★ 私儀、甚だ多用にて ★

第五十七章

★ 1 ★

 話は、少し季節を遡る。

 夏の終わりに弥七が伝馬町に繋がれ、李山は陰気な気分で秋を迎えていた。
 座敷に集う森島中良や平秩東作など文士らの話は話題も豊富で切り口も面白く、普段は一緒に楽しく談笑するのだが。今は無理に笑ってみせることしかできない。
 台風で壊れた町木戸が、風が吹く度にきぃきぃと悲鳴を上げて、余計に気分を滅入らせた。
「ここの大家は、なんで何日も平気で放っておくのだ」
 苛々がつのった李山は、自らが木槌を握って路地へ出た。
「源内先生は男気があるなあ」と、中良が誉めるのではなく茶化す口調で首をすくめる。このお坊っちゃまは箸と筆より重い物は持ったことがない。
「あ〜、先生、そんなことは私がやりますよ!」
 流しで茶碗を洗っていた福助の声を、李山は無視した。
 木戸は蝶番の釘が一本抜けてぶら下がっていた。釘を元通りに打てば直る筈だった。が、李山の思惑通りには事は運ばず、強風で力任せに抜かれた釘の穴は広がり、釘を打ち直しても緩くてすぐに抜ける。蝶番の場所を少しずらさないといけない。
 李山は舌打ちし、家に釘抜きを取りに戻る。たすき掛けをして着物も尻っぱしょりをしてしゃがんで蝶番を一寸ほど上部に付け替えた。ところが、下の蝶番の場所を変えると、上も変えないとバランスが悪いことに気付く。
「気にくわん。上のやつももう一寸上げたいところだ」
 嬉しそうに独り言を言うと立ち上がり、上の蝶番を外しにかかった。国倫も鳩渓も内で目くばせして笑い合う。李山は、こういう作業をするのが好きなのだ。
「平賀さん、何をなさっているんですか」
 作業に集中する李山は近づく羽織紋付に気付かなかった。声に驚き、顔を上げた。千賀道有だった。今は田沼意次の義父として飛ぶ鳥も落とす勢いの医師だが、供も連れず、梨をたくさん詰めた籠を抱えて穏やかに笑っている。会うのは久しぶりだ。
「貴様こそ。梨売りでも始めたのか」
「そんな憎らしいことを言うと、差し上げませんよ」
「それでは福助に叱られる。・・・先に行っててくれ。中良と平秩も来ている。
 俺はこいつを片付けちまう」
「見ていては駄目ですか」
 道有のアプローチに一瞬息を飲む。
「別に釘が消えたり木槌が鋸に化けたりはせんぞ」
 嫌悪しているわけではない。しかし、もう以前のように好意を受け止める事はできそうになかった。江戸の有力者となった道有は気軽に遊べる相手ではないのだ。いや、違うと、李山は自分の嘘を指摘する。こうして自分が壁を作ろうとするのは、道有が本気なのを知っているからだ。
「先に行って、福助に茶の準備をさせておいてくれると助かる」
「わかりました」と道有は素直に引いて、するりと木戸を通り抜けた。甘い梨の香りがした。

