★ 私儀、甚だ多用にて ★

第五十一章

★ 1 ★

「いってらっしゃい!」
 大和町の長屋全部に聞こえそうな声で、福助は武助を送り出す。茶だけでなく、いいと言うのに握り飯まで持たせた(それも「絵のお友達」の分も)。今日は上野で写生だそうだ。
 李山も目だけで見送りながら、苦笑する。福助は、不忍池で会った武士が佐竹出羽之守と知るよしもない。
 日本橋の方では、今日も長崎屋で熱い質問が繰り広げられているんだろう。
「ま、小間物屋には関係ない世界だ」
 李山は新しい金唐皮紙の意匠を描きながら、小声で呟いた。長崎屋に通うと、数日間早朝から夕刻まで行きっぱなしになり、日常が滞る。今の源内にはあそこで得るものもないし、家で新しいデザインを作った方が無駄がなかった。

 玄関で声が聞こえ、がらりと戸が開く。
「おや、平賀さん。長崎屋にいらっしゃらないので、ご病気かと」
 道有だった。本当に見舞いに来たわけではないだろうが、腕には水菓子の入った駕籠を抱える。
「下総で作る枇杷を手に入れましたので、お裾分けです」
 枇杷の栽培はここ十年くらいだろう。珍しい品なので高価だ。千賀家の羽振りのよさは相変わらずのようだ。
「わあい、枇杷だ!」と福助ははしゃぎ、「あ、これも武助さんに届けに行きますか」と、李山を上目使いで伺う。
「いや、いいだろう。あいつは、邪魔されると機嫌が悪いから」
「武助さんは、お勤めですか?」
 道有の問いに李山は「まあな」と曖昧な返答をする。道有は、武助が出て行ったのを確認してから訪れたのではないかとと思う。
「最近は、私と茅町へは行ってくださらないんですねえ」
「・・・。金が無いからな」
「おごりますから、一緒に行きませんか」
「やらなきゃいかんことがあるのだ。それで長崎屋へも行かなかった。長崎屋より大切ってことだ」
 きつい言い方になった。だが、彼との距離ははっきり示した方がいい。武助が心に住む今、李山はもう道有と遊ぶつもりはなかった。
 道有は一人で出かけるのかと思うと、結局は、蘭書を眺めたり、福助と世間話をしたりして、だらだらと昼過ぎまで居た。
「三人で飯でも食いに行くか」と李山が立ち上がる。福助は「あ、私が何か屋台で買って来ますよ」と下駄に足を滑り込ませた。仕事中の主人に気を効かせたつもりだが、李山としては道有と二人きりになるのを避けようと、皆を外へ誘ったのだ。
「いや、外で食う方が気分転換になる」
 玄関の立て付けの悪い板をガタガタ鳴らして開けると、ひょっこりとまた一人来客だ。桂川甫周の弟、森島中良だった。彼も長崎屋に源内がいないのに気付き、大和町へ来たクチだ。
「こんちわ。どこかへお出かけのところでしたか?」
「飯だ。一緒に来るか」
「はい。
 あれ?千賀先生、お姿が消えたと思ったら、こちらへ出没でしたか。蘭癖で有名な千賀先生が、どのような急用かと思っていました。源内先生がご自宅に残られたのをご存じだったのですね。
 有益な医学のやり取り、ご見学なさらずともよいのですか」
 若い中良は容赦が無い。中良は、源内を敬愛し、心酔していた。どうも道有を敵視している風がある。同じ御典医の家系、外科の桂川と内科の千賀という対抗意識も働くのだろうか。
 だが、道有は少し大人であり、軽く受け流した。
「先生がご病気かと思い、伺っただけですよ」
「お医者なのに、昨日お見かけして、ご健康か否かわからなかったですか」
 これには道有も眉を顰めたが、李山が「こらこら、よさんか」と窘めた。
「で、何を食うか。福助、何がいいか?」
 話題を意識して変えたところに、棟割長屋に住むおかみが野菜を抱えて通りかかった。
「河童先生、今日も両手に華だねえ。一人分けておくれよ」
 軽口を叩くと、返事も待たずに井戸へと消えた。むっと唇を結んだ李山は、「とっとと行くぞ」と先に立って歩き出した。
「俺は明日から秩父へ行くからな」
 長崎屋へ顔を出さぬだけで色々と詮索され、果ては勝手に友人達が仲違いを始める。やってられん、と李山はため息ついた。

