★ 私儀、甚だ多用にて ★

第五十四章

★ 1 ★

 安永六年の夏までには、江戸の学者・医者だけでなく、庶民の間でも「エレキテル」の名を知らぬ者はいない知名度となった。

 清澄町にわざわざ屋敷を借り、連日、学者や医者、蘭癖の文人や粋人を集めた「体験会」が開かれた。国倫は決して興業とは呼ばなかったし、参加料のことも見料とは言わなかった。「体験料」「治療代」の料金は高額だったが、申込者は後を立たなかった。
 大名旗本や豪商の元へは自ら出向き、出張体験会を行った。

 エレキテルの復元に成功した去年の暮れでさえも、心地よい達成感に長く酔いしれる暇はなかった。
 早くエレキテルで稼いで、長崎へ行かねばならない。エレキテルで稼ぐ為にはまたその準備資金が必要で、国倫は再び雑文を書いたり、銅から銀を産出するアドバイスをしたりして小金を得た。
 エレキテルの把手は五、六回実験するとぽきりと折れた。工夫が必要で、このままではまだ商売にならない。
 知人友人の間では既に源内のエレキテル復元は話題になっており、毎日誰かしらが平賀宅を覗きに来た。が、国倫は、白木の松の箱を見せてやることはあっても、決して動かそうとはしなかった。「近々、どこかの屋敷を借りて、大々的にお披露目するけん」ともったいぶった。把手の強度の件だけでなく、回転するうちに軸がずれて円筒が外れたり、鎖が外れたり、様々なトラブルがあることがわかってきた。簡単に元に戻せるが、その場で蓋を開けて作業したくなかった。見物人には箱の中身は見せたくない。
 屋敷を借りるのにも金がかかる。幕臣や藩の学者を招くならば、それなりの装いも必要で、それにもまた金がかかる。焦る気持ちが日々の眠りを浅くし、力の無さに幾度も地団駄を踏む。だが癇癪を起こしてはいけないのだ。エレキテルの事業は必ず巧くいくはずだから。落ち着いて、絡んだ糸を解くように、一つ一つ条件をクリアしていった。
「金がたくさんかかる面倒な段取りを踏まず、両国ででも見せて、とりあえず金を稼いだらいかがです?」
 家に集まる者の中には、そんな提案をする輩も居た。友人の文士らでさえも、長崎行きが遅れる事を心配してか、そう言った。
 国倫が珍しく声を荒らげて一喝した。『エレキテルで金儲けをする予定だが、これは決してその為に造ったわけではない』と。エレキテルは金唐革や菅原櫛とは違うのだ。そして屁ひり男やろくろっ首とも違う。断じて、違うのだ。
「誰ぞ、両国で、綿羊を見た者はおるか?」
 今、毛に紅や浅葱の染色をほどこされた羊が見世物にされ、話題になっていた。国倫のいつもより大きな怒りはそのせいだ。
亡き藍水が田沼の命で綿羊を育てようとして失敗したが、藍水以外にも飼育実験の為に購入した者がいたかもしれない。餌に莫大な草が必要な羊に手を焼いたか、田沼が綿羊育成から手を引いたので不要になったのか。
毛を刈って織れば暖かな半衿位にはなるものを。羊は下品に色付けされ、ただ好奇の目にさらされている。
 見世物は、何も産み出さない。消費し、消耗するだけである。飽きられたら終わる。何も残らない。
 国倫もかつて志度で綿羊を繁殖させようとした。たった一枚の羅紗を織っただけで、羊たちは死んでしまった。暖かく軽い毛織物は、蝦夷への道を、そしてオロシヤへの扉を開く為のアイテムだったかもしれないのだが。

 あっと言う間に年は暮れ、春が来る。今年の長崎屋には、ツュンベリーは随行しなかった。淳庵と甫周はひどく気落ちしたし、国倫も深いため息をついた。どの医師が随行するかは、運のようなところがある。医師が希望しても却下されることもあるだろうし、長期の旅なので健康面への配慮もある。ツュンベリーは淳庵らとの親密さが問題になり、別の者の随行になったのかもしれない。

