★ 私儀、甚だ多用にて ★

第五十三章

★ 1 ★

 夜になって幾分涼しくなったものの、行き詰まった頭を冷やしに国倫は奥座敷から厨房へ降りて来た。水を飲もうと杓を探すが、見つからない。手燭の明るさが足りず、周りが暗黒に埋もれ、探すのに難儀しそうだ。
「福助!」と、下男部屋へと声をかけた。部屋と言っても厨房の隅に畳を二畳敷いて衝立で間仕切りしただけの空間なのだが。
「杓を知らんか」
 声に苛立ちが混じる。薄暗がりで目が効かないのは、エレキテルの作業による疲れと・・・老いのせいもあるかもしれない。
 下男部屋はもう行灯が消えている。福助は寝入ってしまったのか、返事はない。
「おめさんは暑苦しい! 体さ大きすぎ! むこさ行け!」
 間仕切りの奥から武助の怒鳴り声が聞こえた。
「先生さ呼んどるがんす!」
 ピシャリと背か腹でも叩かれた音がして、「痛い!」と福助の悲鳴がした。
 やれやれと、国倫の方から手燭を掲げて間仕切りに近づく。
「これ、武助も福助を苛めんで」
 奥座敷には作業の荷物や道具が広げたままであり、武助は次の間で寝ていたのだが、蚊に耐えられず、数日前から小さい蚊帳の張られたこちらへと逃げ込んでいた。国倫が使う部屋には大部屋用の蚊帳が釣られるが、高価なのでそう幾つも買うわけにはいかない。蓬や木屑を蚊遣で燃やす方法は一時しのぎだ。寝る前に焚いて蚊を追い払ったら火を消す。火事への配慮もあるが、何より息苦しくて人間だって寝入ることなどできない。
 痛いと叫んだ福助だが、またそのまま眠ってしまったようだ。少年は眠りが深いのだろう。
「武助でもいいが。杓を知らんかのう?」
「存じませんっ」
 こんな時だけ、響きのきつい江戸言葉で返事してくる。
「冷たい奴じゃのう。一緒に探してくれんか」
 武助はしぶしぶ布団から起き上がり、国倫の手燭を頼りに、竈の鍋蓋にかかった杓を見つけ出した。
「ありがとなあ」と、国倫は早速瓶から水を茶碗に汲んで、ごくごくと飲み干した。
「ちゃんと探してたんせ。・・・せんせ? いづがら風呂入っでね?」
「・・・臭うか?」
 そういえば、もう三日も座敷に籠もって作業していた。三日前に濡れ手拭いで体を拭いたが、湯屋には五、六日行っていない。汗が乾いてその上にまた汗をかき、腕や背中も少し痒い。髪が臭うのは気付いていた。夏は全く面倒だ。
 江戸でも平賀源内は洒落者で通っている。無精髭を生やし、髷も乱れた自分が街を歩いたら、人の噂に立ちそうだった。こんなになりふり構わず作業に没頭したのは、江戸へ出て初めてだ。
 実はもっと簡単に済むと思っていた。量程器やタルモメイトルのように、すぐに作れてしまう気でいたのだ。だが、阿蘭陀との気候の違いのせいか、ただ修復しただけでは機能しなかった。そこでの工夫のあれこれが、国倫の髪を白くした。
「きったねがんす。わたすは明日は殿の御用だす。臭いをうつさねで欲すいだ」
 また久保田藩の参府の時期になっていた。武助は数日に一度、義敦の絵の指南に上屋敷へと出かけている。
「せんせが湯屋さ行ぐまで、抱がれでやんね」
 唐突な武助の言葉に、国倫は苦笑いした。明日こそ湯屋に行くつもりでいたが、これでは武助の為にそうしたようだ。武助に惚れるのは李山だが、李山から進んで武助を抱いたことなどないだろう。色ごと好きの武助が必ず先に誘う。武助が可愛くて仕方ない李山は、乗ってやるという図式だ。
 武助は奥座敷から追い払われて面白くなかっただろうし、義敦が来ている時は花街へも出かけない。ひねくれた武助のこと。こんな言い方をするのは、抱きしめて欲しいからだ。