「おや、源内さんが直してくれたんだね」
「器用だねえ。ありがとねえ」
 長屋の女達に礼を言われつつ家に戻ると、茶どころか既に梨も剥かれて皿に乗っていた。甘い香りに、口の中には唾が溜まる。
 中良と平秩はちゃっかり先に摘まみ、「お先にいただいてます」と口をもぐもぐとさせた。
「おつかれさまでした」
 福助が、流しで手を洗う李山に手ぬぐいを差し出す。
「道有様から戴きました。秋田の梨だそうです」
「秋田の?」
 李山は用心深く一切れを指で取り、上目使いで道有を振り返った。
「私のところも戴いたので、ほんのお裾分けです。
 もうすぐ、佐竹様の参府ですねえ」
 梨は久保田藩の大名にでも貰ったのだろう。梨だけでなくつまらぬ情報も仕入れている。
「そうか」と、李山はかぷりと梨に噛みついた。じわりと梨の果汁が口に広がり、喉の乾きを癒した。
「武助さんも江戸に来るかもしれませんね」と、一切れ食べ終えた中良は、次の一個をどれにするか目で探している。
「そんなわけはないさ。あいつは分家である角館北家に仕える身だ」
「夏に、佐竹出羽之守様付きの御側御小姓になったそうですよ」
 道有の情報に、ぽろりと、李山の手から梨が落ちた。食いかけの一切れは厨房の板の間をいびつな軌跡を描いて転がった。
「そうか」
 先刻と同じセリフを吐き、のろのろと梨を拾う。流しへ持って行き、杓で水をかけて洗うと、そのまま一口で口へ押し込んだ。
 口の中の大きなカケラは思うように咀嚼できず、道有へのそれ以上のコメントは逃げる事ができた。道有も余計な言葉は吐かず、福助に「初物はいいですね」と笑いかけて梨に手を伸ばした。
「おいしいです! それに、初物を食べると長生きするそうですよね」
 どこで聞いて来たのか、福助はそんな迷信を口にする。福助が武助の件を突っ込まなかったのは、彼の聡明さの表れだ。微妙な事を無邪気に尋ねるほど、もう子供ではなくなっていた。
 側小姓。李山は武助の新しい役職を反芻する。
 ではきっと、武助の恋は叶ったに違いない。素行も改め、少しは真面目になったのだろうか。
 参府に同行する可能性も有るが、久保田の殿様のお相手では、もう李山が触れていい男ではない。
 いや、元々、終わるつもりで秋田へ帰した。既に自分とは関係のない男だ。
「七十五日だけですけどね」
 道有は福助の迷信話に付き合う。彼も武助の件に話題を戻す気はなさそうだった。権力という重荷の乗った細い撫で肩の背中。少し力を抜いたその黒い絹の背に、哀しげに千賀の紋が乗る。あなたのことはとうに諦めていると、その背が雄弁に語る。怨みも未練も無いのだと、ただ淡々と座っている。

「そういえば、田沼様が苦笑していましたよ、源内さんの訴訟の件」
 厚い唇に囲まれた小さな口が、そう言うと、梨の端をちょこっと齧った。
 中良と平秩はその話題に変わると、申し合わせたように目くばせし合った。こいつらはあの事件を密かに面白がっていたのだろう。
「ああ・・・」
 さっきの分をやっと飲み込んだ李山は、さらにもう一個と手を伸ばす。福助が気を効かせて皿ごと持ち上げた。
「別に気にせんでもいいさ。お義父上に何とかしてもらうつもりは無かった」
「とんだ前例を作ってくれた、と」
 道有の言葉に平秩がぷっ吹き出した。中良も笑いを堪えたようで、顔をそむけた。まったく、文士ってのは。人の難儀が余程面白いらしい。李山はため息をつく。
「・・・まあな。それが狙いだから」
 訴訟事件の後に別件で弥七が投獄されたことを思うと、笑い話にする気にはなれない。獄医だった道有も伝馬町の厳しさをよく知るせいか、弥七のことには触れなかった。
「田沼様も、案や技術を保護する法については考えてはいたようです。ただ、"平賀はやることが十年は早過ぎる"と笑っておいででした」
 これには文士らは声をたてて笑い、平秩などは大袈裟に手を叩いてのけぞった。福助までが笑いをこらえて唇を噛んだ。
「ふん」
 悪態をつくと、李山はしゃかしゃかと梨を噛み砕いた。口の端を蜜のような果汁が垂れ、手の甲で拭った。

「こんなに戴いても、腐らせてしまいますよ」と福助が言うのに、道有は「ご近所にでも差し上げてください」と籠ごと梨を置いて去った。
 整った三角に積まれた水菓子は籠の中で芳香を放ち、物憂げにうずくまっているようだった。

★ 2 ★

 夕刻には細工物の職人が作業を終えて立ち上がる。もうそんな時刻かと、国倫は文机に筆を置くと、男をねぎらい戸を開けてやった。秋になり、すっかり陽が短くなった。福助は近所の引っ越しの手伝いに呼ばれて不在だった。今日は文士の友やアイデアを探す商売人らも訪れず、静かな一日だ。
 まだ時々菅原櫛や自惚れ鏡の注文が来る。小売店で五、六個の受注が集まると源内工房に発注してくるので、たまに職人を頼んで作らせていた。
 国倫は相変わらず雑文や浄瑠璃で食い、鳩渓は薬品・奇石の見立てで稼ぐ。李山も大きな屋敷の普請をしている噂を聞くと出かけて行き、見学していた。
 今の国倫は、来年の春の浄瑠璃脚本に忙しかった。人気の新進作家である中良との合作という企画だ。いつもと勝手が違い、分担の打合せや細部の整合確認が煩雑でなかなか進まなかった。
 
