★ 私儀、甚だ多用にて ★
第五十八章
★ 1 ★
安永八年。二月には結城座で『荒御霊新田新徳』の幕が開いた。
葺屋町では、森島中良との合作であるこの浄瑠璃より中良単独作の芝居の方が入りがよかった。中良は新進気鋭の二十六歳。『解体新書』で有名な桂川甫周の実弟、法眼桂川甫三の息子というエリートで、しかも美男子というオマケ付きだ。江戸庶民注目の戯作者でもあった。
福内鬼外は学者で戯作者という奇抜さが受けたが、もう時代は鬼外に飽きてしまった。鬼外が始めた江戸言葉の浄瑠璃は江戸に定着した。皆が江戸言葉で芝居を書き始めれば既に鬼外に目新しさは無い。
そして、国倫も浄瑠璃脚本を書くことに魅力を感じなくなっていた。ただ金の為に書いた。そんな芝居が面白いわけもないと、国倫自身が予測した結果だった。
予測はしていたが、世間で入りの評判を聞く度に苦笑しなければならなかった。合作である分、中良の芝居と比べられた。半分はあいつが書いたのだから、不評の責任の半分はあいつのせいだと思うのだが。それに、浄瑠璃の面白さは、人形の魅力や役者(人形使い)の力量、演出、舞台装置、背景画、色々な要素が関係してくるものだ。
そう自分に言い訳しても。楽しんで書けなかった分、罪悪感が大きい。
中良は門人であり、息子のように可愛がっている男だ。彼の芝居にも足を運んでやった。
そして、観劇して、驚いた。『荒御霊新田新徳』で使ったエピソードやセリフ回し、同じものが幾つも出てくるのだ。
芝居がはねた後、小屋に来ていた中良を捕まえ、国倫は詰め寄った。これでは、一方の芝居を見た者は、もう片方を見た時に「又か」と思い、白けてしまう。
「どうなっちょるんだ? 同じ言い回しが多過ぎるじゃろう?」
「えっ。だって。両方、私が書いた部分ですよ?
源内先生の書いたところを盗作したわけではありませんし」
国倫に詰問された中良の方が戸惑い、目を丸くした。
確かに、他人の書いた文を使ったわけではない。自分の文を使い回したからと言って、中良を批判する者はいなかった。
「しかし。別の芝居小屋への注文じゃろうが!」
声を荒らげる国倫に、出口へと急ぐ観客らが振り返る。こちらを見て何か耳打ちする二人連れもいた。
中良は、何故に師がこんなに憤慨するのか理解できないというように、何度も首を振り、戸惑った表情を見せていた。彼に悪意は全くない。尊敬する源内に怒鳴られて、驚き、困惑している。
「先生のお顔は客たちも知っています。ここで揉めていると、あらぬ噂を立てられそうです。場所を変えませんか?」
あらぬ噂。客達は、中良の芝居が大入りなので、鬼外が悶着を付けたとでも言うのだろう。大衆とはそういうものだ。浅草の奥山で、偽エレキテルを見て笑い転げていた奴ら。同じだ。同じ匂いがする奴らだ。
「別に、もうええ。おんしが無頓着なら、いくらわしが注意しても無駄じゃけん」
国倫は踵を返し、芝居小屋を出た。
中良がしたことは盗作ではない。だが、国倫には、してはいけないことに思えた。たとえ今は判例が無くても、人として何か納得ができないと思ったのだ。だが、皆は気にならないと言うのか?