『ほれ、李山。交代せんかい』
『俺に、この風体の体の舵を取れというのか?』
 外見を気にする李山は、国倫が籠もってから表に出ようとはしなかった。彼は髷が少しでも伸びると嫌がるし、無精髭で汗くさい体には嫌悪感をあらわにした。
『そげんわがまま言うとると、わしが武助を抱くぞ?』
『ふん。貴様はどうせ、惚れてもいない男は抱けぬ。俺をからかって面白がっても無駄・・・』
 だが、李山の言葉の途中で、国倫は武助の腕を取った。
「阿蘭陀人に言わせると、日本人は体臭が薄うて色気が無いそうじゃけん。汗くさい方が、色気があるかもしれんよ?」
「・・・。」
 国倫が手燭を床に置いて、腕を背に回して抱きしめても武助は嫌だとも臭いとも言わないので、やはりこうされるのを待っていたのだ。
『どうする?李山』
『好きにしろ。俺は知らん。だが武助は、貴様の手に負える相手ではないぞ?』
 武助は相手が誰でもいいのではないか、そんな虚しい想いが李山の頭をかすめた。遊女と遊ぼうが町娘と遊ぼうが、李山の知らぬところであればそう気にはならない。だが、目の前で、兄弟とも言える国倫に触れられるのは愉快な筈がなかった。それでも李山は素直に『舵を渡して欲しい』と言う男ではない。よりによって国倫を挑発する。
 国倫も腹を立てていた。『どうせ惚れてもいない男は抱けぬ』と言うのは男としての度量を軽んじられた気がした。武助を次の間へ導き、畳へと武助の背を押し付けた。厨房の格子から注いだ月はここには届かず、どこに壁が、どこに襖があるかわからぬ闇だった。武助の鬢付油の香りも己の汗臭さに掻き消され、押し倒したのが武助なのか他の誰かなのかもわからなかった。だが捲れた着物の膝に国倫が触れると、武助は微かに体を反応させた。打てば響くこの男の感覚は、李山を通じて国倫もよく知っていた。
『いい加減にしてくださいっ!』
 内で突然、鳩渓が叫んだ。
『仲良くしてくださいよっ! 国倫さん、やめてくださいってば! あなたが武助さんに手を出せば、後で揉めるに決まっているでしょう。
 作業が行き詰まって苛々しているからって。李山さんの恋人を寝取るなんて。尋常な神経じゃないですっ!』
「・・・。」
 鳩渓は容赦が無い。そしてまさに事実であるので、返す言葉も出ない。
『李山さんも! 素直に、"俺の武助に触るな"とお言いなさいな!
 何も知らない武助さんを、まるで遊びの道具のように使って。それで武助さんを愛しているって言えますか。早く代わってあげなさい!』
 ご尤もである。李山は苦笑して、国倫と視線を交わす。李山は腕を伸ばし、舵が引き継がれた。李山の意識が、すぐに『平賀源内』の体の隅々に行き渡る。
 国倫が触れたことに嫉妬した、武助の背の感覚を確かめる。贅肉のない背には骨の形が浮かぶ。自分の大きな掌ならすっぽり包まれてしまう武助の華奢な膝頭も、それに続くなめらかな肌も。李山の指は武助をひとつひとつ思い出し、噛みしめた。
 李山は、武助が自分に惚れているなどと微塵も感じた事は無い。彼は李山が与える快楽だけを求める。ずっと李山は割り切っていた。だが今夜は、少し、慈しんで抱いた。いつも武助に与える事だけ考えていたが、自分が武助に触れる喜びを味わっても構わないのだと気付いたのだ。
 闇に慣れれば、武助の白い首も肩も背もぼんやりと明るく映えた。いとおしくて背に唇を触れると、振り向いた武助と目が合った。黒目がちの瞳はうるんで夜の中でもきらめき、でもまっすぐと李山の目を見つめた。・・・李山への思慕は皆無ではないのかもしれない。もう少し武助を信じてもいいのかもしれないと思った。
 