 秩父では国倫が舵を取り、昼は河川工事の指示や見回りをこなし、夜は浄瑠璃本を執筆という生活が続いた。狭い川幅や小さな滝などを工事で通過しやすい地形に変える工事は、ルートを工夫することで工事箇所を最小に留めた。
 炭焼き工場も完成し、鉄山でも一緒だった岩田三郎兵衛や秩父の地主・久保四郎右衛門らの尽力もあって、炭焼き自体も成功した。秋の終わりには河川工事も完了して、江戸の冬に炭が間に合う計算だ。
 七月に上演された自作の『忠臣伊呂波実記』も見に帰る暇もなく、荒川のあちこちへ出没、工事を見守った。
 秩父の短い夏を終えると、国倫は意気揚々と江戸へ戻った。この冬は、長崎で譲られたエレキテリセイリティの修理に取り組み、それが終わったら本草図鑑の編纂へと向かおう。

★ 2 ★

 国倫は江戸に入り、家に帰る前に例によって茶店や湯屋等に出没する。半年江戸を離れると、世間の流行や噂に疎くなるので、人が集まる場所で情報を収集する。湯屋の二階では、雑な作りの金唐皮紙の煙草入れを持つ町人を見かけた。李山が作って売ったものは、作りも丁寧でゴージャス感があり、価格も高い。悪いが湯屋で見た男にあの煙草入れを買う財力はないだろう。李山のものを真似た粗悪品が出回り始めたのだ。
 金唐革紙はそこそこ商売になったが、もうこれで終わりにした方がいい。源内工房のものの方がいくら質が良くても、李山が相手にする客は、安っぽい煙草入れと同じ意匠のものは買おうとはしない。
 また何か、新しい事を考えた方がいいのかもしれない。

 藍水に羊を見てくれと頼まれたことを思い出し、自宅へ戻る前に紺屋町を覗く。
 師は体調を崩して臥せっていた。残念ながら二頭の羊は盛夏に亡くなったそうで、春に刈った毛だけが残ったそうだ。
「秩父へ詰めておりましたんで、申し訳なかったです。ご病気のことも知らんで。羊のことも、残念でした」
 羊毛は縒って編んでも肩掛けにさえ足りない量だった。布を袋にして中に羊毛を詰めれば暖かいと提案すると、「おう、そうするか」と、笑顔は元気そうな藍水だ。
「平賀くんが高松藩時代に作った図譜があったろ?綺麗なやつで。おかみも欲しがって、別に作って献上したよな?」
 はっと国倫の表情が凍る。頼恭に依頼されて任された衆鱗図のことを言っているのだ。国倫はあの仕事の途中で、酷い嫌がらせに遭って藩を辞めた。思い出したくない、つらい出来事だった。
「あれを、貸し出しできるよう、藩に口を効いてくれねえか?家老とはまだやりとりがあるんだろう?」
「はあ。まあ、季節の挨拶程度は」
 世話になった木村季明とは、年に一度ほどの書簡のやりとりは続いていた。だが、儀礼的なもので、密に連絡を取るような間柄でもなかった。
「本草学者達で、あれを参考にしたがってる若いのが多くてな。うちの次男の元東もそうだ。鳥のやつが見たいんだとよ」
「確かに。図譜はしまいこんでいても仕方ないけん。先生のおっしゃる通りじゃ」
 美術品のように美しい図譜だった。だから藩では、頼恭の死後は宝物殿にでもしまってあるのかもしれない。でもそれでは、図譜として役立たない。
「また見舞いに来ますけん。お大事になあ」
「忙しい平賀くんが、また来る頃まで臥せってるかよ。そん時にゃもう治ってるぜ。
 俺んとこには、見舞いにおたね人参は持ってくんなよ。売るほど有るどころじゃねえ、作ってるんだから」
 病気でも威勢のいい藍水の様子に微笑み、いとまを告げた。

