武助の絵の役に立つ。下帯は取らんでいいから、床にうつ伏せになれ」
 福助は涙目になって布団へ移動し、武助の方は慌てて布団からどいた。道具箱から布を巻いた鉛筆を取り、紙を抱えて布団の横に座る。
「せんせは、福助と絡みてえばかりに、そげな」と小声で悪態つくのを李山は聞き逃さず、「ふざけるな」と、自分の解いた帯を丸めて武助の顔に投げつけた。師がここまでしてやっているのに、武助は親切も愛情も当り前のものとして平然と受け取るのだ。
「俺も福助も、寒いんだぞ。とっとと描きやがれ」

 描き上げた武助の態度は一変する。くしゃみを連発して慌てて着物をはおる李山と、布団を被って「気持ち悪い」とめそめそ泣く福助を尻目に、武助は頬を興奮で紅潮させていた。下絵の紙を握った手が震えた。
「まるで自分の絵でねがんす。あの時描いた笑い絵が、わらす(童子)のいだずら描きさ思えでくるだ」
 福助の背に隠れた源内の右の肘がどこで曲がったか予想でき、右手首の位置も自然になる。肩の線はどこに繋がるのか。掌の向きは。指の曲がる場所は。全てがまるで一本の線でつながっているように、理由づけできた。
 着衣を終えて「どれどれ。巧く描けてるな」と覗き込む師の、首筋の奥、着物に隠れた肩や胸の丸みや隆起が自然に想像できた。着物だけ見えるそのままに描くのと、中にある体を意識して描くのと、絵は絶対に変わってくる。これは絵師である武助の、直感的な確信だ。
 武助は次の紙に、今の絵を参照しながら別の構図の二人をさらさらと描いていった。骨の作りがわかれば、見たままでなく、どんな姿勢も描くことができる。武助は驚き、そして歓喜した。自分が手に入れたものは、絵師としての宝物だ。
「凄い事でがんす」
「俺があの図譜を描くのが勉強になると言った意味、やっとわかったようだな」
 こくりと武助は頷く。
「気持ぢ悪がったのも、吹っ飛びますた。あすたからまた、杉田せんせちさ通います」
「気持ち悪かったのも、吹っ飛びました」と、李山が久しぶりに秋田弁を直したので、武助は破顔した

 福助が涙をこすりながら「夕飯の仕度を」と布団から這い出て来たので、李山は「三人で夕飯は久しぶりだな。鰻でも食いに行こう」と、福助の仕事が免除になったことを告げる。
「おまえみたいな子供に、交合(まぐあ)う真似などさせて悪かったな」と李山は福助の頭を撫でた。
「が、そろそろ覚えてもいい歳だ。花街へ連れて行って貰うよう、誰かに頼んでやるよ。おまえの同行は町人がいいだろう」
「えっ、そ、そんな。えーっ」と否定も肯定もせず、福助は真っ赤になって、出てきた布団にまた潜ってしまった。その様子がおかしくて、李山も武助も声をたてて笑った。久々に大和町の家に笑い声が響いた。

 武助は以後は連日杉田宅へと通い、ほどなく解体新書の図譜を完成させた。腑分け図が気持ち悪いことは変わらない筈だが、絵の勉強になることが実感できた為か、その情熱が吐き気も悪寒も凌駕したようだ。怖い夢も時々見たらしく、うなされていた。だが自分で選んだ事だという自覚が生まれたのか、不平は言わなかった。
 玄白は良沢を説き伏せて須原屋へ入稿し、たあへるの翻訳本は夏には刊行されることが決まった。

 春の長崎屋ももう国倫も浮かれて出かけることはなく、若い学者らの指標として参加するのみだった。彼らが物おじせず質問し、接することができる雰囲気が作れればと思った。
 国倫本人は、欲しい蘭書は全て入手したことであり、あまり会見にも心が惹かれなくなっていた。淳庵や玄白らの阿蘭陀医者たちが活発に質問するので、自分はもういいかという思いもあった。たぶん、この場所は既に別の者の舞台となっているのだ。




第49章へつづく

表紙に戻る