★ 私儀、甚だ多用にて ★
第五十章
★ 1 ★
武助の眉上の怪我は打撲だけで切り傷はなく、李山が湿布薬を貼り替えてやった。晒を小さく折りたたみ、梔子(くちなし)の粉を水で練ったものを塗って貼る。
ひやりと冷たい湿布が苦手なのか、武助は晒が近づくと首をすくめて両目をきつく閉じた。その様子が幼い少年のように見えて、李山は笑みをこぼした。
「俺は、藩邸の長屋で、茶碗を割られて部屋に破片を巻かれたことがある」
もっと酷い目に遭わされたが、それは口にする気になれなかった。武助は布を指で抑えながら、目だけで李山を見上げた。そんなことを言われても何の慰めにもならない、と言いたげな瞳だった。
翌日の武助は、写生に行くと言って出かけた。江戸は秋の気配が深くなってきた。福助が大きな風呂敷を渡した。肩やひざに掛けると少しは暖かいだろう。
李山の方は、荒川の工事の許可が早く降りるよう、田沼に便宜をはかってもらいに出かけ、昼頃帰った。本来なら何か付け届けをするのだろうが、田沼にふさわしい高価な土産を買えるわけがなく、いつも手ぶらで訪問する。そして今日などは、「売る程貰ったので」と饅頭を戴いて帰って来た。
福助は「わあい、饅頭だ、饅頭だ」と小躍りして喜んだ。武助はまだ帰宅しておらず、福助が「写生に行くと夕方まで帰りませんよ」と教えた。いつも武助は不忍池当りで道具を広げているらしい。
「武助さんが帰るまで、食べては駄目なのですよね?」
福助は、ちらちらと土間に置かれた包みを何度も盗み見る。体がでかくても、子供は子供だ。
「茶と饅頭を持って、上野へ行って三人で食うか」
「えー! それは楽しそうです! 紅葉狩りですね」
不忍池では、大きな岩に座って描く武助をすぐに見つけた。が、李山は近づく足が止まった。隣では士分らしき者が一緒に絵を描いていた。武助が言っていた新しい弟子ではなさそうだ。なぜなら、近くに二人ほど、手練と思える見張りがそれとなく警護していたからだ。質素な着物を着ているが、あれは義敦だ。肩を寄せ合ってと表現したくなるほど、むつまじい空気をまとって二人は風景を描き写していた。
「武助さーん」
福助の方はそれに気付かず、大声で手を振った。片手に抱える菓子と茶の竹筒の包みをかたかたと鳴らしながら、小走りに近づいて行く。
「先生が饅頭をいただいてきたので、紅葉狩りも兼ねてみんなで食べようと思って。
あ、そちらは絵のお友達ですか?お友達の分も、饅頭はありますよ!」
武助が呆れた表情で悪態ついたらしく、福助が「馬鹿とは何ですか、馬鹿とは!せっかく持ってきてあげたのに!」と憤慨していた。
「武助さんがいないうちに、こっそり食べてしまうこともできたんですから!」
李山は少し離れて見ていたが、李山が居ることには武助より先に義敦の方が気付いた。鉛筆の手を止めて、ぺこりとこちらに丁寧な礼をした。
李山は観念して武助らの方へ歩み寄る。広い場所を確認し、礼の為に膝を付こうと当りの枯葉を下駄で払うと、義敦が「身分は秘して来ています。あまり大袈裟な挨拶は勘弁」と釘を刺した。李山は苦笑して、立ったままで「お久しぶりです」と深く礼をした。
ちらりと義敦の絵を覗き込んだ。武助と同じ構図で池と向こうの木々を描く。義敦の絵がかなり本格的なことは知っていたが、武助から影や遠近を学んだせいか、さらに上達したように見えた。曙山の落款で画商に出せば、高価な値で買い取ってくれることだろう。
「武助が世話になっています。武助が蘭画を修め、しかも立派な学問の本の役に立った事を嬉しく思います。江戸へやって真によかった。武助によい機会を与えてくださいました」
「武助・・・小田野殿の江戸行きを許してくださった、義敦様の広いお心のおかげです」
「平賀殿は武助の蘭画の師匠です、気にせず武助とお呼びください。私も孫弟子ですから、平賀先生とお呼びせねばなりませんね」
