★ 私儀、甚だ多用にて ★

第五十五章

★ 1 ★

 武助は、五日たっても帰って来なかった。
 源内に注意されてふくれた武助が、家に帰らぬのは初めてではない。しかしいつも二日目には、何もなかったように戸を開けた。こんなに帰らないのは、福助も心配になった。
「先生。私が藩邸に見に行きましょうか?」
 厨房の板の間を拭き掃除していた福助が、声をかける。
 だが、座敷でエレキテルのメンテをしていた源内は、福助の投げかけに一瞬手を止めただけだった。
「放っておけ。奴も子供ではない」
「・・・。」
 福助は、それ以上は出過ぎた事と思い、何も言わなかった。
「あ、くそっ!」
 ポキリとエレキテルの把手が折れ、源内は破片を畳に投げつけた。機嫌はとてつもなく悪い。 

 その日、夕食の惣菜を買うついでに、福助は上屋敷に様子を見に行った。久保田藩の上屋敷は上野の近くにあり、ついでという距離ではないがそう遠いわけでもない。
 中に入るつもりはなくて武助の様子を尋ねたいだけだったので、下男の普段着である裾の短い着物で出かけた。だが、その格好が軽過ぎたのか、門番に「小田野直武殿はおられるか」と尋ねると、じろりと頭から足まで眺められた。「何者だ?」と素性を問われた。
「平賀源内先生の下男で福助と申します」
 福助は素直に告げる。が、門番の一人は不審そうに眉を片方上げた。
「平賀殿の? おかしな話だな。平賀殿は直々、昨日同じ事を尋ねに来たぞ? おまえ、本当に平賀殿のところの者か?」
「え・・・」
 福助には内緒で、とっくに様子を見に来ていたのだ。
「怪しい。中へ来い」
 門番は、福助の腕をむんずと掴んだ。
「え。あの。ええと」
 先生と武助の痴話喧嘩のあれこれや、福助がこっそり様子を見に来た事情を門番に話すのもきまりが悪い。先生の恥にもなろう。困った福助は、唇だけをもぞもぞと動かした。
「待て待て、彼は確かに平賀殿の下男だ。俺はエレキテルを見物した時に、彼が把手を回すのを見たぞ」
 羽織袴の役人が、助け船を出してくれた。彼は門番らの上司のようだった。
「ありがとうございます」
 腕を解かれた福助が礼を述べた。が、男は渋い顔をして「だが武助はここには居らぬ。平賀殿預けになっている筈だが、行方不明なのか?」と問いただした。
「え、いえ、あの。ここにいらっしゃらなければ、別の場所で見当はつきますので」
「吉原か。まったく、あいつは・・・。ここでも藩士の間で有名になっておる。
あいつの扶持は、連日吉原で遊べるほど多くはない。平賀殿から、よほど小遣いをいただいているのだろう。羨ましいことだ。
 平賀殿にお伝えくださいよ、奴をあまり甘やかさぬようにと。それでなくても、殿のお気に入りということで、態度が大きくて反感を買っておる」
 この男も、武助への反感が溜まっていそうだった。福助は早々に藩邸を立ち去った。

