★ 私儀、甚だ多用にて ★

第六十二章

★ 1 ★

 武助を見送って帰った李山は、「要助、酒!」と怒鳴ると座敷に胡座をかき、昼間から酒を食らった。
「源内さ〜ん」「先生〜」といつも通り気軽に戸を開けた友人達は、じろりと一瞥され「今日は帰ってくれ」と紋切りに言われて引き下がる。
 まるで真夏に麦湯でも飲むように、李山はがばがばと湯飲みの酒を空けた。
 李山はそう酒が強い方ではない。だが、国倫も鳩渓も咎めることができずに、ただ李山のヤケ酒を眺める。今日くらい、好きに呑ませてやっていいだろう。プライドの高い李山が、ここまでみっともない真似をしているのだから。
鳩渓は下戸なので、明日の頭痛は決まりだった。国倫も、皆と談笑しながら酒を飲むのは好きだが、量そのものはたくさんは飲めない。この体の体質が、酒に強くないということだろう。
 湯飲みに何杯か呑むともう目が回った。朝が早かったのと、昨夜は殆ど眠れなかったのと。酒の回りはいつもの倍ほど早かった。いや、最近は歳のせいか、早く酔うのだ。李山は胡座を解いて、そのまま畳に倒れ込んだ。
「先生、風邪を引きます」
 要助が大の字の体に掻巻布団を掛け、更に火鉢に炭を足した。李山は既に高鼾だった。陽は高く、まだ八つくらいだろう。