事情のわからない福助は、きょときょとと二人を見比べる。
「先生。饅頭を食べてはいけないですか?」
ああそうだったと、李山は笑った。
「義敦様、いえ、ここでは曙山様とお呼びしましょうか。戴き物ですが饅頭はいかがですか。そちらの警護の方たちも」
全員で菓子をいただき、竹筒の番茶をすすった。義敦は供が毒味した残りの半分しか食べられなかったものの、なかなか無い体験だからか楽しそうだった。しかし、武助だけは不機嫌そうに仏頂面をしている。仲良く絵を描いていたところに、邪魔が入ったという思いなのだろう。
「明日は色を入れよう。武助は城の方へ来てくれ」
日が落ちる前に義敦は帰り、李山達も空の菓子箱を抱えて大和町へと向かった。
「せんせは、人さ悪いがんす」
「すまんな。別に邪魔をするつもりではなかったんだ。武助も、佐竹出羽之守と一緒だと言えばいいものを」
「・・・。」
「写生に出かける時は、いつも一緒なのか」
「そうでがんす。上野へ遊びさ来でるわけでねス」
武助が機嫌が悪いのは、義敦と二人で居るところを邪魔されたからなのか、絵の勉強を中断されたからなのか。だが李山にとって確実なことは、二人が寄り添った場面を見て自分は嫉妬したということだった。
眠る前にもう一度武助の湿布を貼り直してやった。奥座敷の布団の上に、梔子の香りが甘く漂う。
「だいぶ青痣も薄くなったな」
「口の方さ、まだ痛いがんす」
唇の切り傷は完治していたが、腫れがまだ残る。
「ここは薬を塗れぬだろう。口に入ると害がある。
こんな顔では吉原に行けぬか」
くくっと李山が笑うと、武助は上目使いで睨んだ。
「殿さ指南すあいだは、女郎など買わね。そんな気さならねだ」
「へええ」と李山は面白そうに武助の顔を見下ろした。武助はぷいと顔をそらす。
李山の唇は笑みの形だったが、胸の中では波がうねり飛沫が岸を叩いた。ざわざわと心が騒ぐ。武助を見ていると、国倫のかつての片想いを反芻させられた。武助と義敦を妬いているのか、武助の想いと国倫の恋を重ねているのか、このざわめきの理由が計りかねた。国倫は膝を抱えて座ったままで、苦笑いして李山の思考を見守る。
時間は戻らない。あの人は逝ってしまった。あの恋は終わってしまった。
李山は武助の腕を取って抱きしめた。武助があの頃の国倫のような想いを胸に秘めているのかと思うと、切なくなった。武助がいとおしかった。傷の腫れを避けて、唇に触れた。
軽く痛んだのか武助は一瞬体を堅くしたが、李山の腕も唇もそのまま受け入れた。そして頬を李山の胸に寄せた。禁欲していた分、体に触れると火が着くのも早いようだ。武助の方から李山の着物の衿を緩め、細い指を首に回した。
俺は、あの殿様の代りだろうか。らしくなく、李山の脳裏に自虐的な思いが走る。武助を抱く腕にも力がこもった。
風が強く吹くと、窓の障子が震えた。月は有るのか無いのか、外から洩れる明かりは皆無で、武助の肩だけが行灯に白く照らされていた。相変わらず閨では素直で、着衣の時のひねくれた青年とは別人だ。
「雨、か」
屋根を叩く細かい音が聞こえた。李山は背後から武助をかき抱いたまま、天井の雨音を見上げた。武助の波動が胸に伝わる。今日の不忍池の面にも、水の落ちた輪が幾重にも広がり、落ちた葉を揺らしているのだろうか。
★ 2 ★
若い粋人の友人らに持たせた煙草入れは周りでも評判だったようで、国倫は本格的に金唐革紙の製作に乗り出した。
国倫はずっと、輸入の金唐革のバカ高い値段に腹をたてていた。金唐革だけではない。他の、輸入物の殆どが、工夫すれば日本の材料と技術で何とか作れそうなものなのに、日本の富豪は阿蘭陀物だと言ってありがたがっては大金をはたく。日本の金が阿蘭陀に流出する。あまりにも愚かな図式だった。