偽エレキテルと言えば、国倫が訴えた相手は別の罪で囚われ、この冬に伝馬町で亡くなったと聞いた。弥七は、国倫が訴訟を起こした為に大名らに詐偽行為が知れて、彼らに訴えられたのだ。決して『ざまあみろ』とは思えない。細工師として工房で働いてくれた弥七の死。ただの知人の死以上に重みを覚えた。
気分が晴れず、国倫は千賀の屋敷を覗いてみた。相変わらず付け届けをする者達が門に列をなしていた。正月もこれを見て挨拶に来るのを止めたくらいだ。先月はこの倍は並んでいた。
並んで順序を待つ者に見られぬよう、裏の御用門へと回った。だが、道有が居たとしても人と会うのに忙しいかもしれない。このまま帰ろうか。結局、国倫は門番にも告げずに回れ右をした。
千賀邸の路地を曲がると、籠が止まったのが見えた。降りたのは道有だった。
「あれ? うちへいらっしゃいました?」
「主人が裏から籠でこそこそと外出かいね」
「客達に見つかるとうるさいですから。往診で留守ってことになってます。
湯島に梅を見に行くところです。ご一緒しませんか」
国倫は二つ返事で承諾した。
天神様の梅は盛りを過ぎて、もう石畳には小さな花びらが落ちていた。そろそろ桜を待つ季節なのだ。陽が斜めになる時刻で、繊細な梅の枝の影がさらに細く長く路へと伸びる。それでもまだぞろぞろと梅見の客は多かった。神社周辺の屋台はたたむ様子もなく、料亭の前には張り切る客引きもいた。
二人は水茶屋の縁台に腰を降ろす。国倫は薬品会の時にこのあたりを連日駆け回った。会場になった京屋はすぐ側だった。茶をすすりながら目を細めた。
「今日は何かご用事でも?」
「いや。近くまで来たけん。中良の芝居の帰りじゃよ」
「評判の芝居らしいですね。愛弟子の作品はいかがでした?」
尋ねられ、国倫は正直な所見を述べた。盗作でなくても、納得がいかないと。
横で団子を食っていた士分の男が、「面白い意見です。もっとお聞かせ下さい」と身を乗り出した。年は三十位だろうか、普段穿きの袴に粋な縞の羽織を羽織るが、坊ちゃん然とした表情に身分の高さが偲ばれた。少し離れて二名の警護が立つ。大名御曹司のお忍びという風情だ。しかしお坊ちゃんと呼ぶには目が鋭過ぎる青年だった。
先に道有が顔を顰めて苦笑した。
「いやですねえ、意知殿。いらしていたならお声をかけてくださいよ」
「千賀殿が平賀先生と水入らずでしたので、つい。失礼しました」
田沼の長子、意知か。国倫は初対面だった。十九の時に山城守に任じられたという切れ者の青年との噂だ。そう、あの田沼が、実子だからという理由で人を役職に付けるわけがない。
「これはこれは」と挨拶しようとすると、意知は自らの唇に人差し指を当てた。身分を秘して来ているので普通に接してください、ということだろう。
意知は田沼の継室の子。道有は妾の義父。なさぬ仲の二人ということになるが、実際は懇意である風だ。忌憚ない話をする時、田沼は千賀の屋敷で人に会う事も多かった。意知を連れる事もあっただろう。
「道有。おんしは、初めから意知殿とここで会う約束じゃったのだろう?」
「源内先生とお引き合わせできて、よかったです」
にっこり微笑み、意知に「どうぞ」と差し出された皿の団子の櫛を握った。
「私は、芝居の者らを河原乞食と馬鹿にするつもりはないです。父も同じ考えです。
朝に千両が魚河岸で動き、夜には千両が吉原に落ちる。そして昼には芝居小屋に千両が収まると言われている。芝居をないがしろにはできません。それなのに、座の工夫や技術を守る法は今のところ有りません。
平賀殿が起こしたエレキテルの訴訟も興味深かった。学問や技術、名誉にも、金銭的な価値がある筈なのです。
まあこれは、幕府ではなく奉行所の範疇かもしれませんが。学問や文化を守る事が結果的に国を潤し、豊かにすると信じています」
静かに語る意知。彼には父親のような剣の刃に似た戦慄は感じないが、澄みきった聡明さを見ることができた。
弥七が獄中で亡くなった事で気が滅入っていた。自分の訴えで捕えられたわけではないが、いい気持ちはしない。だが、あの訴訟は決して間違った事ではなかったのだと、国倫は気持ちを立て直す事ができた。
「田沼様の時代だからこそ。わしらは伸び伸びと学び、臆せず研究を本にすることができる。戯れ文にも興じることができる。
悪口を言うとるんは、知恵も度量も無く、家柄と金だけで何とかしようとする奴らじゃけん。
商人の重用、結構なことじゃ」
それは国倫の実感だった。金儲けに商人も士分もあるかと思う。
「日本が日の本の国じゃ侍の国じゃと言い張ったからとて、有利に貿易が運ぶ筈もない。阿蘭陀にとっても・・・それ以外の国にとっても。
おんしの父上は風穴を空けるつもりなんじゃろう?そうなれば、勝負はココじゃ」