「あ、先生はちょっと臥せっていまして」
 要助の声で目が覚めた。辺りは陽が暮れて薄墨色に変わっていた。また誰か友人が遊びに来たようだ。李山はミシミシ音の出る体を起こし、「今日は誰とも会わん」と怒鳴った。
「上でなく、座敷で臥せっておられるのですか?ちょっとご容体を拝見しましょうか」
 玄白の声だった。
「要助、医者に仮病を使ってどうする。
 玄白殿、酒くさいが、よかったら上がってくれ」
 忙しい玄白が訪ねて来たのだ、何か重要な用事なのだろう。掻巻をたたみ、見苦しくないよう身なりを整えた。
「お休みのままでよかったのに」
 玄白は作務衣を着ている。診療が終わってそのまま駆け付けたようだ。
「いや、お聞きの通り仮病だ。酔っぱらって寝て居ただけなのでな。
 今、行灯に火をつける」
『国倫、代わろう』
 李山の声が聞こえたかのように、「李山さん、そのままで。私は李山さんに会いたくて来たのですよ」と、玄白は火鉢の傍らに腰を降ろした。
「・・・俺と会っても、面白いことは何もないぞ」
 火鉢の炭から付け木に火をつけ、それを行灯用の皿へと近づける。芯に火が移ると菜種油が香った。灯に照らされた玄白の顔は、いつも以上に白かった。
「上野へ診療へ行ったのは私です」
 燃え尽きた付け木を摘んだ李山の指が、思わずそれを取り落とした。
「玄白殿が?」
「今日、武助さんは秋田へ発ったそうですね」
「出来る限りの治療をすると言った、老中の言葉は嘘ではなかったらしい」
 江戸一の外科医である玄白に武助を診せたのだ。武助が心を開く医師であるというのもあっただろう。通り一遍に藩医に治療させたわけではないようだ。
「痛めたのは腕のこの辺りです」と、玄白は着物の袖を捲って肘と手首の中程を指差した。
「ぽっきり骨が折れたわけでなく、ヒビが入ったと思われる状態でした。治癒に時間がかかりますが、必ず治ります。
 痛むのは同じなので、こんなことを言っては武助さんに気の毒ですが、指を折られたのでなくて幸いでした。指だと元のように描くことは難しい。下手な折れ方をしていれば、切断ってことも有り得た」
「・・・また描けるようになるのか?」
「治癒してすぐには無理です。二カ月も腕を動かしていないと、箸さえも巧く持てなくなるのです。でも練習すれば、たぶん」
「そうか。また、描けるのだな」
「問題は・・・武助さんが、練習ができるような精神状態に無い事です。脱け殻のようになってしまって。
 家族と暮らして、心を取り戻してくれるといいのですが。
李山さんは最近は忙しいのですか?秋田へ行かれる予定は?」
「俺は・・・無理だな。付いて行って見守りたいのは山々だが。
 確かに忙しい。だが、それ以前に、あちらには武助の奥方が居る。俺が行って、気分を害するかもしれん。いや、違う、俺が嫉妬してうまく行かないだろう。だから、任せる方がいい」
 だいぶ冷静さを取り戻していた。帰って来た時は、気持ちが昂って普通でなかった。友人たちを怒鳴り散らして追い返したりなど、酷いことをしたものだ。また『源内先生が癇癪を起こしている』と噂になっていることだろう。
「武助さんは・・・一緒に『解体新書』を作った仲間です。こんなむごいことになるとは。
 出版直後には、私のところにも嫌がらせがたくさん有りました。山脇先生の臓志を敬う外科医や漢方の医者らから突き上げを食らいました。私は卑怯なことに、金を握らせて解決したり、ご説ご尤もと頭を下げ、おべっかを使い、おだてて逃れました。
・・・恥ずかしい。武助さんに対しても、自分に対しても、医学に対しても。私はとても恥じています。
 武助さんは毅然として接し、ああいう目に遭われた。あまりにもむごい結果です。でも私は、私がした卑屈な態度が結局は正解だったなどとはとても思えません」
 玄白は顔を覆った。
「玄白殿・・・」
 李山は玄白の肩に手を置いた。
「おんしは、そうして『解体新書』を守ったけん。立派じゃよ」
 玄白ははっと驚いて顔を上げる。
「・・・と、国倫なら言うな。俺もそう思う」
 玄白は苦笑した。
「すみません、あなたのご様子を見に来たのに、反対に慰められてしまいました。
 ありがとうございます」
 玄白にとっても、武助は親しい友人だった。同じ悲しみを抱いていることだろう。
「玄白殿。おんしも呑んでいかんかのう?」
 李山が徳利を差し出す。
「いただきます。・・・李山さん。国倫さんの真似、下手ですよ」
玄白は畳に転がる湯飲みを見つけ、酒を受けると笑ってみせた。

 暮れた時刻には、勤めを終えた大田や丈右衛門、和助に久五郎なども顔を出した。遊び人の中良や平秩らは、昼間追い返されたにも関わらずまた門を潜って様子を見にきた。
「おや、珍しいですね、玄白先生が。兄も誘えばよかった」
 中良が嬉しそうに玄白に酒をついだ。
 皆、武助の怪我のことや秋田へ帰ったことは知らなくても、このところ平賀邸へ来ないので何かあったと気付いていたことだろう。そして李山の荒れ方。察して、心配して集まってくれたのだ。仲間というのはつくづくありがたいものだ。

 橋本町の夜は更けて行く。噂の幽霊など、逃げ出す賑やかさで。

★ 2 ★

 武助のいない日々は何事も無く過ぎる。
 不思議だった。李山は、武助無しでは居られないと思った事もあるのに。
 国倫の頼恭も、鳩渓の福助も。皆、逝ってしまった。何故自分が現世にまだ彷徨うのだろう。・・・きっと、意味があるのだ。まだ生きている意味が。