 大和町の家に戻ると、武助は勤めに出たようだが、福助の姿もない。掃除の最中に道具を放って出たようで、棒手振りでも追いかけていったのかもしれない。
 玄関に腰を降ろし、旅の荷物を解いていると、「旨い旨い」という福助の嬉しそうな声が響いた。棟割の方から声がする。
 下駄を引っかけて角を曲がったら、福助が道に立ったままで丼物をかっこんでいるのが見えた。長屋に住む年配のかみさんから、何か戴いて食べているようだ。
「すまんのう。うちの福助が御馳走になって」と、女に頭を下げつつ歩み寄ると、「わっ、先生!」と福助は喉に飯を詰まらせて、ドンドンと胸を叩いた。
 国倫ははっと息を飲む。頬には青痣ができ、そして明かに福助は痩せていた。頬がこけ、目も窪んでいる。青年の面差しに変わったと言うには、性急すぎる。
「どうした?半年のうちにこげん痩せて」
「どうしたもこうしたもないよ!」と、かみさんが国倫に詰め寄った。
「仕事で飛び回るのはいいけどさ、源内さん。まんま食うお金くらい、置いていきなよ。この子、ろくに食ってないんだよ。可哀相に、育ちざかりなのにさ」
「・・・。そげな。なしてじゃ?」
 福助に振り返ると、少年は目を逸らして丼で顔を隠す。
「武助か?」
「・・・。また吉原通いが始まったみたいです」
 福助に十分に渡しておいた生活費を武助が持ち去ったようだ。しかも、福助が痩せてしまったということは、金を取られたのはだいぶ前のことなのだろう。
「おまえはもう手紙も書ける。何故知らせて来んかった?」
「知らせてお金を送っていただいても、また取られますから」
「・・・。」
 国倫は呆れて言葉が出なかった。

 そして家へ戻って仰天した。奥の間の龍の掛け軸が無くなっていた。福助に訊ねると、蚊帳も布団も無かった。武助が質に入れたのだ。
「掛け軸はマズい。あれは出羽之守からの賜りもんじゃ。わしの首が飛ぶぞ」
「すみません。私の力が足りずに・・・」と、福助はうなだれた。
「おんし、それで殴られたか」
 福助は小さく頷いた。だが、彼の痣がまだ新しいので、最近のことなのだろう。絵は取り戻せるかもしれない。
「武助がどこの質屋を使うとるか、知っとるか?」
 掛け軸と皆の布団と。武助自身の冬物の着物も質入れしてあったので、それも引き取った。冬を越す予定だった当面の生活費は消え、また千賀に頭を下げに行った。道有と距離を置きたくても、なかなかそれが許されない。