国倫は人差し指で頭をコツコツと叩いてみせた。意知は微笑むだけで、返答は避けた。田沼親子が開国を企てている等と噂が広まれば、糾弾・失脚・処分の危険は強い。
やがて風が冷たくなり、陽も翳って来た。意知は立ち上がる。
「今日はお会い出来てよかったです。また時々、為になるお話を聞かせてください。
父より私の方が身軽に外出できますので」
桜の季節にでも、また偶然お会いできるといいですね、と。思わせぶりに告げると、意知は帰って行った。
「少し寒くなってきました。私達も帰りましょうか。先生にも籠をお出ししますね」
「いや、遠慮しとくけん。最近どうも肥えてのう。運動の為に歩く事にしちょる」
「へええ」と道有は笑い、ぽんと人の腹を叩く。
「こらこら」
叱ると道有は子供のように笑い声を立てた。この男にまた借りができてしまった。
白梅は紅より強く香る。朧な月が顔を出した宵に、月よりも明るく梅が参道を照らしていた。
★ 2 ★
桜が咲くと、長屋はそわそわと落ち着かない雰囲気に包まれる。いつ花見に行こう、今夜花見に行こうと、花見の話題で持ちきりだ。
李山は屋敷の建築物は見尽くした感があり、弁才船の普請を見学したいと考えていた。だが江戸付近に大型船を常時建設するような場面はない。もう少し時期を待つしかないのだろう。一番近くて下総。伊豆。そして駿河。そう気軽に出かけられる距離でもなかった。
福助が挙動不審なのは、桜が満開だからでは無い。
朝から、厨房を念入りに片付けていたかと思うと、今度は次座敷を掃除していた。別に誰かが尋ねて来る予定もないが。
「・・・捜し物か。何を無くした?」
李山に図星を差され、大きな体を縮こまらせた。
「懐に、先生から戴いた櫛を入れておいて・・・。落としたのは家の中に間違いないのですが。
すみません。戴いた物を」
以前は髷を結わず後ろで髪を縛っただけだった福助は、邪魔な前髪を上げておけと源内に地味な櫛を作ってもらった。外見は木材の切れっ端のようだが、伽羅香木のそれは身につけているとよい香りがした。菅原櫛の原型となったものだ。
エレキテル体験会の助手となり、きちんと髷を結うようになってからは不要になったが、いつも懐に入れて大切に持ち歩いていた。
「これか」
李山が懐紙に包んだ拾い物を差し出す。
「手水前の廊下に落ちていた」
「あ、ありがとうございます!」
「掃除が終わったのなら、行くぞ」
「え?」
「千賀親子に花見に誘われている」
「あ、はい。お供します」
福助は慌てて衣桁から源内の羽織を外し、背後から差し出す。自分も自室にたたんである羽織を引っ掴むと、既に表に出た李山を追って路地へ出た。
小走りに李山を辿り、福助は井戸のところであっと息を飲む。例の少女が洗濯をしていた。少女の方から李山へ「おはようございます」と鈴のような声で挨拶をした。
李山は素っ気なく「おはよう」とだけ返し先を急ぐ。福助は不必要に早足になってペコリと礼だけして立ち去った。背にかけられた二つ目の「おはようございます」は福助にだったろう。だが、恥ずかしくて振り向くこともできず、急いで師を追った。
千賀は上野の料亭の二階に席を作った。気の置けない数人での酒宴と聞いていたが、田沼意知が招かれていた。また何か企んでいるのだろうか。もう一名は李山の知らない男だ。
障子は開け放され、上野の桜を一望できた。今の時期にこの店のこの部屋を抑える千賀の名と財力に鳥肌が立った。
男は松本伊豆之守の側用人だった。伊豆は幕府直轄領で田沼の息がそのままかかる。
「伊豆はいい船大工も多いことでしょうな?」
李山の勘は外れていなかった。側用人は弁才船の図面を貸し出す約束をし、伊豆へ出向けば工事現場へも進んで案内すると言った。この酒宴の半分の目的は、伊豆の役人と李山との橋渡しだったろう。
階下の狭い部屋に、供の者らにも少しだが酒と肴が用意された。福助はそこで箸を握っていた。二階の酒宴には千賀家自慢の器や花器を持参したそうで、人数が多い千賀家の中間らが巾を効かせる。隣の男は千賀家の者ではないらしく、正座したまま一人で黙々と酒を飲んでいた。やはりひたすら飯だけ食う福助が気になるようで、ちらちらとこちらを見ていたが、「隣さなっだよしみで、一献」と福助に徳利を差し出した。
言葉に懐かしい響きがあった。
「いえ、私は殆ど飲めないのです、すみません。・・・もしかして、秋田のかたですか?」
武助と同じ訛り、同じ濁音と口調。北の国は働き口が僅かなので、江戸へ働きに出る者も多いと聞く。福助は徳利を受け取ると、酌を返した。
「んだ。よくわがっだがんす。わだすは伊豆奉行の江戸屋敷の用人でがんすが、秋田から出で来ますた。丈右衛門さいいますだ」
「私は福助です。平賀先生の供で来ました」
丈右衛門は身を乗り出した。
「そでねかと思っでますた! 風来山人様だすな!