 数日後の道有からの呼び出しは、意知の使者との会見の為のものだった。源内の阿蘭陀行は千賀家にも秘密の事柄なので、道有親子は同席しない。使者の供さえ、離れて護衛をした。
「十二月は多忙にて、お会いする時間は持てません。ご出発前の、これが最後の機会となりましょう。後は書簡のやり取りとなります。そちらは目を通したらすぐに処分をお願いします。
 名目である長崎への翻訳御用の命は年明けに出ます。それをお受け取りになったら長崎行きを公言なさって結構です。旅の準備も色々お有りでしょうし」
 長崎への途中で志度へ寄りたい旨は、既に告げてあった。意知は、源内の出発が早まったので、まだ十一月であったが書類等も早々に整えてくれた。
「平賀様に付き添う通詞は、現役ではなく私事で退職した者です。訪ねるべき長崎奉行所の役人の名や、付き添いの通詞の名などは、こちらに記してあります。ご乗船の船名、船長、阿蘭陀で頼るべき人物なども、すべて。船の出航予定日、阿蘭陀までの行程もおおよそのことは。よくお目を通しておいてくださいませ。
 極秘の書類です、くれぐれも、人目に曝しませぬよう。
 この計画は徳川様の掟に背くもの。個人の無鉄砲な実行ならいざ知らず、これほど綿密な計画、御公儀への謀叛とも取られかねぬ。公になれば、敵も多い田沼様は失脚するでしょう。無論、平賀様もよくて切腹。運が悪ければ斬首ですから」
 会う度に耳にタコができるほど言われた事だ。よくわかっている。
 医師や天文の学者も学びに行くのかの李山からの質問に、使者は否と答えた。天文と医学は商館長側も需要を心得ていて準備を整え、長崎屋の質疑応答にてだいぶ解決できる。もっと学びたい者は長崎へ遊学すれば十分なのだ。阿蘭陀まで忍んで行く必要がない。
 絵師も、阿蘭陀で調達すれば済むという考えだった。武助があんなことにならずとも、一緒に行くことは叶わなかった。
「来年の参府の大通詞は吉雄殿ではないので、長崎に残っておいでです。お会いになれますよ。お親しいのですよね。
 ただ、吉雄殿に平賀殿の本当の目的が知られぬようにお願いします」

 会見が終わり、使者は千賀邸から駕籠で去る。李山は書類を懐中に仕舞い込み、決して落ちぬように帯の下まで押し込んで、襦袢の腰紐に掛けて二つ折りにした。
「まだ時間も早い。お帰りになる前に、付き合いませんか?」
 道有が酒の席を用意してくれていた。大切な書類を抱えているので断わろうと思ったが。
「長崎で長期間のお仕事をなさるそうですね。また田沼様の大きなお仕事だそうで。・・・暫くお会いできませんね」
 道有は、長崎行きのことだけは聞いているようだった。暫く会えないとの言葉に心動かされ、少し戴くことにした。李山が承諾すると、道有はにこりと笑い、「お行儀が悪いですが、玄関で飲みませんか?金魚を眺めながら」と提案した。

 敷物に膳を置いて座るが、玄関は少し冷えた。道有は火鉢を三つも持って来させ、座の側に並べた。ギヤマン張りの天井にはぷっくらとふくよかな金魚たちが踊る。
「そろそろ冬眠の季節だが、お前のところの金魚はよく泳ぐな」
「水を少しぬるいものを使っておりますので」
 そういえば、ギヤマンの表面も藻で汚れた箇所は無い。金魚の係の下男が六名もいて、掃除や水温の管理を徹底させているのだそうだ。
「まるで金魚様だ。甘やかしているなあ」と李山は冗談を言って盃を空ける。道有は酒をつぎながら、「一匹ずつ、名前も付いているのですよ」と、うふふと嬉しそうに笑った。
 千賀家と久保田藩との関わりは深い。武助と知り合った阿仁鉱山の仕事も、田沼と千賀の導きによるものだ。道有は、武助が帰国したことも知っているのだろう。だが彼はそのことには一言も触れなかった。
 金魚の話から冬の魚の話になり、菓子の話に移り、流行りの着物の話に飛ぶ。武助を思い出させる話題を避けて道有は上手に面白い話題を提供する。聡明で心の優しい男。何故、こいつではいけなかったのだろうと、談笑しながら李山の心は冷えて行く。何故、自分は武助を愛したのだろう。道有に惚れることができればよかったのにと思う。だが、今さら言っても詮ない事だ。
 愛の存在に驕れば道有にも甘えが出たかもしれない。今のいい関係は作れず、破綻していた可能性もある。きっと、これでよかったのだ。色恋など、なるようにしかならぬ。