 ギヤマン造りの天井を仰ぎつつ、道有へ取り次ぎを頼む。天井に泳ぐ金魚はもう冬眠へと向かいつつあるのか、動きが鈍く、とろとろと死んだように漂っていた。
 道有は金は貸してくれたが、いい顔はしなかった。
「今は出羽之守は江戸に来ています。今だけでも、武助さんを藩邸に戻したらどうです?福助は私が世話した子です、あの人に苛められているのを見ると、たまりません」
 青年は玳瑁(たいまい)細工の煙管の灰を火鉢に落とし、新たな葉に火をつけると肉厚の唇に銜えた。
「すまん。わしが至らぬばかりに」
「平賀さんが謝ることじゃないでしょう。
武助さんが悪過ぎます。
そりゃあ、あんな綺麗な青年は、江戸中探してもそう居るもんじゃない。ご自慢の愛人でしょう。でも、躾くらい、きちんとしてください。私は情けないです」
 激しい言葉をぶつけながら、気持ちが昂ったのか煙管を取り落とした。国倫の方が泣きたくなるような厳しい言葉だった。
「知性も品性も欠けるあのような人。いくら美形だからと言って。なぜ?何故なんですかっ?」
 もう、源内へ意見するというより、自分の嫉妬がほとばしり出た言葉だった。いつも諦めたように静かに微笑んでいた道有だったが。初めて自分の気持ちをぶつけてきた。
「嘆きますまい」
 国倫は苦く笑みを作り、煙管を拾ってやった。火種はとうに消えていたようで、刻みだけがぱらりと畳にばらけた。
「では、おんしは何故、山師だ小間物屋だと馬鹿にされる学者に肩入れしとるん?世間には、もっと立派な学者がおるだろう」
「・・・。」
「おんしは大切な友人じゃ。そんで武助も可愛い弟子だ。あいつにはあいつなりの荒れる理由もある。
 しかしまあ、少し注意して監視しよう。福助がおがっしゃげられるんは(殴られるのは)、わしもたまらん」
「すみません。色々と出すぎたことを申しました」
 冷静さを取り戻した道有は煙管をしっかりと受け取る。
「わしも・・・おんしに甘え過ぎていたところがあるかもしれんのう」
 千賀親子は自分の才能を最も買ってくれた人物だ。この恩は決して忘れはしない。道有の応援が、どれほど心強かったことか。だが、そう甘えてばかりもいられない。
「いいえ。一番に私を頼って来てくださる。それが道有にとっての喜びです。私には金を用立てることぐらいしかできませんが」
 もういつもの道有に戻り、静かに微笑んでいた。国倫は当座の生活費だけを借り、千賀邸を後にした。何としても炭焼き事業は成功させねばならなかった。