 福助は家に戻っても余計な事は言わなかった。しかし、源内には「だいぶ遠くまで惣菜を買いに行ったようだな」とにやりと笑われた。見透かされたようだ。
 源内は壊れたエレキテルの修理を終え、外箱の絵の具の剥げや欠けを直しているところだった。絵の具を溶く皿や筆洗いを武助が持って出たので、食事用の皿や湯飲みを代用している。ちらりと見て福助は注意しようと思ったが、まあいいかと黙った。武助はいつ折れて帰るのだろう。
「中良が、松葉屋で武助を見かけたそうだ。金が尽きれば帰る、心配するな」
 松葉屋というのは、吉原の遊女屋の名だ。有名どころなので、福助でも聞いたことがある。
「それとも、お前、中へ武助を探しに行くか?小遣いならやるぞ」
「と、とんでもないですっ!」
 福助は頬を丸く朱に染め、ぶんぶんと首を振った。
「本来ならお前も、二つ返事で飛びついてもいい年頃なんだが。以前も、江漢や中良に連れて行って貰うよう頼んでおいたのを、断わったそうではないか」
「はあ。お気遣いいただいたのに・・・すみません」
「別に謝る事でもないさ。
 しかし妙だな。まさかお前も実は衆道、なんてことは」
「ナイですっ!」
 今度は青ざめて即座に否定する。
「惚れた町娘でもいるのか?」
 えっ・・・と、次には耳や額までが赤くなった。
「べ、べつに。そんな暇、ありません」
「青くなったり赤くなったり、蕃椒(唐辛子)みたいな奴だな」
 源内はふふっと面白そうに笑っただけで、それ以上は追求してはこなかった。
 母親の手伝いなのか、時々井戸端で見かける十二、三歳の少女がいた。いつも楽しそうに野菜を洗っている。福助は、どの長屋の子かも知らないし、もちろん名前も知らない。話したこともない。すれ違う時に、数回会釈しあっただけだ。
自分は罪人の子だ。将来妻を娶り所帯が持てるなどと甘いことは思っていない。今、ここでこうして暮らせるのさえ、分不相応に幸福だと思っていた。

 翌朝、武助はぶらりと戻って来た。ただいまの挨拶も無く座敷に上がると、「福助、腹さ減っだ」と飯を催促した。今日は体験会もなく、源内は奥座敷でまだ眠っているようだ。
「どこへ行ってたんですか、六日間も。心配するじゃないですかっ」
「ふん。おめさは、ずいぶんえらぐなっだな。侍に意見がんすか」
「いえ、そういうわけでは。・・・すみません、今、味噌汁を作ります」
 福助はくるりと背を向けると、厨房へ向かった。言い返せば喧嘩になるし、喧嘩になれば源内が困るのだ。

★ 2 ★

 秋も深まり、エレキテルに興味を持つ学者や蘭癖の大名はもう見尽くしたかと思うが、それでも体験会は未だに申込みが断たなかった。
 国倫は、目で見て分かりやすいように盆に馬の置物を置いてエレキの振動で動かしてみたり、体験者の回りに黒い布を覆って火花が見えやすいようにしたが、その演出が面白いと、興味本位で見たがる大名・豪商も多かった。国倫は見世物のつもりで見に来る者は断わりたかったが、士農工商と言っても一介の浪人よりも富豪の商人の方が権力があった。当然大名の申し出も断われなかった。
 福助が「学問に興味がなさそうな人でも、これを見て興味を抱いてくれるかもしれませんよ? 先生のお仕事が、啓蒙に役立つかもです」と笑ってみせた。国倫も苦笑して「そうだな」と返したが、自分に嘘はつけない。結局、エレキテルは見世物になってしまったのだと苦い思いで一杯だった。