 千賀邸を出るとまだ明るかった。
『福助に、報告をしに行きませんか? 長崎行きのことを』
 鳩渓の提案で、用意してもらった駕籠で橋場まで北へ上がる。総泉寺の福助の墓を詣でた。
 福助と長崎に行こうと思っていた。必死で一緒にエレキテルで稼いだ。いつも額に汗を光らせて把手を回していた。
 素直で賢くて、あんな子は二人と居まい。養子にして士分にしてやればよかった。・・・今日は思っても仕方ないことばかり思う。
 寺の木々はもう殆どが葉が落ち、灰色の鋭利な枝だけが木枯らしにひゅうひゅうとしなっていた。枯葉が舞って草履にまとわり付く。まるで若く逝った福助の未練が足首を掴むようだ。
『うちは幽霊屋敷なのだそうですよ? よかったら、付いていらっしゃい。そして、長崎まで、一緒に行きましょう?』
 墓の底まで鳩渓の想いが届いたかどうかは知れない。落ち葉はかさりと鳴ってまたすぐに飛んで行く。

 千住からは猪牙に乗って橋本町まで帰った。辺りはすっかり暗くなり、舟の中はしんしんと冷えた。大川の堤では、葉が落ち切った木々の影がゆらゆらと揺れて、まるで闇へと誘うようだった。
『くにの桜は、風さ吹ぐど、人懐っごく“おいでおいで”すます。江戸の里桜は散るばかりでがんす』
 武助の言葉を思い出した。
 空は曇って月も星も無い。だが川べりの船宿の提灯や二階の宴席のあかりで、舟は速度を落とすことなく進む。
 いつかまた、会うことができるだろうか。
 怪我人の武助はゆっくりと進むだろう。今頃はまだ出羽庄内の辺りか。それとももう角館に着いただろうか。
 遠い。今の李山には、角館は阿蘭陀よりも遠い地だ。
 空はひたすら暗く、川から飛ぶしぶきはただ冷たかった。
 舟から天を見上げる李山を、闇が掬いあげてそのまま昇らせていくような錯覚を覚えた。生も死も、恋も夢も、すべて泡沫(うたかた)だ。

 家では既に友人達が集っていた。
「おかえりなさいませ」
「千賀様んとこは、旨いもんが出たでしょう」
「こっちも負けずに呑みやしょう〜」
「さ、先生、早く」
 武助のいないのを慰めようという気遣いなのか、このところまた家には友が集う。寒さで皆が火鉢を囲んで輪になり、背を丸めている。もう何人かは出来上がっていて、笑い声の音量も高かった。李山の口許から素直な笑みが洩れた。
 紋付の羽織袴から気楽な着流しになる為、二階へと上がった。階下から笑い声が聞こえる。二階の静けさに、ふっと、現実が押し寄せて来た。
 武助はいつもこの文机の前に座り、のめりこむように机に前がかりになって描いていた。細い首。角張った肩。あの姿はもう見ることができないのか。
『湿っぽくならんで。せっかく皆が、賑やかにやっとるんじゃけん』
『っていうか、また呑むんですか。勘弁してくださいよ。わたしは毎日頭痛続きです』
 二人の抗議に苦笑しつつ、李山は懐に仕舞った書類を改めて開いて見た。阿蘭陀船に乗ってからは、操作についても見学させてもらえるようだ。動いている船を見ながらの方が、構造もよくわかるだろう。会話程度の阿蘭陀語は話せた方がいいかもしれない。長崎に着いたら、この書類にある通詞に会話を習おう。