 職人が帰った後、国倫は厨房から五合徳利を持ち出し、竈に火を付けた。安酒を銚子に注いで鍋に並べ、自分で燗付けを始めた。
 福助は手伝いの礼に食事を振る舞って貰えるとのことで、帰りは遅れるらしい。釜を覗くと、国倫の為に飯を炊いておいてくれていた。棒手振の惣菜を買えばすぐ夕食にできる。だが、一人で食べるのは旨くなさそうだ。酒の方がいい。浄瑠璃の筆が進まないせいもあった。
 戸口で「平賀先生〜」と呼ぶ声がして、職人が忘れ物でもしたかと開けた。
思わぬ人物が立っていて、国倫は息を止めた。

「お久しぶりです。殿の供で江戸へ参りました」
 訛りはあるものの流暢な江戸言葉で、武助が頭を下げた。到着すれば誰かが噂で知らせるだろうと思っていたが。まさか噂より先に本人が訪ねて来るとは。
『おお、武助』と国倫が口を開く間もなく、李山が国倫を突き飛ばす格好で舵を握った。
「武助!」
 自由になったその腕で、李山は武助を抱きしめた。理性や体裁などはどこかへ吹き飛んでいた。羽織越しに触れる肩は相変わらず華奢で、いまだに少年のようだ。
『李山、今のは痛かったけん』
 突き飛ばされた国倫は不平を言うが、李山は聞いちゃいない。
「本当に武助なのだな。本当にここに居るのだな」
 李山の腕に力がこもる。この体は幻なのではないか。それとも、武助が江戸に戻ることばかり考えていたから、夢を見ているか。突然に嬉しい事が起きると、油断なく辺りを見回す癖がついた。誰かが、俺をハメようとして甘い夢を見せているのではないかと疑ってみるのだ。目が覚めた時の落胆が大きければ大きいほど、そいつは楽しいらしいのだ。
「はい。今日、着きました」
「ちょうど燗を付けているところだ。まあ、入れ。上屋敷は何刻に戻ればいいのだ?」
「門限は四つですが。わたすは殿の側小姓なので、ご挨拶さ済んだらすぐに戻らねばなりません。ですので、残念ながら、酒はご相伴できません」
 そこで李山は現実に引き戻された。そうだ、この青年はもう届かぬ男なのだと。「そうか」と腕を解いた。
「せんせ! 鍋!」
 李山は厨房を背にしていたので気付かなかった。鍋の湯がぼこぼこと沸騰し、銚子は鍋の中で倒れて横倒しになっていた。
 二人は慌てて竈へ駆け寄る。銚子の中身はすべて熱湯の中へ流れ出ていた。「あぁ」とため息のような悲鳴のような声を発し、李山は竈の炭に砂をかけて消した。武助はかけてある布巾を取り、鍋を流しへと移動させた。
鍋は重かったらしく、武助は置いた途端によろめいた。
「あっ」と、置いた鍋の湯の中に肘が付いた。湯がバシャリと撥ねた。
「熱っ!」
「大丈夫か?」
「左手でがんす。大丈夫だす」
「・・・。そういう問題ではないだろう」
 李山は、熱湯のしたたる武助の袖を肩まで捲り上げた。一瞬躊躇したが、「御免」と断わると武助の着物の衿を緩めて左肩を抜いた。襦袢の袖も熱かったので一緒に脱がせた。肘から手首まで、白い皮膚が真っ赤に色が変わっていた。
「流しに腕を出していろ」
 桶で瓶から水を汲み、杓で肘へと水をかけた。痛かったのか冷たかったのか、武助はぶるっと体を震わせた。
「痛むか?」
「いえ、冷だぐで気持ちがええがす」
 何度も水をかけた後、桶に水を満たして肘から手首までを浸けさせた。見たところ、赤くなっただけで、爛れや火脹れはない。ひどい日焼けをした程度のようだ。
「すまなかったな」
「せんせさ謝るごとねだす。わたすの不注意でがんす」
「武助、言葉・・・」
「あ。夢中になると、戻ってしまいますね」
 武助はくすっと笑った。表情から以前の淫乱さが消えている。真っ直ぐな額の線、涼やかな大きな瞳、少し頬が削げて大人びた輪郭。義敦の教育の賜物なのか、武助はすっかり知的な美青年に変わっていた。