 蘭画の絵師として著名になった武助の元には、ちらほら絵の依頼が来ていた。彼はもうエレキテルの体験会には参加せず、家で絵を描くことが多くなった。
 その日、国倫らが清澄町から戻ると、大和町の細い木戸で女とすれ違った。こんな長屋街には珍しい、裕福な商人の妻という風情の年増なので、かなり目立ったのだ。口許の鉄奨(かね)は見えなかったが、眉は青く落としていた。
 国倫と福助は目が合い、言葉にせずに目配せしあった。限りなくまた武助が怪しかった。
 玄関の戸を開けると、武助は奥座敷で絵の続きを描いていた。だが、まだ女の香の匂いも白粉の匂いも消えてはいない。
「武助。わしは言ったはずじゃ、おなごは連れ込むなと」
「連れ込んでねだす。玄関で話さして、部屋へは入れねで返すたがんす。今度は出会茶屋で会うがんす」
 武助はしらっとした様子で答え、こちらも見上げずに面相筆を動かし続ける。だが着物の衿の乱れは、武助の嘘を無言で教えた。
「あのおなごは素人じゃろう。しかも人妻に見えたがの。不義密通が公になって恥をかいても、わしは知らんけん」
「人妻ではねだす。後家でがんす」
「・・・。」
 ああ言えばこう言う。国倫は腹が立ったが、女が独り身なら問題はあるまいと胸を撫で降ろした。人妻であれば、女と武助に非がある。相手が町人であるし死罪迄はないだろうが、武士の武助には不名誉この上ない経歴となる。
 そして、金もかかる。慰謝料として何両かを相手の夫に支払わねばならないのだ。武助にそんな金銭の余裕があるとも思えない。
しかし未亡人なら話は別だ。大店の後家は蔭間茶屋の常連だ。彼女らが男と遊ぶのは、世間も咎めない。
 吉原の遊女でも、情死や男の為の足抜けが屡々起こる。相手が遊女だから安心ということもない。だったら、吉原で散財するより、後家とでも遊んだ方がいいのかもしれない。

 だが、武助の偽りはすぐに発覚した。
 数日のうちに、例の女を見かけた長屋の女房達が噂をしていたのが、福助の耳にも入ってきた。上野にある老舗の簪屋の内儀だそうで、福助は店名もそのまま国倫に告げた。それは国倫でも知る有名店であり、そこの主人はまだまだ健在の筈だ。あの女は未亡人などではない。幸い、長屋の女達は、どの家から出てきたかは見なかったようだ。
 事の重大さに、福助も青ざめていた。福助の両親も不義密通の揉め事で酷い事件となった。国倫を見上げる瞳が不安で揺れていた。武助の人の道から外れた行いに動揺しているのか、心配しているのか。たぶんその両方なのだろう。
 厳重注意どころでなく、すぐに別れさせた方がよさそうだ。武助の態度があまりに悪いようなら、藩邸に返すことも考慮に入れた。話す機会を窺った。

 師走も近い、空気が乾いた日だった。
 福助は月末の支払いに出払っていた。今日は体験会も無い。
 武助は仕事なのか勉強なのかわからぬ阿蘭陀風の風景画の下絵を描いていた。
「武助。あの後家とは、出会い茶屋で会っているのか」
 李山も奥の間でエレキテルをいじりながら、何気なくを装って尋ねた。三人のうち誰が話すかでもめたが、武助のことは李山に任すことにしたのだ。
「後家?」
 武助は筆を止めて、首を横に傾げてみせた。「・・・ああ」と頷く。自分でついた嘘も忘れているのかもしれない。
「せんせさ関係ね。色恋のことさ口出さねで欲すいがんす」
「不忍池か池之端か。逢い引きのついでに風景画とはオツだな」
 ちらりと武助は視線を挙げる。李山を睨んだように見えた。
「逢い引きがついででがんす」
「それは失敬」
 武助は単純なので、すぐにボロを出す。むっとさせれば、簡単に答えを引き出せた。
「あの女は後家ではないよな?夫は健在だ。あの辺りの簪屋の女房だそうだな」
 武助は筆を置いた。そして李山を振り仰ぐと、目を大きくあけて「そうなのですか? 騙されていました」とびっくりした振りをした。繕うという行為が、無意識に江戸言葉を選ばせたらしい。
「あの女とは手を切れよ?」
「もちろんでがんす」と、にっこり笑ってみせる。全然真実味がない。この場で適当に言い逃れして、でも逢瀬は続けるつもりなのが明らかだった。
 李山は、ぐいと武助の襟元を掴んだ。いつもより声を低く響かせ凄む。
「藩士が問題を起こせば、久保田の殿様だって困るだろう。俺だって困る。貴様は、俺の預かりになっているんだ。
 相手は町人だから、普通なら五両もあれば示談だが。貴様にそんな金が用意できるか? 俺は嫌だからな、そんなものを用立てるのは。
 それに、亭主が融通の効かない男なら、貴様は殺されるぞ。なにせ間男だ」
「・・・手さ、離すて」
 武助は、不快そうに眉を歪めた。
「おめさの弟子つかめて、間男よばわりがんすか」
「今、約束しろ。あの女と二度と会わないと」
「・・・男の妬きもちさ、みっともね」
「なっ」
 李山が心配して注意するのを、武助は何だと思っているのだ。かっとして、衿を握る手に力が籠もった。もう片方の手を振り上げた。