★ 3 ★

「のう。その瓶の薬はあとどれぐらいで無くなる?」
 久しぶりに玄白の家を訪ねた国倫は、なんとはなしの世間話で茶をすすりながらも、ちらちらと薬箪笥の上の瓶たちに視線を走らせていた。が、ついに思い余ってそう尋ねた。
 外科の玄白の薬箪笥はそう大きなものではない。箪笥の上の棚に置かれる十数本の水薬は阿蘭陀渡りのもので、そちらの方が高価だろう。鮮やかな青やくすんだ茶の瓶の大小が、国倫には読めぬ阿蘭陀語のラベルを貼られて並んでいた。
「そうですね。一番左のは、この量ならあと半年ですね。その隣は一年分はあるでしょうか」
「隣のは?」
「三月くらいですかね。・・・で、何ですか?薬屋の売り込みの手伝いでも始めましたか」
 玄白に悪気は無いのはわかっているが、国倫はむっとして唇を結ぶ。何かするとすぐに儲け話だと思われる。
「空のギヤマン瓶を貸して欲しいんじゃ」
「薬でなく?瓶ですか?」
 怪訝そうに薬棚の前で玄白は首を傾げた。国倫は頷く。そう、瓶。空の瓶だって高価なものだ。
 数年前、長崎で譲られた遺品のエレキテリセイリティ。国倫はこの冬にやっとそれの修理に手をつけた。摩擦エレキの発生装置。
 江戸へ出て初めての冬に、国倫はびりりと摩擦エレキを体験した。庭仕事の前に準備で体を屈伸させ、さあと鍬を取ったら掌が弾かれた。以来、洗い髪が乾いた後に櫛ですくとびりりと痺れたり、薬罐などの金物に触れると手が払い退けられたような痛みを感じたり。高松や志度の冬にはこんなことは起こらなかった。西善三郎の持っていたからくりは、このエレキを人為的に起こすものだ。同じ田村門下の先輩、後藤梨春の本にも載っていた。
 からくりは、摩擦を起こす部分と、作ったエレキを貯める仕組みとに分かれるようだ。修理自体は簡単にできた。手回しで中の滑車が回って筒と鎖とが擦れればいいのだ。だが、遺品の箱の中には割れたギヤマン瓶の破片が散っていた。何かに使った筈なのだ。試してみたいがギヤマンは高価なので家にあった陶器で代用した。が、巧く行かなかった。
「エレキテリセイリティを修復しようと思おてのう。ギヤマン瓶が必要なんじゃ」
 高価なガラスの瓶を買う余裕は、今の国倫には無い。
「エレキテリなんとかって、医療器具ですよね。長崎屋でそれの話を聞きました。阿蘭陀で最も旬の刺激治療の器具で、日本の医者で買う者が居れば取り寄せると言われました。お屋敷が買えるような値段でしたよ」
 阿蘭陀でも高価なものだろうが、例によってふっかけてきたんだろう。
「国倫さんは、それを作ろうとなさっているのですね」
 見上げる玄白の目は、尊敬と羨望の眼差しに満ちる。
「いや、作るわけでなく」
 直すだけだと国倫が訂正する間もなく、「日本の医学の役に立つならば。どうぞこの瓶を持って行ってください!」と、玄白は、棚の端にあった緑の瓶を差し出した。片手で握るには太い瓶で、手の小さい玄白は茶を飲むように底にもう片方の手を添えた。薬瓶にしては大きいものだ。
「まだ何か薬が入っとるぞ?」
 国倫に言われて玄白は窓に瓶を透かして見た。そして蓋を開いて量を確かめ、何の躊躇もなく中身を窓から捨てた。そして、再度差し出す。
「どうぞ」
「・・・高価な薬じゃなかったんか?」
「使用期限も有りますので。そんなことより、医学の進歩の方が大事です」
「・・・。すまんのう」
 恐る恐る受け取る国倫の手に、更に玄白は上から手を握りしめて包み込む。
「是非とも完成させてくださいね!日本の医学の為に!」
 玄白の熱さに国倫は戸惑いつつ、「あ、ああ」と気後れした口調で返す。
 医学の為。国倫は眉を顰め、心でため息をつく。所詮、薬罐に触れた時のあのビリビリを発生させるからくりである。それほど医学に役立つとは思えなかった。あのビリビリに画期的な治療効果があるとは思えない。痛みのある箇所をビリビリさせて一時的に痛みを消すにすぎないだろう。
 国倫は最近長崎屋通いに熱心でないのだが、玄白は阿蘭陀人からエレキテリセイリティを万病に効く神の機械のように吹き込まれたのだろうか。又は瀕死の怪我人も直ちに治癒する魔法の機械。
 いや、いくら何でも、阿蘭陀流として長く勤める玄白に、そんなまやかしの売り込みは通用しない。切ったり縫ったりの外科が、一時的にでも患者の痛みを消す機械に期待を抱くのは当然のことか。
「そうじゃの。約束する。借りたこの瓶に賭けて」
「・・・私との友情に賭けてぐらい言ってください」と玄白が笑うので、国倫は「すまんすまん」と頭をかいた。
「玄白さんとの友情に賭けて」と言い直す。
『まだ直せるかどうかわからないのに。そんな約束して』と、鳩渓が咎める声をあげた。ちょっと直してみようぐらいの軽さで長崎から持ち帰り、ずっと放っておいた。この冬は時間の余裕があるから、たまたま開いてみただけのくせして。
 玄白が完成を待つというのなら、真剣に取り組まなければならない。

