★ 私儀、甚だ多用にて ★
第五十六章
★ 1 ★
武助のいない春が逝き、武助抜きの梅雨が明けて、武助無しの夏がやって来た。『春も立ちまた夏も立ち秋も立ち冬も立つ間に』というのは、国倫が書いた戯作の一節だった。このあと『萎える無駄魔羅』と続く。
李山は萎えたままではいない。装っているのか、割り切ってもう忘れたのか、国倫にも鳩渓にも判断はできなかった。李山は、田沼に提案された「建築」を学ぼうと、よく町へ出て大工らが建てる屋敷を眺めていた。
見取図の描き方や建築のコツのあれこれは、大工に弟子入りして修行して、十年たったらやっと教えて貰えるという代物だ。だから聞いても怒鳴られるだけだとわかっていた。自分なら、こうして何軒かをじっと眺めているだけで、ある程度は理解できる自信があった。
が、夏の炎天下にずっと作業を見守るのは、五十を過ぎた身にはつらい。福助が持たせた竹筒の水を手拭いに浸し、額や顔に当てて熱を逃がす。木蔭に退避している間に作業を見逃すことも多かった。
若い頃は、夏の盛りに薬園の手入れをするのも苦にならなかったものだが。職人に混じって諸肌を脱いで土をいじり、種を調べ、葉の具合を診た。肩をジリジリと焼く日差しが、心地よい位だった。陽を浴びると、かえって元気が出た。
今は、大和町の家へ歩いて帰るのにも汗だくになり、疲れを感じるようになった。いや、老いのせいだけではないかもしれない。武助が去ってから、まただいぶ肥えたのだ。
湯屋に寄って家に帰ると、福助が既に夕食を膳に並べる作業をしていた。
「報告したいことがあって、お帰りをお待ちしていました」
手を止め、緊張した表情で李山を仰いだ。あまり良い事ではなさそうだ。
「なんだ?」
窓の外に、手拭いを干しながら李山が尋ねる。隣に下がる風鈴がチリチリと鳴った。もう宵であり、李山はそれを人差指ですくい、室内へと入れ衣桁に吊り下げた。
「エレキテルが、見世物にされているのです」
「・・・。そうか」
李山は座るとそれだけ言った。福助は菜箸を置いて憮然とした。
「なんで平気でいられるのですかっ。ろくろっ首や大女の見世物小屋と並んで、先生のエレキテルが。まるで妖術のように扱われているに違いないのですよっ」
「俺はアレは売ったのだ。買った者が何に使おうと自由だ」
エレキテルは、記念に二台だけ残し、医者や蘭癖に高く売りつけた。治療に使おうが、宴席で余興として披露しようが、もう平賀源内には関係ない。この先は商売として成立するほどの体験者は見込めないと判断した。だから売った。
「場所は浅草か両国か」
「浅草だそうです」
「町人相手に僅かな見物料を取るのを咎めても馬鹿らしい。一日の儲けも、俺達がやった体験会での一人分の料金にも満たないだろうさ。
しかし。売った相手は知り合いばかりだが、見世物小屋にかけて儲けようとする奴の心当たりは無いな。転売でもしたかな」
その時、李山は、この事件を軽く考えていた。夕食の一品、カマスの一夜干しをほぐして口に入れ、明日はどこの建築現場を覗こうかと思いを巡らせていた。
福助の表情は暗く、「明日、私が覗きに行って来てもいいですか?」と恐る恐る尋ねた。
「そうか? それなら、浅草で遊んで来るといい。小遣いをやろう。俺は夕飯は外で食ってくるから、少し遅くなってもいいぞ。
エレキを見せる工夫が面白かったら、教えてくれ。俺もそのうち行ってみるから」