「先生」
 背後から、福助が声をかけた。玄関の土間に立ち尽くしていた。息が上がっているのは、今帰ったところなのだろう。
 李山は、武助の衿を離す。福助の様子がただならぬ風だった。別に李山が殴るのを止めようとしたわけでもなさそうだ。
「支払いの金子が・・・全然足りません。呉服屋や小間物屋に覚えのない借りがたくさん有りました。武助さんが、先生の御用だと言って買ったものです」
「・・・。武助が?」
 二人の視線が自分に集まり、武助は慌てて乱れた衿を正す。目をそらして、畳の縁を見つめ続けた。
「武助さんが買った品物の一覧、写させてもらって来ました」
 福助は、巻紙を板の間に広げた。李山は腰を浮かせて一覧に目を通した。袴や羽織用の反物、男物の煙草入れなども有り、女に貢いだというわけでもなさそうだ。かと言って、武助が身につけているわけでもない。
「これらを、どうしたのだ?」
 李山が詰問すると、武助は暫くは口をへの字に曲げていたが、観念してやっと「質さ入れだ」と小声で返事した。
「質入れだと?では、作ったその金は」
「吉原さ行っだ」
「・・・馬鹿かっ、貴様はっ!」
 もう、この男は、手に負えない。李山の胸には怒りよりも悲しみが広がった。自分の手に余れば、手元に置くわけにはいかない。・・・藩に返した方がいい。
「明日からは上屋敷へ戻れ」
 はっと武助は目を見開いた。先刻の芝居がかったしぐさと違い、瞳が揺れ、唇も震えていた。
「そ、そげなことっ! 堪忍すてけれ!」
「俺は・・・貴様を預かることに、責任が持てん。ここへは置いておけない」
「上屋敷は堪忍すてけれっ。殿さおらん時の上屋敷は。わすは生きて出られん」
 武助は藩士らにやっかまれているので、苛められるのだ。だが、だからと言って同情する気にはなれなかった。
「俺の家に居られぬことは、別にどうでもいいわけか」
 自ら進んで愛弟子として住み込んだのは、上屋敷に居たくないという計算からだったのかもしれない。李山に抱かれるのも、ただここに置いて欲しいから。色仕掛けで師を言いなりにしているとでも思っている。
「では、佐竹の殿様のところへ帰れ。秋田へ。それが一番いいだろう?」
 秋田へ帰れば、もう二度と会えないと思えた。李山は、言葉にして、そして唇を噛んだ。
 武助は観念した様子で、コクリと首を振った。江戸にも李山にも未練は無いらしく、反論もしなかった。
 義敦の側にいられるのが、武助には最善に違いない。

 数日後、上屋敷の留守居役に小田野直武の預かりを解く旨を告げ、秋田へ返すように進言した。久保田藩でも武助が奔放に遊ぶ事の噂は聞きつけていて、彼を帰省させることには喜んで承諾した。
 留守居には角館での武助の素行を知らない者が多い。純朴な秋田の藩士が、平賀源内という妖しい山師の影響で不良化したと考えたようだ。「小田野は、平賀殿と暮らすには田舎者すぎたようで」「平賀殿の粋を真似ても、田舎者ですから」などと軽く嫌味を言われた。
 自分はすっかり悪者にされた形だが、まあいいだろう。これで、武助とは遠く隔たることになる。
 このまま武助が江戸にいて、武家の奥方と密通でもすれば打ち首は免れない。故郷なら妻も子供も居るし、多少自粛することだろう。何か事件が起こるよりはマシというものだ。