 翌日はきちんと湯屋と床屋へ行った。帰ってから、戯れに蚊取りからくりを作った。エレキテルの為に作った把手を流用したのだ。把手を回すと先にある扇が風を吸い込み、ふわふわと飛ぶ蚊が一緒に巻き込まれ、布袋に押し込められる仕組みだ。これで武助も、座敷で広々と眠ることができるだろう。軽い工作は、国倫にもいい気晴らしになった。
「マアストカアトルというからくりじゃ」
 福助は「これも阿蘭陀の物ですか?」と真顔で袋を覗き込む。
「回すと、蚊、取る、じゃけん」
 得意そうに言う国倫に、福助は吹き出した。
「なんだあ」
「なんだとはなんだ。魚を焼く煙も吸い込むぞ」
「え、じゃあ、今度貸してください」
「回す人のところへ煙が来るけん。わしが焼くから、おんしが回せ」
「・・・それじゃあ、煙いのはやっぱり私じゃないですかあ」
 
 らいでん瓶を届けに甫周が訪れ、くっついてきた弟の中良も面白がって回していた。
「すごいですねえ、これ。ほんとに蚊が採れるんだものなあ。たんぽぽの冠毛なんかも集められますね」
 嬉しそうに頬を紅潮させる中良は、甫周に「蒲公英の冠毛を集めて何か役に立つのか。開花前なら薬になるが」と真顔で尋ねられた。「兄上はつまらない」と膨れていた。
 顔立ちはまるで双子のような兄弟なのだが、甫周は融通の効かない真面目な性格で、中良は茶目っ気があって表情もくるくるとよく動く。五分に刈った兄の髪は堅くて直毛、父譲りのふわりとしたくせっ毛を儒者頭に結うのは中良。髪も二人の性格を映し出していた。
 瓶は、昨日長崎から荷が届いたのだそうだ。支払いは桂川家で立て替えてくれて、少しずつ返せばいいと言ってくれた。まだ菅原櫛の注文はぽつぽつと有り、秋には全額支払えるだろう。
 らいでん瓶の入手は嬉しかった。なにしろ、エレキを集める為の瓶なのだ。素材も形状も適した物に違いない。

★ 2 ★

 湿気の多い夏も終わり、秋も深まる。奥座敷では国倫が相変わらずの試行錯誤だった。次の間で作業される小間物細工は、今は菅原櫛から自惚れ鏡という商品に変わっていた。櫛は、贋作が出回り始めたので、辞めにしたのだ。それは伽羅でないただの木片に香り付けした雑な商品だった。
 自惚れ鏡は、今までの銅を磨いた鏡と違い、板びいどろの裏に水銀を塗って姿が映るようにしたものだ。銅鏡よりも鮮明に映る阿蘭陀式の鏡だった。ただ、銅鏡のような大きな物は作れない。板びいどろは掌に乗る程度が限界だった。
 源内工房では、携帯用の鏡として金銀布貼りの豪華な体裁で製作した。掌サイズの二つ折りで片方に鏡が付く。開けば立てて使え、両手が使える利点があった。吉原の遊女・木挽町の役者らに始まり、富豪や大名の奥方・娘によく売れた。高価だからこそ売れるという、不思議な図式を国倫は面白く眺めていた。
 具体的な作業は金唐革細工の頃から通っている弥七が行い、材料の仕入れや納品の雑務は福助が行った。福助はこの家を切り盛りする、もう立派な二代目という風格だ。

 冬だと湯屋へ行けと注意されぬのをいいことに、国倫はもう数日奥座敷に詰めっぱなしだった。
 昼間からずっと、咳が止まらない。国倫を案じて、福助が襖戸を開けた。部屋に籠もったまま、考えに詰まると煙管に火を付けるのだから、喉だって傷む。なにせ詰まり通し、つまり吸いっぱなしなのだ。長火鉢の炭だけが白く降り積もり、進展は無かった。
「先生、少し風を入れないと喉をやられます。障子を開けますよ、いいですね?」
 福助は一気に窓を開け放した。ぴりりと澄んだ冬の夜の空気が流れ込んで来る。
「やめんしゃい、寒いじゃろうが!」
 国倫は羽織った掻巻の前を深く重ね、さらに背を丸くした。声に棘があるのは、巧くいかない苛立ちからだろう。敷かれた布団に体の跡は無い。もう何日も横になっていなかった。掻巻を背負ったまま座って仮眠を取っていた。
 原型を修理した物は、以前から時々小さな火花を放ったが、不発の時の方が多かった。運任せでは医療用には向かない。しかもエレキが小さすぎ、体感でも殆ど感じない。
 一定して大きな火花を出す為には、もう一つ瓶を置き(長崎から取り寄せた瓶を使った)、この瓶にエレキを貯めてから放出すればいい。その為には、形見で譲り受けたエレキテルの箱より大きな物が必要で、源内は松の板で新たにその箱を製作した。
 取り寄せしたらいでん瓶には、色々と試してみて金属屑を入れて溜まったエレキが停まりやすいようにした。また、摩擦させる筒同士の、びいどろ瓶でない方にも工夫でスズ箔を巻き付けた。これにより、より多くのエレキが発生する筈だった。
 しかし、未だに、まれにバチッと小さな火花が発生するに過ぎない。
 らいでん瓶を温めてみたり濡らしてみたり。中に詰める金属屑に髪の毛を混ぜてみたり布を混ぜてみたり。考えられる事は全て試した気がする。少し火花が出る事もあれば、全く駄目なこともある。いや、駄目なことの方が多い。それを条件ごとに項目を分けて帳面に克明に記載していったが。×印ばかりが続き、気が遠くなる。矢立で×を記入する度に唇を噛むせいで、乾燥した皮膚が切れて血が滲んでいた。

