★ 私儀、甚だ多用にて ★

第五十九章

★ 1 ★

 最近、平賀邸の座敷は和やかな笑いに満ちていた。
 知り合った丈右衛門は明るく人なつっこい男で、人気作家の平秩や大田とも知己になれて素直に喜んだ。武助も時々顔を見せるようになり、そうすると江漢が絵師の友人らをも引っ張り込む。福助を慕う近所の子らが読み書きを聞きに来て、玄関先にしゃがんで俄か寺子屋となる。長屋の女房が惣菜の余分を持って来る。棒手振もわざわざ家を覗いて用が無いかと問う。
 弥七が亡くなったニュースの後は少し沈んでいた座敷が、また華やかさを取り戻したようだ。

 朝食を終えた福助は、明るい気持ちで洗濯物を抱えて出た。今日もこれから楽しい客人らが集うことだろう。先生は家では素振りは見せないが、武助とは仲直りしたようだ。仕事も、新しい目標が見つかったらしく、どこか生き生きして見えた。福助にも嬉しい事だった。
 井戸で洗濯物を濯いでいると、例の娘が前に座り、洗濯を始めた。
「おはようございます」
 小鳥のような声で挨拶された。福助は無視する勇気もないので、小さな声で挨拶を返した。緋色の腰巻きは娘のものか母か姉のものなのか、それをざぶざぶと洗い始め、福助は目のやり場に困った。気付けば、自分も足袋や半衿に混じって下帯も濯いでいる。かっと頬が赤くなり、ろくに絞りもせずに桶に突っ込むと、「お先に」と逃げるように立ち去った。
 家に戻ると、師は出かけた後だった。『築地へ行く』と書き置きがあった。

 洗濯物を干しながら、いつも胸元から微かに香る伽羅を感じないことに気付いた。慌てて懐を探る。また櫛を落としたようだった。たぶん、井戸のところだ。たいして時間もたっていない、たぶん残っていることだろう。
 福助が急いで井戸に駆け付けると、娘がまだ作業をしていた。行ってしまってから探そうかと、物陰から様子を窺うが・・・。娘が、あの櫛を髪に挿しているのに気付いた。飾り櫛のように桃割に挿し込み、桶の水鏡に映して眺めている。顔の向きを変えたり、挿す深さを変えたりしては桶を眺める。
 今まで少女の髪に飾りがあるのは見たことがない。地味な櫛なのだが、それでも嬉しそうに見えた。
 福助が取りに戻れば、少女は返さねばならず、がっかりするだろうか。
 男の福助にはもう必要のないものだ。落とした自分が悪いのだ。彼女の髪に飾られた方が、櫛も喜ぶだろう。福助は黙ってその場を立ち去った。

「久しぶりにいらっしゃったと思えば、目的は私でなくご本ですか」
 桂川甫三に、嫌味というほどでない軽口を叩かれる。国倫は桂川文庫と評判のこの家の書庫を覗かせてもらった。以前は日本の船は唐やルソンに渡航していた。長期航海に耐える船を作っていた。その史料を探した。だがそれだけ借りると怪しまれるので、古い天文や算術や、料理の本まで引っ張り出した。
 甫三は朝一番に上様のご様子を診る仕事があるが、それ以外は今は殆ど家に居て隠居状態のようだ。かつてよく遊びに来たこの座敷だが、二人顔を見合わせて茶を啜るのなど何年ぶりだろう。
 美しく老いるとは、こういうことを言うのか。国倫は甫三を目の当たりにして、見惚れた。柔らかい髪を結った儒者頭は白髪になったが、それが彼をさらに品良く見せた。目の下の弛みも口許の皺も、色気が増しこそすれ、容姿が衰えたという印象は与えなかった。教養のせいなのか、育ちのよさなのか、社会的地位か財力のせいなのか。心のゆとりが甫三を格上に見せる。羨望と憧憬と軽い嫉妬。甫三の薄い眉は白髪が混じり、さらに淡く優しい雰囲気に見せた。
「なんです?あまり見ないで下さいよ、恥ずかしいです」
 ふふっと優雅に目を細める。彼ももう五十歳になった筈だ。
「そういえば、中良がしょげていますよ。あなたに叱られたそうですね。息子はあなたに心酔しているのでね。罪なひとだなあ」
 甫三の言葉には、いつもどぎまぎさせられる。若い頃から、まるでくどいているようなセリフを吐く男だった。
 中良は最近大和町へ顔を出さない。多忙のせいかと思っていたが、二カ月も前の事を気にしていたのか。
「別に中良に腹を立てたわけでないけん。気にせんで、遊びに来ればええと伝えとって」