「火傷の薬を処方するほどではなさそうだな」
 肘を桶の水で冷やす武助の隣で、李山は胡瓜を卸し始めた。それを晒に包む。
「腕を拭いて、座れ」
 武助は桶から腕を出し、恐る恐る手ぬぐいで腕の水分を拭った。軽く触れるように布を当てるのは、皮膚がひりひりと痛むからなのだろう。
「腕を出してみろ」
「お手数をかけます」と素直に武助は左腕を差し出す。肘から先の肌が少し紅を帯びたせいで、肩や二の腕のきめ細やかな白さが際立っていた。李山は肩から思わず目を逸らし、晒から滲み出る果汁を赤い肌に塗って行った。
 武助が顔を歪めたので「すまん、痛かったか」と詫びる。なるべく晒を擦らぬよう、押すようにして果汁を塗布した。
「そういえば、福助は?」
 李山が自ら胡瓜を擦ったので、不審に思ったのだろう。もともと、福助が居れば燗を煮立たせる失態もない。
「引っ越しの手伝いに狩り出された。最近は多い。結構それで小遣いも稼いでいる」
「なるほど。力はあるし気は効くし、役に立ちそうです」
 福助への妙なやっかみも消え失せている。まるで別の男になってしまったようだった。
 これは、会いたかった武助なのか? 目の前にいるのは、行儀のいい、賢い、義敦の人形ではないのか? 俺が惚れた、淫らで妬きもちやきで愚かで、だが素直で愛すべき男は、どこへ消えたのか。
「この分では、襦袢の袖が擦れただけで痛むな。古い晒でも巻いておくか」
 開業医でもなければ、包帯などという高価な品は置いていない。幾度も洗って柔らかくなった木綿なら、皮膚もそう刺激は感じないだろう。李山は行李を開いて色々と探すが、どうも福助が不在だとどこに何があるかわからない。
「これでいいか」と引っ張り出したのは・・・。
「それ、せんせの下帯でねかっ!」
「きちんと洗ってある」
「そういう問題でね!」
 武助のこういうやんちゃな物言いは好きだった。李山は笑みをこらえ、やっと見つけた手ぬぐいを武助の腕に当てた。布の先を少し残して肘を包み、螺旋に腕を覆っていく。李山の長く細い指が肘に触れると、武助はびくっと体を引いた。
「すまん、痛い場所だったな」
 言ってすぐ、李山は気付いた。今のは痛さによる反応ではない、と。素行を改めたと言う武助だが、肌はまだ李山の指の感触を覚えていて応えるのだ。ちらりと武助を見下ろすと、目が合って視線を逸らした。戸惑った唇が微かに動いた。
 手ぬぐいは手首に絡めて折り返し、元の場所に戻す。曲げるのに支障なさそうな場所で結び目を作った。
「布はきつくないか?」
 問うと、こくりと頷く。
「よし。終わりだ」
 ぽんと、李山の手が裸の肩を叩いた。
「・・・やはりきついです」
「そうか?」
 だいぶ加減して巻いたつもりだったが。李山は結び目をほどき、再度巻き直した。李山の指が布の上で交差し、握った布が武助の肌をなぞる。細い腕を、火照った肌を、李山の体温の残る布が覆って行く。
「これでどうだ?」
「今度はゆるいです」
 嘘だ、そんなわけは・・・と武助の顔を見ると、瞳に涙をためていた。泣くほど痛く巻いた筈はなかった。
「わかった」
 李山はもう一度、更に丁寧に巻き直してやった。さっきより時間をかけて。晒がもっと優しく肌に触れるように。