 玄白と約束などしなければよかった。あの約束が無ければとっくに諦めた。長崎行きの資金稼ぎをするなら、別の事でもよかったのだ。
 いや、違う。一度取り組んだ事を『できませんでした』などと言えるか。天下の平賀源内が降参してなるものか。諦め切れなかったのは、その意地からだ。阿蘭陀人は完成させたのだ。自分にできぬわけはない。
 不眠の消耗した頭の中で、考えは堂々巡りする。
 どこかで気付いていた。完成させてこれを売って儲けても、その頃にはツュンベリーはもう任期を終えて帰国しているのではないか。無駄なことをしているのだ。意地っ張りな自分はそれを認めることができず、黙々と作業を続ける。きちんと現実を見ずに。
 玄白との友情などと。あちらは、今や江戸一番の蘭医だ。国倫を友達だなどと思っているものか。
 悲観的な想いを重ね、可哀相な自分に同情し、もう一服を付けようと刻みを懐中から取り出す。

 様子を黙って見守っていた福助だが、やれやれと眉を下げて、国倫の握る煙管へと手を伸ばした。
「煙草も、ずっと吸いっ放しはやめてくださいよ。気分が悪くなるでしょう?」
 煙管を取り上げようとした福助の指が、雁首の火皿に触れた。と、その時、ビリリと火花が散って福助は「うわっ」と三歩も退いた。
「こななんことーっ!」と国倫は叫び、「あーあ!」と芝居がかったため息をつくと、どさりと背から畳へと倒れこんだ。
「なんで、エレキテルで起こそうとしても起きんエレキが、こななんことで起きるっ!」
 福助が側にいなければ、泣きわめきたい気分だった。暴れて花器を割って食器を壊して襖を破いて。障子の桟を叩き割り、障子紙を引き裂き。造りかけのエレキテルも、畳に投げつけて。そうして全部壊してしまえたら、どんなに楽になるだろう。叫ぶだけに留めたのは、理性が働いたというより、単に疲労が大きかったからだ。
「怒鳴らないでくださいよ、夜なんだから。近所迷惑です」
「じゃったらとっとと障子を閉めい」
「まったくもう。武助さんが藩邸に泊まりなもんだから、機嫌悪いったらない」
「うるさいっ!関係ないっ」と、国倫は、手元に散らばった紙屑を投げつけた。が、指に張り付いて巧く離れず、一尺先あたりへぱらりと落ちたに過ぎなかった。
「・・・エレキが起きやすくなっとるんか?」
 国倫はがばっと起き上がった。
「福助。ちぃと把手を回して見てくれんかの」