 本の入った風呂敷を抱え、築地を出た。ここからなら猪牙に乗れば家まで早いが、もしものことがあって借りた本が濡れるといけないので、やめておいた。四月は既に初夏の気候だ。途中で羽織を脱ごうと立ち止まったものの、とうに脱いでいて桂川邸へ忘れて来たことに気付いた。もう戻るのは億劫だった。福助に言って取りに行ってもらおう。

「猪牙に乗ってええぞ」と師から一朱金を受け取り、福助は築地を目指して家を出た。猪牙船は庶民には贅沢なので、江戸っ子の福助もまだ乗ったことはない。お遣いの嬉しいご褒美だった。
 木戸に出ると、「源内さんとこの人だよね?」と肥えた女に呼び止められた。福助の顔を知るからには、この長屋辺りの者なのだろう。口許から涅歯(でっし)が覗く。
「この櫛、先生のとこで作ってるやつだよねえ」
 洗いざらしの質素な木綿の袖から、女は木の櫛を取り出した。福助が井戸で落とした物だ。
「うちの子がしてたんで、問い詰めたら、貰ったんだって。これってとんでもなく高いもんだろ?困るんだよ。うちの子らには、そんな贅沢はさせるつもりないから。
 悪いけど、返すね」
「え。あ、はい」
 福助は、事がよく飲み込めないまま、自分の櫛を受け取った。路地の影からあの少女が覗いて、目が合うと顔を引っ込めた。
 ああ、そうかと気付いた。拾った物をそのまま持っていたと言えば、母親に叱られる。咄嗟に『貰った』と嘘をついたのだろう。
「こちらも、配慮が足りず、すみません」
 福助も少女を庇って嘘をつき、母親に頭を下げた。
「うちは貧しいが堅気なんだ。源内さんやあんたを悪く言うつもりはないけどさ。住む世界が違う」
 福助が少女をくどいたと勘違いされたのかもしれない。福助の頬が屈辱で朱に染まった。唇を噛んで、そのまま立ち去った。
 
 また櫛は福助の懐へと戻って来た。気まずい気持ちのまま、福助は通りを出て今川橋辺りから猪牙を拾った。
 
★ 2 ★

 夜になっても福助は戻らなかった。桂川家で晩酌にでも付き合わされているのかもしれない。もう子供ではないし、国倫もそう気にはとめなかった。
『ですが、福助の性格から考えると、お遣いを言いつかったら、まっすぐ帰ると思うのですが・・・』
 福助を一番可愛がる鳩渓が、納得行かない口調で国倫に問いかける。
『今から築地へ福助を迎えに行くのか?それも野暮だろう。俺たちの監視から離れ、楽しんでいるかもしれん。もしかしたら、中良にいよいよ遊里にでも連れて行かれたかもしれんぞ?』
 確かに、李山のように考えるのが普通なのだ。だが、鳩渓は胸騒ぎを抑えることができなかった。

 座敷では飲んでそのまま平秩が寝入っていた。福助がいない夜。奥座敷でいつものように横になっても、眠りが浅い。ざわざわと風が騒ぐ。雨戸を軋ませる。目を瞑ると黒い網のような影が襲い、不安が募った。深い夜に、やっとのことで、うとうとと眠りに足を引っ張られた。

 その浅い眠りは、早朝、戸を叩く音で破られた。戸は長く激しく叩かれて、なぜ福助がすぐ出ないのかと、ぼんやりと目を擦った。平秩の「今開けるから」という悲鳴のような声で、福助が居ないことを思い出した。
 叩くのが福助だとはとても思えなかった。彼は早朝にこんな乱暴で迷惑な叩き方はしない。何か急を知らせる訪問だ。鳩渓がすぐさま舵を取って飛び起き、襦袢の肩に着物を羽織った。
 平秩が心張り棒を外すと、岡っ引が立っていた。
「平賀先生、番所で、死体の身元を確認してくれねえか」