「てやんでぃ、ちくしょう!」
「なんだと、もう一度言ってみろ!」
 階下で、激しい言い争いの声が始まった。やめろとか、もっとやれとか、外野の声もうるさい。誰かと誰かが喧嘩になっているらしい。
『人んちでタダ酒呑んどるくせに、喧嘩とは呆れたのう』
『まったく。だから酒呑みは嫌いですっ』
「先生――っ、二人を止めてくださいーーー!」
 要助の悲鳴までが聞こえた。
「待て、今行く」
 李山は、書類を巻き直し、見回して手文庫を探したが見当たらなかった。文机は武助が使ったままになっていて、まだ脇には筆や菊皿が置きっぱなしだ。絵を描くのに邪魔で、手文庫をどこかへ退けたようだった。
 ガチャンと下で割れ物の音がした。ついに食器の投げ合いでも始まったのか。曙山の掛け軸や玄白から貰った花器が破損しては大事だった。
 李山は書類を文机に置くと、慌てて階段を降りた。

★ 3 ★

 取っ組み合いになっているのは、丈右衛門と久五郎だった。彼らはもともと友達で、丈右衛門が久五郎をここへ連れて来るようになった。普段とても仲のよい二人が、いったいどうしたことか。
『面倒だ、国倫、貴様が代われ』
 李山は喧嘩の仲裁などできる性格ではない。特に今は武助のことで参っている。国倫は任せんしゃいとばかりに舵を取った。
「なんじゃ? 一体何があったんな?」
「コイツがあっしを侮辱しやがったんでぇ」
「わすはほんさのこと言っだだけだす!」
 長身の久五郎は大工で力もある。屋敷勤めの丈右衛門の方がぐいぐいと押される形で壁に背を押し付けられる。畳に蹴散らかされた湯飲みや徳利が、ごろごろと足元を転がった。その一つが土間に落ちてガシャンと割れた。
 要助は割れた器を既に処理し終えたところだったが、これを見て「あ〜! せっかく片付けたのに」と、悲鳴のような声を挙げた。
「こらっ、やめんかいっ!」
 国倫が怒鳴っても、二人は聞き入れない。他の者は自分に被害が及ばないよう遠巻きに眺めている。
仕方なく、間に割って入るが・・・興奮する二人は、師だとは気付かず、「邪魔すんねえ」と顔を突き飛ばす。
「・・・。」
 痛い。今のはかなり痛かった。
『こいつらぁぁぁ!』
 国倫は、床の間の飾りと化した刀掛けから長いのを引っ掴み、鞘でどすんと畳を叩いた。中良や和助ら周りの者の方が驚いた。「うわぁぁっ!」「せ、先生っ!」と恐れの混じる声を挙げる。
「げげけ源内先生っ、おおお落ち着いてくださいっ!」
 中良の方が慌てて吃している。
 周囲の反応の異様さに気付き、丈右衛門達も掴み合いを中断した。師が長刀を持ち出したのに気付いた。
「おんしら。お互いの言い分を聞いてやるけん。とりあえずそこへ座れ!」
 再び鞘で畳を付く。二人は素直にその場に座した。
「先生、それは早く置いて下さい」
 江漢が泣きそうな声で懇願した。皆、単なる脅しだとはわかっていた。だが、一度も刀など振り回した事の無い人間のことだ、どんな不慮の事故があるやもしれない。しかも手入れも悪く、鞘の誂えも悪い。するりと鞘がいつ抜けるとも限らない。
 かつては、金が無かったので長刀も売ってしまい、ずっと木製のものを下げていた。剣術など全く出来ないのだ、本物でも偽物でも同じことだと思っていたが、秩父の中島利兵衛に『背の高い人は手も長く、短刀の強盗等には突き出しているだけでも牽制になる』と意見され、エレキテルで余裕が出た頃、きちんと整えた。
 国倫は刀を柱に立て掛けると、二人の側に座った。
「仲のええ二人が、どうしたっちゅうんじゃ?」
 丈右衛門と久五郎は、冷静になった分、モジモジと正座の膝に置く手指だけ動かし、言い出しにくそうだ。
「どうしたんか聞いとるんじゃ!」
 国倫は声を荒らげる。本気で怒っているわけではないが、師を尊敬する(筈の)二人には、十分な威圧になる。
「あのぅ」
「ええと」
 二人の重い口が動くと、喧嘩の事情を知る周囲は「私はそろそろ帰ります」「俺も」「おいらも」と、計ったように帰り支度を始めた。理由を聞くのがいたたまれぬという様子だった。要助までが、「酒が足りないようですので、燗を付けて来ます」と厨房へ逃げた。