「お気をつけて。握り飯を作りましたので、よかったら」
 玄関で福助が手渡す竹皮の包みを、武助は何も言わずに受け取り行李へ突っ込んだ。
「こら。福助に礼くらい言え」
 李山に注意されても、武助はふてくされて返事もしない。
 師走の空っ風が吹く朝だった。武助は秋田へ帰る。
「日本橋まで見送ります」
 福助が前掛けを解いて羽織を羽織った。
「来ねでええ。来るな」
 ジロリと一瞥して、福助の好意を跳ね返した。
「おめさ、嬉しぐで仕方ねだろ。邪魔もんさおらんなっで」
「武助さん、そんな・・・」
 酷い言葉を投げつけられ、福助はうつむいて黙ってしまった。最後まで、これだ。李山は深くため息をついた。
 美しくわがままな鳥が、今、手を離れていく。秋田で武助に出会ったのは奇跡のようだった。秩父の鉱山開発は頭打ちで借金は山積み。頼恭が没したダメージは心に大きな傷を残していた。つらい時期だった。武助と会ってから、風が少し変わり、上向きになった。
 武助のせいで心労もあったが、一緒に居て楽しい事の方が多かった。かきまわされ、翻弄され、心を乱され。それでも楽しかった。
 武助は、『お世話になりました』の言葉さえ告げず、平賀宅を出て行った。李山も、座敷から出なかった。奴が挨拶にも来ないものを、弟子を見送ってたまるかと思った。腹がたって、正座の腿の上で握った拳にぎゅっと力がこもった。怒りで拳も震えていた。体に力を入れていないと、走って武助を追って行って殴りそうだった。
 視線を上げると、床の間の龍が・・・義敦が描いた龍の目がこちらをまっすぐに見据えていた。
『おがっしゃげる(殴る)じゃと? 意地っぱりもたいがいにせい。今も、引き止めて抱きしめとう思うちょるくせに』
 内で国倫が鼻で笑った。世界中が李山を笑っているような気がした。
 
 畳に、武助の使い古しの筆が一本転がる。忘れ物ではなく、不要で捨てていったのだろう。李山もこの筆と同じなのかもしれない。
 武助は、振り向きもせずに通りを行き、木戸を出た。来た時と同じ、少しの旅仕度と、いつもの画材を腕に抱えて。

★ 3 ★

 平賀宅に集まる文士やヤマ師たちは、今日は福助がいないとか武助が不在だとかは気にしない。武助が秋田へ帰った後も、特に誰も何も尋ねなかった。彼がいなければ、藩邸か遊里だと思っている。
 江漢が最初に気付いた。
「あれ? 今日も武助さんは吉原ですか?」
 江戸を去る前に猶予は数日あったが、蘭画の弟子にも何も伝えなかったようだ。
「あいつは秋田へ帰った」
「源内さん、からかわないでくださいよ」
「からかってどうする。信じないなら、藩邸へ行って聞いてみろ」
「・・・。本当なんですか?
 ひでえや。弟子の俺に一言も言わず」
 師匠に挨拶もなかったのだから、弟子にあるかと思う李山だ。