 福助が握ると、箸程度の太さはある鉄の棒も、まるで針のように細く小さく見えた。
「この、横についた棒を回すのですね?
 へええ。マアストカアトルみたいだ。面白いですね」
 福助は若くて腕力も体力も有り余っている。彼にはエレキテルも玩具とそう変わらぬ印象なのだろう、好奇心に溢れた瞳でぐるぐると把手を動かした。棒を回して遊ぶ気分だ。回すペースは国倫の倍ほど早く、「そげん乱暴に」と注意しようとした瞬間、国倫の腕に衝撃が走った。エレキテルの先の鎖を握っていたのだ。
「うわっ!」
 仰天して、鎖を放る。まるで肩から指先までに熱湯でも掛けられたような刺激だった。
「先生、どうしました?」
「・・・。」
 胸がバクバクと音を立てた。肩が波打っていた。驚いた。これまでは、チクリと虫にでも刺されたようなエレキしか感じた事が無かったのだ。
 今まで国倫は、箱の中を確認しながら把手を回した。福助のように早く回した事もなかった。もっと早く強く回すことが必要だったのかもしれない。
「今・・・、エレキが起こりよった。それも、かなり大きいやつじゃ。
 ええい、福助、止めるなよ。わしがええと言うまで、回し続けるんじゃ」
「はいっ」
 福助はエクボを作って頷く。腕まくりしてあらわになった二の腕。やる気満々の腕には、ふっくらと綺麗な筋肉の隆起が出ていた。
 国倫は手首を引っ込めて袖で鎖を握り、もう片方の手では手拭いを巻いて煙管を掴んだ。生身で金属を触れると、人の体への衝撃が強すぎるようだ。
 福助が十回も回した頃を見計らい、国倫は恐る恐る鎖と雁首を近づけた。触れる前から微かに青い火花が飛び、接触させるとバリッと激しい音がして大きな光が見えた。
「先生、今、光りましたよね?」
「手ぇ、止めんで」
 火花は持続するわけではないが、定期的にバリッ!と大きなエレキが起きた。福助が十数回を回すと一度という割合だ。
「光っていますよね?」
「ああ」
「光っているんですよね?」
 福助は何度も確認し、そのたびに国倫も力強く肯定した。
 光っている。エレキが作られて、今、こうして大きな火花を放つ。偶然ではなく、何度も何度も。確かに光っている。
 胸の鼓動は、先刻エレキを浴びた時よりも早くなる。
・・・成功した。やっと、成功したのだ!
 十回も火花を起こした頃に、福助が「せんせい〜、腕が〜。もう駄目ですぅ」と根を上げた。力を込めて二百近くも回し続けたことになる。
「ご苦労」と国倫が告げると、「はぁ〜」と把手から手を離して右腕をぶんぶん振った。力自慢の福助でもきつい作業だったようだ。
「先生。やりましたね?」
 福助の方がもう泣きそうな笑顔になっていた。
「おめでとうございますぅぅぅ!」
 顔面を崩して子供のような顔になった福助が、国倫の胸に抱きついて来た。国倫の着物に顔を擦りつけて、わぁんと泣いた。
 国倫は「うん」とだけ言い、福助の大きな体を抱きしめる。

「ちょっと、源内さん!今、あんたんちから火が!」
 がらりと玄関の戸が開き、隣家の女房が水桶を抱えて飛び込んで来た。が、火事もなく、しかも男二人がひしと抱擁している。
「・・・悪い。邪魔したね」と、ピシャリと戸が閉じた。
「また、誤解されたのう」
 国倫は眉根を下げ、福助と顔を見合わせて笑った。
「酒の用意をしてくれ。今夜は祝杯だ。おんしも飲むじゃろう?」
「はい!」と、福助は元気よく返事した。

 安永五年十一月。
 平賀源内はエレキテルの復元に成功する。

 荒川の木炭運搬事業に始まり、金唐革細工や菅原櫛もすぐに模倣され、商売にならなくなった。今回のエレキテルは復元に苦労した分、考えて商売しなくてはならない。仕組みを知られればそれは造り方が知れるということだ。売って人に渡してはならない。販売以外の収入の得方を考えなければ。
 国倫の頭は既にそのことについて廻り始めていた。

★ 3 ★

「待ってください、福助さん。私はそんなに急げません」
 一歩の大きい福助に付いていく為には、小柄な玄白は小走りになる。体力のない彼はしばしば立ち止まって息を整えねばならなかった。
 それでも福助は気が急くのか「早く早く」と手を引っ張る。
「天候が変わると、うまく行かないのです。急いでください!」
 冬だと言うのに大汗かいて平賀宅へと辿り着いた。
 息も絶え絶えの玄白の様子を見て、国倫が「そげん慌てんでも」とにが笑いした。
「だって、福助さんが」
「雨が降るとおジャンだと先生が言うものですから・・・」
 福助はすまなそうに、大きな体を縮こまらせた。