何度も本さ借りで、ついには買っですまいますだ。他さおめだおもへ本は知りがらよ。風来せんせは江戸で一番の戯作者だで」
興奮して喋る男の言葉は、福助には殆ど聞き取れなかった。だが、言いたい事は理解できた。
師が誉められ、福助も嬉しかった。それに、風来山人の本を理解できるということは、かなり教養もある者なのだろう。
主人を待つ間、二人は風来山人の著書について楽しく語り合った。紙が擦り切れる程に読んだという丈右衛門は、細部まで読み込んでいて、福助を感心させた。
酒宴は八つ過ぎにはお開きとなった。千賀親子はまだここで呑むそうだが、他の者は帰るというので李山も立ち上がった。帰り際、意知が「今年の参府、商館長はフェイト殿ですよ」と、先取りの情報をくれた。もう何度目かの参府だ。彼が本草に詳しくないのもわかっている。
「長崎屋にいらっしゃっても。船に関する質問は控えていただけますか?」
意知が釘を刺す。平賀源内が今までとは違う分野で質問をするということは、大きな意味があると見なされる。田沼が『次は船だ』と言ったのが公になるということだ。意知はそれは困ると言ったのだ。
田沼が船の開発にそこまで神経質になるのは、やはり開国を視野に入れているのだろう。李山の掌がうっすらと汗をかいた。
玄関前で、福助に男を紹介された。伊豆奉行側用人の供で、風来山人の愛読者だという。
『国倫、代わってやれ』
李山から舵を受け取った国倫が、丈右衛門に声をかけた。
「熱心に読んでくれとるそうじゃのう。ありがとなあ」
「へい!」
男は抜けぬ訛りで元気よく返事する。歓喜で頬がてかっている。国倫を見上げる瞳が尊敬で潤んでいた。
「丈右衛門殿は、何度も貸本屋から借りて殆ど覚えてしまったのに、結局本を買ってしまったそうです」
福助の言葉に、男はうんうんと頷く。もう国倫を拝むような勢いだ。国倫も悪い気分はしない。
「戯作が好きか?今度、大和町に遊びに来んしゃい。平秩東作や大田南畝らも時々顔を出すけん」
「う、嬉しいだで!ほんさだが?ほんささ、お伺いしてもいいだが?」
秋田の者か。国倫は目を細めた。
「遠慮はいらんよ。気軽に来るとええや」
今頃、武助はどうしているんだろう。藩邸は上野の近くだ。もしかしたら、この辺りで満開の桜を写生しているのかもしれない。
料亭を出て少し歩くと、花びらが目の前をよぎった。絶景の席であったのに、花など誰も見ていなかった。気疲れする宴であった。
「二人で上野の山で花見でもするか。水茶屋で団子でも食うていくか?」
はい、と福助は嬉しそうに堪える。
だが花見時期の水茶屋の席はどこも満杯だ。二人は幕を張った宴や御座敷きの宴の間をすり抜けつつ、空いた店を探した。桜の天井は翳るどころか辺りを更に明るく照らすようだ。風が吹く度に舞う花びらに、いちいち酔っぱらいが嬌声を挙げる。ぱらぱらと花弁が落ちる。三味や太鼓の音、合わせて唄う声。手拍子。花びらが舞い踊る。
地の花びらを踏みしめて歩き、やっと、立ち食いの団子屋を見つけた。皿を片手に持ったまま串団子をぱくつく。座れなくても、この気楽さの方が疲れは少ない。
「おいしいです」
料亭で散々飯を食った福助だが、団子を一気に引き抜いて口に入れると、もぐもぐと噛み下した。
「これもやるぞ。わしは、太るけん、これぐらいにしちょく」
「わあい」と福助は手を伸ばす。
「おんし、まだ色気より食い気か? いや、そうでもないか」