 玄白も、大和町へ来て国倫から事情を聞いて驚いていた。
「そうでしたか。淋しくなりましたね。
 でも、意外に、秋田のお殿様の参府に付いて来るかもしれませんよ」
 玄白は往診の途中にちょっと立ち寄り、玄関に座ったままで福助の入れた茶をすすった。皆、年末は忙しいのだ。特に玄白は今は売れっ子の医者で、あちこちの富豪から呼ばれて診察を行っていた。
「いや、武助は角館の分家に仕えとるけん。もう会うこともあるまい。
 少なくとも李山は、それで諦めはついとるようじゃよ」
「変わったところは有りましたが、優しくていい青年でしたよねえ」
 武助が優しい? 玄白の評価が意外で、国倫は黙っていた。
「写生の帰りなのでしょうか、何度か画材を抱えてうちに立ち寄りました。よく子供と遊んでくれて。武助さんが使う絵筆は高価なものでしょうに、惜しがらずに子供に貸して、浅草紙に絵を描いたりしていました。うちの子は、ろくに筆も握れず、円さえも描くことはできませんが」
 玄白の息子は年が明けると五歳だが、誰かが腰を支えなければ座るのもままならない。おしめも取れない状態だ。言葉も喋れない。たぶんずっと一歳児の状態が続いていくのだろう。そんな童子と、武助は自然体で遊んでいたようだ。
 李山が泣いていた。国倫は、李山が泣くのを初めて感じた。声を殺し、肩も動かさず、歯を食いしばって。体の内で、壁に不自然に顔を向け、唇が歪むのを隠す。
 いとも簡単に『秋田へ帰れ』と李山は言った。頭では、それが武助に一番いいとわかっていた。だが自分の寂しさは計算になかったらしい。
 あと数日で、安永六年が・・・エレキテルの年が、暮れる。

 年が明けて春になる頃には、エレキテルの体験会もめっきり回数が減った。興味を持った者達ももう見尽くしたということなのだろう。
 この商売はそろそろ打ち止めだ。最終的に十数台にも増えたエレキテルを好事家や蘭癖に高く売り、外箱の細工などの手伝いをしていた弥七にも暇を出した。
 エレキテルの営業に借りた清澄町の屋敷は手放し、大和町の屋敷に福助と二人で慎ましく暮らした。エレキテルでの利益は大きかったが、国倫は休みなしに雑文や浄瑠璃を書いて稼いだ。李山も、文柳や武助が少しだけ写した阿蘭陀図譜の本草を、ぽつりぽつりと描き足していた。何かしていた方が、武助のいない寂しさが紛れた。福助も鳩渓を助けて薬草や石の見分けをした。
 国倫が歯磨きや菓子の宣伝文を書いて仕事にした頃から、家には文士というより雑文書きとしか呼びようのない怪しいもの書きも集まるようになった。須原屋からきちんとした本を出すわけでなく、遊里の細見やかわら版の文を切り売りで書いて銭をもらうような者たちだ。大田南畝や森島中良のような士分のエリート文士が、会えば顔をしかめるような輩どもだった。
 だが、国倫は、彼らにも同等に酒を振る舞い、話に興じた。皆、門人として目をかけてやった。特に今は、大勢で騒ぎたいのかもしれない。少なくても福助にはそう見えた。

 今年長崎屋を訪れた商館長はフェイト、大通詞は名村だった。本草に詳しい阿蘭陀人は居ないようで、友人の幸左衛門も来ておらず、国倫は長崎屋へは出向かなかった。
 阿蘭陀人が居る間、長崎屋の壁には阿蘭陀国旗に似せた大きな布が掛けられる。江戸の庶民にも、参府中だとすぐにわかるのだ。春の突風に布が煽られ高くはためく。阿蘭陀人が近くに居るというだけで、おっちょこちょいの江戸町人はそわそわと浮かれる。本石町には、窓から阿蘭陀人が覗きはせぬかと、物見高いやつらが集う。見物客の為の屋台が出て市が立つ。
 国倫はそんな騒ぎも静かにやり過ごした。
 江戸では桜はもう散ったが、角館の雪は溶けた時期だろうか。しだれ桜が美しいという評判の町だった。そろそろ蕾は膨らむのだろうか。
『俺に付き合って感傷的になる必要はない。貴様は前へ進め。
 それに、俺はもう踏ん切りはついている。いつまでも、居なくなった情人のことを想って暮らしてたまるか』
 李山らしいドライな声が内から聞こえる。それが強がりだとわかっている。だが国倫は「ああ」と頷いた。
 図譜翻訳の希望が途絶えたままにエレキテルの営業を終え、前へ進めと言われても、次にやりたいことが見つからなかった。以前は、やりたいこと、やってみたいことが山積みで、体が幾つあっても足りない感じだったのに。これが『老い』かと、ため息をついた。