はい、と小さく呟いて、福助は伏目がちに味噌汁をすすった。福助の耳には、既に嫌な噂が入っていた。だが、報告するのは自分の目で確かめてからにしようと思った。
翌日、李山が大和町に戻ると、福助が木戸のところに佇んでいた。夏の夕暮れは遅く、まだ宵というには路地も明るい時刻だ。遊んで来てよいと言ったのに、もう帰っている。しかも早く報告せねばと思って、ここで待っていたのだろう。
「先生!」
表情は険しく、口調も思い詰めていた。福助の若さや生真面目さが、立腹させているのだろうか。だが福助は賢い子だ。彼が大事と思う事態なのかもしれない。一抹の不安がよぎり、李山は歩を早めて路地を入った。
「見て来たのか?」
福助は強く頷き、「早く中へ」と帰宅を急がせた。
福助はぬるい麦湯を薬罐から茶碗に注いで李山の前に置くと、「そりゃあ、ひどいもんでした」と、まだ怒りが納まっていない様子で訴えた。
「あれは、先生のエレキテルではありません。箱だけ似せたものです。当然火花もエレキも出ません。でも『平賀源内先生製作エレキテル』と偽って見物人を集めています。私は、世間に先生のエレキテルがこんなものだったと思われるのがたまりません」
李山の予想外のことだった。全くの偽物だったとは。李山は茫然としたまま湯飲みを握り、手を滑らせた。
「あ。・・・ああ、すまん」
福助がすぐに懐から手拭いを出して畳を拭いた。
「先生・・・」
不安そうに眉を顰め、李山の顔を覗き込む。
「明日、俺が覗きに行ってみる。
その見世物は、最近始まったのか?」
初めからインチキなのだから、火花が出なくても料金は返さぬのだろう。そろそろ源内宛に文句や苦情を言いに来る者がいるのではないか。
「ええと、もう半月ほどになるそうです」
「半月も?」
妙な話だ。未だに一人もクレーマーは来ない。それとも、今までは、購入した本物を使っていて、たまたまメンテ中の代替えの偽物を福助が見たのか?
もやもやと嫌な感じはしたが、明日実物を見れば、きっと全部がはっきりするだろうと思えた。
★ 2 ★
浅草寺への道は、屋台や土産物屋が並ぶ。境内西側の奥山地区には見世物小屋が軒を連ねた。
蛇女にろくろっ首に巨大イタチ。それらの定番見世物に混じって、『平賀現内先生のえれきてる』と描かれた幟があった。源内の字が違っている。一瞬むっとしたが、言い逃れの為にわざと違えたのかもしれないと、自分に言い聞かせる。歌舞伎でもよくやる手だ。
問題の小屋に近づこうとして、隣の小屋から排出される人波に押された。ろくろっ首が今終わったようだ。大柄な李山は押されてよろけるようなことはないが、ぶつかって喧嘩になるのも面倒なので道の端によけた。ざっと二百人は出て来たようだ。福助は、エレキテルが百人ほどの会場だと言った。ろくろっ首がエレキテルより大きな小屋で演っていることに、少し腹が立った。
エレキテルの口上が聞こえる。『御用とお急ぎで無い方は』の定番の語り口に、『平賀現内先生が発明した』や『江戸の学者がうなった阿蘭陀のからくり』やらの言葉が聞こえる。エレキテルは以前からあるもので、自分は『発明』した覚えは無いのだが。しかも日本人が発明したのになんで阿蘭陀のからくりなんだと、心で突っ込んでみる。李山は四十八文の料金を支払って筵の戸をくぐった。
御座が敷かれた座席に適当に座る。確かに百人は入りそうなスペースだが、客は半分くらいだろう。職人風や遊び人風が多いが、侍髷の者もいる。李山は士分が目立たぬように着流しで来たが、町人らはもっとラフな股引や浴衣姿だ。