 国倫は、複数台数のエレキテルを造ることで、公開実験時のトラブルを回避しようと考えた。工房で細工を手伝う弥七の手を借り、まずは三台組み立てて、外側も華やかに色付けする。源内のエレキテルとしての認証度を高くする為、どれも同じ色と柄にした。白い絵の具で全体を塗り、阿蘭陀風の唐草と花をデザインすると、異国情緒漂う美しい調度品にも見えた。蓋には、エレキであることを意識し、阿蘭陀では陰と陽の印である♀と♂の記号を両端に描き入れた。
 最初の長崎留学では、吉雄邸にある多くの本を見た。もちろん挿絵を眺めただけだが、幸左衛門や弟子の通詞に内容をしつこく尋ねたので、西洋の言い伝え少しは知ることができた。♂と♀は陰陽以外に男と女という意味もある。軍神と呼ばれる男性代表の神をまあすといい、美しい女性の神をびいなすと呼ぶ。蓋の♂♀の横に、Mars.とVenus.という文字も併記した。これらはキリシタンの神とは違うものなので、大丈夫だろう。
 清澄町の官医・武田長春院の下屋敷を、千賀のつてで借りた。ここで、学者や医師を集めて定期的に公開実験を行うことにした。高額な参加費用にも関わらず、申込者は殺到した。

 体験会の成功で、長崎行きの資金は溜まりつつあった。屋敷を借りたり、幾つもエレキテルを造ったり、初期費用もかなりかかったが、その借金は夏までには返すことができた。
 把手は五日目には予想通りに折れた。だが代替品を準備していたので慌てることはなかった。把手を回すのは福助の仕事で、武助も助手として何かと呼び出された。
 把手だけでなく鎖が外れたり瓶が割れたりということもあり、それを弥七に修理させているうちは別の二台を持参する。費用の余裕ができると、また幾台かのエレキテルを作った。二手に分かれ、武助と福助が清澄町で体験会を開き、国倫は把手を回す男を雇って大名屋敷へ出かけることもあった。
 早い時期にお忍びで田沼も見に来たが、暫く後に別にいらした神田橋御部屋様のご見学の様子が派手だったので、それが国倫にとってもいい話題作りになった。何台も駕籠をしたて、御部屋様も供も金銀の着物で着飾り、まるで芝居見物のようなご様子でおいでになった。御部屋様を見る為に近所の人々が集まって輪になる騒ぎだった。名目は、決して見世物の見物でなく、御部屋様の気鬱の治療ということだった。

 国倫は、長崎へは福助も連れていくつもりでいた。武助は藩邸に返せばいいが、子供の福助を一人残して行くわけにはいかない。それに、賢い福助に長崎で学ばせたいとも思っていた。二人分の旅費が必要だった。
 きっと、長崎へ行ってしまえば、滞在費用や帰路の旅費はエレキテルで稼ぐことができそうだ。それにはますます、エレキテルを運ぶのにも把手を回すのにも、福助の腕力が必要だ。
 梅雨時には殆ど体験会はできず(雨だとエレキは起きないのだ)、夏も夕立の来た日は中止にした。長崎貯金は足踏み状態になった。このまま見切り発車で長崎へ発ってしまおうかと何度も考えた。体験会をして資金を作りながら進むのだ。しかし、毎回メンテナンスが必要なこと、頻繁に故障することを考えると、きちんと工房が構えられる地でしか会はできないだろう。そして地方の名士や富豪などはたかが十数人だ。彼らに見せても、数日分の旅費にしかなるまい。その地域に停まって会を行うより、江戸でもう何日か我慢してその分の資金を稼ぐ方が効率がいい。せっかちな自分を諫め、そう言い聞かせ、じりじりと日々をやり過ごした。
 もう夏は終わろうとしていた。
 長崎へ行くついでに、志度へ帰ろう。妹夫婦にも桃源にも、エレキテルを体験させてやろう。さぞ驚くことだろう。江戸での評判は聞こえているだろうか。そんなことを夢のように考える。
 母は元気だろうか。里与は元気だろうか。贈った菅原櫛は、もう年増の妹には華やかすぎる代物だったかもしれない。成人してからも会っているのに、記憶の中の里与はいつまでも少女のままだ。