 この密な時間を武助が貪欲に引き伸ばそうとしているのだ。全く、こんなことにまで。欲望にどこまでも忠実な奴だ。
 武助とのことは終わった関係だった。もう武助に振り回されるのはたくさんだと思っていた。なのに三度も手ぬぐいを巻き直してやっている。自分の愚かさに歯ぎしりしたい気分だった。
「・・・わたすに何も聞くことは、ねですか」
「聞くことって何をだ? 曙山殿とはうまくいってるかとかか? 女房は元気か。子供は大きくなったか。解体新書のおかげで、一目置かれるようになったか」
「意地さ悪い言い方でがんす。やっぱり誤解してるでがんしょ。
 わたすは殿の絵の師範です。色香で得た地位さ違います。今回、師範のわたす連れで来る為に、側小姓の役職さくださっだだけだす。わたすはろくに読み書きできぬんで、殿の側さいだ方が恥かかんで済むがんす。
 わたすは三十路で妻子もおります。殿の夜伽相手と思う方が変でがんす」
 武助は口下手な男だが、堰を切ったように一気に言いたいことを喋った。
 では、未だに義敦とは閨を共にしていないと言うのか。一瞬、心がはやった。しかし、心の中で首を振る。こいつの口が本当の事を告げた事などあっただろうか、と。
 こうして向き合って心が昂って、今戯れにまた李山に抱かれたくなっただけなのだろう。李山が導いた高みが忘れられない、ただそれだけだ。その為ならさらりと平気で嘘をつく、そういう男だ。
「ずっと・・・お会いすたかっだです。ひどい去り方をすますた。謝りたかったがんす。
 殿さ言われだ通りに、素行も改め、学問もきちんど修めますた。
 江戸参府さ連れで行でもらえるんて、せんせさまた会えるんが嬉すかっだ」
 そこまで黙って聞きながら手ぬぐいの結び目を作っていた李山は、「ほら、できたぞ。これでいいだろう」と手を離した。武助のこんな素直なセリフなど、信じたら痛い目に遭うに決まっている。また何かの罠なんだろう。
 義敦とのことも。もしかしたら、過去に江戸に来た時から・・・関係が無いなどとは、初めから嘘だったのかもしれない。藩主の愛人だと言えば、もう誰にも帯を解いて貰えない。
 李山は、この青年の何もかもを信じなかった。それでも、惚れていた。
「吉原には、俺なんかより床上手はたくさんいるだろう」
 自虐的に言い放つ李山の頬に、ぴしゃりと高い音と痛みが走った。この痛みが、最初は何なのか李山は理解できなかった。武助の空いた右手が頬を打ったのだと気付き、目を見はった。否、美しい顔を歪めて泣く武助に視線を絡め捕られ動けなくなった。
「そんな言い方・・・。わたすのことさ何だと?」
 上目使いで睨みつける、その挑みかかるような瞳は懐かしいかつての武助のものだ。
「ここには貴様の欲しい物は無い。俺は二度と貴様に触れる気はない。
 角館から江戸に出て来たのは藩の都合なんだろう。だが、だからと言って、俺の周りに近づくな」
「そんなにわたすが嫌いでがんすか」
「・・・。」
 その反対だった。だがせっかく落ち着きを取り戻した心を、もう乱して欲しくなかった。
「帰りますだ」
 武助は、片肌脱いだ着物を元のように着て、衿を正すと立ち上がった。
「治療さありがとごぜますた」
 手の甲で頬の涙をぬぐうと、武助はにこりともせず、李山を睨んだままぺこりと一礼して帰って行った。
 