剥き出しの材木で作られた舞台の、安っぽい黒い幕が開く。ぱらぱらといい加減な拍手が鳴った。
『馬鹿やろう、もっと真面目に拍手しやがれ。エレキテルだぞ』
朱の布を掛けた台の上に、エレキテルを真似た白い箱が乗る。おおーっと歓声が上がった。蓋から伸びる鉄線、横の把手、花の模様。町人らも瓦版などで話題になったエレキテルの存在は知っている。挿絵でなんとなく形も知るらしい。
舞台に乗るエレキテルは、本物に酷似していた。李山は目を凝らす。三つ並んだ花の色の順番まで同じなのだ。♂♀の記号も有った。本物をじっくりと見た者でなければ、再現できないだろう。
裃を着た男が二人現れるところまで、そっくりだった。
「さあさ、ここに有ります白き箱、ただの箱ではない。讃岐の偉い学者様、平賀現内先生が発明なさったえれきてる、江戸で評判になったのは皆様ご存じの通り」
一人が口上を始め鉄箸を握る。箱に把手は付いているが、誰も回さない。興業している者は、体験会は見ていないのだろう。どうやって使うか知らないのだ。
『こんな半端な知識で、よくもエレキテルを見世物にと考えたものだ』
李山は半ば呆れ、腹も立ってきた。無知で恥知らずな阿呆がエレキテルで儲けようとするのは許せなく思えた。
口上の男が棒をもう一人の手に当てると、相方は自分でブルブル震えてみせる。どこから見てもインチキとわかった。なんだこれは。これでエレキが起こっていると言い張る気なのか。ふざけるのもいい加減にしろ!
こんなインチキを見せられて、観客が次々と怒って立ち上がるのではないか、怒声を挙げるのではないかと、李山は客席を見渡した。
だが。
観客は怒りもせず、反対にくすくすと笑いが洩れていた。
『・・・えっ?』
台に乗った馬の人形を振動させる見世物もあった。台を持った者が揺らしているのがあからさまだ。だがそれも、客たちは指差して笑い転げた。
李山の頭にかっと血が昇った。拳をきつく握った。手の甲の筋が際立った。
馬鹿にされているのだとわかった。俺達のエレキテルが。平賀源内が。笑い物にされているのだ。
舞台ではエレキテルを茶化して笑いを取り、観客は皆それに腹を抱える。
怒りは沸点に達した。思わず立ち上がり、舞台へ駆け寄ると叫んだ。
「やめろっ! 俺が平賀源内だ。このエレキテルは偽物だ!」
客らはまたわっと沸いた。これも見世物の余興と思ったらしい。皆にはこれが偽物とわかっているからだ。ろくろっ首の長い首が布製であるのと同じように。
怒りで、唇がわなわなと震えた。頭が真っ白になった。
「この箱からはエレキなど出ぬっ。まがいものに二度と俺の名は使うなっ!」
李山が叫ぶと、口上の男が舞台上であんぐりと口を開けた。
「本物の平賀先生で? 本当で?」
「貴様、俺の顔も知らんのかっ。貴様がここの興業主かっ?」
「い、いえ、あっしは弥七っちゅう男から雇われただけでさ。奴は先生の名前を出す許しを得ていると」
「弥七だと?」
源内工房で長く働いた男だ。エレキテルの箱を作る仕事もさせた。
「なんだ、なんだ」「途中で止めるな!」「止めるなら金返せ!」
李山が舞台を中断させた為に、観客が騒ぎだした。偽物のエレキを見ても怒りもせず返金も求めず、笑い転げていた観客たち。中止にするなら金を返せと言う。
「黙れっ!」
観客に一喝すると、李山は懐から財布を出して、舞台の男の足元へ二分金を投げてよこした。
「これで客達に返金してやれ。十分に釣りが出る。
弥七に、俺の家へ来るよう伝えておけ。俺が釈明を聞いてやると言っていたと」