 阿蘭陀人らが去った頃、珍しく田沼から呼び出しがかかった。何の用かと、国倫は首を傾げる。
『また何か利用されるんだろうさ』と、李山がシニカルに笑った。
『俺はあのサルは好かん。いつも何か企んでいて、それをこちらには明かさん』
『わたしもです。田沼様は決して本当のことは教えてくれません。それなのに、こちらの心はいつも見透かされているようで、居心地が悪いです』
 嫌いだからと言って、老中に呼びつけられて断わるわけにもいくまい。国倫は久しぶりに裃を付けた。
 田沼の屋敷ではなく、愛妾を実家へ送って千賀邸で待つと言う。正式でなく気楽なお召しであり、つまり内密の打診ということだろうか。
 やることが見つからずに手持ち無沙汰なのを、気付かれていたのか。

 千賀の家では、挨拶と軽い酒宴の後には人払いがされて、田沼と千賀親子だけとなった。また千賀が出資する事業なのだろう。平賀が暇そうにしていると言いつけたのは、道有かもしれない。
「平賀は、港町の生まれだな?」
 盃の酒を空けながら、唐突に田沼が国倫のプロフィールを確認してきた。
「はっ? はい、仰せの通りで」
「平賀を経済的に支えた友人の家は、造り酒屋だが海運業も営むと聞く」
「・・・。」
 正確には縁者が営むのを手伝う形だが、よくもそんな細かいことまでと呆れた。
「高松も港町だな。・・・船の設計に関わったことは?」
 そう来たかと、心で膝を打った。田沼は、新しいタイプの船をご所望のようだ。
「田沼様がおっしゃるのは、大型の弁才船のことですよね?
 残念ながら、私は秩父で平田舟を造った程度です。ですが、すぐに勉強して、田沼様が必要となさる知識を得る自信はあります」
 開国か? 田沼がいよいよ開国の準備に乗り出すのか?
 国倫は身を乗り出して、強い視線で田沼の目の奥を探った。
 体の中を新しい風が吹き抜けたような気がした。それは生ぬるくない澄んだ風で、嗅いだことのない香りがした。耳の後ろの血が騒ぐ。ドクドクとうるさいほどに心が騒いだ。
 幕府は、大型船の支柱も一本に規制している。日本に密航又は攻め入る外国船と明確に区別できるようにだ。今の日本の船で大海への長期航海は無理だった。沿岸を行く商船でさえ度々難破した。
 ふっと田沼は頬を緩めると、「まずは、地上の建築を学べ。話はそれからだ」と目を細めた。地上の建築とは、屋敷か寺か城砦か。曖昧な言葉だった。・・・開国は? なにかはぐらかされた気がした。
 そういえば、蝦夷開発はどうなったのだろう。あそこは鉱物資源の宝庫だと思うのだが。まだその時期ではないということか。国倫には政治的なしがらみはわからない。

 その後は、エレキテルや源内工房の細工物の話になり、浄瑠璃の話になり、もう設計の話は出なかった。田沼を見送った後、道有に「今夜のは、何の企てかのう?」と冗談めかして尋ねてみる。彼も「さあ、私には」と首を傾げるだけだった。田沼に言われるままに宴席を用意し、源内を招いただけのようだ。
 大型船も含め、建造物の普請については勉強して損はないかもしれない。いや、学んで損なことなど、世の中には無い筈だ。
 道有にはもう少し呑もうと引き止められたが、福助が一人で待つ事を想い、帰途についた。千賀家は国倫にまで駕籠を用意してくれた。
 道有は、豪奢な千賀邸の門まで出て、駕籠を見送った。
「また時々は遊びに来てくださいよ」
 時の権力者、田沼意次の義父。その肩書に似合わぬ、人懐っこい口調だ。彼もまた淋しいのかもしれない。



第56章へつづく

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