 李山は五合徳利に残った酒を、湯飲みに注いでそのまま冷やで煽った。もう燗で呑むのは諦めた。
 さっきまでここに武助が居たのなど、嘘のようだった。まだ夢だった方がマシだと思った。
 四半刻ほどで福助が戻り、李山は酔えもしない酒をまだ呑み続けていた。
「夕食はまだ召し上がっていないのですか? またこんなに散らかして!」と厨房の様子を咎める。流しには銚子が横倒しになった鍋が置きっぱなしで、まな板も包丁も卸金も出したまま、胡瓜の切れ端も擦卸しを包んだ晒も床に転がっていた。奥座敷では行李が開いて中身が散らばる。
「まったく。私がいないとダメなんだから」
 福助は引っ越しの手伝いでの疲れも見せず、手際よく次々と片付けていった。
「武助が来た」
 一応報告しておかないと、後で怒るだろう。端的に告げると、福助は洗い物の手を止めた。
「えっ?・・・そうでしたか。それで?」
「帰った」
「・・・。」
 そうですね、それは見ればわかりますよ、とでも言うように、福助はため息をつくと流しの片付けを再開した。

★ 3 ★

 木枯らしの季節になり、李山は外で建築現場を見るのは休みにし、家で屋敷の模型を造るのに熱中した。屋敷の構造は理解していた。単なるミニチュアなら簡単に造れた。
 だが、自分が造るのなら、今有るものを造っても仕方がない。
 西洋の家は石で造るらしい。長崎の出島の建物は日本建築なので、李山も本物の西洋建築は見たことがない。しかし、西洋の本の挿絵は精密で、家の絵は部分の素材の硬さや重量までも感じ取れた。
 家の建て方も、たぶん違う。挿絵に描かれる戸や窓。部屋の仕切りが全部壁なのだ。日本の家は、大木で枠組みを組む。そして柱と柱の間を埋めて行く。複数の部屋が襖を取り払えば大広間になる。つまり始めに広い部屋を作っておいて小分けしていく。広ければ広いほど柱に掛かる負担は大きく、良質で太い木が必要になり、材料費もハネ上がる。
 石で家を造れば火事には強いだろう。しかし、全てが石の壁では地震の時には危険ではないか? 崩壊した時、人に対する被害も大きくないのか。
 それに、湿気が逃げなくて、家にも人にもカビが生えそうだ。まあこれは、日本は特別に湿気の多い国らしいのだが。エレキテル作りで散々頭を悩ませた件だ。
 外の柱だけでも石を積んでみるというのはどうだろう。
 大広間の大黒柱を、弁才船の主柱のように細い材木を何本も合わせたものは代用できないのか。
 大広間でも、廊下側は全ての部屋を全開させる必要はない。始めから壁にしてしまえば、柱は大木でなくて済む。
 文机に乗る小さな世界。李山はそこで試行錯誤しながら、色々な家屋を造り上げた。
 材料の木材を減らす工夫をした家。安価な材料でコストダウンに徹した家。壁から組んで造った家。石を柱に使った家。厨房に木と紙を全く使用していない家。
 模型を造る作業は楽しくて、朝から夜が更けるまで続けた。

 まあ、体のいい現実逃避だ。
 武助を追い返してから一カ月。彼はあの後大和町へ来ていない。情報の早い文士達からも噂は聞かなかった。藩邸で真面目に義敦に仕えているんだろう。
『李山、ちっと舵を返せ』
 脚本に修正が入った国倫が、じりじりと焦っている。『荒御霊新田神徳』はヒット作『神霊矢口渡』の外伝のような話だ。その分プレッシャーもある。中良との合作というのも、いつもと勝手が違ってやりにくくて、珍しく国倫は苛立っていた。
『返せとは何だ。この体は貴様のものではない』
 楽しそうに模型遊びをしていたかに見える李山も、実は爆弾を抱えているわけで。機嫌は決してよくなかった。
『すみゃあせんで。わしが悪かったで。体を貸してくれんかのう』
「ふん」と鼻で息を吐くと、李山は机上の木片や紙を片付けにかかった。
「おや、今日は終わりですか?」と、茶を運んで来た福助に問われる。
「仕事せんとなあ。遊びはしまいじゃ」
 中に引っ込んだ李山が、『遊びと言ったな!』と憤慨したが、国倫は無視した。原稿を広げると、朱で書かれた部分を検討しにかかった。
 浄瑠璃には、少し飽きていた。観客の反応を直に感じられる喜びはあるものの、浄瑠璃の物語は国倫の自由奔放な発想が活かせるものではない。無難で、皆が納得できる定番の筋書き。退屈な勧善懲悪のストーリー。
 中良は浄瑠璃はこれが二作目で、脚本を書く楽しさが行間に滲み出ている。一作目の自作の舞台を見て、脚本で観客の心を操れるのだと気付いたのだろう。今回の脚本は既に、どう驚かせてどう泣かせるか計算してある。中良自身がワクワクした気持ちで書いたのが伝わって来た。羨ましくもあり。醒めた時の虚しさを思うと哀れでもある。
 国倫が楽しんで書かなければ、面白い脚本などできるわけがなかった。