李山はそう言い残して、小屋を出た。李山の殺気だった様子に、騒いでいた客らもしんと静まり、すっと李山が通る道を空けた。
エレキテルの細工には李山もかなり協力した。もちろん国倫の苦労は目の当たりにしている。長崎屋に行く時間さえ惜しんで作業した。食う時も歩く時も常に頭からはそのことが離れなかった。春に桜の花びらが舞っても、初夏の心地よい風が吹いても、それを楽しむ余裕はなかった。そして何より、玄白との約束が、めげる国倫を奮い立たせ、背筋を伸ばして研究に向かわせた。李山はあの頃の国倫の心持ちをよく覚えている。・・・エレキテルを笑い物にされるのは、許せなかった。
外に出ると、昼下がりの陽が目に刺さるようで、くらりと目眩がした。立ち並ぶ見世物小屋の様々な口上が交錯し、頭の中を、体の中を、声がすり抜けて行く。耳がぐわんぐわんと鳴った。
『あげに怒らんでも。李山は短気になったのう』
当の国倫は、多少のショックはあったものの冷静だった。
大衆なんてあんなものだ。
金持ちや武士だけに公開したエレキテルに対し、庶民のやっかみもあったのだろう。医学的なもの、学問的価値が高いものには、寺子屋レベルの町人には『お貴く止まりやがって』という反感も産んだかもしれない。だからと言って、弥七のやったことが許せるとは思えないが。
『なんで奴らを殴って来なかったのですかっ! ついでに偽エレキテルを叩き壊して、見世物小屋に付け火でもして来ればよかったのに』
物騒なことを言うのは鳩渓だ。潔癖なこの男の怒りも大きい。普段は行儀のよいコイツが、切れると一番言うことが過激になる。
怒りで歩が早くなる李山は、すたすたと浅草を抜けて南へ向かう。が、帰宅への道では無いような。
『李山、おんしの足、芳町へ向かっとらんか?』
「・・・。気分直しだ」
鳩渓が不服そうに『えーっ』と反対の声を挙げたが、無視して歩き続けた。国倫もやれやれと苦笑する。李山が怒りっぽくなったのは、武助が居なくなった寂しさも大きいのだと思った。
秋田の夏は短いだろう。武助は真面目に藩の勤めを果たしているだろうか。
★ 3 ★
弥七は翌日酒桶をぶら下げてやって来た。
神妙に土下座し、無断で先生の名前を使ったこと、エレキテルの偽物を見世物にしたことなどを詫びた。
弥七も出来心の軽い気持ちだったのだろうと、李山は心安く許した。昨日のあの場ではかっとして、大人げない怒り方をしたという反省もあった。
「では、このまま商売を続けてようござんすか」
李山は眉を顰めた。
「続ける? 見世物をか?
貴様は謝罪しに来たのではないのか? 反省しておらんのか?」
弥助は、無断で名を借りたことを詫びるついでに、名の借用許可を貰いに来たのだ。再び李山の怒りに火がついた。
「ふざけるなっ! 今日から即、見世物は中止にしろ!」
「そ、そう言われましても。
小屋は前金でふた月借りております。まだ半月ほどしか興業しておりやせん。舞台や幟、箱の造り賃、雇った者への賃金、まだ元も取れねえ状態です」
「貴様の懐勘定なんて知るか。興業は許さん。俺の名前もエレキテルも使うな。
中止せんなら、お上に訴え出るぞ」
「・・・てやんでえ」
弥助もケツを捲くった。元々は骰にイカサマ細工もしていたことのあるヤクザな職人だった。雇われた時は真面目に仕えたが、もう源内とは関係ないのだ。
「お上が恐くて奥山で商売できっか。だから侍は嫌えなんだよ、すぐお上を持ち出しやがる。