 九月のその朝に、訃報が届いた。桃源と共に遊んだ安芸文江が亡くなったのだ。
 知らせは驚くほど迅速に届いた。文を届けたのは高松藩の使いだった。藩医の久保久安(桑閑の息子)が高松藩の大名飛脚を使って、江戸にいる家老の木村季明経由で文を託してくれたのだそうだ。
 青年の頃、三人で温泉に浸かりながら見上げた、ぽかんと青い有馬の空を思い出す。少しの不安と別れの寂しさで揺れて滲んだ雲や、希望と共に大きく吸い込んだ熱気や。
「先生。大丈夫ですか?」
 手紙を握りしめて茫然と立ち尽くす国倫に、福助が気づかって声をかける。彼は既に二台のエレキテルを箱に詰めて天秤で下げていた。これから清澄町へ出かけるところだった。
「ああ」と低く頷く。前へ進まなくては志度へも帰れない。
 江戸の空には薄い雲が広がり、淡くぼやけて見えた。

★ 2 ★

 今日は、小浜藩の藩医や役付の学者らの二十人ほどの貸切だった。玄白と淳庵に頼まれセッティングし、通常の体験会は休みにした。
 玄白から直接話を聞いた藩士も多いらしく、表情は好奇心に満ち溢れている。淳庵も未だに未体験で、「今日は楽しみにしていたのですよ」と笑って末席についた。
「私も、正式なこの体験会は初めてですから」
 玄白が淳庵の隣で背筋を伸ばした。表情も強張り、少し緊張しているように見えた。自分がエレキを体験することへの強張りではないだろう。藩の者たちをこれだけの人数勧誘して連れて来たことに、だ。
「国倫さん、何かありましたか?表情が・・・」
 玄白に言われて、えっと国倫は眉を上げた。玄白は自分もいっぱいいっぱいの筈だが、国倫を気づかう。「かなわんのう」と国倫は苦笑した。
「志度の幼馴染みが亡くなってのぅ」
 玄白には、なかなか隠し事は難しい。正直に告げるに限る。
「えっ。もしや、桃源さんが?」
 玄白の顔が歪む。桃源との親しさは、玄白もよく知っていた。
「いや、もう一人の幼馴染みで文江という。よく一緒に俳句を作った」
「有馬の送別会の方ですか・・・。お気の毒です」
 玄白は頭を垂れた。まるで自分が親友を亡くしたように、瞳を潤ませる。有馬温泉のことなど、玄白はよく覚えていたものだ。江戸へ出てきた頃に、彼にそんな話をしたかもしれない。人と対する時に決して流して接さない、玄白らしい記憶力だった。
「まあ、みんな、お互いトシじゃからのう」
 国倫はかすかに笑ってみせた。感傷にひたる前に、まず目の前の体験会を片付けねばならなかった。微笑みは堅く、上げた口角も笑いではなく緊張で引き締まったかのようだった。
 今日は、武助が風邪で臥せっているので、福助と二人で会を切り盛りする。人手が足りないことへの不安もあった。
 