 障子の向こうが翳り、手元が怪しくなってきた。行灯に火をつけるのに、まずは火鉢の炭を掘り出した。灰から出た炭は生き返ったように赤く色を変える。
「先生。淳庵先生がお見えです」
 福助に呼ばれ、行灯の作業はやめにして次の間へ出た。淳庵が訪ねて来るなど珍しいことだ。暮れ六つの鐘はまだだったが、藩邸の医局はもう上がれる時刻なのだろう。
「おう、久しぶりじゃのう」
 何かあったのかと淳庵の表情を窺うが、にこにこと呑気そうに笑っているのできっと遊びの誘いだ。
「何だ。おもっしょい趣向でもあるんか?」
「長國寺に行きませんか」
「酉の市か。もうそんな時期かのう。
 うーん。しかし、浄瑠璃の本が遅れておるけん」
 だいたい、何故、いい大人が酉の市に誘う? あれは、田舎者か恋人同士か小さい童子のいる家族が行くものだ。
「そうですか。残念です。
 玄白さんと、長國寺の門辺りで待ち合わせしたんです、私も急がないと」
「おんし、なぜそう諦めがいい。もっと真面目に誘わんかねっ」
「えっ」
「玄白さんもおるんじゃろう? わしも行くけん」
 国倫はすぐに奥の間に入ると、衣桁から羽織を掴んでひっかけながら戻って来た。
『あれえ。国倫さん。仕事をするのではなかったのですか』
『浄瑠璃を書くというから、体を返したんだが』
 鳩渓と李山の突っ込みは聞こえない振りをする。
「昔、約束したのを覚えとらん? 三人で酉の市へ行こうっちゅうて。おんしが鼻血を出した夜じゃよ」
「・・・。え、そんなこと、ありましたっけ。田村先生の門に居た頃ですよね?」
「わしはおんしを診るので行けんかった。江戸へ出て初めての酉の市じゃったんに」
「えーっ。あれえ。そうでしたか。それは。その節はすみませんでした」
 内で鳩渓はくすりと笑った。二十年も前のことを謝らされて、淳庵も気の毒なことだ。あの時の淳庵は、藍水の家にあったコロイトブックを見て興奮して鼻血を出したのだ。懐かしい思い出だった。
「福助、おんしもしゃんしゃん羽織を着んしゃい。ぐずぐずしとると追いていくけん」
「え、私もいいんですか」
 福助も嬉々として一張羅の羽織に袖を通した。

 早足で浅草まで出る。国倫は歳をとっても健脚だった。丈夫な福助も息を切らさず付いて来る。淳庵は途中で音を上げて「少し休みませんか」と提案したが、「玄白さんを待たせるといかん」と却下された。体の弱い玄白を、寒空で待たせるのは申し訳ない。

 長國寺に近づくと、行く人と既に帰る人との行列でごったがえしていた。薄い闇に、すれ違う人々の白い顔の連続が浮かぶ。吐く息も白いのだろう。時々娘らの髪の飾りがきらりと光った。冬というのに汗を拭きながら、だらだらとしたゆるい傾斜を歩いた。
 門を少し避けた場所に、玄白を見つけた。女児の手を引いて、子供が人とぶつからぬように庇うように立っている。長女の扇は五歳。可愛い盛りだ。
 少し離れて、若い男が背を向けて立つ。向かう行列の女たちが、ちらりちらりと姿を盗み見る。武助だった。まさか、こいつが来ていようとは。
 うかつだった。武助は、玄白とは家族ぐるみで仲がいいのだ。
「あー、じゅんあんのおじちゃん!こんばんわぁ」
 淳庵を見つけた扇が、高く愛らしい声で挨拶をした。武助は振り向き、国倫らを見るとぺこりと頭を下げた。自分が来ることを知っていたようで、特に動揺の様子もない。
 体の中の李山は憮然としているが、国倫は武助には含むところもないし、「達者じゃったかの」と普通に挨拶をした。前回李山が辛辣な態度で接したので、多少はバツが悪い気持ちはあったのだが。
「玄白せんせに誘われたがんす」
 武助は、真っ先に、源内に会ってしまったことへの言い訳を口にした。
「扇はねー、ブスケさまと一緒にあるくー。手をつないで?」
 少女は父の玄白より武助がいいらしい。五歳児でも女は女かと、国倫は可笑しかった。
「よろこんで」と、武助は扇へと手を差し出し、手をつないだと思ったら腰を抱き上げて腕に抱っこした。
「わあい。高いよ」
 扇はきゃっきゃとはしゃぎ、笑い声をたてた。玄白が「こら、扇。重いし迷惑だろう?」と娘を諭すが、武助は「童子(わらし)は混んだ場所では人から見えねから、ぶつかられます。それに、人の足ばかり見ていても、扇殿もつまらないでがんしょ?」と、子供のお守りを引き受けた。彼の子も同じ位の年齢なのだろう、小柄な体で子供を抱いても妙に座りがいい。子を抱いて歩くのに慣れていて、よろりともしなかった。国倫が初めて触れる武助の一面だ。そう言えば、玄白の長男とも躊躇なく接し、よく遊んであげたと聞いた。