だいたいてめえだって、志道軒の名を使って勝手に本を出したじゃねえかよ。新田義興の名を使って浄瑠璃を書いてるじゃねえか。おいらがてめえの名を使って何が悪い」
片膝立てて啖呵を切ると、持ってきた酒桶を引っ掴んだ。
「馬鹿らしい、これは返してもらうぜ。あばよ」
弥七は雪踏を突っかけ、平賀宅を出て行った。
「福助、塩を撒け、塩を!」
李山が怒鳴ったので、福助は慌てて壺を抱えて玄関へ飛び出し、申し訳程度にパラパラと道に浪の花を撒いた。
弥七はたぶん興業はやめないだろう。怒りの言葉は李山の頭の中で渦巻く。どんな重い罪状で訴えてやろうかと爪を噛んだ。
戯作や浄瑠璃の本と医療器具を一緒にしやがってと、はらわたが煮えくり返った。
だいたい、世間は、頭も使わず努力もせず、人が苦労して作った物をえへへと舌を出して真似して儲けようとする。その卑しい志はどうにかならないのか。
工房では、国倫の案と自分の手先の工夫で、色々な物を作った。高価な輸入品である金唐革。革を紙に代用して金唐革紙を作った。すぐに真似をされた。しかも、丈夫さや美しさを出す行程は無視され、表面の形だけ模倣された見苦しい製品だった。上っ面を真似ただけで、中身を推測して工夫しようともしていない。菅原櫛もそうだった。自惚れ鏡もそうだ。表面の形だけ似せた偽物が作られ、町人らは平気でそれを買う。
案を無断で真似ること、外見だけ似せた質の悪い物を本物と同じ名で売ること、これらが何故いけないことなのか。頭で考えても、李山には言葉では巧く説明できなかった。該当する掟も思いつかなかった。だが、怒りだけはこみ上げて来た。
最初に作った者の努力やひらめきに対して、敬意が無い。どう考えても人の道に外れた行為だ。儲ければいいやという売る側と、安ければいいやという買う側の、心があまりに低過ぎる。
かっかとする李山とは反対に、国倫は冷静に思いを巡らしていた。志道軒を主人公にした戯作は、確かに許可を得たのは書き上げた後だった。志道軒は懐が深く洒落がわかる男だから、自分のことを一行目に『えせものあり』などと書かれた本も、笑って許してくれた。李山は、痛いところを突かれたから余計に怒っている。
いや、確かに、李山が怒る理由もあるのだ。今の掟では裁けないモノがある。弥七はうちから何か盗んで商売に使ったわけではない。彼が利用したのは、他の町人よりは多少エレキテルに詳しいという知識だ。
エレキテルと製法秘伝の饅頭を一緒にするつもりもないが、製法は秘伝として一子相伝で伝えるのが常識だ。又は分家としてのれん分けする。これが基本だった。最近まで、饅頭でなく医学でも薬草の育成でも同じだったのだ。藍水先生や自分は、知識の共有化がされなければ学問は進歩しないという志のもとで、薬品会を開催した。賛同してくれた学者も多かった。
これはもちろんいい事だった。だが、知識を共有化した為に、経済的に損をする仕組みがあるとしたら、どうだろう。損をすると思えば、知識は隠したがる者もいる。自家だけの売り物として秘すだろう。
知識や案や工夫も、千両箱に入った金子と同じように、守られるべきではないのか? なぜなら、それらが将来に金子に形を変える物なのだから。
どこの市でも買える四十文の西瓜を盗めば罪になる。だが、特別旨い六十文で売れる西瓜を作る農家があったとして、その製法を真似されたら泣き寝入りするしかない。・・・それは変だろう。納得がいかない。
知識や技術は、掟で守られるべきではないのか?