 夕方の診療時間に福助が玄白を呼びに来て、エレキテルが完成したので見に来て欲しいと言う。外来患者の最後の一人まで診察し遅くなり、自分がしんがりだろうと思っていたが、まだ誰も来ていないようだ。
「私が一番乗りなのですか?」
「一番乗りも何も。玄白さんしか呼んでおらんよ。まず最初に、おんしに見せたかったんじゃ。約束じゃった、必ず成功させると」
 えっと、玄白は声の無い声で唇を動かす。あまりの光栄さと、申し訳ないような気持ちで、動転した。
「わ、わ、私などでいいんですか」
 その言葉に国倫は破顔した。まるで青年のような笑顔だった。玄白には、その白い歯が眩しく感じられた。

 以前訪問した時は「作業中で散らかっている」と襖が締め切られたままだった奥座敷だが、今は清潔に掃除されて、床の間の龍の軸の前には南天と松の葉まで飾られていた。
「そこに座っとったってな」
 玄白は、寺子屋の机くらいの大きさの箱の前に座らせられた。箱の横には福助が控え、襷を結んで袂を抑えた。玄白の二倍の太さもありそうな腕が丸ごと覗いていた。
 この箱が、エレキテルなのだと気付く。以前見せられた、西善三郎の形見よりだいぶ大きな物だ。
 武助が茶を運んで来て、「わたすも見てもいいがんすか?」と国倫に尋ねた。玄白の方が驚いた。
「武助さんもまだご覧ではなかったのですか」
「私は上屋敷の仕事が忙しかったのです。巧く火花が出たのはまだ三日ほど前ですから」
「おんし、なんで玄白さんには江戸言葉で話す」
 国倫が絡んだ鎖をほどいたりの準備をしながら、笑いの混じった不平を言った。
「あれぇ? なんででがんしょ」
 国倫へ対すると、また言葉は戻っている。気付いて、武助も玄白も笑った。武助は態度も素直とは言えぬ男だが、杉田家へ解体新書の図を描きに長く通ったせいか、玄白を尊敬し、心も許しているように見えた。人当たりのいい思いやりに溢れた玄白には、たいていの者が心を開くことだろうと国倫には思えた。