国倫はにやりと笑って茶をすすった。福助は、出掛けに会った少女のことを言われているのに気付いて、赤くなって団子をむさぼり食った。口に団子を含ませたままで「おなごは苦手です」と不機嫌に言い、指についたタレを嘗めた。
照れなのか、からかわれるのが厭なのか。微笑ましくてつい笑みが出る。
が、すぐに自分の顔が凍りつくのがわかった。宴の間を抜けて、画材を抱えた男が歩いて来る。疲れた様子で足元だけ見て歩き、周りの喧騒から目をそむけている。だが整った目鼻だちは雑踏で目立って、すれ違う者も御座で酒を呑み交わす者も、ちらりとその姿を盗み見ていた。
「武助・・・」
「あ。せんせ」
気付いて、ぺこりと頭を下げた。
★ 3 ★
武助は桜を描こうと出て来たが、いい景観の場所は既に花見客らが確保しており、歩き回って探したが結局場所が見つからず、帰るところだという。
「人が多いのとうるさいのとで、気分さ悪くなりますた」
田舎者の武助は、未だに人込みが苦手なようだ。
国倫にいい案が浮かんだ。
「先刻の料亭、まだ道有はおるかのう。ちいと覗いてみるか」
あの場所なら、写生するにも絶景だろう。
「私は、先に帰ります。洗濯物も入れないと」
団子を食べて満足したのか、武助に遠慮したのか。福助は所帯臭いことを言って帰った。
店の前に着くと千賀親子は丁度去るところだったが、夜まで貸し切ってあるので写生に使って構わないと言った。店の者にもわざわざそう断わりを入れてくれた。
「せんせは一緒におるがんす? わたすは、こげな立派な店、一人では気後れして居られません」
武助は小犬みたいな目で見上げ、国倫の袖を掴んだ。
『俺は知らんぞ。貴様が勝手にしたことだ、貴様が付き合え』
李山は冷たく言った。
「わかった。一緒におるけん」
宴の後の座敷は膳も片付けられ、しんと畳の波だけが広がっていた。窓から花びらが吹き込んで、縁台の敷物や畳に張り付く。時刻はそろそろ七つだが、明るさはまだまだ十分有り、武助は縁台へ出ると「みごとな景色でがんす」と歓声を挙げた。
早速画材を広げ、描き始める。下書きだけが目的らしく、糸を巻いた鉛筆を取り出した。
国倫は酒を頼むと、座敷で見守った。室内から見ても良い景色だった。料亭の横には大きな単弁桜の樹が有り、そこから絶え間なく花びらが注いでいた。敷いた赤い毛氈にも、ひらりと一枚、また一枚と白い花びらが落ちる。
縁台からは淡く霞む桜の里と涼しげな空が臨める。花見客のざわめきはここまでは届かず、武助が紙に触れる音だけが風のように鳴った。
武助は遠い満開の桜にしか目が行かぬらしく、真上の里桜から髪や肩に花びらが落ちても気付かぬ様子だ。単衣の薄い花は、ひらりと髷に一枚、背にもう一枚と花びらを落として行く。
あまりに静かで、あまりに美しくて。国倫はゆるりと睡魔に誘われた。くしゅんと小さなくしゃみの声で目を覚ました。
くしゃみの主は武助だろう。彼はまだ外で描き続けていた。外の景色は微かに宵の薄墨が引かれ、風も冷たくなったようだ。国倫は羽織を脱いで、武助の肩に掛けた。
「冷えて来たけん。
そろそろええかね?手元は見えても、もう遠くは見えんじゃろう」
手の早い武助はもう数枚の下絵は描き終え、横の桜を描き写していた。真上から花びらを散らすそれは、未だに明るくぼうっと辺りを照らした。武助は惚けたように天を見上げ、桜に抱かれるように筆を走らせた。びゅうと強い風が吹くと、少ししてゆらりゆらりと花びらが落ちて来る。頬に落ちても微動だにせず、武助は桜を見つめていた。