同様に、『平賀源内が作った』という触れ込みで売れる櫛や鏡がある。高級で品質の高い物とされている。質の落ちた偽物が売られて、その名前の信頼度が落ちた場合の損失を考えると、名前にも金銭的価値があるのではないのか。名前も掟で守られるべきではないのか。
弥七は当然のごとく興業は続けた。
李山と鳩渓は怒りで唾を飛ばして『訴える』と息巻いた。そして、国倫も同意した。
国倫は、この訴訟は勝てないのはわかっていた。興業を中止にさせることはできないだろう。見世物小屋の客たちは、偽物だとわかって金を払っているのだ。それはエレキテルだけでなく、ろくろっ首も大イタチも同じだ。弥七のエレキテルが偽物だというのは、争点にはならない。国倫も、そこを争うつもりはなかった。
訴えることに意義がある物があった。
案。技術。名前。名誉。盗まれたり壊されたりしたものは、形が無いものだ。その訴えは画期的なものであり、きっと歴史に残る。いや、残って欲しいと思う。この訴訟が何も喚起せずただ笑い話になる世の中では、技術や知識の進歩は頭打ちになる。
奉行所の裁きは、時代相応のものだった。
弥七は特に罪には問われなかったが、興業で平賀源内の名を出さぬようにと注意を受けた。見世物も中止にせよとは言われなかった。
「へん。おいらの勝ちだな。ざまあみろ」
奉行所から出て李山と面と向かうと、弥七は地面へと唾を吐いた。
その頃には李山も鳩渓も冷静さを取り戻して、国倫の考えに同意していた。
「俺は、名が使用禁止になったので満足だ。勝ち負けを言うなら、俺の勝ちだ」
「何を!」
気色ばんで腕まくりする弥七を、回りの者が止めた。
「腕はいいし真面目であるし、貴様のことは買っていたのだが。次に何かやる時も呼ぼうとさえ考えていた。・・・俺のとんだ見込み違いだった。貴様には偽物での商売が似合いだ」
弥七は羽交い締めを解こうと体を揺するが、腕を掴む者らは強靱であるようだ。
「悔しかったら、本当に火花が出るエレキテルを作ってみろ」
李山は捨てセリフを吐くと、さっさと弥七の前から去った。もう、関わりたくない男だった。記憶から捨て去りたかった。
浅草での弥七の興業は、結局は一カ月もたたずに終わったようだった。江戸っ子らは、訴訟騒ぎになった見世物など『洒落』にならないと感じたのだろう、集客がままならず打ち切りになった。
そして、暫くして、弥七はお縄になった。富豪の武士や商人から金を騙し取った罪で、伝馬町送りになった。
弥七は、『自分は平賀源内の助手としてエレキテルを作った者だ』と富豪らに近づき、『エレキテルを作ることができる』と嘘ぶいて資金を騙し取ったのだと言う。
町で情報を得てきた福助は、茶を入れながら憤慨で鼻の穴を膨らませていた。
「まったく。懲りずにまた先生の名をかたってたんですね」
国倫は違うことを考えていた。弥七は、本当に造ろうとしたのではないのか? だが、彼の知識では無理だったということだ。
仲違いなどせず、もっと大人になって、きちんと和解して別れればよかった。お裁きは幸い、どちらにもそう不満な内容ではなかったのだから。
仲違いがなければ、弥七はここへ造り方を尋ねに来たかもしれない。エレキテルは医療器具だ。数が増えて悪い事など何もない。尋ねれば丁寧に教えてやったものを。
今では、たくさんのエレキテルが人手に渡り、文字通り『蓋は開かれた』。らいでん瓶などの材料が手に入れば、そう苦労せずに造る事ができる筈だった。
国倫は苦渋の表情で、茶をすすった。
あの頃、いつも華やかな裃姿で武助と福助を従えて家を出た。慌ただしくも賑やかに準備を整え、活気に溢れて出かけた。部屋にはひとり弥七が残り、外箱の予備を組み立てたり、剥がれた絵の具を補正したりの作業をしていた。隅っこの、陽が斜めに当たる場所に座り、顔にも、たすきであらわになった腕にも、藍の着物にも、格子の黒い縞模様が映って見えていた。
いってらっしゃいませ、お気をつけて、と。弥七の抑えた声がまだ耳に残る。
奴は、憧れたのか、憎んだのか。
今ではもうその心を聞くことはできない。
冬の伝馬町には、死神が穂を鎌で掬って行くように、多くの死人が出る。町人の牢は環境が劣悪だと聞いていた。
弥七は、冬を越せずに死んだ。
第57章へつづく
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