 ふらつく足を平秩に支えられながら急いだ。大柄な鳩渓を抱える平秩は何度もよろけそうになる。足が砂にめり込むようで、力が入らず、なかなか前へ進まない。めまいと戦いながら、何故こんな時に福助が居ないのだ、自分を支えないのだと腹だたしく思い、その福助の大事だったことを思い出す。
 胸が締め付けられて吐き気に襲われ、ぐるぐると目が回った。現実に向かって進むのが嫌で、できるなら、くるりと後ろを振り返り、わぁぁと走って逃げてしまいたかった。
 番所にやっと辿り着く。石作りの床に置かれたそれには筵が掛けられ、周りに濁った水溜まりができていた。
「大川の出口辺りで猪牙から落ちたらしい。船頭も助けようとしたが、なにせ奴の体が大き過ぎた」
 鳩渓は取りすがるようにそれの横に跪くと、一気に筵を暴いた。
「・・・福助」
 嘘だ。自分よりうんと若い福助が。何故。
 こんなこと、認めない。こんな最期、認めない。
 鳩渓は両手で顔を覆って号泣した。こんないい子が。そんな筈はない。
 鳩渓の心はこの悲しみに耐えられなかった。舵から手を離し、うずくまった。
「源内先生!」
 体は舵を失い、がくりと前へ倒れた。李山と国倫が慌てて舵へ手を伸ばす。体が崩れ落ちる既のところで李山が舵を握った。
「大丈夫か?」と、つき添って来た平秩が肩を起こした。
 大丈夫なわけがなかった。李山だって言葉は出ない。内では、鳩渓が国倫に泣きすがっていた。鳩渓を胸に抱く国倫の方が、蒼白な顔色をしていた。魂の抜けたような表情、何も映さぬ石ころのような瞳は乾いて涙の片鱗も無い。
「この男、源内先生のところの下男に間違いはないですかい?」
 役人の問いに李山の怒りがこみ上げた。
「下男などではない。家族だ」
 そうだ、家族だった。息子同然だった。いつも側に寄り添い、相槌を打ち、えくぼをへこませ、時々むっとして口を尖らす。この灰色の顔の土左衛門が福助だなどと。どう心に言い聞かせろと言うのだ。
 濡れた右手には、しっかり菅原櫛が握られていた。
「船頭の話では、そいつを落としそうになって、慌てて手を伸ばして、猪牙から落ちたようだ。よほど大事なもんだったか」
 こんな櫛など。またいくつでも作ってやったものを。
 馬鹿野郎だ。年寄りより先に逝きやがって。李山は唇をきつく噛みすぎて、血の味を感じた。残されて、俺たち三人は、どうすればいいのだ。
 李山は、むくんだ福助の顔に触れた。もうこの頬は二度と愛らしい窪みは作らないのだ。瞬きすると、涙が溢れた。

 道有が『福助を世話したのは千賀家なので葬儀は行おう』と申し出たが、李山は断わった。福助はうちの子だ。うち以外で弔うことなど考えられない。
 千賀は人手だけはよこしてくれたが、福助には身内もいないし、狭い平賀宅での葬儀でも十分だった。質素な葬式だったが、李山の友人達は福助の心根の良さや賢さをよく知り、一緒に死を悼んでくれた。
 墓を建てる際、千賀家の菩提所である千住の総泉寺に世話になった。住職が「平賀先生は尊い御方だ。自前で下男の墓を作ってやるとは」と言ったので、かっとして殴りそうになった。握り拳を後ろに引いた時、腕を強くつかんだのは道有だった。なぜ止めたのが福助でないのかと不審に感じ、すぐに気付いてため息をついた。