 こんな日は、よくない事が重なる。全員に膳が行き渡った頃から、空の色が怪しくなってきた。
 国倫は、窓から空を見上げて唇を噛んだ。その頬に、ぽつり、ぽつりと水滴が当たった。
「雨じゃ・・・」
 国倫は、きつく瞼を閉じて、うなるように呟いた。
 いつもは、雨の日は体験会は中止にしてきた。が、今日は小浜藩の貸切という特別な会だった。彼らは業務をやりくりして、今日ここへ集まったのだ。
 もっと早い時刻、皆が集合する前なら中止にもできたかもしれない。今朝は訃報で動揺して、空の具合を確認するのを怠った。国倫のミスだった。
 玄白を目で呼び寄せ、中止の提案をしてみる。玄白の薄い眉は歪められたが、「お伺いを立ててみます」と、一番身分の高そうな役人へと話を持ちかけに言った。
 玄白に交渉などできるはずもなく、国倫の元へ戻ると「失敗してもいいからやってくれと言っています。お願いできますか?」と首をすくめた。
 おとなしい福助が珍しく気色ばった。「そんな。失敗すれば、先生の評判に傷がつきます!」
「いや。・・・やらずに諦めることもないじゃろう。とりあえず、やってみるけん。
 玄白さん、藩の皆様には、事前に断わっておいてくれるかね? 雨なので、失敗するかもしれんっちゅうて」
 中止でも失敗でも参加料は取るわけにはいかない。今日の肴と酒の代金は全部こちら側の赤字になる。
 やるかやらないか迷ったら、やって失敗した方がマシだ。平賀源内は、そうやって今まで生きて来た。
 始めの挨拶で、雨なので失敗する可能性が高いこと、その時は料金はお返しする旨を告げた。
「失敗ならただ酒を飲めると言って、失敗を祈ったりはなさらないでくださいよ」と言って、皆を笑わせた。こういう公の席で喋る時、国倫は流暢な江戸言葉を話した。

 危惧した通り、福助が何十回把手を回してもやはりエレキは起きなかった。国倫は慌てる様子もなく、「本来なら、ここで火花が起きます」と鉄箸同士を触れ合わせた。
「火花は、大きい時で掌くらいにはなります」と告げると、藩士たちから「おおー」という驚きの声が上がった。
「火花の色は青白く、一瞬で消えます。今日は、想像して楽しんでみてください。想像力のあるかたがトクをします」と冗談を言うと、今度は笑いが起こる。国倫は、エレキが起きないことを腐りはしなかった。藩士らを楽しませようと、エレキが起きた時の状態を詳しく説明して、彼らの不満を少しでも減らそうと努めた。
 最前列の藩士に鉄箸を持たせ、ビリビリと来た時の感じを「手に熱湯を浴びたような衝撃」「痛みさえ感じる」「暫く痺れるが、五つも数えると元に戻る」など、経験者である玄白も頷く的確な言葉で表現し、エレキのことをわかってもらえるよう努力した。戯作者でもある国倫の語彙は豊富で、エレキが起きなくて不平を言う藩士はいなかった。
「近々、必ずもう一度機会を作りますので、これに懲りず体験にいらしてください」
 国倫は深く頭を下げると、藩士らが帰るのを福助と並んで戸口まで見送った。普段は国倫はここまではしない。やはりエレキが起きなかったことと、玄白らの同僚であることで、気を使ったのだろう。

 国倫は、屋敷に残った玄白と淳庵に、「すまんかったな。せっかく口を効いてくれたんに、おんしらの顔を潰してしまった」と再び頭を下げた。
「また世間は大しくじりとか噂するんじゃろうか」と、苦笑してみせる。実験中は冗談など混ぜていた国倫だが、予想以上に落ち込んでいるのがわかった。
「国倫さん。片付けを手伝いましょうか」
 玄白が心遣いを見せた。『十分楽しかったですよ』『どうぞ気落ちせずに』などの言葉は、玄白の喉に飲み込まれて消えた。国倫が平然と振る舞おうとしているのに、変な同情は失礼な気がしたのだ。
「いや、わしと福助で十分じゃ。膳は、料理屋の者がもうじき来て片付けてくれる」
 国倫は、玄白と淳庵にも早く帰ってもらいたいのかもしれない。頬や口許の陰が強く、明るさを繕うのに疲れた様子だ。
「実は、始まる前に告げるのが憚られ、黙っていたのですが・・・。でも、早くお知らせした方がいいかと」
 この空気の中で、淳庵が重く唇を動かした。上目使いで、まるで荷物でも背負っているように背を曲げて国倫を見上げる。いい知らせのわけがない。玄白も国倫は緊張して息を止めた。いや、話そうとする淳庵さえも呼吸を止めていた。
「ツュンベリー殿が来月に阿蘭陀へ帰国するそうです」
 淳庵は一気に言うとすぐに視線を落とした。国倫の顔を静止できないのだ。
「・・・。」
 国倫は言葉も発せず、ただゆっくりと目を閉じた。