若い頃からこの図式には憤りを感じ、かつては量程器や磁石も作った。今回も自身の機転で、金唐革に似たものを安く作ることができて満足だった。
地模様の下絵を李山が描き、武助も手伝った。それを本屋で版木に彫らせ、福助が決め出しの手法で紙に型をつけた。着色は李山と武助でやったが、前回に金の絵の具を使用した部分は金箔を貼った。その方が豪華に見えた。
小物への加工は、前と同様に行った。煙草入れと煙管入れのお対で作り、道有らの知人で欲しがった者らに売った。
本物の革製品に比べれば格安だが、布製よりはかなり高価な品だ。それでも好評だったので、続けて作ることにした。荒川の整備でまた金が必要だった。
煙草入れとは別に、手文庫にこの紙を貼って加工した物も売ろうと考え、試作した。少し大きな紙を使い、版木を移動させながら押し出した。紙を無駄にしない為に、元になる手文庫の大きさを測り、展開図を書いてから作業した。彩色と金箔貼りは切り取ってから行い、金箔の使用量を少しでも減らす工夫をした。色合いも、煙草入れは深い藍にしたが、少し変えて朱を効かせてみた。手文庫は女性が小物入れに使う事が多いからだ。
巧くできたので、これを誰かに贈ろうと思ったが、李山には懇意の女性などいない。さてどうしたものかと考えを巡らせ、荒川の作業で知り合った秩父大宮郷の庄屋・久保四郎右衛門のお内儀に贈っておこうと思いついた。
久保とは夏に知り合い、来年の工事ではだいぶ世話をかけることになるだろう。荒川の整備は彼の協力がなければ難行する。好意的に迎えてくれた久保に感謝していたので、何かしたいと思っていたところだった。江戸で今まさに流行ろうとしている金唐革紙細工の、一番新しい品だった。久保は愛妻家で、あまり体の丈夫でない妻を大切にしていた。喜んでくれるといいと思った。
金唐革紙の煙草入れや手文庫は作るのに手間がかかり、技術もいる。価格を高く設定したが、阿蘭陀の輸入品よりは安価なので、そこそこの注文はあった。とりあえず生活の足し以上には儲かった。
学者の中には、『平賀は小間物屋に成り下がった』と陰口を叩く者もいた。
やっていることは、火浣布や国倫織や寒暖計と同じだ。作り始めた時の想いも。陶器製作の頃から、変わっていない。
最初は陰口に憤慨したが、志が変わっていないのだから、自分は背筋を伸ばしていればいいのだと開き直った。
だいたい、本草学者なんぞ、もともと何でも屋だ。農夫でもあり医者や薬屋でもあり絵師でもある。自分はそこから、少しずつ、多方面にはみ出したにすぎない。
安永四年の春には、アルメノー商館長が長崎屋に来た。去年はフェイトだった。既に顔見知りで、ドドネウスもこれ以上彼らには解読してもらえないことはわかっていた。国倫と鳩渓が待つ『本草に詳しい阿蘭陀人』は来ない。
だが、ここへ来れば、親しい友人にも会える。国倫は、一日だけ、長崎屋へと顔を出した。
蘭方医達は手に『解体新書』を抱きつつ阿蘭陀人医師へと質問を投げかける。良沢と淳庵などは、ある程度の会話なら大通詞無しでやってのけた。阿蘭陀人医師が実地で見本を見せる作業では、玄白が助手として呼ばれ、ソツなく役をこなした。もう時代は、『解体新書』を出した彼らのものだった。若い甫周でさえも、学者らの輪の中心にいた。
最後までは居らず、少し前に退席した。見ると、長崎屋の建物から表通りへの細い露地を、紐で二頭の羊を引いた男が行く。紋付き袴なので、今日の参列者だ。髪は白髪だが後ろ姿の肩幅は広く、背もすっきり伸びて矍鑠としている。そのがっちりした背に見覚えがあった。
「田村先生」
振り返った師は、老いて痩せて皺が目立ったが、相変わらず瞳におおらかな光を浮かべる。
「おお、平賀くんか。久しぶりだな」
「先生、その綿羊は?」
「長崎の、吉雄くんから送ってもらった」