「丈右衛門が、あっしを馬鹿にしたんでさあ」
 若い久五郎がまず率直に述べた。笑みもエクボも無い真面目な表情だ。
「ほいどさスてない。忠告だす」
 丈右衛門も譲らない。
「久五郎が酔っでほいどなごど言い出して。小田野せんせの代りに夜伽さすっかって。
 こいつが、あのめんごいせんせの代りさなるかっ」
 久五郎がかっと赤くなって「この野郎っ」とまた飛び掛かった。国倫の方が面食らった。全く、なんて理由で・・・。
 久五郎の気持ちは嬉しいが、李山はとてもそんな気にはなれないだろう。苦笑して、「ほれほれ、もう喧嘩せんで。わしのことで喧嘩せんで。・・・さ、飲め」と、自らが湯飲みを取って二人に握らせ、酌をしてやった。
「めんぶがね(申し訳ない)。ご迷惑さかげますた」
「・・・。お騒がせしました」
 久五郎は真っ赤な顔で下を向いたまま、空の湯飲みを差し出した。素直で純朴で。若さと言うのは可愛いものだ。暫くは遊びも色も遠ざけるつもりだが、好意自体は嬉しいものだった。
「仲直りせい。わしは、おんしらが仲良くしとるのを見るのが好きじゃけん」
「はいっ!」
 久五郎は子供のような返事をし、酒を受けた。
 あとは三人で夜が更ける迄呑み続け、いつしか皆潰れて、折り重なるように眠りについた。

 国倫は、尿意で目が覚めた。気付くと、三人の背にそれぞれ掻巻が乗せてある。行灯には油が足されていたが倒さぬよう隅に移され、火鉢にも炭が足されていた。要助が休む前に気を効かせたのだ。
 行灯から手燭に火をもらい、手水場へ急ぐ。そう広い家でもないが、廊下は冷えた。用を足して手水に手を差し出すと、指が凍える寒さだ。桶の水の表面に薄氷が張ってパリパリと割れた。ぼんやりと空の縁が紫に変わる。夜明けが近い時刻のようだ。
 こうして夜が明け朝が来て。日々を重ねて行くのだろう。福助を亡くした傷はまだ時々痛むが、だいぶ和らいで来た。頼恭のことも、思い出す時は、今では痛みよりも甘美さを伴う。李山もいつか武助の件から立ち直り、きっと美しい思い出になるのだろう。
 その為には、前へ進まなければ。前へ進むからこそ過去を思い出にできる。
 阿蘭陀での勉学が、今、手の届くところにあるのだ。

 座敷に戻ると、丈右衛門はそのまま寝入るが、久五郎に掛けた掻巻が乱れて置いてあった。少し廊下でぼんやりとしていたが、その間に帰ったのだろうか。
 気にも止めず、喉の乾きに気付いて厨房に出て瓶から杓で水を掬い、ごくりと飲んだ。
 玄関に久五郎の雪踏が残っている。まだ家の中にいる。
・・・まさか二階!と、国倫は杓を放り出し、手燭を取って急いで上がった。李山はあの書類を文机に置いたままにした。心臓が早鐘のように打った。