「武助さんが江戸に来たのはご存じだったのですね」
 玄白も、武助らの後ろを、人の流れに乗って歩き出す。娘を気遣うように、いとおしむように視線で追いかけている。細められた瞳の優しさに、きゅっと心が締め付けられた気がした。思わず後ろを振り返り、福助の居る場所を確認した。福助は、三人ほど間を空けた後ろから、淳庵と談笑しながら歩いていた。楽しそうに笑う頬にえくぼができていた。国倫は何故か安堵し、顔を前へ戻した。
「武助が挨拶に来たからのう。まさかまた江戸へ出て来れるとは思わんかった。秋田では、信頼回復に随分努力したんじゃろう。まあ、もともとやればできる奴じゃけん」
 すぐ前には武助の背中があった。玄白だけに話すには、少し声が大きすぎた。李山もその思惑に気付き、『余計なことを』と、眉をしかめて舌打ちした。
『この雑踏では、小声じゃと玄白さんにも聞こえんから』
 この前の李山の態度は、あまりに武助にきつすぎた。もう関わらないと告げるにしても、もっと言い方があっただろうに。李山も後悔しているのだ。だが、李山の性格は武助に謝罪などしない。できない。
 李山にとっては情人だった相手で、色々な想いが絡み合うのだとしても。国倫には、武助は何年か一緒に暮らした家族同然の男だった。
「武助さんは、酉の市に来たことがないというので、お誘いしました。よかったでしょうか?」
 玄白は武助の帰国の諸事情も知っていて、気を使って尋ねた。
「武助はもう、わしの預かりではないので」と、国倫は苦笑する。
 武助は四年も江戸に居たのだが。そうか、酉の市にさえ連れて行ってやったことがなかった。玄白の心遣いに感謝した。
 
 参道では参拝客の停滞に倣い、停まっては二歩歩き、待っては三歩歩いた。福助に賽銭を与えようと小銭を差し出すと、「賽銭くらい自分で出さないと、ご利益がないですから」と笑う。扇は玄白から一文を貰って喜び、抱き上げられて賽銭箱へ投げた。扇の幼さが羨ましく思えた。福助はもう子供ではないのだ。
 出店で一番小さい熊手を買って福助に与えると、それでも顔を輝かして「かわいいなあ。ありがとうございます」と喜んではくれた。
 熊手は二個買った。もう一本は、玄白へと差し出した。
「扇にですか? いえ、扇には私がもう買い与えましたので」
「おんしにじゃよ。前に、田村先生から土産に戴いて。おんしは、医者は商売繁盛はよくないと言って辞退しちょった。わしと淳庵だけ貰った」
 わいわいと出かけて、帰って来た一行。懐かしい顔、懐かしい声。もう藍水も梨春もいない。
「・・・。ありましたね、そんなこと。私と淳庵が鼻血を出して、三人だけ行けなかった時ですよね」
 よく覚えていますねえというように、玄白は目を細めた。
「天真楼塾なら、繁盛して構わんじゃろう」
 玄白は、阿蘭陀医学と阿蘭陀語の私塾を開設していた。知人や愛弟子らが教鞭を取る。まだ生徒数人のこぢんまりした塾だが、解体新書を世に出した玄白が次に情熱を燃やす仕事だった。
「ありがとうございます。では、遠慮無く」
 玄白が熊手を受け取るのに手を伸ばす。小さくて細くて。宵の中に白く浮かぶ手の甲はあまりに弱々しい。
「あん時熊手をくだされた先生も、亡くなってしもうた。あなん元気で快活なおひとだったんに」
「国倫さん・・・」
「おんしは、すぐに草葉の陰とか言うちょるが。長生きせいよ」
 国倫は唇を歪めると、ぎゅうと熊手の柄を握り、一緒に玄白の手も握った。
「あの日、三人で御酉様へ行く約束をしたけれど、ずっと果たせていませんでしたね。一緒に来れて、よかったです」
 噛みしめるように、玄白が言った。

 一行はそのまま人並みに押されるように参道から吐き出された。一息つける場所で立ち止まり、淳庵と武助はこのままどこか店で呑むと言う。玄白は子供連れなので帰ることにし、国倫も執筆の途中であったし武助と同席は避けたいしで遠慮することにした。
「武助。今夜は吉原はやめといた方がええよ。酉の市の吉原は芋洗いじゃけん」
 縁日の浮かれた雰囲気の中だ。国倫は気軽に声をかけて、様子を見た。
「せんせ、やめてたんせ。わたすも、それぐらいは知っております」
 武助は赤くなって、唇をすぼめた。淳庵も玄白も微笑んだ。突き放してしまった武助との距離が、少しだけ元に戻った気がした。
 そろそろ空は夜の黒を増し、冬の月だけがくっきりと明るいく映えた。酉の市が終わると、今年ももうすぐ終わりだ。




第58章へつづく

表紙に戻る