「幸左衛門から?羊を?」
参府の荷の中に、羊を連れて来たようだった。今年の大通詞は幸左衛門ではない。
「しかし、何故、羊」
「俺が知るか!・・・田沼様が『羊を育てよう』と言い出した。俺達みてえな幕府抱えの学者は、右へ倣えするしかねえ。ちっ、二頭で二十二両だってよ」
田村は早口でまくし立てた。外見は老いたが、まだ相変わらず声も大きく元気だ。
「おめえが以前、大量に買ったんだってな。そのせいだろ、田沼様の案は」
国倫は二度目の長崎で唐人から安く羊を買った。羊毛を摂ろうと思い、志度の実家で育てさせた。結局は全部死んでしまったので、羅紗を一枚織っておしまいになった事業だった。
北、か。
国倫は声に出さずに唇だけで呟いた。国倫が単独でやろうとしてうまくいかなかった事業を、田沼は幕府ぐるみで始めようとしている。綿羊を繁殖させ、羊毛で羅紗を織る。暖かく軽い羅紗は、蝦夷地で活躍する筈だ。国倫も、田沼の目が蝦夷へ向いているのに気付いたからこそ、長崎で羊を買い付けたのだ。
「だいたいの育て方は吉雄くんが書いて来たが・・・」
藍水は困り果てたように目を細めた。そこで国倫は、実家の畑が損害に遭ったことを説明した。おたね人参の畑とは別の敷地で育て、しっかりとした檻に入れることを勧めた。
「毛を刈って縒って編みんしゃい。来月くらいが刈り時じゃ。二頭分でも暖かい肩掛けにはなりますけん」
「時々、羊を見に来てくれねえかな」
国倫は快諾して、表通りで藍水と別れた。
その晩、珍しく玄白が家へと訪れた。玄白はちらりと玄関の草履を確認する。今夜は客が無いことを確認し、誘われるままに座敷へと上がった。玄白は、文士や浄瑠璃関係の友人が苦手だ。
「長崎屋の帰りにお話ができると思っていたのに、先にお帰りになったのですね」
それでわざわざ尋ねて来たのか。
「田村先生と一緒だったんじゃよ」
一緒になったのは偶然だが、連れ立って出たような言い方になる。国倫は視線を逸らし、「福助、酒じゃ」と背後へと叫んだ。
「酒が出るなら、わたすも!」と、武助が奥座敷の襖を開けた。
「あや、杉田せんせでしたか。おばんでがんす」
「今夜は、武助さんのことでお伺いしたんですよ」
「わたす?」
武助は、黒目がちの瞳を丸めて首を傾げた。玄白は頷く。
「長崎屋では、他の医師達に解体新書の絵師について色々聞かれましたよ。今日は来ないのか、明日は来るのか、他に腑分けの絵は描かないのか、私の本の挿絵を描いてくれないか、もう、大変でした」
武助はとたんに不機嫌な表情に変わった。薄い唇をぶううっと厚く突き出す。
「腑分けは。もう、描きませんっ」
ゆっくりと、しかし強い江戸言葉で否定する。武助は、気持ち悪さを我慢して必死で描いた。あんなのはもう二度と御免だと思っている。
「長崎屋も、行がねから!」
「武助は、色々と学者に尋ねられるのが、嫌なんじゃろう」と国倫が説明した。
『解体新書』に武助が寄せた文章も、淳庵に泣きついて書いて貰ったものを清書したのだ。その時源内は秩父にいたので、他に頼る者もいなかった。武助には、町人が寺子屋で学んだ程度の学力しかない。
平賀宅へ遊びに来る学者の中には、あの挿絵の詳細を武助に尋ねる者もいる。絵を描いたからといって、武助が阿蘭陀語や医学をわかっているわけではない。しかし、彼の家系に医者がいることを知る者もいる。あれだけ見事な図を描いたのは医学にも精通しているからと思い込まれてしまうようだ。武助も医者だと勘違いされることもあった。
その度に、「私は学者ではないので」と、秋田弁が出ないように断固とした口調で言い張り、すぐに奥座敷へと逃げ込む武助だった。
「そうですかぁ。皆さん残念がるでしょうが、無理強いはいけませんからね」