 終わったのだ。

「ごめんくださいよ。膳と食器を取りに伺いました」
 気まずく沈んだ中に、料理屋の能天気な声が響き、一同はほっと息をついた。
「では、我々はこれで」と、玄白は腰を上げた。帰るきっかけができて、やっと立ち上がることができた。淳庵も余計な言葉は続けず、「では」とだけ告げると玄白の後を追った。
 
 国倫は、店の者が手際よく片付けて膳を盆に重ねていくのを、胡座をかいたままでぼんやりといて見ていた。福助は、雨の中を運ぶ為にエレキテルを大きな油紙でごそごそと包み、裃も脱いで一緒に箱に入れた。それを大風呂敷で括り、背負って帰る準備をしている。袴の裾も泥で汚れぬように尻っぱしょりにした。
 料理屋の荷車が出て、福助も、「先生、我々もそろそろと」声をかける。
「武助さんの風邪の具合も心配です。早く帰ってあげないと」
 国倫はちらりと視線を上げ、黙る。
 雨の音に耳を澄ました。雨は大粒で、結構降っている。
「おんしは、先に帰ってやれ。荷物も置いていけ。風呂敷を合羽代りにすれば、少しはマシじゃろう。
 わしは雨が小振りになったら帰るけん。エレキテルは、一日ぐらいは置きっぱなしでも盗られやせん」
 この屋敷の持ち主は大名扱いの官医で、門の横には彼が雇った管理人も住んでいる。きちんと錠もある。それに、エレキテルを盗んでも普通の泥棒には使い道がないだろう。
 いや、もう、エレキテルなど、国倫には必要なくなってしまったのだ。これを使って金儲けをして長崎への旅費を作っても、既に会うべき人はいないのだから。

 福助を先に帰し、誰も居なくなった座敷で雨の音に包まれる。雨音は強く、容赦なく軒を叩く。福助も小雨になるまで待たせればよかったと悔いたが、後のまつりだ。
 道に面した障子を細く開けると、目の前にある大川の水かさも増え、波立つのが見えた。まるでたくさんの石つぶてが投げ込まれたように、川面が暴れていた。
 悲しいのか悔しいのか、国倫にはよくわからなかった。ただぼんやりと雨の線を見つめた。
 
 がらりと戸が開いたので「忘れもんかいね?」と、振り向きもせずに尋ねる。福助が戻ったのだと思い込んでいた。
「傘をお持ちしました」
 玄白の声に、国倫は慌てて玄関へと飛び出た。友は、濡れた自分の傘とは別に真新しい蛇の目を脇に抱えていた。
「帰る途中に傘屋で自分の分を買ったのですが、今日は国倫さん達もお持ちでなさそうなのを思い出して。福助さんには、すれ違った時に一本お渡ししました」
 急いで戻ったせいか、前身頃は雨にさらされ、濡れて足に張り付いていた。黒足袋は水が滲みて墨染めのような影を作る。
 傘の心配で戻ったわけでもあるまい。国倫はにが笑いすると、「すまんのう」と招き入れた。
 この屋敷はエレキテルを見せる為だけに借りたので、竈や厨房も生きておらず、茶も入れられなかった。だが、福助がさっきの膳の余った酒を、五号徳利に移して貯めておいてくれた。
「酒しかない家だが、飲むかいね?」
 普段は昼間に徳利など手に取らない玄白だが、今日は「いただきます」と頷いた。