 腰を降ろして瓶を置き、今度は心置きなく茶をすする。
「何か言いたげな様子でしたので、気になっていました。なんだろうって」と、玄白も座り直してふふと笑う。玄白とは付き合いも長いし、どうも色々と見透かされることが多い。
「瓶の薬の名も、阿蘭陀語とは。すっかり堪能になったのう」
「まさか」と玄白は笑う。
「私は阿蘭陀語はできませんよ。そりゃあ、たあへるに何度も出てきた言葉くらいは覚えました。でも、前野先生や淳庵のように、訳したり話したりはできません。後から参加した若い甫周の方が、ずっと阿蘭陀語は堪能です。
 翻訳の仕事の時、私は居ても居なくても同じでした。殆ど役に立っていません」
「・・・。そんなことはないじゃろう」
 国倫は一応儀礼的に否定したが、言葉には力が籠もらなかった。玄白が答えを一番よく知っている。それを感じたからだ。
「彼らはねえ、本当に優秀なんですよ。頭がいいんです。一度出てきた言葉はもう覚えている。どのへんで出てきたかも覚えている。わからない言葉を推測するにしても、よく気がつくんです。びっくりするぐらい。
 私にできるのは、やり取りを洩れのないよう書き記すことと、帰宅して一日分を纏めること。夜半に帰宅してから、眠気と戦いながら作業しました。できることは、それぐらいですから。でも、私には復習にもなって、勉強になりました」
「しかし・・・藩のお勤めもしながら。体も丈夫でないおんしが」
「そんな作業でもしていないと、自分が何の役にもたっていないのが、つらかったのです。
 翻訳の仕事は、毎日、自分の愚鈍さを思い知らされました。何故、自分はこんなに頭が悪いんだろう、機転がきかないんだろうって、情けなくて。どんどん、畳に体が埋まっていくような気分でしたよ。だけど、日本の医学の為にと言い聞かせ、皆にはめげた顔を見せないようにして堪えました。家でめそめそと泣くこともありましたけどね」
 淡々と、玄白は語る。おとなしく静かな玄白には、初めて大きな波に揺られる日々だったかもしれない。何かを始めれば、必ずリスクがある。
「でも、翻訳が半分も進むと、少しはマシになりました。文の内容が掴めれば、私の医者としての経験が役立ったのです。前野先生は医師としてより学者として中津藩に仕えていらっしゃる。淳庵も甫周も若くてあまり患者の数を診ていない。
 かつて、あなたが薬品会で飛び回るのを見ていて、いてもたってもいられず、私は開業しました。若くて未熟で、しかも藩の外の世界を知らぬ私が開業なんて、無謀だと色々な人から言われましたが。でも、やってみて無駄なことなんて、ないものですね」
 玄白の話を聞いていて、薬品会の頃のあの感じを思い出す。心が急いて急いて、走り出したい気分。みんなが頬を紅潮させ、瞳を輝かして。
 自分は、老いただろうか?脚力は衰え、頬の色は鈍り、瞳は濁ってしまったのだろうか?自分は年が明ければ四十九になる。十分にじじぃだ。だが、今も胸を焦がす、このわくわくした気分は何なのだろう。・・・国倫は、脇に置いたギヤマン瓶にそっと触れてみた。
「わしも。きっと、修復するけん。エレキテリセイリティ。
 おんしとの友情に賭けて」
 もう一度、さっきの言葉を繰り返す。
「エレキテリ・・・。テリセイリティ、ですね。是非、お願いしますよ。
 ああ、相変わらず、私はもの覚えが悪いですね。エレキ・・・テリ、セイリティ?」
「エレキテルでええじゃろう。こんな長い名、誰も覚えんよ」
 国倫は満面の笑みで笑った。
「エレキテル。ああ、これなら忘れません。
 実は私も、来年、再度開業するんです。藩邸の外に出ます。ここだと色々制約も多いし、藩の人以外のお役にも立ちたいので」
 玄白はそう告げ、窓の外の空へと視線を移動した。国倫も釣られてそちらを仰ぐ。赤味を帯びた木々の隙間から、雲ひとつない澄んだ空が覗いている。
 玄白も走り続ける。世界はまだまだ面白い。



第52章へつづく

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