 福助がいなければ、李山らは毎日の飯炊きさえ困った。道有がすぐに千賀家の下男を遣わしてくれた。
 要助というその男は小柄な中年で、愛想は全くなく殆ど喋らないが、今の李山にはその方が有り難かった。暇があれば黙々と床を掃き、手が空いたら竈を磨く真面目な男だ。
「福助、茶をくれ」
 うっかりそう呼んでも、訂正もせず怒りもせず、小声で「はい」とだけ答えた。
 友人達は心配して、入れ替わり立ち替わり様子を見に訪れた。座敷は以前より人が溢れ、賑やかだった。だが李山は輪には入らず、奥座敷に籠もることが多くなった。談笑についていけず、笑いに付き合うことができないのだ。どうしても、まだ、笑うことができなかった。
 鳩渓はあの日から膝を抱えたまま、泣いてばかりいる。国倫には頼恭の時の前歴があるので、今舵を握らせるのは危険と思えた。李山が動くしかなかった。
 特に国倫は偽エレキテルの事件辺りから厭世感を増し、町を行く人々、江戸に生きる民らに対して懐疑的になっていた。皆、平賀源内のことなど、一過性のからくり玩具のように思っているのだろう、と。
暫くはもて囃すが、すぐに飽きてお終い。戯作も魔羅魔羅と卑猥な言葉が連発されるから面白がっただけで、国家と権力の相関を論じた内容などは目に入っていないに違いない。エレキテルだって、火花が飛んだり馬の人形が動いたりするのが楽しかっただけなのだ。民は愚かで冷淡だ。
 福助の死以前から、国倫は友らと明るく酒を飲み交わしながらも、心の奥底にはそんな想いが沈んでいることが多かった。かつて、川開きの両国の人々を、芝居小屋で歌舞伎を楽しむ人々を、生き生きと愛情溢れた描写で書いた男が、である。『人を描きたい』と言った春信を愛し、その言葉に頷いた男が。自ら、芝居の観客を見渡し彼らの感情の波に微笑んでいた男が。
 それほど、国倫の人への絶望は深かった。かつての国倫を知る李山の心も重いが、今はどうしてやることもできない。

 李山でさえ、心の均衡を崩し始めていた。手ぬぐいのたたみ方がいつもと違い、はっとする。味噌汁の味が違う。飯の堅さも、茶の熱さも違う。
 福助の居ない空間が、少しずつ李山の心を侵していく。居ないことには慣れず、少しずつ、心が壊れて行く。
「福助!」と呼んだ時、困ったように返事して用事を聞きに来る要助に、すまないとは思う。千賀のところでも評判のいい男だから寄こしたのだろう、でしゃばらず、働き者で、いい人間だ。だが、福助の代りになるはずもない。
 ほんの一瞬だけ、李山の心を埋める事ができるのは、武助との情事だった。平賀宅に人が集まる事も多く、武助とは出会い茶屋で会った。武助と二人で、福助の死の悲しみを忘れるように、自分達が生きていることを噛みしめるように、抱き合った。
 
 四十九日も済み、亡くなって二カ月も過ぎた夏の初めに、その少女が平賀宅を恐々と覗いた。
 要助が買物に出ていて、たまたま客人らもいなかった。福助が淡く想いを寄せていたらしいその少女は、李山を見ると「ごめんなさいっ」と、顔と膝がくっつきそうなくらいに深く頭を下げた。
「あのおにいさんの、お父上ですよね?」
「親ではないが、その代りのようなものだ。なんだ?」
 娘は、黒目がちの瞳からぼろぼろと涙をこぼし、櫛の件で母親に嘘を言ってしまったことを告げた。
「これか?」
 李山は懐から、袱紗に入れたそれを取り出した。福助の形見となったそれを、李山は肌身離さず身につけていた。
 少女は手の甲で涙をぬぐいながらこくりと頷く。小さな唇で、福助が母親に訂正もせず注意もそのまま受け止めたことを告げた。必要のない謝罪をしたことも。
 以前の李山なら、『本当に女は卑怯なものだ。こんな少女でさえも』と憤っただろう。少女に辛辣な言葉も浴びせたに違いない。だが、今は、福助が好意を寄せていた少女を叱る気持ちにはなれなかった。
 櫛を返されなければ、福助は死ななかったのかもしれない。それとも、猪牙に乗れと言わなければ死ななかったかもしれない。泳ぎを教えておいてやれば死ななかったかもしれない。だが、もう福助は居ないのだ。
 まだ十二、三歳だろうか。婿を取った時の里与と同じ歳くらいに見えた。その軽い偽りの後すぐに福助が死んでしまい、この小さな少女はどれだけ苦しんだだろう。
「気にするな。福助は、そんな小さな事を根に持つ男ではない」
 少女は子供っぽく顔を崩して泣いたまま、「福助様とおっしゃるのですね」としゃくりあげた。
「ああ。千住の総泉寺に墓を作った。ついでがあったら、参ってやってくれ」
「明日、行って来ます。行って、謝って来ます」
 少女の決意に、李山はゆるく頷いた。

 この町には。この家には、福助の思い出が多過ぎた。玄関に、厨房に、廊下に。至る所に福助の思い出が染みついていた。台所を見れば、福助のいない痛みに心が攀じきれる。廊下にもいない。手水にもいない。
 それは、鳩渓も国倫も同じだった。あまりにつらくて、この家を出ようと決心した。



第60章へつづく

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