「武助。聞こえとるか?」
「角館の桜は、しだれ桜でがんす」
ぽつりと、武助が言った。こちらを振り返りもせず、ひたすら桜を見上げる。
国倫も、町の角々に居た桜の樹を思い出していた。行ったのは夏なので花は無かったが、青い枝が風にゆらゆら揺れていた。葉が夏の光に映えて美しかったのを覚えている。
「ああ。春はさぞ綺麗じゃろうなあ」
「くにの桜は、風さ吹ぐど、人懐っごく『おいでおいで』すます。
江戸の里桜は散るばかりでがんす」
武助の頬が光っていた。武助はすぐに顔を両手で覆ってうつむいた。
「武助・・・」
手に触れると、少し熱かった。国倫は慌てて首にも触れた。
「おんし、熱があるじゃろう!」
びくりと、武助は驚いて正座を解いて手をついた。膝にあった下絵の半紙が毛氈の上に落ちた。
「わしも気付かんで悪いことしたのう。いつからじゃ。
ここから藩邸だと、籠を待つより歩いた方が早い。送って行くけん」
「人込みさ歩いて・・・少し疲れただけでがんす。もっと桜さ見せで」
「しかし・・・」
『いいから、武助の好きにさせておけ』
国倫は、李山の言葉に従った。武助は頬の涙をぬぐうと、肩にかけてもらった羽織を国倫へ差し出した。そしてそのまま国倫の腕に倒れ込んだ。
「武助!」
具合が悪いのかと覗き込むが、武助は国倫の背に腕を回し、張り付いた。
「後生でがんす」
『国倫。代われ』
戸惑う国倫は、そのまま李山に舵を渡した。
「武助。俺が好きか」
武助にきつく抱きつかれたまま、李山は尋ねた。武助は何度も激しく頷いた。小柄な武助は殆ど李山の膝に乗ったかたちだ。
「せんせに嫌われて、当り前だったで。わたすが悪がっだどよ。
角館戻る迄、せんせさ好きだっごと、気付きがらよだったで。ずっど会えねで、ずっど淋しかっだで」
李山の胸に顔を付けた武助の声は、よく聞き取れなかったが。言葉はそう必要では無なかった。武助の手が李山の着物を握りながら震えていた。
最初に抱かれた時の思惑は、知らない。だがずっと一緒に暮らし、何度も肌を重ね、喜びに昇りつめ。武助に何の情もなかったと言い切るのは、狭量だった。
怖かったのかもしれない。想いを受け止めるのが。遊びだと割り切っていた方が、楽だったのだ。この難しい男を背負う、覚悟ができなかった。だから、色々なことを見ない振りをしてきた。
だが、李山も、もう意地を張るのに疲れた。
「そうか。わかった」と武助の髪に触れる。
「わたすは、阿蘭陀画さ試すだけの為呼ばれたがんす。役目さ終わっただ。だども・・・」
「馬鹿。貴様、そんなことを考えていたのか」
それは、初めて触れる武助の想いだった。だからあんな風にいじけ、反抗的にしていたのか、と。
桜の下で、李山は武助を抱いた。緋色の毛氈の上で、武助の背は花びらよりも白く光を放った。二人の肩に桜が降る。
「こんな風に抱かれていて。俺が貴様に惚れていないと。本気で思っていたのか?」
李山の言葉に、やっと、武助が微かに笑った。李山の胸の中で体をひねると、落ちて来た花びらへと細い腕を伸ばした。李山もその行方を眺めた。
武助の掌に、一枚の花びらがそっと身を寄せた。
この桜が、二人にとって最後の里桜になる。
第59章へつづく
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