玄白の言葉に、武助はにっこりと笑う。長く杉田宅で仕事をしたせいか、武助は玄白に親しみを覚えているようだった。気配りのうまい玄白は、武助に親切に接したことだろう。笑うと武助の長い睫毛が影を作り、瞳を更にきらめかせて見せた。
『俺の前では、あんな顔はせん』
中で、李山が愚痴を垂れた。玄白に嫉妬しているのだ。国倫はつい笑いそうになる。
「お子は、大きくなられたかのう?」
国倫は話題を変える。玄白の息子は生後一年三カ月。今も無事に、育っている。
「おかげさまで」と玄白は頷いた。掛け値なしの、作ったのでない笑顔だった。未だに寝返りも打たず、笑顔も見せず、知能に障害があるのは明かな赤子だと聞く。だが、玄白の笑顔には曇りがない。
国倫は、その笑顔に見惚れる。確かに玄白は、武助のような見目のいい男ではないだろう。だが、玄白の背筋の通った心が、国倫の琴線に触れる。
「よう無事に育たれたス」
武助の中には複雑な想いが渦巻く。手を庇い、重い荷物を持ち上げてやらなかったこと。あれが直接の事故には繋がらなくてよかったと思う。赤子も奥方も無事で、本当によかった。
「秋田では、七カ月で産まれた子さ、まず育たねがんす。食べもんさ違うせいかも。産まれだ時も、七カ月にしては、しっかりすた赤子ですたよな」
はっと玄白の顔色が変わり、だがすぐに「はい。よく食べる子ですし」と笑顔になった。笑顔の質が変わっていた。これは作ったものとすぐわかった。
『武助の馬鹿もん!』
国倫は心で武助に悪態をついた。言葉にしてはいけないことだった。国倫も気付いていたし、たぶん玄白本人もそうだったのだ。
登恵はそこそこの武家で行儀見習いの躾けを受けつつ働いていた女性だ。もう嫁ぐ気はなく、このままその武家に尽くして生涯を終えるつもりだろうと思わせる、そんな年増だった。それが突然の縁談で、玄白の妻になったのだ。何かがあったのだ。すぐに嫁がねばならぬ事情が。
早い時刻だったが、「明日も長崎屋ですので」と、玄白は立ち上がった。
「木戸まで送るけん」と、国倫も席を立った。
★ 3 ★
「すまんのう、武助のこと」
長屋の細い路地を、肩を寄せて歩きながら、小声でぼそりと呟く。月は三日月で明るさが足りぬが、玄白は掲げた提灯で巧く足元を照らした。
「いえ。武助さんには、長崎屋は居心地は悪いかもしれませんね」
玄白の声が堅かった。返答を聞いて、しまったと思った。国倫は初めから長崎屋のことを謝ったが、玄白はそう取らず、だが知らぬふりして答えたのが感じ取れた。
「玄白さん」
国倫の声には困惑が混じった。
「・・・すみません。あなた相手に武装しても、仕方ないですね」
玄白は観念したように肩を落とし、微かに笑ってみせた。
「私は妻も子も大切に思っています。赤子は可愛いものですよ。月足らずのせいで他の子のようにはいきませんが、生きていてくれるだけで感謝しています。
同僚の子らも可愛いと思います。長屋を走り回る子らも可愛いと思います。子供はみんな可愛いです」
玄白は、長子が自分の子ではないかもしれぬと思っている。でも、妻も子も愛していると言うのだ。子供は、全てが、可愛いと。
「妻が、中条流に駆け込まずにいてくれて、よかったと思います。彼女が私に嫁ぐことで、命が一つ救われたのです」
時刻はまだ浅く、木戸の閉まる刻ではなかった。国倫は木戸の柵に寄りかかり、『まったく、この男は』とため息をついた。綺麗事で言っているわけではなさそうだ。
無理はしているとは思う。だが、言葉の意味を一つ一つ噛みしめ、自分に言い聞かせ、納得させているようだった。
「おんしは偉大な男よのお」と月を見上げた。玄白の顔は見なかった。
「偉大でなど。あるわけないでしょう。妻の方がずっと立派です。
登恵はわかって受け入れてくれているんです。私の心が裏切っていることを」
国倫は目を見開き、玄白を振り返った。玄白は、何を話そうとしているのだ?