 濡れて体が冷えただろう玄白の為に、火鉢を引っ張り出した。新品の手拭いや足袋の替えは置きがあった。客の為に、他にも、幾つもの煙草盆や懐紙や硯箱の用意はしてあった。
 玄白は玄関で濡れた足袋を脱いだが、大き過ぎる国倫の足袋を手にして困惑していた。
「まあ、大は小を兼ねるけん。冷えるから履いときんしゃい」
「ありがとうございます。では、遠慮なく」と片足を入れたものの、ゆる過ぎて余った部分が平らに広がり、まるで鴨の水掻きのようになった。足首を紐で縛るタイプの足袋で、玄白がぎゅっと閉めるとギャザーが寄ってますます奇異だった。貸した国倫さえぷっと吹き出した。
「今、笑いましたね」
「いや、その。
 ちんまい足じゃのう。ほれ、貸してみい」
 国倫はもう片方の足袋を履かせようと三和土へ降りた。
「いいです、自分で履きますから」
 玄白が赤面して断わりの言葉を発している間に、国倫はサイズの合わない足袋を器用に爪先に添わせて履かせた。そして後ろにタックを作って紐で縛った。
「へええ」
 玄白が感心していると、もう片方の紐も解き、直した。
「ありがとうございます」
「爪先がこげん冷えて。・・・こちらこそ、ありがとなあ。そげん心配せんでも、もうわしは無茶はせんけん」
「・・・。国倫さん」
「ツュンベリーは帰国しても、次の医師も本草に詳しいかもしれん。いや、次の医師は詳しくなくても、来年の医師は詳しいかもしれん。もう何年も待ったんじゃ。これぐらいで、諦めはせんよ」
 玄白の顔を見るまでは、そんな言葉が出て来る片鱗もなかった。もう仕舞いじゃと思って絶望していた。
「解体新書に負けんくらいの、がいな本草の図譜を出さんとなあ」

「なあんだ。考えることは同じですね」
 厨房の格子窓から、淳庵が声をかけた。入口の戸を開け入って来て、外へと傘の水気を切る。手にはもう一本傘を握っていた。
 安江は逝き、桃源は遠い。彼らは幼い頃から心を許した深い友達だった。しかし、江戸のこんな身近に、自分を想ってくれる者たちがいる。国倫は目の奥が熱いような痛いような切ない感覚に襲われた。
 この二人とも長い付き合いだった。淳庵とは江戸へ出てきた直後から。玄白だって知り合ったのはそう違わない。
「酒があるんじゃが、呑むか?」
「呑みます、呑みます」
 淳庵は肩の水滴を払うと、笑顔で中へ入った。

★ 3 ★

 夕方には雨はもう小降りになった。清澄町で三人で飲んだのは半時ほどだが、国倫は久しぶりにいい気分で酒に酔った。傘はなくても大丈夫そうな雨だが、せっかく二人が用意してくれたので、差して帰った。一本は清澄町の置き傘になった。
ほろ酔いで家に戻ると、玄関の軒先に福助がしゃがんでいるのが見えた。大きな体を丸く縮こまらせて、雨から逃れて地面に座る。立てかけられた傘は、玄白から借りたものだろう。
「あ、先生。おかえりなさい」
「どうしたんじゃ? 中へ入れぬのか?」
 戸を滑らそうとすると、ガタリと音だけがして開かなかった。内から心張り棒がしてあるようだ。
「なんだ? 武助は眠っとって起きんのか?
もしや、おんしは半時も雨の中で?」
「いえ、だんご屋で少し時間を潰して来ました。
 武助さんは眠っているわけではないようです。ちょっと声がかけづらかったので・・・」
 福助は頭を掻いて、ひそめた声がさらに尻すぼみになる。
 不審に思った国倫が、格子越しに指で窓の障子を少し開けて、中を覗いた。
 厨房の先、次の間の座敷に風邪の武助は布団を敷いて眠る筈だが。布団の上に、見慣れた武助の襦袢以外に、緋色の襦袢が踊るのが見えた。
「おなごを連れ込んじょるんか。まったく・・・」
 国倫は、福助に傘を差しかけ、鰻でも食いに行こうかと持ちかけるつもりだった。が、鳩渓がいきなり体の舵を奪った。
「福助、お前が家に入るのに遠慮する必要は有りませんよ!ここはお前の家なのですから」
 そして、無粋にも、戸をドンドンドン!と何度も強く叩いた。桟が軋んでメリメリと折れそうな勢いだ。
「武助! ここを開けなさい!」
 潔癖な鳩渓は、自分の不在に女を連れ込んだ事も許せなかった。まして、風邪だと言って仕事を休んでいる身なのだ。雨の中を、外で膝を抱えて待つ福助が不憫だった。
「暫しお待ちください〜」
 武助の、たどたどしい江戸言葉が聞こえた。女の前では、田舎者と馬鹿にされたくなくて、気張って江戸言葉を使うのだ。それでもイントネーションは角館の言葉そのままなのだが。
 暫しどころか、相当長く待たされた。女が着物を着て帯を締めて、煙草を一服する時間でも稼いだのかと勘繰りたくなるほど。
 鳩渓は武助の応対に腹を立てて、わざとガタガタと音を鳴らして戸を引いた。もちろん開く筈もない。