「玄白さん、いくで?覚悟はええかね?」
 国倫は鉄箸のような棒をそれぞれの手に握っていた。長火鉢に鉄箸が置いていないので、まさにそれを代用したのだろう。片方の箸は鎖が繋がり、エレキテルに開いた穴へと繋がっていた。国倫の両方の掌には、滑り止めなのかそれぞれに手拭いが巻かれていた。
 玄白が緊張に唇を一文字にして頷くと、国倫は福助に目で合図をし、福助はまず行灯を衝立の陰へと移動させた。手元足元は見えるものの、明るさが半減し、玄白は更に体を堅くして背筋を伸ばす。
「そげん緊張せんでも」と、国倫は柔らかく笑った。成功を確信している態度だ。玄白を呼ぶ前に何度も試して、絶対に巧くいくと自信を持っているのだ。
 福助が、箱についた把手を回し始めた。こんなに激しく回して壊れるのではないかと玄白が心配するほどだった。国倫の目は福助の腕を凝視して細かく動いた。回す回数を数えているようだ。
 何の前触れも声での注意も無しに、国倫の手元に青い火が光った。バリバリと大きな音が襲った。国倫の手に雷が落ちたのだと仰天した。これは大ごとだ、国倫は無事かとうろたえそうになったが、これがエレキなのだとすぐに気付き、動揺を押し戻した。真夏の雷を思わせる光だった。驚きで脈が倍ほども早くなっていた。
「・・・。今のが・・・」
 玄白は、やっとのことで、小さな声を発した。
「まだ続くけん」
 暫くの間をおいて、国倫は箸を近づけて火花を散らして見せた。五回ほどの雷の後に、国倫は「福助、もういいぞ」と声をかけ、福助は手を緩めた。今気付いたが、福助の作業はかなりきついらしく、走った時のようにはあはあと肩で息をしていた。
「やりましたね、国倫さん」
 玄白の頬も紅潮し、額や掌に汗をかいていた。国倫は瞳を細めて笑う。ホクロの一つが目尻の皺に隠れた。
「雷のちっせいのみたいでがんす。好きに雷さ作れるだな」
 武助も長い睫毛をしばたかせ、惚けた様子だった。
「エレキテルは血の道の治療に効果があるそうですね。麻痺効果もあるけれど一時的だそうで、外科の私が直接利用できるものではなさそうです。残念です」
「試してみんしゃい?」と、国倫は鉄箸を玄白に向けた。
「火花を見るだけじゃと、見世物と同じじゃけん」
「私は体が弱いですが、大丈夫でしょうか。走るとすぐに胸が苦しくなります。雷を浴びるような感じなのですよね?」
 雷に撃たれて死んだ事件は多い。エレキテルが起こすのは、いくら小さくても雷は雷だ。軟弱な自分が耐えられるだろうか。玄白にしてみれば、具合が悪くなって国倫に迷惑かけやしないかとの弱気から出た言葉だった。
「余計、実験にええでがんしょ。治療さ使うからくりでがんす」
「馬鹿もん」と国倫が武助を窘め、「そうじゃの。わしは体が丈夫じゃけん、何ともなかったが。玄白さんはやめときい」と、少し肩を落とした。
 国倫は外科の分野は素人だが、きちんと解体新書の本文にも目を通してくれた。門外漢だから図譜だけ見たと言われたら、玄白はきっと悲しく思っただろう。
「やっぱり、せっかくですから、エレキを体験させてください」
 他の学者や医者に見せる前に、一番に自分を呼んでくれた。その心にも応えたい。
「いや、わしも、体の弱い玄白さんへの配慮に欠けておった。すまん。気にせんでくれ」
「国倫さんは『火花を見るだけでは見世物と同じ』とおっしゃいました。これをただの見世物にしてはバチが当たります。さ、私に体験させてください」
 玄白はにこりともせずに、国倫に詰め寄る。玄白は普段は穏やかで譲り合う気質だが、一度こうと決めたことは頑で絶対に翻さない。
「うーむ」と鉄箸で肩をぽんぽんと叩いて考え込んだ国倫は、「しょうがないのう」と苦笑して掌の手拭いを外すと、「武助がこちらの鉄箸を持て」と絵の弟子を呼んだ。
「ええ〜」と不服そうに顔をしかめつつ、玄白の為というので文句も言えずというところなのか、武助はエレキテルから鎖で繋がる方の箸を素直に握った。手をいたわる武助は、念の為に手拭いを巻いてから握る。空いた箸はそのまま国倫が直に握った。そしてもう片方の手を玄白へと差し出した。
「・・・?」
 意図が読めず首を傾げる玄白に、国倫は強引に膝に置かれた手を取ると肩まで掲げた。
 ざらりと冷たい国倫の手の感覚に「えっ?」と玄白は戸惑う。だが国倫は時を与えず、「福助、回せ」と指示を出した。
 国倫は、自分が玄白の手拭いの代りになるつもりなのだ。福助が三十ほど回した頃を見計らって、「武助!」と声をかける。武助は恐る恐る箸を国倫へと向け、国倫は息を詰めてこちらの箸を差し出した。玄白の手を握った指にも力が籠もる。
 箸先をパリパリと火花が弾けた。とその時、自分の指が吹っ飛んだような衝撃があった。「えっ!」と玄白は叫びを洩らす。指の存在を確かめようと視線を走らせると、大きな国倫の掌にしっかりと握られている。が。感覚は麻痺してその指が自分のだという確証が持てない。
 鉄箸を握る国倫の右手から国倫の体を経由して玄白の手を握る左手へと。人間一人を経てもなお、玄白の指は戸に挟まれたような痛みを感じた。
 すぐに感覚は戻ったものの、恐くなって手を引っ込めようとするのを、国倫はぐいと引き寄せそのまま強く握り続ける。「もう一発、行くけん」
 国倫は再び鉄箸を接触させ、先刻より大きな火花が起きた。今度は肘や肩にさえもエレキを感じた。指が焼けて熱い気がした。二の腕が震えている。
 胸が激しく音をたてる。国倫の体を通って来たエレキが、自分の指に届き震えを起こす。この震えは、エレキなのか、心の揺れなのか。玄白は迷い、迷う自分に戸惑う。まさかこの男にまだこんな風にどきどきとさせられるなど、予想だにしなかった。
「気分は平気かのう? このへんでやめておこうか」
 国倫は福助に合図を出して回すのをやめさせ、自分も鉄箸を畳へと置いた。
 玄白は手で胸を抑えると、ほうっと長くため息をついた。興奮のせいか驚きのせいか、顔が火照っているのがわかる。
「びっくりしました。こんなにビリビリ来るのですか」
「まあ、体質やら気候やらにも左右されるようじゃよ。しかし今のはわしでも効いた」
 国倫は、笑いながら首を横に振ってみせた。国倫が手拭いを使わなかったのは、エレキが弱まっては十分に玄白に届かないと思ったからだろう。
「いつまで手さ繋いどるがんす。童であるまいし」と、武助は借りていた手拭いを国倫に投げよこした。
「腕がまだ痺れておるんよ。玄白さんは大丈夫かの?」
 玄白の楯となった国倫には、もっと大きな衝撃があったはずだ。慣れている、体が丈夫と笑うが、無理に動かせば挫く可能性もある。足が痺れた時だってそうだ。玄白は恐々と繋いだ手を覗き込む。と、いとも簡単に国倫は手を解いた。玄白の手首は淋しそうにぱたりと膝へ落ちた。
「付きおうてくれて、ありがとなあ。そこまで送るけん」