こんなに話し込むつもりはなかったので国倫は羽織もひっかけていず、春先の夜気の寒さに両腕を袖に突っ込んだ。だが、背に震えが来たのは、冷えのせいだけではなかったかもしれない。
表通りのお店(たな)は店仕舞いして格子ごしに明かりだけが洩れる。路地からは長屋の人々の声に子供の泣き声も混じっていた。まだ夜は浅く、気分は昼間の軽さが続いている。
「いえ、今は裏切りでさえないと思っています。自分に甘いかもしれませんが。
登恵を見ていて、そう思えるようになりましたよ。妻には、忘れられぬひとがいるのかもしれない。でも、よく働き、優しさと思いやりに満ち、私の傍らに笑顔で寄り添ってくれています。妻は間違いなく誠実です。
私も、そうであろうと誓いました」
「おんし。まさか妾でもおるんか?」
真面目な玄白に? しかし、遊びができないこの男なら、きちんと囲っていることもあり得る。
玄白は意外なことを言われたというきょとんとした顔になり、そして破顔した。
「妾じゃないです。私の片想いですから」
「解せんなあ。何故片想いなど」
「やめてくださいよ。当の本人が」
「・・・?」
「ずっと憧れていました。切なくて楽しくて苦しくて。自分の気持ちに気付かない振りをしていましたが、もうやめました。
最近です、色々なことが吹っ切れて、開き直れるようになりました」
これは愛の告白という類のものではなかった。何というか・・・。
「海に向かってバカヤロウ言うちょるのを、隣で聞かされている気分じゃ」
玄白はあはははと声に出して笑うと、「はい、まさにそんな気分です。すっきりしました」と細い月を振り仰いだ。
「こんな話をするつもりじゃなかったんですが。妻の話から、横道に逸れましたね。でも、話せてよかったです。ずっと、あの仲違いの夜から、気になっていました。
あなたを嫌いだからではなく、好きだから腹がたったんです。遊びで戯れに私を抱こうとしたことに。年月を経て、だんだん、そのことに気付き始めました。
でも、だからと言って、あなたとどうこうなんて気はさらさらないです。私には登恵がいて。裏切るつもりはないし、それに私は衆道でないし」
国倫は面食らい、暫く言葉に詰まる。こんな風に玄白がはっきりと言葉に出し形にするなど、予想してみたことがなかった。
「なんじゃのう」
やっと、唇が動いた。眉を情無さげに下げて玄白を見つめた。苦笑して、頭を掻く。今すべき表情が見つからなかった。
こうして口に出せるということは、玄白の中では完結した想いなのだ。一緒にいてももう玄白の心の波は感じない。玄白の鼓動が、震えが、以前はいつもこちらに伝わっていた。今は、それは無い。
玄白との諍いや心の行き違いは、国倫を苛立たせ、気落ちさせ、心を締め付けた。それは恋の時の想いと似ていた。十分に玄白には揺さぶられたと思う。
『わしもおんしが好きじゃぞ?』と、今さら言っても詮ない事だ。
くしゅんと、国倫がクシャミを洩らした。寒さに首をすくめた。
「あ、すみませんでした、長々と」
「うにゃ。わしも引き止めてしもうた」
「時々。こんな風に話を聞いてやってください。国倫さん以外に、話せる人もいないので」
一緒に華やかな名声を浴びる淳庵や、師のように仰ぐ良沢よりも。小間物屋まがいの浪人学者に、心を割って話をしたいと言う。いつでも、何なりと。国倫は笑顔になって鼻の下をこすって、「おう」とだけ返事した。
「寒いから、もう戻ってください」と言う玄白に従い、国倫は少し路地を戻ってから、玄白の提灯が角に折れて見えなくなるまで見送った。
店先の明かりも消え、あとは頼り無い爪のような月だけが灯る。国倫は足元を気遣いながら、それでも足取りは躍るように路地を戻った。
状況は何も変わっていない。相変わらず借金は山積みで、仕事はぱっとせず、私生活も停滞していた。だが、玄白と心を通わせて話せたことで、体が軽くなったような気がした。
ずっとぎくしゃくしていた二人の関係が、元に戻った。いや、時を経て以前より深みを増して、更に強い絆で繋がったような、そんな印象だった。
今までは、明日のことなど・・・一刻先のことなど、期待を以て思い描くことを、ずっと忘れていた。今は、やりたいことが、たくさんある気がした。
七月の浄瑠璃の本を書こう。今度の題材は何にしよう。金唐革の新しい文様を作ろう。阿蘭陀風の花と草がいいだろう。長崎で貰い受けた西善三郎の遺品も修理しよう。そろそろ季節もいいし、秩父の荒川の工事も始めよう。
秩父の借金を返したら・・・。もう一度、ドドネウスに取り組もう。資金を貯めて、翻訳した部分だけでも、文柳に絵を描かせたものだけでも、本にしなくては。
やりたいことがむくむくと膨らんで、走り出したい気分だった。また、忙しくなりそうだ。
第51章へつづく
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