 やっと開いた戸に立つ武助を、鳩渓は胸ぐらを掴んで叱る。
「福助を外に締め出したりして! 雨が降っているのを知りませんでしたか」
 福助可愛さで、つい言葉がきつくなった。
「わたしが居ない時に女などを連れ込んで!今度したら許しませんよっ」
 すると、武助の唇が猥雑にゆがんだ。
「せんせが居る時なら、ええがんすか?」
 鳩渓の平手が頬に飛び、「先生!」と福助の方が腕を抑えて制止した。
「それに、おなごどご連れ込んだどおっしゃいだども、言いがかりだす。
どごに居るでがんすか?」
 武助は打たれた頬を抑えたまま、室内が見渡せるように体を引いた。裏へ続く障子が少し開いて、床が雨に濡れていた。女は裏から出て行ったらしい。
 鳩渓は武助の肩を押して室内へ入り、つかつかと次ぎの間に上がると武助の布団を蹴飛ばした。
「布団だけではない。部屋中が白粉臭い。
 吉原へ行くことを禁じてはいません。遊ぶなら、相応しい場所へお行きなさい。
 わたしたち・・・わたしは、女は嫌いです。とにかく、わたしの家に、女の臭いをさせるような行為は禁止します。守れないなら、この家を出て行ってください」
 武助がすぐ知れる嘘を言って誤魔化すのも、あまりに底が浅くて悲しかった。だいたい、福助が帰ってきているのも気付いていた筈だ。気付いていて意地悪で締め出したに違いない。武助を外で待たせ、自分は連れ込んだ女と淫らな行為を楽しんでいたのだ。鳩渓は唇を噛み、武助を睨み付けた。
「・・・。」
 武助は反論はせず、座敷に上がると黙って画材を箱に詰め始めた。そして、畳に無造作に置かれていた二本差しを腰に挿すと、無言で草履を履いた。
何の言葉もなく、ぺこりとも頭を下げず。そこに立つ鳩渓の存在自体を無視して。武助は振り返りもせずに、戸から外へ出て行った。
「武助さん!・・・先生、止めないと。武助さん、風邪引いているのに。雨なのに!」
 福助が鳩渓の袖を引くが、応じなかった。内で国倫は、李山を窺う。李山は眉間に皺を寄せたままで、黙っていた。李山が止めぬものを、自分が口出しすることではないと判断した。どうせ、久保田の藩邸へ戻るだけだろう。

「先生・・・」
 自分のせいの喧嘩かと、福助はおろおろして鳩渓の顔色を覗き込む。
「雨で体が冷えたでしょう?暖かい茶でも飲みましょう?」
 武助には逃げ込む場所があるが、福助にはこの家しかない。武助が李山の恋人ならば、自分は福助の肩を持ってやろうと決めていた。
「はい。・・・今、お茶を入れます」
 福助はもうそれ以上何も言わず、素直に湯を沸かしにかかった。何か言えば、さらに鳩渓のカンに障り、武助を追い詰めると感じたようだ。国倫は福助の態度を眺めながら、この少年の利発さに感心していた。鳩渓の方が、まるで子供だ。
 だが、確かに、武助は目に余る。この家には高価な蘭書もある。素性の知れない女を、勝手に引き込まれては困るのだ。

「お茶が入りました」
 コトリと、鳩渓の前に湯飲みが置かれた。安物の湯飲みから湯気が上がり、付近の景色を歪ませていた。熱さに注意しつつ、両手で握った。
 福助が入れてくれた茶は、苦かった。



第55章へつづく

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