 外はもう夜の闇が世界を覆う。玄白は提灯を借りて平賀宅を出た。木戸まで来ると、国倫は「ありがとなあ」ともう一度礼を述べた。
「いえ、こちらこそ凄い体験をさせてもらいました。ありがとうございました」
「腹が減っとらん?おごるけん、どこかで食うてかんか」
「妻が夕餉の仕度をして待っていますので」
「そうか。そうじゃのう。登恵殿にもすまんかったなあ。
 時間がないけん、今、言う。
 すまぬ。
 許してくれとは言わん。軽蔑してくれていい。じゃが、先におんしに告げたことを、忘れんでいてほしい」
 国倫は深く深く頭を下げ、暫くそのまま首を垂れた。
「・・・国倫さん?」
「わしは、このエレキテルを見世物にして金を稼ぐ」
「・・・。」
 顔を地に向けたまま、国倫は玄白の表情を仰ぐことができなかった。
「医療用として医者に売ってみい、また贋作を造られて終いじゃけん。売らんで手元において、時には治療にも使うが、見世物として金を取れば長く稼げる。
 わしは・・・長崎へ行く資金が欲しいんじゃ」
「ツュンベリー、ですか?」
 国倫は下を向いたままで頷く。
「あん人に、ドドネウスのわからんところを聞きたい。わしが待ち焦がれておった、本草学に詳しい阿蘭陀人じゃけん」
「国倫さん・・・」
 玄白の声の響きは優しく、全く責める調子はなかった。
「あなたのエレキテルは、首に布をつけたろくろ首や、蛇の生き血を飲んでみせる蛇女とは全然別のものですよ。見物料を稼いだからといって、引け目を感じることなんかありゃしません。
 遠眼鏡や虫眼鏡だって、高価なので私は買うことはできませんが、僅かなお金で体験できるなら、興味津々ですよ。・・・体験する人の気持ち次第ではないですか?
 あなたの宣伝文句が、ただのろくろ首を見せるようなものなら、そんな客ばかりが集まるでしょう。
 宣伝文句は、あなたの得意分野じゃないですか。あなたの望む見物人が来るよう、うまく宣伝してください」
 心が溶けて行く気がした。国倫は静かに垂れた頭を上げた。柔らかく笑う玄白と目が合った。
「なんだかのう・・・」
 と、国倫は笑みの中で眉を下げた。
「おんしには、まったく、かなわんのう」
 愛しているという確信は強まるものの、国倫にはどうすることもできない。けれどその想いは幸福感に満ちていた。愛する事には資格がいるかもしれない。ただ想うだけとしても。
 その資格を得られるように。前へと。上へと。歩き続けよう。昇り続けよう。

 木戸のところで見送った玄白の提燈は、角でふっと見えなくなる。それでも国倫は、もう視界にないその明かりを追いながら、暗い壁の向こうを目で追っていた。




第54章へつづく

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