 文机の前に立つ久五郎の影を、手燭の灯が大きく壁に映し出した。
「この部屋で何をしとるんっ!?」
「あ・・・。お、起きたら先生がいないので、こちら、かと」
 久五郎の、緊張でぐっと唾を飲み込む音が聞こえた。手に握る巻紙が手燭に照らされ小刻みに震えていた。
 師が二階で休んだと思い、閨を共にできればという想いで上がって来たのかもしれない。
 だが、蒼白なその表情は、手の書類を読んでしまい、その意味を悟った者だけが浮かべるものだった。
「読んだんか、それを」
「これは・・・国禁じゃねえですか。先生っ!先生は何てことを・・・」
「読んだんか」
 国倫は体中の気が全て出て行くようなため息をついた。
『すまぬ。俺の不注意だ』
 李山が深く頭を垂れる。
『否、体を代わったわしが、仕舞いに上がればよかったんじゃ』
『いいえ、わたしだって、気付きもしなかった』
 お互い庇い合うが、何の解決にもならない。
「まさか先生が・・・お上に逆らうなんて」
「返せ。それを返しまいで、ええ子じゃけん」
 国倫が奪おうと手を伸ばすと、久五郎はするりとすり抜け、階下へと逃げた。
「待ちんしゃいっ!」
 追う国倫の足が震えた。

「丈右衛門!丈右衛門、聞いてくれっ!」
 久五郎は必死に友を揺り起こす。しかし酔いが深くて全く反応が無い。踵を返し、今度は玄関に向かう。がたがたと心張りを外そうとするが、焦りのせいか、右手に巻紙を握っての操作のせいなのか、なかなか戸が開かなかった。
「久五郎、どうするつもりじゃ?」
「番所に届け出るに決まってるじゃねえかっ。
 騙されてた。先生が、いやもう先生なんて金輪際呼ぶもんか、てめえがこんな恐ろしいことを諮ってたなんて」
「待てっ、それを返せ」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
 久五郎が説得に応じるとは思えなかった。
 この計画が明るみに出れば・・・。
 平賀源内の阿蘭陀への夢は終わる。
 いや、自分だけのことでは済まない。散々言い聞かされて来た。首謀者の田沼親子も間違いなく失脚する。
 アベシが書かれただけで本が発禁になる、そんな時代にまた戻ってしまう。
 田沼の政治さえ続けば、自分でない誰かが阿蘭陀で造船を学べるだろう。誰かがどどねうすを翻訳するだろう。いつかは国も開かれる。待ち兼ねていた、もっと新しい風が吹く。
 田沼を失脚させるわけにはいかない。

 座敷の柱には、先刻の長刀が立て掛けたままになっていた。国倫はその決意に唇を切れるほどに噛み、刀を握って玄関に立った。
 これしか解決法が無かった。そして、その後に書類を処分したら、久五郎への罪を償う為に腹を切ろう。
『これでええか?』と内に問うと鳩渓は静かに目を瞑って頷いた。一筋、頬を涙が伝った。
 李山は『俺のせいだ、俺に舵をよこせ。お前が引っ被ることはない』と叫ぶ。だが国倫は首を横に振った、『おんしには秩父の時の借りがあるけん』と。
「あっしを斬るのかい?へん、人殺しで捕まったら阿蘭陀へは行けねえぜ?」
 久五郎は怯むことなく悪態をついた。夕刻の刀での脅しが頭にあり、これもそうだとタカを括ったのだろう。
 生まれて初めて、鞘から剣を抜いた。久五郎より国倫の方が震えていた。
 まだ若い久五郎。政治のことも国の腐敗もわからず、既成の正義感を植えつけられた青年。この男に罪はない。罪は無いのだ。
「すまん・・・」
 国倫は重い鉄の塊を振り降ろした。血が撥ねて目に入った。




第63章(最終回)へつづく

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